第1話 潔癖症の俺の日常

 俺、藤沢 涼ふじさわ りょうの朝は、まぁまぁ早い。

 あと三十分くらいはゆっくりと寝ていても十分学校に間に合うのだが、想定外なことがないとも限らないので、なるべく時間に余裕をもって行動する。

 女子よりは短い、しかしその辺の男子よりは少し長めに洗面台を独占し、身だしなみを整える。

 ワイシャツに袖を通し、赤のネクタイをきっちりと結び、ブレザーの下に紺のカーディガンを着込む。春とはいえ、まだまだ朝晩は冷える。

 朝食はしっかりと食べる。朝からハンバーグを作るような元気な母と、朝から念入りに掃除機をかけるようなきっちりした性格の父と、三人で食卓を囲む。正直朝からハンバーグは重かったが、無理してしっかりと食べる。朝食は一日の活力だ。自転車通学なので、いい腹ごなしにもなるだろう。

「行ってきます」

 そう両親に声を掛け、俺は颯爽と自転車に跨った。


 いい天気だった。朝から太陽サンサン、日差しキラキラ、いい月曜日の始まりと言えよう。

 自転車を走らせること十五分ほど。通っている津田森高校へと到着した。

 学校の周りは自然と住宅街しかなく、二十五分歩いた先の最寄り駅まで行かなければ、近くに遊ぶところはなにもない。学校の隣にぽつんとコンビニがあるくらいだ。

 この春から高校二年生へと進級し、教室は四階から三階になった。

 この学校は毎年クラス替えがある。多少メンバーの入れ替わりはあれど、一年生の頃に教室で見たような顔ばかりが集まったのが、俺の所属するクラス、二年D組だ。


 俺は、「潔癖症」である。

 他人に触れることや、他人が触ったものに触れることが苦手だ。

 だから電車やバスの手摺は絶対に触らないし、他人が触れたであろう箇所は除菌ウェットティッシュで一度拭かない限り、俺は触れられない。


 登校し、教室に入ってまずすることは、自分の机を除菌ウェットティッシュで拭くことだった。

 机の中に常備している除菌ウェットティッシュを一枚引き出し、机の上をさっと拭き上げる。ついでに椅子も。

 そうしてから鞄を机に下ろし、その日の教科の準備を始める。これが毎朝のルーティン。

 確かに俺は人より潔癖なところはあるけれど、強迫性障害というほど、綺麗好きではないと思っている。

 強迫性障害とは、おおまかに言うと強迫観念に捕らわれひたすらに手を洗ってしまったり、その行為を繰り返しやめられないことを言う。もう十分洗えていると言うのに、手が千切れるくらいに洗ってしまうらしい。

 自分がそうかと言われると、そうではないと思うことの方が多い。

 学校生活を送る上で、多少は我慢しなくてはいけないこともあるし、許容できる範囲もかなり多いと思っている。

 例えば、誰かと一緒に同じペンを使うのは難しい。人の触れたものには極力触りたくないからだ。

 しかし、体育の授業で汚れることや、共有のボールを触ることは、まぁなんとか我慢できる。授業が終わったら着替えるし、すぐに手を洗えばいいのだ。

 同じ理由で、他人が触れた物でもその物を除菌すれば使えるし、すぐに手を洗う、もしくは手を除菌できる状態ならOKだ。

 そんな感じなので、「潔癖症」と言っても自分の許せないことは多々あれど、ちゃんと許容できることもある、ライトな潔癖具合だと思っている。

 そう自分では思っているのだが、他人にとって「潔癖症」は、少し距離を置かれる対象のようだった。

 「潔癖症」を理解してくれる人は少ない。何が琴線に触れるか分からないし、どこまでがセーフでどこからがアウトなのか、理解できないのだろう。要するに仲良くもない俺に、そこまで気を遣わなきゃいけないのが面倒なのだ。それだったら、最初から関わらない方がいい。

 こっちとしても説明が面倒になり、そのことが原因で人と関わることすら面倒になってしまった。関わらなければ、触れられることもないし、除菌する回数も減らせる。

 そういう訳で、二年生に上がっても俺は、なかなかクラスに打ち解けられずにいた。

 いいのだ、別に。新しい友達なんてできなくても。俺にはもう、二人も友人がいるのだから。


「涼、はよーっす!」

「おはよ」

 元気な挨拶と共に勝手に俺の前の席に座ってきたこいつは、小学生の頃からの幼なじみ、もとい腐れ縁である、辻堂 皐月つじどう さつきだ。

 俺が「潔癖症」だということはよく知っているので、俺が除菌を必要とするようなことは絶対にしない。勝手に俺に触れたりしないし、勝手に俺の物を触ったりしない。

 理解してくれている人がいると言うのはやはり有難いもので、こいつと一緒にいるのはとても気が楽だった。

「まぁた机拭いてんのか」

 皐月がやや呆れたように聞いてくる。

「拭くだろそりゃ。放課後誰が使ったかも分からんし。そういうお前は、よく他人の席になんて座れるな」

「他人って。ここ、加藤ちゃんの席だろ?クラスメイトじゃん」

 加藤ちゃんとは俺の前の席の女子の名前だ。特に仲も良くないし、話したこともほとんどない。

「いや、他人は他人。除菌しないと精神がきつい」

 そう答えると、皐月はまた呆れたように浅くため息をついた。

「そういう性分なのは理解してるつもりだけど、ま、ほどほどにな」

 なんやかんや言うけれど、俺の行動を馬鹿にしたり引いたりせず、今まで一緒にいてくれているのだから、こいつもなかなか変わった奴だと思う。


「おはよっ二人共!なんの話?」

 一人の女子生徒が、俺達の前にひょっこりと現れる。

 声を掛けてきたのは、桜坂 澪さくらざか みお。俺のもう一人の幼なじみであり、友人だ。

 澪の家は俺の家の向かいで、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。

 高校生の男女ともなれば自然と交友関係も変わり、友人の多い澪は俺になど構わなくなると思っていたのだが、どうしてだかこいつは、変わらず俺の傍にいてくれる。

 ふんわりとした茶髪のセミロングに、くりっとした目が愛らしい顔、手足はほどよく肉が付き、実に今時の明るい女子高生である。

 この二人が、幼少の頃からの俺の友人達だ。


「あれ、澪。シャンプー変えた?」

 何気ない皐月の言葉に、澪は容赦なく嫌そうな顔を見せた。

「うわ、皐月くん、それはちょっと気持ち悪いよ…」

「はぁ!?なんで」

「乙女の心は繊細なの!好きでもない男子にシャンプー変えたこと気付いてもらっても、全っ然嬉しくないんだからね!」

「ひでえ…」

 ぼろくそに言われた皐月はしくしくと泣いている。皐月の容姿はまぁイケメンの部類に入るのだが、正直すぎると言うか、たまに空気が読めないと言うか、まぁ、愛すべき馬鹿だとでも言っておこう。俺はお前のそういうとこ、嫌いじゃないぜ。

 俺も澪も皐月も、もう付き合いはかなり長いので、お互い全く遠慮のない仲だった。

「で、二人はなんの話をしてたの?」

 そう最初の話題を引っ張ってくる澪。

「大した話じゃない」と俺が言うと、皐月が「涼が相変わらず潔癖って話」と澪に答えた。

「あー」と呟くと、澪は、

「私はいいと思うけどね、涼の潔癖!涼の周りっていつも綺麗だもん」

と明るく笑った。

 その笑顔に、不覚にも少しドキッとしてしまった。

 澪も俺が「潔癖症」であることは重々承知しているので、除菌ウェットティッシュや、除菌スプレーなど、わざわざ持ち歩いてくれているらしい。幼なじみでもここまでするもんか?と思いつつも、有難さを感じている。

 澪に「潔癖症」を肯定されると、何故だか心の奥底がむず痒くなる。それなのに少し卑屈になってしまう俺は、まだまだ素直になれないお年頃なのだろうか…。

「まぁ、綺麗と言っても綺麗好きとは、少し違うかもしれないが…」

「いいんだよ!涼は涼の過ごしやすいようにしてればさ!」

 そう笑顔で押し切られてしまった。俺は苦笑いしつつ返答する。

「…そう、だな」

 俺の「潔癖症」を理解してくれる友人が二人もいる。二人のおかげで、無理なく学校生活を送れているのは間違いないだろう。

 二人がいてくれて本当によかったな…。

 窓の外の青空を仰ぎ、柄にもなくなんとなく神に感謝した。

…まぁ俺、無宗教だけど。



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