第4話:片付けられていく
家に帰ると、玄関にバラバラと置いていた靴がない。残しておいたプラゴミも消えている。一つだけ端に揃えてある靴は、母の日に買ってあげたスポーツシューズだった。靴箱を開けると、靴が百均の斜めになっている靴収納ボックスに綺麗に収められていた。自分の家が整えられている。
慌ててリビングにいくと、母がニコニコと笑っていた。
「波緒、お仕事お疲れ様」
テーブルの上には、湯気が立っているご飯がある。私の帰る時間帯と合っているのは偶然なのだろうか。あたたかい家庭、という言葉が浮かぶ。私の部屋から排除していたのは、必要ないからなのに。一人暮らしをする時に、合鍵を父に渡しておいたのがよくなかった。兄もそうしてたから、鍵を渡さずにいるのもよくないかと思って預けておいた。
「なんで来たの?」
ボロリと、古びた壁が崩れるように本音が塊になって出てきた。寝不足で充血した目で踏ん張っても、涙が出てきそうで怖い。親に向かって失礼ね、と母は面白がった。
「昨日、ちょっとだるそうで疲れたような声だったから、心配したの」
遊びにきちゃった、という母は、すっきりとした顔をしていた。心配されるほどひどい声なのは少し考えれば当たり前だと、どうして分からないのだろうか。深夜に電話がかかってきても元気な声で話せるほど、エネルギーが余っている訳じゃない。母が手を揉むと、カサカサと音を立てた。働き者の手だ。
「ありがとう」
一言発するだけで心の表面が削られていく。出しっぱなしにしていたモノたちは、母の決めたやり方で、分かりやすくしまわれているはずだ。でも私はよく分からない。私の家なのに、全てのものの位置を母に聞かなければいけない。中途半端に笑ったままで、母の目を見る。
テーブルの上には、私の分だけご飯が用意されている。
「お母さんは食べないの?」
頬杖をついている母に聞くと、首を横に振った。
「お腹空いてないし大丈夫」
父に連絡を入れる。珍しくすぐに既読がついたのに、返答はない。それが何かを物語っているようで、ヒヤリとした。母がしばらく私の家にいるんじゃないかと思うと恐ろしい。
お父さんと喧嘩した? と聞くと、母が不思議そうな顔をした。
「してないよ。お父さんいっつも部屋こもりっぱなしだから、そもそもそんなに喋らないし。なんで?」
「いやなんか、気まずくなって出てきたのかなって」
「そんなことしないよ。あんた帰ってきたらすぐに出ようと思ってたの」
母の善意を素直に受け取れないことへの罪悪感もあった。私のことを思ってやってきてくれたんだろうし、訊けばきっとそう答える。母は、最近ぐっと老けたような気がする。私は、母のご飯をありがたくいただくことにした。
洗面所に詰め替え用の洗剤やボディソープがないことに慄きながら、手を洗った。私が行き来できるぐらいにしか床に隙間がなかったのに、人を呼んでも全く問題ない部屋になっている。
テーブルの上がすっきりしているのは、確かに快適だった。肘で積み上げていた本を倒してしまったり、キッチンに戻すのが面倒で置きっぱなしにしている調味料やコップの山を見つめなくていい。
「それにしてもよくこれだけ汚くしたね。ゴキブリ出るんじゃないかって冷や冷やした。しかもご飯作ったらすぐ帰ろうと思ったら、冷蔵庫ほとんど何も入ってないし。スーパー行ったりしてたらこんな時間になっちゃった」
仕事が、と言ってしまった。言い訳に良し悪しがあるとしたら、一番最悪なものを選んだ。ご飯を食べなければ。私はご飯を頬張った。
「そんなに忙しいの?」
「まぁ、人が最近辞めたりとかしてるから」
母が眉をひそめた時点で何を言われるかわかった。だったら辞めてしまいなさい、という言葉が待っている気がして身構えた。悪気はない、と心の中で唱える。
「しんどいんだったら、辞めちゃえば? 他にいいところいっぱいあるでしょう。もう新人って訳でもないんだし、転職ならできるでしょ。またひどい不景気になる前に、変えた方がいいんじゃないの?」
残酷なこと言うなぁと笑い飛ばすには正論すぎる。母の言い分はもっともな話で、自分でも転職を考えようとしたことは何度もある。今の会社は新卒で入った会社で、惰性でズルズルときてしまった。やりがいも特にないけど、それは就活の時にいらないと思っていた。経験だけが洗濯物のように溜まっていく。どんどん雑に置かれていくだけでまとまりなく、経験を積んでもどうにもならない。
そうだね、と登録した転職サイトを思い浮かべながら相槌を打った。転職サイトからは時々、進捗はいかがでしょうか? という表題のメールが来ていた。面接も何度かしたけど、嫌になって止めてしまった。面接をするたびに、他の会社に移ったところで、自分が仕事を好きになれないというのは変わりないのを実感したから。
これが友だちから言われたのだったら、笑い飛ばしていたかもしれない。どんなに準備をしていても身内の言葉だからという理由で、なぜか心にずぶりと刺さる。
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