たった一つの魔法

『魔法が使えたら』と幼い時はよく思った。


 目の前で燃え上がる炎を眺めながら、俺は現実逃避に浸っていた。手には一酸化炭素中毒により意識を失った子供を抱えている。


 隣人の家が火事に遭い、避難のために外へ出て消防士の活動を眺めていた。その時に聞こえてきた中年女性からの『中にまだ息子が』という言葉。

 俺の体は反射的に動いていた。きっと少しでも世界に貢献したいという欲求が招いた結果だろう。


 このところ不幸なことばかりが起こっていた。リーダーを任されたプロジェクトが失敗し、付き合っていたカノジョと別れ、挙げ句の果てには大切な家族である母を亡くした。

 どん底まで沈んだ俺の心を癒すために自分がまだ『この世界にいてもいい』と実証できるものが欲しかった。


 そこで発生した一大事。きっと無意識に俺の心は『これだ!』と思ったのだろう。

 事前に母から場所を聞き、子供を無事発見した。あとは外に出るだけ。だが、そこでまたもや不幸な事態に苛まれる。一階の火が強まり、完全に封鎖されたのだ。


 出口がなくなり、絶望にひれ伏した俺は幼い頃に思い描いていた『魔法があったら』という妄想を頭に浮かべていた。


 魔法があれば、水を生成して火を消すことだってできたし、自分の周りにバリアを張って火を防ぐことだってできた。さらに言えば瞬間移動で一瞬のうちに外に出ることもできただろう。


 でも、現実はそううまくはいかない。魔法なんて所詮は俺みたいな弱い人間の考えた幻想でしかないのだ。


 俺は手に持った子供の顔を見る。せめてこの子だけは助けてあげたい。


「大丈夫。俺ならできる」


 そう自分に言い聞かせると、後ろを振り返り、一番火が浸透していない部屋に入る。窓を開け、外を覗く。目の前に見えるのは自分の住むアパート。目指すは二階右角のベランダ。そこに飛び移る。


 子供をおぶるような形に変え、片手で子供の両手を握りしめる。窓辺に足をかけ、外の景色に目をやる。下を見ると家とアパートを挟んだ石垣に火が浸透していた。このまま落ちれば俺は灰となって死ぬだろう。


「大丈夫。俺ならできる」


 再び自分を鼓舞し、足に力をいれる。そして、勢いよく地面を蹴ってベランダへと飛んだ。飛距離は全く足りていなかった。


 でも、想定内。子供の手をギュッと握りしめ、ベランダの手すりに空いた片方の手をかけた。大人一人と子供一人分の体重が片腕にかかる。激痛が走る。だが、グッと堪え、腕に力を入れる。


「大丈夫。俺ならできる」


 懸垂をするように状態を起こし、足をベランダ下にかける。

 よし、これで一安心だ。そうして気を抜いたのが、運の尽きだった。かけた足が滑り、体制を崩す。なんとしても、子供と手すりだけは離すまいと握力をかける。幸い、俺も子供も落ちることはなかった。


 だが、問題はここから。腕があまりいうことを聞かないのだ。グッと堪えるだけで精一杯であり、とてもじゃないが体を起こすことはできない。

 下は火の海。上にしか生きられる道はないのに、上に行くまでの力がない。


「大丈夫。俺ならできる。俺ならできる!」


 絶望的状態だが、必死にそう自分に語りかけた。最後の力を振り絞って、体を少しずつあげていく。『火事場の馬鹿力』というものの存在を実証するように体は持ち上がり、ベランダに近づいていく。


 もう少し。そう思ったのも束の間だった。手をかけなおそうと少し力を緩めた瞬間、手が滑り、手すりから外れる。

 体が宙に浮き、私を意識したからか走馬灯が走る。せっかく頑張ったのに、最後の最後まで不幸続きだった。そう思いながら手を天に掲げた。


 刹那、俺の手首が掴まれる。薄れかけていた意識が覚醒し、掴んでいた子供の手を離さないようにギュッと握りしめた。


「もう大丈夫だ!!」


 ベランダから現れる二人の消防士。彼らは一斉に俺の体をあげる。俺と子供は火の海に沈むことなく、ベランダへと上がった。子供はすぐに消防士に連れ去られた。


 助かった。俺は生きていることを確かめるように深く呼吸をする。

 魔法なんて使わなくても俺は誰かを助けられるんだ。いや、違う。俺はたった一つだけ魔法を使ったのだ。


『言霊』という内なる力を引き出す魔法を。

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