第13話 初めての友人
俺は手にしていた自分のブレザーを、北白河さんの肩に掛けてあげた。
緊張と不安から、心臓がうるさいくらいに高鳴っていた。
ブレザーを掛けたおかげで少し寒さは和らいだのか、穏やかに眠っているように思う。
ほっと胸を撫でおろし、俺はレポートの続きに励むことにする。起きた彼女はどんな反応をするのだろうか。嫌がられないだろうか。汚いと思われないだろうか。
そんなことばかり考えてしまって、レポートは何を書いているの分からなくなってきた。これ、ちゃんとドストエフスキーについて書けているのか?
「んんっ…」と北白河さんの声がして、俺の心臓は飛び上がった。
「あ、あれ、寝ちゃってましたか…?」
寝ぼけ眼のままの彼女と、俺の視線がばちりと合う。すると彼女の顔がみるみる赤くなっていく。
「す!すみません!藤沢くんの貴重なお時間を頂いておいて、寝てしまうなんて!」
「いや、それは別に…」
彼女が慌てて動いた拍子に、肩に掛けていた俺のブレザーがするりとずれた。
「え…?」
彼女は自分が来ているブレザーを見、肩に掛かった謎のもう一つのブレザーを見て、最後に紺色のカーディガン姿の俺をまじまじと見た。
そしてもう一度「え!」と言うと、口元に自分の手をあてた。
「これ、藤沢くんのですか?」
「…寒そうだったから掛けたんだけど…。勝手に悪かったな」
内心どう思われているのかひやひやしつつも、至って冷静を装ってそう返す。
汚いなどと言われてブレザーを放り出されでもしたら、俺はもう一生女の子と関わることはできないだろう。
北白河さんの反応を窺っていると、彼女は俺のブレザーを割れ物でも扱うかのように丁寧に自分の肩から降ろすと、こちらに深々と頭を下げて返してきた。
「お借りしてしまって、すみませんでした…」
そう心底申し訳なさそうに頭を下げる。
想像していた反応とまるで違って、俺は狼狽する。
「いや、俺が勝手にしたことなんだが…」ともごもご説明を始めようとすると、彼女は食い気味にこう言った。
「でも!藤沢くん、人に触れたり、人の物を触ったりするの苦手ですよね?」
「まぁ、そうだけど…」
「それなのに、私のためにすみません!私が眠ってしまったから、優しい藤沢くんは我慢して私にブレザーを貸してくれたんですよね?…本当にごめんなさい!」
「え、いや違…」
何故俺は彼女にブレザーを貸してあげてもいいなどと思ったのだろうか。
それは澪との「潔癖症」克服の練習を成功させて、少し自信がついたおかげとも言えるが、本当のところは、…きっとそうだ。これがしっくりくるような気がする。
「違うんだ」
「え?」
「俺は嫌々北白河さんにブレザーを貸したわけじゃない。もちろん他人に触れるのも、他人が自分に触れるのも苦手だ。けど、」
俺はそこで言葉を切って、自分でも自分の気持ちをはっきりさせるために、ゆっくりと考えをまとめていく。彼女にブレザーを貸した一番の理由はこれだろう。
「友人が寒そうにしていたら、誰だって心配するし、暖かくしてほしいと思うものだろ?」
俺の言葉に、彼女は大きな瞳を更に大きく見開いた。それから心底嬉しそうに、穏やかな笑みを浮かべる。
「ありがとう、藤沢くん」
「…ああ」
面と向かって友人だ、なんて言うのはやはりこっ恥ずかしいものがある。
しかし彼女の反応を見るに、ブレザーを肩に掛けたことを嫌がっている様子はなさそうだ。よかった…とほっと安堵の息が漏れた。
他人は案外、俺のことを汚いなんて思っていないのかもしれないな…。
「潔癖症さよなら大作戦」のスローガンに掲げていた言葉を思い出す。
「他人は自分を汚いと、‘‘思っていない“!!」と自信満々に俺に言い聞かせてくれた澪の姿が脳裏にちらついた。ありがとな、澪。
「友人…ですか…」
そう北白河さんが小さく呟く声がして、俺ははっとして彼女の顔を見た。
すると彼女は俺の瞳を覗き込んで、ぐいっと距離を縮めてくる。驚いた俺は、少し仰け反り気味の変な体勢だ。
「あの!友人だと思ってくれているのなら、お願いしたいことがあるのですが!」
「お、お願い?」
彼女の気迫に押されつつ、俺は身動きも取れずに彼女と向かい合う。だから近い…!
彼女は意を決したように口を開く。
「私のことも、名前で呼んでもらえないでしょうか!?」
「は…?名前…?」
「桜坂さんや辻堂くんのことは、下の名前で呼んでますよね?」
「まぁ、そうだな…」
幼なじみだし、気が付けば、って感じだが。
「良ければ私のことも名前で呼んでもらえたら嬉しいのですが、…だめですか?」
眉を下げ、不安そうに俺を見つめる姿はあまりに可愛らしく、俺でなかったらころっと恋に落ちてしまいそうだ。美人って怖いな。
まぁ、名前で呼ぶくらい、友人として普通だろう。俺は快諾した。
「いいよ」
その返答に綺麗な顔はこれまた美しい笑みを形作る。
「ありがとうございます!」
「えっと、じゃあ、椿姫…さん」
「…涼、くん…」
ん!?ああ、名前で呼び合いたいということだったのか。なんだか付き合いたてのカップルみたいなやり取りで身体中がむず痒く感じる。俺達はただの友人関係のはずなのに。
「さんは、なくてもいいんですけど…」
「え、あー…」
北白河さんに対して呼び捨てにしている奴なんて、見たことも聞いたこともない。
俺が教室で「椿姫」などと呼び捨てで呼ぼうものなら、次の日から教室に座席がなくなっているかもしれない。もしくは全男子からのシカトだな。
「そのうち、慣れたらな…」
ひとまずそうお茶を濁すことにする。いつになるかは、今のところかなり未定だ。
椿姫さんはなんとなく不服そうにしていたが、仕方なく頷いてくれた。
そんなこんなで外は大分陽が傾いており、今日はお開きとなった。
結局今日はレポートを進めただけで、勉強を教えることができなかった。こんな勉強会でよかったのだろうかと思いつつ、前回と同じように昇降口で別れる。
「じゃあ、また」と言うと、「はい、次の勉強会はゴールデンウィーク明けですかね」と椿姫さんから返ってきた。あ、まだこの勉強会は続くんだな、と、何故だか嬉しくなった。
「涼くん、また明日」とわざわざ名前で呼ばれてしまったので、照れながらも、「椿姫さん、また明日」と同じように返答した。なんだかやたらと恥ずかしく感じるのは本当なんなんだろうな。
彼女も同じように照れくさかったのか、はたまた夕陽のせいなのか、ほんのり頬がオレンジ色に染まっているような気がした。
いつものように駐輪場に向かいながら、俺の口元はだらしなく少し緩んでいた。
「友人ができてしまった……」
高校に入って初めて、友人ができた。
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