毒と熱

オキタクミ

毒と熱

 「なんかおもしろい話してよ」

 彼がいきなりそんなことを言うので、私は体育座りの膝に載せていたラップトップの画面から顔を上げ、

 「はあ?」

 と、思わずとげとげしい反応を返してしまう。

 「そんな、おもしろい話って言われても」

 「なんでもいいからさー」

 そう言いながらも、彼はこちらに目を向けない。散らかった部屋にあぐらをかいて座り込み、目の前の床に直接置いたB5サイズの小さいパネルに、カッターで削った鉛筆で少し描き込んでは手を止め、眺め、練り消しで擦って消すのを繰り返す。机でやりなよ、と言いかけてやめる。ワンルームの部屋には不釣り合いに大きい机の上は、床以上に散らかっている。

 「あ、じゃあ、今度の学会で発表する話してよ」

 そう言って、私がこの部屋にくるのを出迎えて以来初めて、たぶん数時間ぶりにこちらを振り向く。首だけじゃなく、上半身をまるごとひねって乗り出し、片腕を地面について。学年は同じだけれど私より五つ年上のその顔には無精髭が浮かんでいて、実はそれなりに値段のする古着の袖は軟らかい黒鉛のけずりかすで黒ずんでいる。

 「いいけど、わかるの?」

 「失礼だな。わかるかもしんないじゃん」

 言いながら、へらへらと笑う。少し考えてから、私は話し始める。

 「温度ってなにか説明できる?」

 「熱いとか冷たいとかでしょ」

 「そうだけど、それをどうやってちゃんと定義するか、っていう話」

 歴史的には水銀とかでつくった温度計に均等に目盛りを振ったのが最初なのだろう。けれどその目盛りの値は、温度そのものの実態がなんなのか教えてくれない。現在はエネルギーをエントロピーで微分したものとして定義されるのが標準的だが、エントロピーというのは慣れるまではずいぶんピンときにくい概念だ。そして、これ以外の定義が採用される場合もいろいろある。

 「あんまわかんないけど、要するに、温度って意外と抽象的なんだよ、みたいなこと?」

 「んー、まあそんな感じ…? ていうか、温度そのものは物理的なものだから別に抽象じゃないんだけど、それを定義する概念は意外と抽象的なんだよね」

 「ふーん?」

 概念は、拡張して定義し直すことができる。発話される言葉全体の集合を物理学的なシステムとみなすこともできるし、その温度を定義することもできる。その定義に従えば、いろいろな文学作品の温度を実際に測れる。

 「……わかった?」

 いつのまにかパネルのほうに身体が向き直っている彼に、私はたずねる。

 「いやー、わからんね。やっぱ高校でデッサンばっかやってた人間に物理はきついわ」

 予想通りの反応に、私はわざとらしいため息でお返しする。そんなふうに彼を責める素振りをしてみたってしかたない、なんて、わかってはいるのに。研究をしていると、研究内容が自分のアイデンティティになってしまう。自分のことをわかって欲しい、という気持ちの延長で、自分の研究について知って欲しいと思ってしまう。彼もそれに気づいているから、こうやって私に話を振ってくれるのだろう。けれど、研究が進めば進むほど、どうしたって、ひとに理解してもらうのは難しくなる。

 ふと、所属する研究室の教授とディスカッションしたときのことを思い出す。

 「んー。それは筋が悪いんじゃないかな」

 柔らかだがどことなく食えない笑顔を浮かべながら、退官間際の教授は言った。

 「熱力学はさ、細かい情報は無視して、システムをマクロに記述しようとするじゃん。それは、言語の研究にはあんまりあわない気がするんだよね。例えば、言語のやりとりって、熱がじんわり伝わるとか、そういうのとはちょっと違わない? 言語って基本的には、もっと具体的な情報を運ぶものだよね」

 そうかもしれないと思った。

 「ただの個人的な直感だけど、私は熱よりも毒を連想するんだよね。ちょっとした一言が伝わっただけで、受け取った側がそれ以降にしゃべる言葉がまるで変わっちゃったりするし、どう変わるかはぜんぜん予想できない。そういう、ミクロな情報がマクロなシステムに大きく影響しちゃうところは、熱というより毒っぽくない?」


——


 がたがた激しい揺れがゆっくりとおさまっていき、ぽん、という音とともに、頭上に電子機器使用可を示すマークが点る。スマートフォンの機内モードをオフにしてしばらくすると、画面の上のほうに、『おかえりー』というラインメッセージの通知がくる。それをタップしてアプリを開き、『ただいま』と返す。なんだかよくわからない気の抜けたスタンプが返ってくる。私も同じシリーズの別のスタンプを返す。そこから無意味なスタンプの応酬が何往復か続いて、長時間のフライトで強張っていた心がゆっくりと融けていく。

 『学会どうだった?』

 出張中は現地の気候とか料理とかについてしか聞いてこなかったのに、全部終わって日本に戻ってきてからこんなことを聞いてくる。単に適当なのか、それとも彼なりになにか気を回してのことなのか、私は判断がつかない。

 ちょっと迷い、躊躇ったあとで、

 『まあ、それなりにうまくいったよ』

 と返す。少しだけ胸が苦しくなる。

 バゲージクレームの前で自分の荷物が流れてくるのを待ちながら、雑談めいたやりとりをしていると、唐突に、

 『個展。来週。』

 『だれの?』

 『おれ』

 『そんな話してたっけ? 』

 『たぶんしてない』

 これはたぶん深い意図なんてなにもない、いつも通りの適当だ。一年前くらいのグループ展も、直前になって知らされた。

 『きてね。見せてない新作もあるから。』

 『うん』

 そう返して顔を上げると、自分のキャリーバッグがすでに目の前を数メートルほど通り過ぎていたので、私は慌ててそちらへ駆け寄る。


——


 渋谷駅の西口を出て、高架道路と歩道橋の入り組んだあたりを抜け、細くて急な坂道を登った先。再開発の波から取り残されたように立つ小さな雑居ビルの四〇二号室。そこが個展の会場だった。部屋に向かう通路の壁には今後の展覧会の宣伝フライヤーが並んでいる。それらを見る限り、主にファインアート系の美大生が展覧会をやるスペースであるようだ。ドアストッパーで開け放しにされている入り口の横には部屋番号の書かれたプレートがあり、その下には彼の展覧会のフライヤーがマグネットで貼り付けられている。これが看板代わりらしい。

 入ると、彼が暮らすワンルームよりも一回り狭いくらいの細長く真っ白い空間が、左手のほうへ伸びている。その一番奥まったところに彼が机と椅子を置いて座り、左手で本のページをめくりながら右手でノートになにか書きつけている。暇そうだ。声をかけずに目の前の壁に近寄る。壁には縦向きB5サイズのパネルが横一列に等間隔で並んでいる。どれも鉛筆画だけれど、描かれているものは数枚ごとにがらっと変わる。一枚目は林檎のデッサン。二枚目ではその林檎の片側が溶けたか腐ったかしたみたいに崩れていて、三枚目でほとんど跡形もなくなる。四枚目と五枚目は人間と有機物が絡まり合ったようなドローイング。六枚目は右上から左下に向かって直感的に描かれたらしい幾何学的なパターンが広がっている。七枚目はその鏡写しのようだが、ところどころノイズのように細部が異なっている。

 「受験デッサン、っていうか絵画自体、みんなうちの学科はいるとすぐやめちゃうんだけど、おれはなんか、ぜんぶ捨てるのも癪でさ。予備校で三年もデッサンやっちゃったからね。いやまあ、みんなそれでもやめるんだけど」

 彼がそう言っていたのを思い出す。なるほどと思う。デッサンや絵画への未練と、それらを捨ててしまう周囲への反抗心みたいなもの。いっぽうで、美術において保守的なものは価値が低く、なんらかの新しさや批評性がなければならないという要請。両者のあいだの着地点として、四角いパネルに鉛筆で描くことにこだわりつつ、その枠内でテーマや手法を試行錯誤しているのだろう。動機は納得がいく。単純な技術力の高さも、素人目にもなんとなくわかる。たぶん、他の美大生と比べてもかなり巧いほうなのだろう。いっぽうで、とりあえず思いついたものを順番に試してみているだけ、という印象も否めない。

 けれど、その次の二枚の前で足が止まる。他のと同じB5のパネル二枚のうち、右には明朝体の日本語が、左にはローマン体の英語が、いずれも横書きで並んでいる。日本語の展覧会ステートメントとその英訳を、作品とおなじサイズに印刷して掲示しているのかと思う。でも、読んでみると、どうもそうではない。小説のようだ。なんとなく覚えがある。記憶をたぐり、夏目漱石の『こころ』の冒頭だと思い当たる。英語のほうは『ハムレット』。どちらとも、研究のためにデータとして使った作品だ。さらにしばらく見ていると、文字に光沢があり、わずかに濃淡や掠れがあることに気づく。印刷ではない。鉛筆で一文字一文字描いているのだ。明朝体のトメハネまで忠実になぞるようにして。

 左のほうで小さく、ぱたん、と、本を閉じる音がする。同じあたりから、どう? と、彼の声が聞こえる。私は、壁にかけられた二枚の文書のような絵画から目を離さない。

 言語システム。誰かがこれまでに話した、そしてそれよりもずっと多くの、まだ話していなくてこれから話すかもしれない言葉の総体。誰かのシステムと、またべつの誰かのシステム。それらのあいだで交わされる、毒と熱のやりとり。

 視線で、彼の描いた字の一画一画をなぞる。

 「いいね」

 私は言う。黒鉛の光沢がかすかに揺らぐ。

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