第6話 過去と潔癖症

 「潔癖症」になる原因は、心理的要因が大きいとされている。

 例えば、何か汚いものを触って大きな病気になったり、汚いものを見てそれがトラウマになったり、そもそも家族が潔癖症だったり。その要因は人によってさまざまだ。


 俺が「潔癖症」になった理由は、二つの要因が重なっていたのだと思う。


 一つ目は、両親の問題。

 父も母も綺麗好きで、常に除菌ウェットティッシュを持ち歩いていた。

 外食するときは必ずその除菌ウェットティッシュで手を拭かせられたし、電車やバスに乗ると手摺は汚いから触るなと教えられた。帰宅後は必ず手洗い・うがいをすること。汚れた服のままリビングには入らないこと。そう言われて育った。

 まぁ、それくらいなら割とどの家庭でも言われているかもしれない。


 二つ目がきっと、俺をここまで「潔癖症」にした原因なのだろうと思う。

 それが心理的要因だった。いわゆるトラウマだ。

 俺は小学五年生になるまで、みなと同じように普通に過ごしていた。もちろん除菌なんてしない。

 外で泥だらけになるまで遊んで、虫だって普通に手掴みで捕まえていた。これまたよくいる小学生男子だった。

 そんな普通に過ごしていた俺は、やっぱり普通にクラスの女子に恋をしていた。

 綺麗で優しくて、話しやすい子だった。

 俺は彼女と話しているとすごく楽しかったし、彼女も他の男子と話すよりも、俺と話すのが楽しいと言ってくれていた。俺のくだらない話にいつも笑ってくれていたっけ。

 俺はこの幼い恋心を、思い切って彼女にぶつけることにした。

 恋に浮かされ盲目だった俺は、断られることなど微塵も考えなかった。

 しかし、結果として俺は、彼女に振られたのである。

 理由は以下の通りだった。

「藤沢くん、なんか汚いんだよね。不潔そうって言うか、全然綺麗にしてないでしょ?私、そういう人は無理かも」

 で、ある。

 この時の俺は、確かに泥だらけ汗まみれで遊びまわっていたり、暑い中部活動に勤しんでいたりしたが、しっかり毎日お風呂に入っていたし、髪も美容室である程度整え、それなりに身なりに気を遣っていた。

「ごめん、そういうわけだから」

 急に突き放すような態度になった彼女に、俺は惨めにも縋り付いた。

「ちょ、ちょっと待ってよ!あんなに俺と話すの楽しいって言ってくれてたのに、」

 そう彼女の腕を掴んだ時だった。

「やっ!触らないで!汚いなぁ!少し優しくしたからって勘違いしてキモすぎ!」

「…………っ!」

 彼女の言葉は、当時の俺にとってかなりの衝撃を与えた。

 それに加え彼女は、俺が汚いとかどうとかと、こそこそ友人に触れ回っていたのだ。

 それを目撃した時、俺は初めて自分が汚い人間なのだと思い知らされた。

 自分では気が付かなかっただけで、俺は汚くて臭い人間なのだ。

 だからみんなよりも綺麗に、清潔にしなくてはいけない。そう思った。


 それ以降、汚いものは触らなくなり、手が荒れるくらいに洗うようになった。お風呂はこまめに入り、念入りに全身を洗う。

 そのうち、俺が他人に触れると、他人が嫌がるだろうから除菌液を持ち歩こう、と思うようになった。

 俺が他人に触れてしまって他人が不快な思いをしても、すぐに除菌消毒ができればもしかしたら嫌われないかもしれない、そう思ったからだ。


 俺を汚いと言った彼女の表情が、脳裏から離れることはなかった。

 俺が触れたものは汚い。そう思われるのが怖くて、俺自体が他人に触れることを恐れ、他人の物でさえも触れたくないと思うようになった。


 触れてはいけない。

 他人に拒絶されるのが怖い。


 触れてはいけない。

 俺が触れたことで、他人に拒絶されるくらいなら、触れたくない。


 「触れてはいけない」から、「触れたくない」へと、

月日が経つにつれ、いつしかその考えは拗れていった。


 何かを触ったら手を洗い、除菌をする。

 心を落ち着かせるための儀式だ。


 それが俺の心を守るための、除菌生活の始まりだった。


 もちろん小さい頃から一緒にいた、澪や皐月はこのことを知っている。

 俺が「潔癖症」になってからも、ずっと俺を気に掛けて一緒にいてくれたのは、二人だけだった。



「俺はきっとこの先も、恋はできないよ」

 北白河さんがどんなにいい子で、俺の「潔癖症」を理解してくれたとしても、情けないことにまた拒絶されるのではないかと、一歩を踏み出す勇気が全く持てない。

 この前の勉強会だって、二人がいなかったら俺は断ろうとしていたのだ。

 俺は二人に支えてもらわないと何も行動できない、情けないやつなのだ。

 だって、そうだろ。

 もうあんな思い、二度としたくない。


 澪は困ったように眉を下げた。

「涼は、それでいいの?」

「いいもなにも、無理なものは無理なんだ」

 好きな人に拒絶された悲しみが、夕陽をバックに教室に佇む小学生の彼女の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。

 忘れたいのに、誰かと関わろうとすると、あの時の光景が引き摺り出される。

「…いいんだよ、俺はこれで」

 俺は俺の心を守るために、この選択をしたのだ。俺は澪と皐月さえいれば、これ以上の人間関係はいらない。

 澪は優しく笑うと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「涼、私に嘘なんかつかなくていいんだよ」

「は…?」

「本当は普通に過ごして、普通に恋がしたいんでしょ?」

「だから、いいんだって!俺は、」

「見てれば分かるよ。何年一緒にいると思ってるの?」

「っ………」

 力強い澪の言葉に、俺は反論できなかった。

 そう、なのだろうか。

 本当は俺も「潔癖症」をなんとかしたいのだろうか。

 北白河さんと話して、さっきの言い合っていた澪と皐月を見て。

 俺は、何も気にせず人と触れ合うって、どんな感じなのだろうか?と、そう思った。

 普通に友人達とじゃれ合って、彼女がもしできたら手を繋いでキスをして。いつかはそれ以上のことだって……。

 何も気にせず普通に触れ合っている人達が、少し羨ましかったんだ。

 「潔癖症」になんかならなければ、もっとコミュニケーションもできて、友人もできたのかもしれない。今頃彼女も出来て、手を繋いでいたのかもしれない。

 けれど、それが俺にはどうしてもできない。

 どれだけ憧れていても、脳で理解していても、心は小学生の頃の臆病なままだ。


 澪は大きく息を吸うと、俺の瞳を捕らえた。

「涼が北白河さんに本気なら、私、協力する!「潔癖症」だって、治したいと思ってるなら、全力で手伝う!」

「治す……?」

 俺はぽかんと口を開けて、澪の顔をまじまじと見つめてしまう。

 治すってなんだ?治るものなのか?「潔癖症」が?

「「潔癖症」は治るんだよ。治療法があるの。私、ちゃんと調べてるんだから!」

 澪の力強い瞳に、言葉に、俺は完全に気圧されていた。

 「潔癖症」じゃなくなるかもしれない?もうやたら除菌しなくても、心に負担を掛けずに過ごせるのか?人に触れることをストレスに感じず、触れ合うことができるようになるのか?

しかしもしそんな方法があるとしても、根本的な考え方は変わらないんじゃないか?

 過去は変えられない。植え付けられてしまったトラウマをどうこうできる術はない。

 しかし……。


 キーンコーンカーンコーン……。

 五限目の始まりを告げる本鈴が鳴ってしまった。だが、俺も澪もその場から動かなかった。

 口を噤んでしまった俺を、澪は何も言わずに待っていてくれた。


 どれくらいの時間が経ったのだろうか。俺はようやく自分の考えをまとめた。そしてそれを噛みしめるようにゆっくりと口にする。


「「潔癖症」を治したい。だから、澪にも協力してほしい」


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