第2話 潔癖症の俺の日常➁
その日の授業も恙なく進んでいき、四限目は数学だった。
授業が後半に差し掛かった頃、隣の席の男子、名前は何と言ったか…、くんに、「シャー芯余分にある?ちょっとくれない?」と声を掛けられた。
それくらいなら特に問題はないので、「ああ」と答えて、シャー芯ケースからシャー芯を数本取り出す。
彼が受け取りやすいよう、かつ、俺の手に触れられることのないよう、渡したつもりだった。
しかしあろうことか、何故か彼の指が俺の手をすっ、と掠めた。
触れらないよう慎重を期したはずなのに、どうして触れられてしまったのかは全く分からない。距離感バグってんのか?
電車内でも、ある程度スペースを確保しているのに、何故だかぶつかってくる奴がいる。
こっちはぶつかられないようスペースを確保していると言うのに、俺の存在感が薄いのか、相手の体幹が弱弱なのか、どうしてか触れてくる。
そういうものに遭遇した時、他人に触れられたことがストレスにならないよう俺が編み出したのは、そういう事象の「災害」だと思うことだった。
地震や台風のようなもので、どれだけ気を付けていてもそれは起こってしまうのだ。落ち着いて、冷静に除菌すればいい。
今回のパターンもそう思うことにする。災害が起きたんだ。
隣の何とかくんは、「あんがと」と言ってシャー芯を受け取った。
俺はNo problem、と言う顔を作りながらも、ゆっくりとシャー芯をペンケースにしまった。
隣のなんとかくんがノートと黒板に交互に視線を巡らせる様子をしばらく見届けて、俺は机の下で手指消毒用の除菌の蓋を開けた。
くまちゃんの可愛いイラストのついた、小さな除菌ボトルのジェルだ。それを開け、先程何とかくんに触れられた箇所に除菌ジェルを塗った。
ついでに手指全体を除菌して、小さな除菌ボトルをブレザーのポケットにしまう。
ここでよく注意してほしいことがある。
別に彼が汚い、と言いたい訳ではないのだ。
相手が汚いどうこうではなく、人に触れられるのが極端に苦手で、除菌せずにはいられないのだ。
除菌することは、言うなれば、精神を落ち着かせるための儀式なのである。
悪いな、なんとかくん。お前は悪くないぞ。
そう心の中で何とかくんに弁明する。
触れられてすぐに除菌する姿を見せないのは、相手が「俺、汚いと思われてるんだ…」と誤解させないためである。
自分が汚いと思われているだなんて、誰だって傷付くだろう。
かと言って、この俺の精神の話を理解しろと言っても難しいし、なかなか納得はしてくれないだろうし、そもそも俺も面倒くさい。
ゆえに、他人に触れてしまった場合、こっそりと除菌するのがベターなのである。
浅くため息を吐き出し、少し乱れた精神を整える。
除菌もしたし、あとは授業に集中するだけだ。
ほっとしたのも束の間、今日はまたイレギュラーがあった。
先生は「今日は十七日か」と言うと、「出席番号十七番!」と教室内に呼びかける。
出席番号十七番の男子生徒が渋々手を挙げた。
今日はノート提出があると以前から言っていたから、おおよそその出席番号十七番の男子生徒にノートを集めて教務室に持って来い、とでも頼むつもりなのだろう。
そう思ってなんの警戒もせずに流れを見守っていると、少し髪が薄くなり始めた数学教師はこう続けた。
「出席番号十七番、からの、将棋の桂馬の動き!」などと言いやがった。
その男子生徒の二席後ろ、右も左もいたと言うのに、あろうことか左側に座っていた俺を差してこう言った。
「じゃ、藤沢。ノート教務室まで頼む」
「え、」
俺が突然の指名にぽかんとしている間に、ちょうど授業終了を告げるチャイムが鳴ってしまった。
なんだよそれ……そんな当て方あるか?桂馬の動きなんてするな……。
俺は重い気持ちを引き摺りながら、教卓前に立つ。
「ノート提出してくださーい」なんて、大声でクラスメイトに呼びかけられるほどクラスには馴染んでいないので、どうしたもんかと途方に暮れる。
そう前述したように、俺は友達が二人しかいない。皐月と澪だけだ。高校に入ってから友人は一人も出来ていない…。
そんな情けない俺の横に、澪が颯爽とやってきた。さらっとクラス中に呼び掛ける。
「みんなー!数学のノート、提出して~!お昼ご飯食べる時間なくなっちゃうので、なるはやで!」
そう気さくにノート提出を促してくれた。澪様…!
みなお昼休憩に行く前に、教卓に数学のノートを置いていく。
「澪、ありがとな」
隣に立つ澪にありったけの気持ちを込めて感謝を述べる。
澪はいつもと変わらない明るい笑顔を浮かべながら、
「いいって、いいって!涼はこういうの、苦手でしょ?」
私に任せて!とえっへんと、胸を張った。
情けない自分に苦笑が漏れる。
人と関わりたくない訳ではなかったのだが、どうしても「潔癖症」のことがあると、誰かと関りを持つことが億劫になってしまう。
まぁ今はそんなことを考えていても仕方がない。
それよりも集めたノートを教務室に持って行かなくてはならないのだ。
しかしその行動が精神的にはちょっときつい。他人の物を触るのが苦手だからだ。
なんてことを言っていてもこの状況が打開できる訳ではないので、渋々与えられてしまった職務を全うすることにする。回避できそうにないことは、さっさと済ませるに限る。
澪が「持って行くの代わろうか?」と言ってくれたが、俺はそれを断った。女子一人にクラス四十人分のノートを持たせるわけにもいかないしな。そこは男子、いや紳士としてな。
澪にもう一度お礼を言って、俺はノートの山を抱えて教室を出た。
他人の物に触れている嫌悪感をなんとか気にしすぎないよう努めて、数学の教務室を目指す。
早くノートを置いて、手を除菌したい。
そう思いながら教務室に到着したものの、数学教務室の扉は閉まっていた。早く置きたいのに。
ノートを抱えて手が塞がっている俺は、少々行儀が悪いかもしれないが、致し方なく、本当に仕方なくな、脚で扉を開けることにした。普段はそんなこと断じてしないぞ。
すると脚をドアに掛ける寸前に、ドアが突然自動ドアのようにスライドした。
「おお!」と俺が驚いていると、横から手を伸ばして、一人の女子生徒が扉を開けてくれていた。
その女子生徒は、「どうぞ」と言って、にこりと微笑む。
「さんきゅ」と軽くお礼を口にして、「失礼しまーす」と数学教務室に入った。
お昼休みだからか数学教師はいなかった。適当なところにノートを置いて、俺は早々に退出する。
教務室を出ると、先程ドアを開けてくれた女子生徒はまだそこに立っていた。
「ありがとな、手が塞がってたから助かった。えっと…」
確かクラスメイトだったとは思うのだが、俺は人の名前と顔を憶えるのが苦手なため、と言うか関わるつもりがなく脳が憶えてくれないため、彼女の名前ももちろん出てこない。
「つばきです。
四月ももう終わろうと言うのに、名前を憶えていない俺に不快感を一切見せず、優しく微笑みながら、彼女はそう名乗ってくれた。澪以外の女の子と話すのは、実に久しぶりのことだった。
「北白河さん。ありがとな」
「どういたしまして」
そうにこやかに品のある笑みを形作る北白河さんは、誰がどう見ても美人だった。
艶のある黒髪は胸にかかり、毛先がくるんと巻かれている。高校生とは思えない落ち着いた雰囲気と声色。少し釣り目気味の瞳は、全くきつく見えず、美人さを際立たせている。
ブレザーを羽織っていても分かるふっくらとした胸元に思わず目がいきかけて、俺は慌てて視線を逸らした。
こんな美人さんがクラスにいたのか。
男なら誰しも憧れるような風貌だ。まさに清楚美人。教室で騒がれていたりしただろうか。
ま、俺は澪と皐月以外友達もいないし、クラスに大きく感心を持っているわけではないから、ただ単に気が付かなかっただけだろう。
北白河さんもお昼を食べに教室に戻るものだと思っていたのだが、何故だかその場を動こうとしない。
「どうした?戻らないのか?」
そう声を掛けると、北白河さんは少し戸惑ったように視線を彷徨わせる。
「…あの、藤沢くん」
「ん?」
お、俺の名前を知っていたのか、と、もしかしたらクラスメイトなら当然なのかもしれないことに酷く感心してしまった。
続けられた彼女の言葉に、俺は更に驚くことになる。
「藤沢くんの、その、…IDって教えてもらえたりしますか?」
「え」
IDとは、メッセージアプリの俺のIDのことだろうか。俺のIDなんか知ってどうする?まさか俺とおしゃべりしたいと?…そんなわけないだろう。
俺と北白河さんは何の接点もない。今まで話したこともなかった…はず。顔だってさっき初めてしっかり拝見したのだ。
しかし。しかしだ。美人な女子に声を掛けられるなんて、ましてやメッセージアプリのIDを訊かれるなんて、今後こんな幸運があるか分からない。
彼女は少し不安そうに眉を下げ、俺の様子を窺っている。
まさか、俺に気がある、のか…?
こんな時だけやたらと楽観思考な俺は、もちろん生まれてこの方彼女など一度もいたことがない童貞である。
いや、なにか裏があるかもしれないぞ。
冷静に彼女を疑う自分もいた。俺なんかのIDを知ってどうする?本当に教えて大丈夫か?ネットにIDが晒されたりしないか?
そう警戒しつつも、こんな美人さんにIDを訊かれて嬉しくないわけがない。逡巡ののち、彼女を疑う俺を蹴飛ばすことにする。
美人に弱い俺の楽観的思考は、悪用されたりしませんように、と願いながらもIDの交換を了承した。何度も言うが「潔癖症」のせいで人と関わるのは億劫だが、もちろん嫌という訳ではないのだ。
「…いいけど」
そう返答すると、不安そうにしていた彼女の表情が明るく色付いた。笑顔も可憐で素敵である。
がしかし、その前に。
「ちょっと待ってくれ」
俺は自分のスマホをズボンのポケットから出す前に、ブレザーのポケットに入れていた小さな除菌ボトルを取り出す。
先程有象無象のノートを触ってしまったのだ。まず自分のスマホを触る前に、自分の手を除菌しなくてはいけない。
俺はいつものように小さな除菌ボトルから少量のジェルを手に出し、手指の消毒を済ませる。
その一連の流れを、北白河さんはきょとんとした可愛らしい顔で見つめていた。
「待たせて悪いな」
そう声を掛けるとスマホ片手に固まっていた北白河さんは、はっとしたようにまた品のいい笑顔を浮かべた。
「あ、いえ、全然です。…あの、聞いてもいいですか?」
「何?」
「今のはなんですか?」
「これか?」
俺は手に持っていた小さな除菌ボトルを、彼女の顔の前で振る。
「除菌ジェル」
「除菌…」
引いただろうか。こまめに除菌する人間を、大抵の人がどう思っているのかはよく分からない。冬で風邪が流行っていたり、感染症が蔓延した時などはみな愛用していたと思うのだが、それもない今、こまめに手指の消毒をする人間はほとんどいないだろう。
「藤沢くんって、綺麗好きなんですね…」
「うん…まぁ、そんなとこ」
潔癖気味であることを彼女に話しても、理解してくれるかは分からない。そもそもそこまで親しくなることもないだろう。故に、説明は割愛する。綺麗好きとでも思っておいてくれ。
親しくなれたら俺は嬉しいけど、いざ親しくなるとなると色々苦労を掛けることにもなる。
「で、IDだっけ」
「あ、はい」
俺はスマホをズボンのポケットから取り出すと、メッセージアプリを起動した。
ぽこん、と音が鳴って、新しい友達欄に「Tsubaki」と表示された。アイコンはもちろん真っ赤な花びらが綺麗な椿の花だった。
因みに俺のアイコンはと言うと、いつぞやに食べた抹茶スイーツだ。好きなんでな、抹茶味がさ。
「ありがとうございます」
北白河さんは何がそんなに嬉しいのか、自分のスマホの画面を見つめてこれまた上品な笑みを浮かべていた。
本当に綺麗だなぁ、と彼女の顔をまじまじと見てしまう。
こんな美人と話せたのだから、ノートを運んできてよかった。我ながら単純だと思うが…。IDを悪用されても、悔いはないだろう。
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