ファーストバイト/セカンドクラッシュ
草上アケミ
第1話 檻の中の一匹狼
「お帰りください、この腰抜け」
青年の眼前に突き出されていた指先がぷいっと振られ、一本道の遥か先を指し示した。すらりとした並木と鉄柵に挟まれた砂利道の先は緩く曲がり、先を見通すことはできない。
その道は今しがた、青年が馬車に乗って通ってきたばかりの経路であり、まだ日の光は南の空高くから木立に差し込んでいた。
「いや、待ってくれ。頼む、リリルット・チャーコウル嬢!」
追い返されそうになり、青年は慌てて弁明した。
青年の服装は細身の体躯に丁度よくあつらえた無地のシャツに直接厚手のジャケットを重ねたもので、簡素で動きやすさを重視していた。
だが、日焼けのしていない肌と、襟と手首を飾る宝飾品が貴族であることをちらちらと主張していた。
「もう少し話をしよう」
「話、ですって」
青年の前に立つのは、長身の女性だった。女性といっても、青年とそう年の変わらない少女に見えた。
刺繍の入った草木色のロングスカートにフェルトのケープを羽織り、長い黒髪をゆるく三つ編みでまとめている。足元の
しかしよく見れば、スカートには深いスリットが入っており、中に
青年の見せかけの活発さを取り繕った格好とは対照的に、贅沢に野外へと適応した服装だった。
少女の小動物のようなつぶらな黒い瞳と柔らかい面立ちは大変愛らしかったが、不快そうに眉を上げた表情は不釣り合いなほど硬かった。
「あら、バセットペロー家の次男坊はどんな言い訳がおありで?」
腰に手を当てて、背の高い少女は青年を威圧した。
青年は思わず息を呑んで半歩後ずさった。
背が高いとはいえ、少女の目線は青年より一段低い。しかし、青年は見上げるような大男に射竦められたように背中を丸めてしまった。
「私への求婚を誰も止めなかったなら、言えるのはこれだけ……この森を歩くことができたら、喜んで婚約を受けてやりますわ」
少女の手が屋敷の周囲の森を指し示した。
象牙色の外壁と灰色のスレート瓦で綺麗に整えられた屋敷に、刈り込まれた低木と背の高い果樹で飾られた庭園が少女と青年が立っている場所である。
しかし、槍のような鉄柵で仕切られた外は
柵で隔てた世界は、異なる絵画を貼り合わせたかと思うほど雰囲気が異なっていた。
青年は暗い森を見て、思わず
少女はちらりと青年の後ろに目を向けた。そこには青年の乗ってきた馬車と随伴してきた護衛が
既に青年以外は結末に気付いてしまっている。
只一人、事態を飲み込めていない青年は大仰に手を振って少女に訴えかけた。
「そんな無理難題で嫌がらせをしないでくれ! 私は本当に……」
「嫌がらせ、ですって?」
口をへの字に曲げた少女に、青年は何回も首を縦に振った。
「この森では養殖と警備のために多数のヒメヤツハオオカミが放し飼いにされていると聞いた。君は管理者だから襲われない術を心得ているのかもしれないが、私が柵の外に出てしまえば餌食になるだけだ」
青年の瞳には怯えの色が見えた。
「それなら安心してください。私が襲われない方法を教えて差し上げますので。ただし!」
びしっと突きつけられた指先に、青年はさらに後ろにさがった。少女の細い指ではなく、刃物を突きつけられたような反応だった。
「――銃は持っていかないでください。撃った瞬間、襲われます」
指先がすっと首を切った。青年の顔からさーっと血の気が抜けた。
「不可能だっ! 生きて帰れる訳がない!」
「あなたがそう思っているなら、無理でしょうね」
青年の泣きそうな声に、少女は素っ気なく返した。
「彼らは恐怖に敏感です。そんなへっぴり腰では、すぐに獲物と見なされてずーっと付き纏われるでしょう……貴方が死ぬまで、ね」
芝居がかった少女の言葉は滑稽さを感じるほどだったが、恐怖を助長するには十分だったようだ。青年は喉の奥からひっと息を漏らして腰を抜かした。視線の高さが逆転した。
少女は嘆息して動けなくなった青年の襟ぐりを掴んだ。そのまま馬車へと歩き始めると、青年がずりずりと引きずられていく。
「な、なにをするっ」
「此方の台詞ですが? 屋敷の前に座り込むなんて無礼にも程がありましてよ」
青年の弱々しい抵抗の一切をはねつけ、少女は細腕で青年を引きずっていった。馬車の前に辿り着くのにそれほど時間は要さなかった。
少女は馬車のドアを開くと、ぞんざいに青年を中に押し込んだ。
「お時間がよろしいようで。お帰りくださいまし」
にこやかな顔で少女は馬車をぴしゃんと閉めた。
「送ってさしあげて」
「かしこまりました」
少女は後ろに控える使用人に、送っていくように指示した。
使用人は屋敷の門を開き、荷馬車で先導した。
「子爵様にはよろしくお伝えください」
「分かりました」
少女の言葉に護衛はお辞儀を返した。護衛が貴族に直接反抗することは許されないが、それを抜きにしてもすんなりと言葉に従った。
御者も戸惑うことなく馬車を出発させた。馬車の中から何かひっくり返ったような音がしたが、誰も中を確かめようとせず馬車は止まらなかった。
青年以外の誰もが、本日の成果が実るなどと考えていなかった。
少女は並木道を遠ざかっていく二台の馬車をしばらく眺めた後、短く息を吐いて手をぱんぱんと払った。
「あーもう、時間を無駄にした」
くるりと後ろを向いて少女は屋敷の中に入った。
正面玄関の扉を開け放つと、都心の邸宅を思わせる洒落たホールが少女を迎え入れた。とても深い森の中の一軒家とは思えないつくりだった。
都会との違いは、家の主人を待つ者がいないことぐらいで、通いの使用人も帰った後ではしんと静まりかえっていた。
誰もいない薄暗い家の中を慣れた様子で少女はずんずんと進んだ。ドアを開いた先でろくに見もせず壁のスイッチを入れると、部屋の電気がついた。
少女が入った部屋は屋敷のキッチンだった。
黄色っぽい灯りに照らされたキッチンの壁は床までひと続きのタイル張りで、その上をガス管と伝信管が這っていた。調理用のテーブルが大半を占める部屋だが、調理スペースとは別に使用人が待機できる空間もあり、小さいテーブルと椅子が備えられていた。
少女は使用人が使う硬い椅子にどかっと腰を下ろすと、テーブルの上に行儀悪く身体を伸ばした。
「なぁ~~んで寄ってくるやつみーんな貧弱なのかなぁ」
毅然とした若い女主人の外面をぺろっと脱ぎ捨て、少女はばたばたと地団駄を踏んだ。
「そんなに難しいこと言ってるぅ? ちょっと身体張れって言ってるだけなのにぃ」
誰もいない部屋に少女の愚痴が反響した。
「ホントに危なくなったら、絶対助けるに決まってるじゃん」
少女がテーブルに突っ伏して独り言を綴っていると、下からぴすぴすと音が聞こえた。
足元に目を向けると薄い灰色の子犬――否、子狼が揺れるブーツにじゃれついていた。まだ生まれて半年経っていない子狼だが、既に小型の愛玩犬くらいの大きさがあった。
少女が椅子を後ろに下げていたずら盛りの子狼を抱き上げるのと同時に、裏口横の小さな扉から、もう一頭子狼が顔を覗かせた。
「もうご飯の時間? はいはい行きますよっと」
少女は腰のポーチから懐中時計を取り出し、時間を確認した。予定外の訪問者のせいで、日課の時間はとっくに過ぎていた。
キッチンの裏口横に掛けられていた厚手のエプロンと長銃を手に取り、少女は仕事に戻った。
まずは食料庫に入って両手で抱えるほどの大きなブリキ缶を二つ持ち出した。ブリキ缶の中身はたっぷりと詰まっていたが、少女は長銃を肩に掛けたまま、事もなげに片手で一つずつぶら下げた。
少女の周りを子狼たちはうろちょろし、ぶらぶら揺れる缶にもじゃれつこうとした。いつの間にか、子狼は四匹に増えていた。
「シッ、シッ!」
少女は鋭い声で愛らしい子狼を叱り、缶に取り付くのを許さなかった。
遊びたそうな子狼たちをいなしながら少女はキッチンの裏口から外に出た。
その先には森と屋敷を隔てる鉄柵と門があった。門の隙間は柵よりも少し幅が広く、子狼たちはそこから敷地に入ってきたのだろう。
鉄柵の反対側に複数の影があった。少女の腰ほどの体高をもつ四つ足の獣の群れだった。
濃い灰色の毛皮に尖った鼻先、三角の大きな耳を持った獣たちは狼によく似ていた。しかし、その身体は普通の狼と比較しても二回りほど大きく、二本足で立ち上がれば人間よりも遙かに大きいだろう。
屋敷から出てきた少女をいくつかの黄色い目が捉えた。少女は獣たちの視線に臆することなく、門のかんぬきを抜いて開け放った。
二重扉を抜けると、それまで寝そべっていた獣も立ち上がって少女の周りに集まった。その数はおよそ十数頭。一斉に襲いかかられれば、少女は簡単にばらばらにされてしまうだろう。
だが、少女は獣の息づかいが聞こえるほど近づかれても、全く臆さなかった。
「待て」
少女が低い声で命令すると獣たちは立ち止まった。
全ての獣の目が自分に向けられていることを確認してから、少女はブリキ缶を開けた。
ブリキ缶の中には、細かくした干し肉や骨粉が混ぜられた飼料が詰まっていた。
目の前の御馳走にすかさず子狼がとびついた。
「めっ!」
「キャンッ!」
少女は強めに子狼の頭を引っ叩いた。間髪入れずにもっと強い力で別の子狼の尻を叩いてブリキ缶から引き離した。
子狼が鳴いても親たちは動じなかった。賢い彼らは、子狼がおいたをして怒られているのであり、危害を加えられているわけではないことを分かっていた。
親の方にいたずら小僧共を転がしてから、少女は気を取り直してブリキ缶を持ち上げた。
ブリキ缶の中身が長細い金属のトレーに流し込まれていった。こぼさないように、しかし手早く飼料が分配され、四つのトレーを満たした。
「よし!」
少女の号令で獣たちは一斉に餌に群がった。
餌を咀嚼する獣の顎には、立派な牙が二重に生えていた。
ヒメヤツハオオカミ――人間がそう名付けたのは、かのモンスターに普通の狼にはない牙が生えているからだ。そして、同種の中でも比較的小型で狼のように賢いからこそ、人間の手で飼い慣らすことができていた。
少女はこの森で飼われているヒメヤツハオオカミの群れを統率していた。餌を与え、子供をしつける――その行動に、彼らも少女を強い仲間として群れに迎えていた。
餌を食べ終え、数頭のヒメヤツハオオカミが少女にすり寄った。
少女はしゃがんでヒメヤツハオオカミと目線を合わせた。
べろりと顔を舐められるが、少女は嫌がらない。生臭さと土臭さが混ざった獣臭が肌にまとわりついた。
お返しとばかりに少女はわしゃわしゃとヒメヤツハオオカミの顔を撫でた。満足げな顔をする一頭の横から、他の個体が頭をねじ込んできた。こちらも少女は撫でくりまわした。
ある程度甘えを許すことも大切である。
だが、全ての個体が従順とは限らない。
少女にそろそろと近づいた若い雄は毛を逆立て、挑戦的な目をしていた。
自分に向けられた獣の目に、少女の顔から笑みが消えた。
「なによ、やろうっての」
少女は撫でる手を止めて立ち上がった。争いの気配を察し、甘えていた連中はそそくさと散った。
地面にそっと長銃が置かれた。
少女はケープを外し、左腕にぐるぐると巻きつけた。腰のベルトに提げていた棍棒を右手で構える。スカートの裾を翻して腰を低くした体勢は、古代の剣闘士のようだった。
若い雄はいかにも血気盛んでやる気に満ちあふれていて、少女に対する闘志をむき出しにしていた。
闘志の迸るまま、雄は唸り声を上げて真正面から少女にとびかかった。
草食動物ならひとたまりもない突進だが、真っ直ぐすぎるが故に少女は容易く見切った。半身で衝突を避け、獣の肩に全力で棍棒を叩き込んだ。
「ぎゃんっ!」
重い衝撃に若い雄は悲鳴を上げて飛び退いた。しかし、距離をとりつつもまだ少女から目を離さなかった。
人間なら骨が折れる一撃だったが、モンスターを退けるには不十分だ。元々、モンスターは普通の動物よりも頑丈で耐久力は極めて高い。巨大な落石に押しつぶされても平気で這い出てくることもあれば、なまくらの刃程度なら毛皮で弾くことさえある。
モンスターを確実に仕留めるには対モンスター用弾丸を撃ち込むか、炎で焼き尽くすか、古典的に魔剣で対峙するしかない。
少女の長銃には対モンスター用弾丸が込められていたが、不相応な座を狙う獣の再教育には必要なしと判断していた。
不用心すぎる初撃を反省してか、若い雄は少女の隙を伺い、挑発するように上半身を低くした。
同族ならつられて攻撃していただろうが、少女は構えを崩すことなく待っていた。
睨み合いはしばらく続き、耐えきれなくなった若い雄が上半身を跳ね上げて少女の喉笛を狙った。
少女は左腕を前に出し、腕を犠牲にモンスターの顎から身を守る――と見せかけて左腕で顎を叩き落とした。更に追撃で首を棍棒で打ちのめした。
容赦のない攻撃にモンスターは地面に頭をつけた。
すかさず少女はモンスターの頭にまたがり、顎に棍棒を噛ませた。
「身の程をわきまえなさい」
少女は低い声で三角の耳に囁いた。
棍棒を顎の奥まで突っ込んで噛ませ、モンスターの口を無理矢理開かせた。臼歯のさらに奥まで棒を噛ませることで、噛み砕く行為を防ぎつつ舌の根元まで外気に晒した。
暴れてもがっちりと固定して放さず、憐れみを呼ぶ鳴き声を上げるまで仕置きは続いた。
拘束からようやく逃れた若い雄は少女の前でごろんと横になって腹を見せた。少女は棍棒で若い雄の首を軽く叩き、視線を外した。
若い雄は尻尾を下げて群れから離れていった。
他のヒメヤツハオオカミも続々と立ち上がった。若い雄とは別の方向に群れは移動していった。
子狼たちも満足したのか、親について屋敷の周囲から離れていった。
空になったブリキ缶を持って、少女は屋敷に戻った。
一仕事を終えた少女は洗濯かごに汚れたケープを放り込んでから唾液まみれの顔を洗い、台所に戻った。
時刻はもう夕暮れ時で、夕食を準備してもよい頃合いだった。
「そういえば、手紙が来てたっけ」
使用人が今朝、諸々の食料とともに屋敷まで届けてくれた手紙がテーブルの端にのっていた。
手紙の表には差出人の署名がなかったが、裏には弓矢と狼を組み合わせた紋章で
少女は躊躇いなく封蝋を剥がして手紙を開いた。
上質な厚手の便せんには濃紺のインクで文字が
軍の休暇中、メーラン家の第三特別猟区で世話になっていると聞きましたが、元気に過ごしていますか。
我が家と縁を結びたいという貴族から申し入れがあったので、貴方の居場所を伝えてあります。特に問題はない小さい家のため、好きなように判断なさい。
手紙が届く頃には休暇は残り十日というところでしょうか。休暇が終われば訓練で西部緩衝帯に行くそうですね。
しかし、最近は隣国が政局不安定との情報があり、東の国境線上でよからぬ輩の捕縛も増えています。
第三特別猟区はメーラン家の領地の中でも国境に近いため、安全のためにも休暇の残りは王都に戻ってきなさい。
手紙には
「これ、あの弱虫のことかー……一歩連絡が遅い」
一通り読んでから、少女はちょっとむくれた。特に、最後の方の言葉が気に食わない様子だった。
「別に大したことないでしょ。それに、猟区を通ろうなんて命知らず、そうそういないし」
彼女の家族は世間体が許す限り少女の行動を許容していたし、性格に理解も示していた。
少女が国境外の
「安全かどうかで言えば、猟区の檻の中にいる方が王都よりずっと安全だし」
少女は手紙をくずかごに放り込んだ。
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