第3話 不吉の獣(下)

 日は傾き始めていた。


 黒ずくめは両腕を縛られたうえで、屋敷の庭の木にくくりつけられた。もう抵抗することはなかった。


 森のオオカミたちは黒ずくめを敵だと認識してしまった。それに、森から脱出する唯一のルートの先には武装した警備兵がいるという。

 無傷で森から出る手段はなかった。


 死闘で泥だらけになった服を着替えて、少女は黒ずくめの前にふんぞり返った。

 殴られた頬は青く腫れ、切れた口の端は血止めをしているが痛々しい。


「で、本当のこと喋る気になった?」

「……ずっと本当のことしか喋っていない」


 黒ずくめがぼそぼそと掠れ声で答えた。鼻血は止まっていたが、少しくぐもっていた。


「嘘つけ」

「本当だ」


「歩いて旅していたらいつの間にかここにいた、なんてだぁーれが信じるのよ。そもそもここより東は森と山しかないのにそんな悪路誰が好き好んで選ぶわけ? 一人旅で?」

「……」


 黒ずくめが首をすくめた。首元を一周する長い三つ編みで顔が少し隠れた。


「それに、本当に旅人だったとして、こんな軽装で旅するわけないし」


 少女が柵の外を指さした。

 没収した黒ずくめの所持品が地面にばら撒いてあった。無論、ヒメヤツハオオカミがいる森の地面の上である。拘束を抜け出したとしても、決して拾いに行くことはできない。


 黒ずくめが身につけていたものは、剣に複数の投擲用暗器、しなびた財布らしき袋、異臭のする水筒、油紙にくるまれた服が一揃え――傷薬やナイフといったサバイバルキット、地図や方位磁石すらなく、旅装とはとても思えなかった。


「東からまっすぐ来たんだったら、それこそギリスアンとの国境を越えてきた筈なのに、関所の入国許可証がないのはおかしくない?」

「なら、官憲に突き出すかい」

「んー、正直それだけだったら逆に面倒臭いのよね。命懸けの密入国はこの辺りじゃ珍しくないっていうか、捕まっても怪しくなかったら労役で済んじゃうし」


 数は少ないながら、この辺りには野生のヒメヤツハオオカミもいる。街道や居住地は獣除けの樹木で守られているが、道から外れたところでは運悪く遭遇することもあった。

 モンスターの出現に加えて地形が険しいことから密入国の実行も検挙も難しく、街道以外のルートは野放し状態だった。


 ただし、それは最低限の安全を保障できないということと表裏一体であり、警備抜きで行き来するなら税の代わりに命を置いていけという有様だった。実際、密入出国の成功率は五分五分というところらしい。


 むしろ、密入出国を失敗して野生のモンスターを肥えさせてしまうと住民の生活や街道の安全にも関わるため、密入国の大半は現場裁量に任され軽い罰で送還されることも多かった。


「でも、何かやばーいこと隠してるでしょ、あんた」


 少女はにやにやとした顔で黒ずくめに詰め寄った。

 黒ずくめは少女の態度に眉間にしわを寄せた。


「知ってどうする」

「それから考える!」


 少女の脳天気な言葉に、黒ずくめは呆れた顔になった。


「別に……ボクは君にも、この国にも危害を加えるつもりはないよ。ただ、通り過ぎたかっただけだ」

「じゃあなんで猟区に入り込んだの?」

「柵があったから……乗り越えただけだ」

「屋敷の近くで突っ立っていたのは?」

「森の中に立派な建物があるとは思わなくて、驚いていた」

「それじゃ、どうしてこっちを襲ってきたの?」

「先に銃を撃ってきたのはそちらじゃあないか」

「それもそうか」


 黒ずくめの言葉には筋が通っていた。しかし、少女が納得するためにはどこか説得力が足りなかった。


「で、もしも……もしもよ、私があんたを解放したとしたら、この後どうするわけ?」


 少女の問いに、黒ずくめは軽く鼻を鳴らした。固まった血が鼻の周りにまだこびりついていた。


「この場を立ち去る。と言っても、信じてはくれないのだろう」

「うん、信じられない。だから、見極めてやろうじゃない」

「見極める?」


 黒ずくめは少女の言葉を繰り返した。


「まさか、女性をこーんな目に遭わせておいて、何もしないまま立ち去ろうって思ってたんじゃないわよね?」

「話が見えない」

「怪我させた分、肉体労働で払えって言ってんの! 引き渡すのも、解放するのも、それから決める。どうせ、あんた一人だとこの猟区から生きて出られないわけだし」


 少女はびしっと指先を黒ずくめに突きつけた。

 黒ずくめは目を瞬かせた。


「ボクが言うのもおかしいかもれないが、そんなことをして、本当に殺されたらどうする」


 手伝わせるということは、解放して自由を与えるということだ。

 さっきまで殺し合いをしていた相手に対して、素面しらふで提案できる内容とはにわかに信じられなかった。


「その気だったらさっきので仕留めにきてたでしょ。あんたも死にたくないってことじゃん。なら、私に媚び売ってみなさいよ」


 黒ずくめが少女を勢いで殺してもおかしくない状況だった。

 黒ずくめが捕虜に甘んじることを選んだのは、死闘の興奮に飲まれることなく理知的に生存確率をはじき出した結果であると少女は見抜いていた。


 少女を殺して、自分もモンスターに食い殺されるよりも、少女の胸先三寸に委ねることにしたのだ。

 無論、激昂した少女に痛めつけられ、むごたらしく死ぬかもしれないと分かった上でだ。


 苦渋に塗れたとしても、生き残る道を諦めない姿勢がそこにはあった。


 しかし、最良の結果を引き当てたにもかかわらず、黒ずくめの顔にはありありと不信感が表れていた。


「無茶苦茶すぎる……」

「今、脳天に鉛玉欲しいんならいつでもあげるけど」

「……分かった、君に従おう」


 ころころと変わる少女の態度に、それでも黒ずくめは頭を垂れた。


「それじゃ、まずは名前を教えてもらえる? 呼びつけられないし」

「リーフ、と呼んでくれればいい」

「それだけ? それが本名?」


 あまりにも簡素な名前に、リンは興味本位で聞いた。


「意味なんて、呼べれば別にどうだっていいだろう」

「ふうん、ま、いっか。私はリリルット・チャーコウル、リンでいいから。一応、うちは公爵家だから、何かあったら相当まずいことになるってだけは覚えといてね」

「……じゃじゃ馬お嬢様」


 少女ことリンは無言で桶に汲んだ水を、黒ずくめことリーフにぶっかけた。


 縛られたままで避ける術もなく、リーフは頭から水をかぶった。ぼたぼたと濁った水が顔からしたたり落ちる。かかる直前に息を止めていたので無様に咳き込む羽目は辛うじて避けることができた。


「そんなきったない格好で家に入れられるわけないでしょ」


 リンは庭園用のポンプで汲み上げた井戸水を再びリーフに頭からかぶせた。春のまだ肌寒い日暮れ近くに、冷たい水の飛沫が散った。


 リンは縛りつけられたままのリーフに何回も水をかけた。息を吸うことも、目を閉じることも考慮しないで水をかけ続けた。


 リーフはただ黙って下を向いて耐えるしかなかった。

 水が汚れを押し流すとともに肌の熱を奪っていった。凍えるほどの仕打ちだが、抗うことなく受け入れていた。


「あれ?」


 足下が泥水で沼のようにぬかるむまで、夢中で制裁を加えていた手が止まった。


 砂埃と泥が落ちた髪は、銀の糸のようにきらきらと輝いていた。辺りが暗くなり始めた中でも、目立つほどの輝きだった。


 リーフが顔を上げた。

 泥の下から露出したのは、抜けるような色の肌だった。冷えで青ざめていることを加味しても、白く滑らかな質感を持っているのは明らかだった。


 眉とまつも髪と同じく氷の張りそうな銀色で、宝石を埋め込んだような瞳も合わせて作り物のようだった。

 殴られた跡とこびりついた血は残っていたが、その褪せた赤がかえってぞっとするほど生々しく、人形のような造形の顔を人たらしめていた。


 知らず知らずのうちに、リンは顔を近づけていた。擦った琥珀に羽毛が吸い寄せられるように、うつくしい引力にとらわれていた。

 いつの間にか、リンはリーフの吐息を肌に感じるほどの距離まで近づいていた。


 リーフが頭突きを繰り出した。


 かなり大きな鈍い音が響いた。


「っっっったぁ~~」


 完全に油断していたリンの頭の中で火花が散った。よろめきながら後ろに下がった。

 額を押さえてうめくリンをリーフは鼻で笑った。


「洗ってくれて、どうもありがとう」


 リーフは口の中に入り込んだ水とともに、感謝が微塵も含まれていない言葉を吐いた。


「一度縄を解いて、全部洗ってくれないかい」


 返事の代わりにリーフの頭に冷水がおかわりされた。



◇ ◆ ◇



 全身びしょ濡れのままリーフは離れの馬小屋に押し込まれ、続いて投げ込まれたタオルと着替えで身なりを整えた。

 濡れた衣服とブーツはリンが没収し、柵の外の木に引っかけて干された。他の所持品についても同様だ。


 リーフに下された沙汰は軽く見えるが、リンは抜け目がなかった。これでリーフの所持品は全てリンに差し押さえられてしまった。

 気まぐれなお嬢様が満足するまで付き合うしか道はなくなっていた。


「これでいいかい」


 リーフは慣れない手つきで乾いたシャツのえりぐりをいじった。

 リンが渡したのは、使用人の使い古しのりのシャツに、せた色のズボンだった。銀の長い髪は三つ編みをほどいて水気を取ってから一つに括りなおした。


 黒い外套を脱いだ背中は薄く、手足は棒のように細かった。色が白いこともあって、身体の輪郭は白木で組んだ案山子のようだった。大変顔の整えられた案山子だった。

 性別を感じさせないきゃしゃな体格と、白磁と銀糸であつらえたような美貌はますます等身大の人形を意識させた。


 鼻血が止まり、鼻筋のれも早くも引いてきたことでより生の臭いは薄くなり、作り物めいた雰囲気が強くなっていた。


「……」


 その姿をリンはしばし無言で眺めていた。


「いいんじゃない」


 そっぽを向いてリンは一言そうこぼした。


「じゃ、まずは……」


 間の抜けた収縮音が鳴り響いた。音の元に二人の視線が向いた。

 下を向くリンの顔は真っ赤になっていた。



「お、お腹すいたでしょっ! まずはご飯にしよう、うん!」

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