時柴十三
時間は遡り、オーディションが行われた日の夜。バスルームから出たアリスは髪も乾かさずに階段を上って二階にある自室へ戻ると、ベッドの上にうつ伏せに倒れた。
枕に顔を埋めると、自分の使っているシャンプー香りがする。風呂に入っても鼻にこびりついて離れなかった血生臭さ、鉄臭さが浄化されていくような気がして心が落ち着いた。
枕からやや顔を上げてため息を吐く。ここにアリス以外の人物がいれば、彼女が憔悴しきっているのを間違いなく実感できるだろう。それほどまでの徒労感に苛まれていた。
家に着くまではどうにか張り詰めていた心の糸が、今ではすっかり弛んでしまっている。週末のサラリーマン以上の疲労感があるという自負が、アリスにはあった。何故なら、普通のサラリーマンはあんなに死なないからである。
今日だけで一生分以上の死を経験した。どういうわけか生きていたが、それを疑問にも幸福にも思えるほどの心の余裕がない。身体は無傷、健康そのものであるが、精神の方はボロ雑巾と化していた。
半廃人のメンタルで思い出す。
(ああ……そういえば私、アイドルになったんだっけ……)
いわくつきのプロデュースのもととはいえ、夢に見たアイドルとしてデビューすることが決定したアリスではあるが、今はそれすらも心に波紋を生まない。
身体が重く、アリスはこのままではベッドの中に沈み込んでしまうのではないかと錯覚してしまう。眠気はまるでなく、脳内ではオーディションの一部始終が何度も上映されている。
振り返ってみると死にたくなるくらい恥ずかしい自己紹介、周りに劣るパフォーマンス、FDの襲来、花村の死、自分の死、自分の死、自分の死、死死死……そして時柴との仮契約。あまりにも濃密すぎる時間で、今日が本当に二十四時間だったのかという疑念が生じるくらいだ。
アリスはごろりとベッドの上を転がり、縁から床に落下した。背中に痛みが走るがどうでもよかった。転がってうつ伏せになると、学習机の下まで這う。一番下の引き出しを開けると、そこから小学生のときに学校から買わされた裁縫セットのケースを取り出した。赤系の色のハートマークが大量に描かれたデザインに、小学生のときの自分のセンスが終わっていたことを思い出す。
やや苦々しい顔つきになりながら蓋を開けた。その中から針を一本取り出す。アリスは右手に持ったそれの先端をおもむろに左手の親指に突きつけた。
深呼吸をすると、意を決したように針の先端を親指の肉に食い込ませる。ちくりとした痛みが走り、アリスの顔が僅かに歪んだ。
針を離すと、小さな傷跡ができていた。左手の人差し指で親指の腹を押し出すと、朝のうちに嫌というほど見た血がぷくりと溢れてくる。……しかし、すぐに痛みは引き、血が追加で漏れてくることもなくなった。
アリスはぺろりと親指に付着した血を舐め取る。血で隠れていた傷跡は跡形もなく消失していた。
(死ななくても、怪我ならなんでも治るんだ……?)
どうしてそんな身体になってしまったのか考えた。怪我や病気など、これまでの人生で何度もしてきたはずだ。間違いなく生まれ持っていた体質ではない。
(最後に怪我したの、いつだっけ……?)
それを思い出せなかった。尤も、今はそれについて深く考えられる精神状態ではない。アリスは裁縫セットを片付けるとベッドに戻った。
今度は仰向けになり、天井の白い壁紙を呆然と見つめる。徐々に落ち着きを取り戻し、冷静な頭で今一度噛み締めた。
(アイドル、か……)
やはり、依然として何の実感も湧かない。アリスは枕の横に置いてあったスマートフォンを手に取る。インターネットを開き、数年前の時柴十三のインタビュー記事がまとめられたサイトを呼び出した。
彼がプロデュースしていたAnother↔Colorsのセカンドシングルが発売したときの記事を読む。
記者『ファーストシングルでは中核を担っていたメンバーが二人も脱退してしまいましたが、今回の作品作りに影響はありませんでしたか?』
時柴『特にはなかったですね。セカンドシングルの制作に取り掛かる前に二人の脱退は決まっていたので』
記者『そうだったんですね。外野からは随分と急な脱退に見受けられましたが、予定通りのことだったと』
時柴『予定外でしたし、脱退は急に決まったことです』
記者『セカンドシングルの話から少し逸れてしまいますが、二人が脱退した理由をうかがってもよろしいですか? 確か、理由は公表されていませんでしたよね。もちろん、言える範囲で結構です』
時柴『あの二人には、決して仲良くはないけどお互いを認め合って切磋琢磨する同じチームに所属するライバル、という役割を与えていました。しかし、プライベートで普通に仲良くなっていたことが発覚したのでクビにしました』
記者『え、それは駄目なんですか?』
時柴『最悪ですね。ファンも二人にはバチバチに競い合うという関係性を望んでいたので、それを裏切った二人はアイドル失格と言えるでしょう』
アリスから辟易としたため息が漏れた。
(これだけでわかる。絶対まともな人じゃないよね……。というかまともじゃなかったし)
まだAnother↔Colorsがデビューしたばかりで、メディアへの露出が少なかったころのマイナーな雑誌での記事だ。当時はファンの間でやや燃えただけで世間的には話題にならなかったが、時柴の横暴が告発された際に掘り起こされて炎上の燃料と化した。
時柴の人間性が垣間見えるインタビューはこれだけではない。探せばいくらでも出てくる。
(本当に大丈夫なのかなあ……)
もはや不安しか感じない。せっかくオーディションに合格したというのに、これではまるでアイドルになりたくないみたいではないか。アリスは頭を振るって不安と不満を払拭しようとする。当然それだけでは足りないので、アリスは動画配信サイトを開いてglass shoes'sの公式で上がっているライブ映像を開いた。
アリスはglass shoes'sのファンだったというわけではないが、アイドルを目指す上で何度も彼女たちの映像を見返した。曲名は『白馬の王子様はいらない』で、このライブ映像は既に三億回以上も再生されている。
スマートフォンの画面の中で七人のアイドルたちが曲に合わせて動き始めた。様々な色の照明がきらびやかにステージを彩り、カメラのカットがイントロに合わせて切り替わっていく。あらゆる角度から彼女たちが映るが、どんな場面においてもアリスの目は自然とセンターの進藤レイラに注がれた。画面の端に僅かに映っているだけでも、腕が映っただけでも、動きのキレと仕草の流麗さが抗いようのない注目を集めるのだ。
進藤レイラのソロパートから歌唱が始まる。ダンスの質を落とすことなく美声が響き渡った。生歌なのが一発でわかる。何故なら、音源よりも遥かに上手い……過去からより成長しているからだ。おまけに身体を動かしているのに一切声がぶれない。
全員が映る画になったので、他のメンバーと見比べてみる。他のメンバーもレベルの高いダンスを披露していた。しかし、やはりレイラに目がいってしまう。彼女がセンターだからではなく、彼女が一番輝いているからだ。
全員で歌うパートにおいても、よく通るレイラの声はすぐにわかる。彼女の歌声に引っ張られて、メンバー全体の歌唱力がパワーアップしているような、そんな気さえする一体感抜群の歌声……。まるで太陽とその光を反射して輝く星々のようだ。進藤レイラは決して独りよがりのアイドルではないことがよくわかるライブ映像だ。
(いや……絶対無理じゃん)
時柴は、進藤レイラを超えるアイドルにしてやると、アリスに大口を叩いていた。この映像を見るに、それは無謀としか思えない。歌と踊りだけでも、人生を懸けてもこのレベルまで到達できる気がしない。
容姿に関しては比べたくもない。アリス自身、自分はそれなりに可愛いという自負はあるが、だからといって進藤レイラと比較など絶対にされたくなかった。
ライブ映像でレイラの姿がアップされた。高名な芸術家が設計したとしか思えないような顔のパーツ配置が、可愛いと美しいを見事に同居させている。後ろにまとめた長い黒髪が、彼女の動きに合わせてまるで天女の羽衣のように揺らめいていた。長い手足がダンスをより映えさえ、プロポーションに関しても男女の理想形のような異常スタイルである。
(何食べたらこうなるのさ……)
嫉妬や羨望など湧きもしない。ただただ疑問が生じるだけだ。
(週一でラーメン食べるの、やめようかな)
アリスはトップアイドルから刺激を受け、そんな決意をする。
ライブ映像が終わった。スマートフォンの電源を落とし、アリスは寝転がったままため息を吐いて天井を見上げる。
(そもそも、今日びソロアイドルってどうなんだろう……?)
一昔前ならばソロアイドルも珍しくはなかったが、ここ十数年の主流はグループアイドルだ。単純に人数が多ければ各々に推しが生まれ、結果的にグループ全体のファンが増えるという商業的利点は無視できないだろう。また、ソロでは力不足のアイドルでも、それを補う仲間がいれば輝くことができる。ライブでも一人で歌って踊るより、複数人でやった方が迫力は出るはずだ。
尤も……、
(進藤レイラくらいの実力とスター性があれば、ソロでも全然問題ないんだろうけど)
その仮定と結果を疑う者は日本のどこにもいないだろう。
だが大変残念なことに、アリスはそんな実力もスター性も持ち合わせていない。果たして、時柴は一体何を考えているのだろうか。アリスにはもう何もわからなかった。
(信じていいのかなあ……あの人のこと……)
不安は尽きない。それでも、アリスは一つだけ決意を固めた。
(進藤レイラを超えるのは絶対無理でも、せめて一人でも多くの人に希望を届けられたらいいな。それが私のアイドルになった意義なんだから)
深呼吸をしてスマートフォンを手に取った。glass shoes'sの他のライブ映像でも見ようかと思ったところ、
「……!」
端末が震え、件の男から連絡が着た。
◇◆◇
地獄のようなオーディションが終わった翌日。アリスは本当なら昼過ぎまで寝ていたかった。普段、休日は十時まで寝ていることに加えて、昨日は色々とショッキングなことがあったのだ。精神も摩耗していたのでもっと休息を取りたかったのだが、時柴と午前九時に会う約束をしてしまった──というより半ば強要された──ので、アリスは仕方なく重い身体を引きずって名古屋駅まで赴いた。
休日だけあって朝から人が多かったが、待ち合わせ場所である金時計の前だけが妙に空いていた。その理由は、明らかに現世の者とは思えない仄暗い雰囲気を醸し出す長身痩躯の男がいたからに他ならないだろう。無関係ならば、おそらくアリスも近づいていなかった。だが、その男が時柴十三であるため声をかけないわけにはいかない。
「お、おはようございます。時柴さん」
「きたか。君乃アリス」
相変わらず蒼白な肌に何重もの隈と酷い顔をしている。声も平坦で覇気がなかった。
「詳しいことは後で話す。ついてこい」
「え、あ、はい」
背を向けて勝手に歩き出す時柴の後をアリスは慌てて追う。
アリスは何故呼ばれたのか全く聞いていなかった。正確には時柴が教えてくれなかったのだが。もう不安しか感じていないが、仮契約を結んでしまった以上は信じてみないことには始まらない。
二人はバスに乗り込むと、通路を挟んで隣同士の座席に座る。何の会話もないままバスが発進し、名古屋を抜けて郊外のバス停に停まった。時柴が降車ボタンを押したのだ。
「降りるぞ」
アリスは指示に従ってバスから降りる。運賃は時柴が払ってくれた。先ほどの電車賃も彼が払ってくれたので、もしかしたら良い人なのかもしれないと、アリスはチョロくも思ってしまっていた。
休日の日中だというのにひとけのない寂れた町を歩いていると、不意に時柴が立ち止まった。
「ここだ」
時柴が見上げているのは、ボロボロの雑居ビルだった。全体的に黒ずみ、錆つき、朽ちかけている。アリスの顔が苦々しく歪んだ。
「ここが、どうかしたんですか……?」
「このビルの二階が事務所なんだ」
「事務所、持ってたんですね」
「昨日、警察から解放されてすぐに立ち上げた。仮契約と言えど、お前には俺の事務所のタレントとして活動してもらう」
時柴はいつ底が抜けるともわからない錆びた階段を上がっていく。アリスも恐る恐るついていった。
時柴が二階の扉を開ける。平然と入っていく彼に続いてアリスが部屋を覗いた。雰囲気は探偵事務所のようでクールだが、壁や床、天井には染みや小さな穴が所々にあり、椅子やテーブル、ソファ、窓のブラインドなどの家具は案の定ボロボロで埃を被っている。全体的に外観からの予想を裏切らない内装だ。
(こんなところで数時間過ごしたら、体調崩しそう……)
アリスは渋面を作って部屋に入るのを躊躇うが、時柴が部屋の状態など一切気にせずソファに座ったので、仕方なく足を踏み入れた。
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