第2話 不吉の獣(上)

 くらい森の中をゆらゆらと黒い影が進んでいた。


 太陽は沈んで久しく、昼の獣たちはすっかり寝静まった時間だ。空の半分欠けた月は既に沈みかけていて、かすかな光で夜を照らしていた。

 その頼りない光すら避けるようにかげをつたい、ぬかるみと湿った苔を二本の足で踏みながら、影は静かに深い森を渡っていた。



  ……ずちゃ……ぬちゃ……ずちゃ……



 水気のある粘着質な足音は欠伸あくびをするようなもったりとした間隔で繰り返され、極限まで絞られた音量は草葉を揺らすことなく暗闇に溶けて消えた。


「はー、はー、はー……」


 人影はマントのように大きな黒い外套で身体を覆い、頭もまた目深にかぶったフードで隠していた。フードの下から漏れ聞こえる呼吸音は疲労で浅くやや速い。

 丸く縮こまった背中は一歩踏み出すごとにふらついて、いつ泥に足をとられて倒れてもおかしくなかった。


 実際、足元がおぼつかずに何回も転んだせいでひざしたは泥が何層にも重なって固まっていた。

 背中にはいのうはなく、腰にさげるものも少なく、目立つものといえばたずさえた剣くらいしなかなかった。道なき森を歩くにはあまりにも無謀な身軽さだった。


 見る者がいたならば、生命もなく永遠にさまう幽鬼と勘違いするほど場違いで、現実感のない格好だった。

 果たして剣一本で、森の野獣に襲われたときに対抗できるのか、そもそもろうこんぱいで抜くことができるのかさえ怪しかった。


 それが分かっているのか、影は森の住人達に見つからないよう、注意を引かないようになるべく息を殺し、足音を忍ばせ、泥の臭いで存在を塗り潰していた。

 不意に音を立ててしまったら、身体を縮こまらせてその場で留まった。何者にも気付かれていないことを、祈るようにじっとしていた。


 あまりにも惨めな、弱者の行進だった。


 だが、その歩みは決して下がらず、止まることもなかった。

 次の一歩で森にのまれてしまうかもしれない。些細な過ちで骨も残らず消えてしまうかもしれない。

 それでも、前に進むことに一切のためいはなかった。


 ただひたすら前へと進んでいくと、暗闇の中から鉄柵が現れた。鉄柵は身の丈を優に超え、見渡す限り行く先を阻んでいた。

 分厚い革手袋をはめた手が鉄柵に触れた。

 手は音を立てずに格子を握りしめた。


 月明かりの届かない暗闇の中で、新緑色の瞳だけがぎらぎらと輝いていた。



◆ ◆ ◆



 少女は朝から一人でメーラン家の別荘の中の掃除をしていた。


 通いの使用人はパンを届けた後、庭の手入れを軽くしてから帰ってしまった。

 普段は使用人がヒメヤツハオオカミへの餌やりのついでに屋敷の手入れをしていたが、少女が滞在している間は手間賃としてその大半を引き受けていた。


 部屋の換気をして空き部屋の埃をはたきで払い、廊下を掃いてドアマットの汚れをこそぎ落とした。へんな立地とはいえ、貴族の家がすすけていては様にならないからだ。

 そして何より、今は少女が暮らしている。


 掃除を終えて少女は台所で一人軽い昼食をつまんだ。塩漬け肉をスライスしたパンにのせてかじり、缶詰の豆をサラダ代わりにした。

 パンは毎日屋敷に届けられていたが肉や野菜は三日に一度、ヒメヤツハオオカミの餌とまとめて荷馬車で運ばれていた。

 そのため、少女の食事は日持ちがする食材や保存食が主となっていた。


 昼からは森の見回りだ。

 森――正式には第三特別猟区の周囲には狼の逃走を防ぐために鉄柵と獣避けの木がめぐらされている。その境界の点検を行い、周辺住民の安全を確保することも少女の仕事だった。



 少女は上下二連式の長銃を携えて森に入っていった。

 獣道よりもやや広い幅の歩道が森の中に巡らされており、道なりに進めば森の端まで迷うことはなかった。

 森を歩く少女の周囲には狼の姿はない。少女の腰には小さな鐘が提げられていて、透き通った音を常にチリチリと振りまいていた。


「あれ?」


 鉄柵の強度を確認していると、少女は普段と様子が違うことに気付いた。

 柵の上方に、泥がべったりと付いていた。まるで、誰かが柵を乗り越えた後のように見えた。


 鉄柵は子狼が抜けられないような目の細かさと大人の狼が跳び越えられない高さがあるが、あちこちに出っ張りがあるので人間がよじ登ることは難しくない。特に、は内側を向いているので外部から侵入しやすい。


 だが、猟区に侵入するものなど考える必要は通常なかった。

 屋敷には普段誰も住んでいないうえにめぼしいものもなく、ヒメヤツハオオカミを密猟しようにも相当な手練れを十数人連れてきたとして犠牲者は免れず割に合わない。

 子供さえ度胸試しに入り込むことは滅多にない。入ったら生きて戻れないからだ。


 分別のない子供への教育に、年に一度ヒメヤツハオオカミが生きたままの家畜を貪る様を見せつける催しもやっている。境界近くに放された羊が逃げる暇もなくバラバラにされていく様に、子供が泣き叫んだり卒倒したりするのは恒例になっていた。

 おかげでどんな無鉄砲でも骨の髄まで猟区の恐ろしさを知っている。


「まさか、ね」


 少女はあり得ない可能性を頭の中から追い出して、柵の点検を続けた。

 他に柵に異常はなく、密猟者の偵察かと少女は結論づけた。メーラン家に連絡は必要だが、急を要するものではない。

 本日分の仕事を終え、少女は日が高いうちに帰路についた。


「ん?」


 木陰の湿った暗がりが不自然に乱れていた。普段は足を踏み入れないぬかるみに近付いて、確認する。

 獣の足跡とは明らかに形の違う、靴の跡が残されていた。さすがに少女の顔色が変わった。


 誰かが猟区に入り込んだのは明白だった。

 常人が生きて帰れない場所に立ち入った無謀さには感心の前に呆れ果てるところだが、よからぬ目的で入り込んだのであれば企みを阻止しなければならない。


 足跡の向かう先は少女の屋敷の方角だった。まだ屋敷は見えない場所だが、歩道や空に昇る炊事の煙を見れば、位置が分からずとも当たりをつけて辿り着くのは容易い。


 途中で待ち伏せされている危険性も考えて、少女は足音を忍ばせて屋敷へと戻っていった。

 足跡は道に沿って続いていたが、道に踏み入れることはなく暗がりを伝って進んでいた。草食獣のように慎重な足取りで、歩幅は狭い。そのおかげか奇跡的に狼たちに補足されていないようだった。


「運のいいやつ……」


 少女は屋敷の裏門の手前で立ちつくす人影の背中を見て、そう呟いた。絶対に相手に聞こえないよう、怒りの滲んだ声を最小限に絞っていた。


 まだ太陽の見える時間帯だというのに、その後ろ姿は真夜中のように真っ黒だった。膝下まで届く黒い外套を着て、フードをかぶっているせいで顔も性別も分からなかった。

 背丈は少女と同じくらいで腰に携えた剣以外に目立った持ち物はなさそうに見えた。


 その軽装に、少女の脳裏に『暗殺者』という言葉が浮かんだ。


 命を軽い気持ちで狙われる心当たりは沢山あった。

 今まで蹴ったお見合いは数知れず、結果的に恥を掻かせた子息も一人二人の話ではない。

 少女に言わせれば身の丈に合わない釣り書きを持ってくるなという話ではあった。


 少女は草陰にしゃがんで長銃を構えた。照準は黒ずくめの身体の中心に定めた。

 獣であれば大雑把な狙いだが、人間相手ならば動きを止め、殺すのに十分である。


 無音で安全装置を外し、息を止めて引き金に指をかける。

 人を狙うのは初めてだが、人の形の的と思えば指先は震えなかった。何より、勝手に猟区に入り込んだ時点で明確に少女の『敵』だった。


「っ!」


 雷鳴に似た音が森に轟いた。

 銃声と共に黒ずくめが倒れる――否、倒れるように身をかがめて弾丸を避けた。


 ざりっ、と地面を削って黒ずくめが振り返りざまに身を起こす。そのまま少女の隠れる茂みに一直線に駆け出した。

 反射的に少女は二発目を撃った。狙いは心臓、距離は縮まり確実に当たるとみた。


 銃口が火を噴く直前、突然黒ずくめは横に跳んだ。外れた弾が門に当たり高い音を響かせる。

 地面を転がり流れるように立ち上がって黒ずくめは再び少女へと距離を詰めた。フードの奥の鋭い眼光は獣の威圧があった。


 黒ずくめが剣を抜き放ち、無言で上段から少女に斬りかかった。

 少女は中腰の体勢で長銃を頭上に掲げた。間髪入れずに剣がぶつかる。鋼同士がかち合って鈍い音を立てた。


「このっ」


 頭上で受け止めた斬撃は想像よりも軽く、少女は刃を押し返し突き放して立ち上がった。

 立ち上がって即座に黒ずくめの脇腹へと蹴りを放つ。


 しかし、黒ずくめは押し返された勢いでさらに後退し蹴りを回避した。

 空振りの勢いで不安定になった少女に黒ずくめが即座に詰め寄る。小さくまとめた肘鉄が少女の左肩を抉った。


「――いっ!」


 少女の左手が長銃から離れた。


 痛みで顔をしかめるが歯を食いしばって視線を逸らさない。


 長銃を握ったままの右手で黒ずくめの横っ面を殴った。鈍い音には確かな手応えがあり、黒ずくめの身体がぐらりと傾いた。


 続く長銃の殴打を革手袋が掴んで勢いを殺し、放し間髪いれずに後ろへ身を引く。


 膝蹴りが空を切った。


 黒ずくめの動きは少女の思考を読んでいるように的確で、物理法則のように正確無比だった。

 人間らしさを極限まで削ぎ落とした挙動に背筋が泡立つような不気味さを感じたが、それで及び腰になるような少女ではない。


 少女が黒ずくめに長銃を投げつけた。弾は撃ち尽くした、戦いには必要ない。


 飛んできた鉄の塊を黒ずくめはさらにさがって避けようとしたがいかんせん距離が近すぎる。

 盾になった剣が手から弾かれて宙を舞った。


 剣と銃が地面に落ちる前に、黒ずくめは身体を低くして前へと突進する。最短距離で少女に迫る。


 黒ずくめの鼻先に小さな銃口が突きつけられた。


 長銃を捨てると同時に少女は拳銃を抜いていた。スカートの中に隠し持っていた、護身用の拳銃だった。

 回転弾倉式リヴォルバーの小口径銃、人間を殺すためだけしか役に立たないものだ。

 銃口と標的の距離は二歩と離れていない。撃てば当たる――当たっても止まるには近すぎる。


 紛れもない死の気配にそれでも黒ずくめは一切怯まない。向けられた銃口に迷わず手を伸ばした。


 小さな炎と爆発音が森に響いた。


 銃身を革手袋が掴んで逸らしていた。逸らすと同時に照準の中心から身体を捻ってかわしていた。

 その動きで、身体の中心を狙った弾丸は背後の木へとめり込んでいた。


「なっ……」


 無謀すぎる回避手段に、少女は絶句した。


 明らかに引き金を引く瞬間を狙って銃身を掴み、銃撃を逸らしていた。銃口を正確に把握した上でだ。

 少女の呼吸すら読み切っていたとしてもまず仕掛ける筈がない、あまりにも分の悪すぎる賭けである。


 拳が少女の左側面を殴りつけた。衝撃に少女の足がふらついた。

 続いて黒ずくめが少女の胸ぐらを掴んだ。


 少女がしまったと思った瞬間には天地がひっくり返って地面に叩きつけられていた。春の下草の薄い冷たい地面に、少女は背中から着地した。


「うっ、がっ!」


 衝撃と痛みで肺の空気を追い出され、少女が呻き声をあげた。


 少女の上に黒ずくめが馬乗りの体勢になる。

 さらにもう一発少女の顔を殴る。少女の口の端が切れた。


 だが、少女はまだ拳銃を手放していなかった。


 少女は怪力で拘束を押し返して無理やり照準を合わせる。黒ずくめの腕力は少女の動きを完全に御せるほど強くなかった。


 殴られてくらくらとする視界の中、撃鉄を起こし、銃身を掴まれたまま強引に発砲。革が焦げる臭いが漂った。


 しかし、黒ずくめは少女を巧みに押さえつけたまま銃撃を反らした。少女が銃口を向ける方向に後押しし、引き金を引いた瞬間に射線を逸らした。至近距離の発砲でも焦る様子は一切見せなかった。


 五発の弾丸のうち、一発が黒ずくめのフードを掠めた。


 フードが後ろに落ち、黒ずくめの顔が露わになった。

 垢と泥に塗れた頬は土の色に染まっていたが、その鼻筋は人形のように整っていた。猫のようにつり上がった目尻に、ぎらぎらと輝く新緑色の瞳。血肉を感じさせない輝きは本物のかんらん石を埋め込んだようだ。

 ほそおもてで男性らしさが薄く、年若いことが一目で見て取れた。


 砂埃と泥汚れでくすんだ頭髪を後ろに流していたおかげでその端正な造形が陰ることなく日の光の下に晒されていた。

 無機質な美であるのに、内部に宿した獣の熱い脈動をまざまざと感じた。


「……!」


 その殺し屋らしからぬ美しい顔立ちに少女は瞬間、目を奪われた。

 見とれる少女の顔を革手袋の拳が再び殴打した。こめかみを殴られた少女の頭の中から、一瞬の感情が吹き飛んだ。


「っの、やっろぉ……っ!」


 拳銃を捨てて少女は黒ずくめの胴をでたらめに殴った。


「ぐっ」


 黒ずくめが呻き声を漏らした。少女を殴る手が止まる。


 少女が黒ずくめの顔を正面からぶん殴った。

 端正な顔立ちを歪ませて、黒ずくめが後ろに吹っ飛んだ。


「うらあああああああっ!」


 良家の令嬢と思えない咆哮をあげて少女が倒れた黒ずくめに飛びかかった。


 黒ずくめは上半身を起こして少女が突き出した腕を掴み、再び投げ飛ばした。半円を描いて少女は背中から着地した。

 立ち上がろうとした少女の首筋に刃物が押し当てられる。


「終わりだ」


 黒ずくめが言葉を発した。乾いてしゃがれ、枯れ草の擦れるような声だったが氷を思わせる冷たさと共に耳の奥に滑り込んだ。

 形のよい鼻からつう、と赤黒い液体が滴った。


 刃先が少女の肌に食い込んだ。血の雫が首筋にぷつっと浮き出た。


「終わりなのはあんたよ」


 散々殴られ、赤く腫れた顔で少女は不敵に笑った。


 黒ずくめは周囲に視線を巡らせた。

 いつの間にか大きな影が周囲の木立に集まってきていた。


 森のヒメヤツハオオカミたちが、銃声と争いの音を聞きつけてきたのだ。

 二人を取り囲み、少女を襲う黒ずくめに対して数頭が低い唸り声をあげていた。


「私の可愛い下僕ちゃんよ。殺してみなさい、そしたらあんたも道連れよ」


 少女が息絶えた瞬間、オオカミたちは襲ってくるのだろう。森でオオカミに目をつけられたら振り切るのは不可能だ。

 目の前の屋敷に逃げ込む前に怒り狂った獣にばらばらにされてしまうだろう。


 黒ずくめは暗器を捨てて両手をあげた。


 解放された少女がゆっくりと立ち上がり、黒ずくめの横っ面を思い切り張り飛ばした。

 破裂音とともに黒ずくめが地面に転がった。


「どこに雇われたか知らないけど、ざまぁみろ」


 少女は息を切らせて吐き捨てた。


「……何か勘違いをしているようだ」


 地面に倒れ伏したまま、黒ずくめが口を開いた。顔の半分を泥に埋めてなお、その目の輝きがくもることはなかった。


「ん?」

「君を殺しに来たわけではない」


 少女は目をぱちぱちさせた。


「……はぁ?」


「ボクは、ただの行き倒れの旅人だよ」


「そ、ん、な、わけ、あるかぁっ!!」


 少女の今日一番の怒鳴り声に、近くにいたオオカミがびくっとした。

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