第3話:頷いていく

 一人暮らしになって初めて、眠らずに家を出た。徹夜で何かをするのは好きではなかったけど、実家にいた頃はしょっちゅうだった。久しぶりに徹夜すると睡眠不足が身体を直撃している感じがする。左肩からずり落ちそうになるカバンを掴んで、なんとか会社に向かった。身体の芯が定まっていない。足下がおぼつかなくてふらふら歩いていたら、すれ違う人にぎょっとされた。酔っ払いと勘違いされたのかもしれない。

 本当に酔っ払っていた母は、もし人生をやり直せたとしたら何をしたいかを延々と喋っていた。筋が良いと言われたものは、私が幼い頃に聞いたのと対して変わらなかった。

「私、絶対に仕事辞めないようにするの。それでちゃんと人とね、家族以外の人と繋がりを保ったままでいたいなぁ。あなたたちのことは嫌いじゃないけど、ずっと同じ人と顔突きあわせてると、息が詰まるでしょ」

 私は頷いた。別に、構わないけど。母が私たち家族をどう思っているか、家から出たら果たして本当に輪の中に入っていけるのかなんて。笑いながら息が詰まると言われて、私が謝ることではない気がする。

 同じような話をされた時、それならハウスキーパーになりなよ、と言ったことがある。家族のことばかりするのが嫌なら、外に出ればいい。母は綺麗好きだし、几帳面なところが合っている。

 それなのに仕事の話を持ちかけたら、母ははっきりと傷ついたような表情を浮かべた。母だけが家にいなければいけないと感じていると伝えたかっただけなのに。悪者になった私に逃げ場はない。

「やだ、私に家庭を放り出してそんな仕事しろって言うの? 人様のお家に伺ってなにかするなんて、恐れ多いじゃないの」

 ホテルで働いてたんでしょ。部屋に掃除機かけたりベッドメイクしてたんでしょ。才能を無駄にしたくないんでしょ。私がどんなことを言っても、母は倍にして反論してきた。母の心には強固な免疫が働いている。傷つけるようなことがあると、とにかく押し出そうとして過剰防衛する。私にも守ってくれるシステムがあれば良かったけど、自分の心には搭載されていない。

 母は私が何か言うのを待っていたのだろう。けど、夜中の頭が回っていない状態で一度何かを言い始めてしまったら、どこへ向かってしまうかはなんとなく予測がつく。変な間ができたのをなかったことにするように、母はおしゃべりを再開した。

 話を聞いている間、私はずっとビニール袋にゴミを詰め込んで、ゴミ捨て場を往復していた。ゴミ袋を何個も抱えて階段を上り下りして、朝方の空気に触れると頭が覚醒する。母から放たれる毒を含んだ言葉をうっかり取り込んでは、ゆっくりと鼻から息を吸ってため息みたいに吐き出した。やりたいことが沢山あるんだね、と一言でまとめて、ゴミと一緒に捨ててしまいたかった。

 母はずっと喋り続けていたと思ったら、朝方急に何も言わなくなった。電話口から寝息だけが聞こえてくるようになっても、注意深く何か言われないか耳を澄ます。歯軋りの音が聞こえて来て、私はようやく電話を切った。

 部屋に溜まってたものを捨てられたのは良かった。整えられた部屋に住みたい訳でもなければ、ゴミ屋敷に住みたい訳でもない。まだプラスチックゴミは残っているけれど、玄関の床が見えるようになった。残ったプラスチックゴミを捨てるのに、またどこかで徹夜するのもいいかもしれない。仕事中、何度かうとうとしたけど、幸い急ぎの仕事はなく支障はなかった。オフィスの良いところは、パソコンのディスプレイにホコリが溜まっていても、誰も気にしないことだと思う。ダラダラと仕事を進めて、普段よりも少し遅めに帰宅した。

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