第25話 諦め

 校外学習が終わって三日後の五月五日のお昼過ぎ。ピンポーンと軽快な音が家中に鳴り響いて、誰かの来訪を告げた。宅配だろうか、と渋々玄関を出ると、そこには澪が立っていた。

 この前澪の家に遊びに行った時のような可愛らしい装いではなく、真っ白のブラウスにショートパンツを合わせただけのラフな恰好だった。まさにその辺のコンビニにでも行くかのような恰好である。

「どうした?」

 澪は「涼!」と大声を出してこちらにずいっと近付いてきた。

「うおっ、なんだよ…」

 澪が至近距離にいると、謎のいい香りがして俺の理性がさよならし兼ねない。適正距離を保つため、俺は一歩後ろに下がった。

 玄関に入ってきた澪は開口一番心配そうにこう捲し立てた。

「涼!何してたの!?連絡しても既読は付かないし、電話も出ないし、めっちゃ心配したんだから!!」

「ああ…悪い…」

 校外学習から帰ったあの日以来、俺はスマホに触っていなかった。知らぬ間に電源が切れて、きっとそのままなのだろう。

 帰宅した俺はすぐにお風呂に入って、服を洗濯機に放り込んだ。全ての持ち物を除菌してようやく心が落ち着いたのだ。多分スマホは、そのまま鞄の中だろう。

「椿姫ちゃんも皐月くんも心配してたから、あとでちゃんと連絡してあげてよね!」

「分かった」

 「全くもう!」と言って腕を組む澪。腕の上に重たそうな乳を乗せる。まさかそれ、外でもやってないだろうな。

「で、なんか用か?」

「用って…」

 澪が言いたいことは分かる。「潔癖症さよなら大作戦」のこの前の続きである、

・友達を家に上げる

を挑戦するか否か、確認に来たのだろう。

 しかし今の俺はそれどころではない。そんなこと、考えたくもない。

「涼、大丈夫?目の下真っ黒なんだけど。ちゃんと寝てる?」

「寝てるよ」

 普段より睡眠は浅いかもしれないが、まぁ寝てはいる。

「連休中、勉強したり本読んだり、やたら目を酷使してたからだろ」

「…ちゃんと寝てるなら、いいんだけど…」

 澪が困ったように俯いたところで、運悪く母さんが玄関に顔を出した。

「あら、澪ちゃん?」

「あ!お久しぶりです!」

「大きくなったわねえ。遊びに来るの久しぶりね。そんなところで立って話してないで上がりなさい」

 母さんの提案に「え、でも…」と澪は上目遣いに俺を窺う。

「いいからいいから!今日はパパもいるから大丈夫よ!」

 うちの親父は近所でも有名な度が過ぎた綺麗好きである。

 恐らく母さんは、「パパが綺麗にしたばかりだからお客さんを呼んでも大丈夫」と思っているのだろうが、澪は「おじさんが後で掃除してくれるなら、涼の負担にもならないかな?」だと思われる。綺麗好きの親父なら喜んで掃除してくれるだろう。

「あ、じゃあお言葉に甘えて…」

 澪は運動靴を脱ぐと、母さんに連れだってダイニングキッチンへと向かう。俺もため息をつきながらその後ろに倣った。

「ちょうどバナナのパウンドケーキが焼けたのよ」

 嬉しそうにキッチンに立つ母さんが、オーブンから焼きたてのパウンドケーキを取り出す。

「涼、お皿出して。あと紅茶の準備!」

「はいはい」

 俺は言われるがまま準備を始める。澪はダイニングテーブルに腰掛けながら、「やあ澪ちゃんか。随分大きくなったなあ!よく遊びに来てくれたね!」と親父に絡まれて萎縮している。父も母も強引というか、マイペースな奴らですまんな。と心の中で謝罪した。

「ママとパパ、夜はレストラン予約してるから。涼は作り置きのシチューちゃんと食べてね!」

「はいはい」

 現在かなり温暖な気候で快適に過ごせる五月ではあるが、我が家は夏冬関係なくシチューを食べる。ただ単に好きだからだ。

 父と母は普段仕事が忙しく、ゴールデンウィークなどの長期休暇でない限り、休みが被ることはなかなかない。せっかくのお休みなので、久しぶりにデートを堪能するようだ。相変わらずラブラブなことで。

「じゃあ私達はそろそろ出るから。澪ちゃん、ゆっくりしていってね」

「はい!」

「涼、澪ちゃんの嫌がるようなことはしないように!」

「はぁ…?」

 一体どんな注意喚起だよ。

 るんるんと鼻歌交じりで出掛ける両親を見送って、俺達はパウンドケーキをつつき始めた。

「んん!美味しい~!ふっかふか~!」 

 澪は母さんが作ったバナナのパウンドケーキを、美味しそうに口いっぱいに頬張る。そのスイーツを食べている姿がものすごく幸せそうで、なんだかこっちまで嬉しくなった。

「涼はもう校外学習のレポート終わった?」

「昨日終わった」

「そっか、残念。終わってなかったら一緒にやろうと思ってたんだけどなぁ…」

「……………」

「……………」

 沈黙が下りる。

 澪にはちゃんと話しておくべきだろう。

 俺はパウンドケーキを食べる手を止めて、フォークを皿に置いた。紅茶を一口飲んで喉を潤わせると、ゆっくりと口を開く。

「澪、話がある」

 俺がそう真剣に澪を見据えると、彼女は少し落ち着かないように視線を彷徨わせた。

「は、話?話って、なに?」

 何故かそわそわとする澪に、俺ははっきりとこう告げた。

「「潔癖症」の克服、止めるよ」

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