16.寄せては返す

 三週間が、過ぎた。

元気がないと言われ続けた中で、誠一は十は老けたような気がした。

事件はまだ初公判にも至っていない。

自分はこんなにつまらない人間だったのかと呆れるほど、仕事とリハビリのジョギングを繰り返し、食事もなんだか味気ない。松木の所や明日野家に行くと心配されるので、暇なのに何処かの誰かのように足が遠のく。

鍵を預かった手前、たまに淋の家を掃除した。

モモが入りたがる為と都合のいい言い訳をしながら、未亡人のようにシーツや布団を干すと、かえって虚しさに泣けてくる。

掃除を終えると、ハンドレッド・ベイに行った。

この頃、厳しい規制線は無くなった。真新しい『立ち入り禁止』の看板を無視して入る警察官を、誰も通報しないのは有難かった。

淋のように海を眺めてぼんやりしていると、時折、柚子や寿々子が心配そうにやって来た。今頃気付いたが、この島には同世代の男性が少ない。二人と他愛もない世間話をして、少し元気になった気がして……一人になって、再び沈み込む。

その休日も、とことこと先を行くモモに付き従い、ハンドレッド・ベイに向かっていた。間もなく台風が来るそうだが、今はまだやや強い風が吹くものの、海はそれほど騒いではいなかった。

潮の香りに、いつも通り入り江を覗き込んで、誠一は息が止まった。

ハンドレッド・ベイに、人が立っていた。

何の変哲もないシャツとジーンズ。

日差しを避けることもなく、波の手前に立っている。

走った。

まだ本調子ではない足が悲鳴を上げたが、構わず走った。

立ち入り禁止の看板が揺れる。暗いトンネルを抜け、砂を弾けさせ――息を呑んだ。

「淋……!」

彼は、呼び掛けるより少し早く振り向いた。

「あれ、久しぶり」

驚くほど呑気に片手を上げた男に、どんな顔をしただろう。

唇が戦慄わなないたか、拳を握ったか、肩が震えたか、何が何やらもうわからない。立ち止まっている誠一の足元を、モモがすたすたと行き過ぎていく。

様子がおかしいのを見て取ったか、変わらぬ様子で左足を引っ張って来た淋は、モモに軽く挨拶をし、ほんの少し上にある誠一の顔を見上げた。

「どうしたの、誠一くん――」

間近で声を聴いた瞬間、反射的に手が伸びていた。

おもむろに抱き締めて、淋が肩口に「ん?」と小さな疑問符を口にした。

「……えーと、何かあった?」

無神経に感じるセリフが耳に聴こえて、誠一はがばりと離れて細い双肩を掴んだ。

「何かって……! お前な……!」

ひどいことを言ってしまいそうで、唇を噛んだ。

目をぱちぱちと瞬く男を睨みつけ、それきり言葉は出てこなかった。

淋はしばらく、驚いた小動物みたいにきょとんとしていたが、モモが岩場に陣取ってあくびをする頃、誠一の頬にそっと触れた。

「その様子だと……押して駄目なら引く作戦が効いたのかな?」

ぱっと顔を赤くした誠一が、細い手を振り払って吼えた。

「なんだよ、それ……! どうして、何も言わずに居なくなったんだ! ひと言――たったひと言、言ってくれれば……俺は……――」

語尾が滲む誠一を見上げて、淋はやんわり微笑んだ。

そっと腕を伸ばし、抱き締める。

自分よりガタイの良い男の背を、トントンと叩いた。いつかと真逆だが、一体何をそんなに思い詰めていたのか、情けないほどに涙が溢れた。

「……ごめん、冗談。悪かったよ。でも、行先を言うと反対されると思ったからさ」

「…………」

「誠一くんは、付いてくるって言いそうだし、誰かに喋ると筒抜けだろうし……もし、書置きや伝言なんかして俺が戻れなかったら、もっと余計な傷が残るだろ?」

悔しい。図星だ。全くその通り――自分に腹を立てつつ、誠一は拳で涙を拭った。

「……もういい。一体、何処に何しに行ってたんだ……?」

淋は微笑んで、座ろうよ、と浜に手招いた。

「母さんの、遺骨を探しに行ってたんだ」

遠くの波を見つめながら、淋は言った。沢村の推測通りか。

清香が死者なのを理解した上で、その遺体――或いは遺留品を探しに国外に行っていたという。

「本当は、もっと早く行きたくて準備してたんだけど……俺が百江を離れると悪党連中も付いてきちゃうからね。下調べは殆ど、雅玲ヤーリンさんとお兄さんに協力してもらった」

お兄さんとは、『エデン』のスタッフだった本物の登藤か。

後から聞いたことだが、彼は行方不明だと思っていた妹が台湾と日本を行き来していたことも、偽名を用いて調査をしていたことも知らされず、先の事件後にようやく打ち明けられたという。半ば諦めかけていた妹が突然、大事を抱えて戻ってきたことに相当肝を潰したようだが、そこは行動派の妹の兄か、穏便に受け入れてくれたらしい。同時に、妹の頼みを受けた登藤は、自身は何も知らなかった会社の不祥事に振り回される中、淋に要らぬ謝罪した上で無償で協力したそうだ。

淋は彼の協力を得て、『エデン』の内部から持ち出されたものや、乙津に関する荷が無いか調査を頼んだ。船内から清香を運んだと見て、スーツケースを疑っていたのだが、連中もそこまで慌てなかったらしく、記録上にそれらしい荷物は無かった。

それなら客の出入りに紛れて持ち出した可能性が高い為、各寄港地に近い火葬場や式場、病院などを徹底的に調べ、身元不明或いは日本人の情報を洗った。

しかし、さすがに海外といえど、正規の場に怪しい遺体の情報は見当たらない。

ならばと方向転換し、今度は別の人間の調査に乗り出した。

「『エデン』で俺を買おうとした、一色いっしきって男を調べたんだ」

金持ちだとは思っていたが、なんとこの男、マカオのカジノのオーナーだった。

一色は無論、偽名であり、『ダニー・リー』と名乗るイギリス系の血が混じった香港の人間で、所謂、香港マフィアというかなり危険な男だ。

またとんでもないものを引き上げたかと青くなる誠一に、淋は笑った。

「まあ、俺もやばいと思ったけど、連中にも色々いるみたいだね。彼は“比較的”、普通のビジネスマンみたいだったよ。後釜に座った人は俺のことを知ってて、亡きボスの意志とか筋がどうとか言って、色々教えてくれた」

その質はともかく、ダニーが淋との約束を守ろうとしていたのは本当だった。

彼は淋と清香を住まわす邸宅も準備済みで、身の回りの物まで用意していたというから、その本気度と潤沢な資金源が窺えるが。

「お前を捕まえようとはしなかったのか……?」

「うん。何も取らずに協力してくれたよ」

淋は呑気に言ったが、通訳に付き合ってくれた登藤は内心、冷や汗をかいていたらしい。当然だ。香港マフィアというだけでも恐怖だが、淋が探しているのはそのボスを刺した女の遺体なのだ。しかも、淋はダニーの死の原因といっても過言ではないし、彼には家族が居たというから、八つ裂きにされてもおかしくない。

だが、淋は左足以外は五体満足だ。

「じゃあ……清香さんは、見つかったのか?」

「見つかったけど、置いて来た」

「はあ……!?」

大声を上げた誠一を面白そうに仰いで淋は笑った。

「いいんだ。良いところだったから」

乙津たちは素性を知らぬダニーの遺体と清香の遺体を、あろうことか次の寄港地・マカオで一緒くたに下ろしてしまったらしい。

当然、ボスと連絡がつかないダニーの部下に捕まり、連中は遺体を置いて命からがら逃げたが、それで終わるわけがない。実行犯だった持田と亀井はマークされて一時逃亡する他なく、『パラダイス・チケット』は責任を追及された。

無論、裏口から。バラされたくなければ、というやつだ。

彼らが百江島にとんでもない施設を無理やり造ろうとしたのは、この慰謝料を補填する為だったらしく、乙津が焦っていた――及び、どうにか逃亡しようとしていたのも、当件に関する責任から逃れる意味が強かったらしい。

逮捕となった幹部連中がこの始末をどう付けるのかは不明だが、マフィアたちはボスの愛人だった淋に手を出そうとはしなかった。簡単に人を殺してのける癖に、そういうところはわきまえている……悪党には悪党の、妙な流儀があるようだ。

第一、彼らはボスがご執心だった淋を知っていて、その母親を連れてくることも了承済みだった為、いくら乙津たちがダニーを殺したのは清香だと言い張ったところで死人に口なし――加害者も死亡している理由まで説明できなかった。

血も涙もないマフィアたちは、淋から乙津たちの悪事を聞いた後、淋さえ良ければ世話するとまで言ったらしい。淋はこれを丁寧に断った。

一生困らない申し出を断り、ダニーと母の墓にお参りしたいと言った青年に、マフィアたちは感心したらしく、ダニーが納められた立派な霊園の墓に案内し、清香が埋葬された海が望める共同墓地にも連れて行ってくれたそうだ。

自分の所為で死亡したも同然のダニーの墓で謝罪し、清香の墓に花を添えて、淋はようやっと帰国した。

「……本当は、辛いんじゃないのか」

せっかく、海外にまで行ったのに母の遺骨は手にすることなく、再び「帰って来る」ことになった日本では、嫌な案件と恐ろしい敵を抱えている。

いまだ日本に燻る火種を思えば、マフィアの庇護を受ける方が安全だったかもしれない――そんなことを考えてしまう弱気な男に、淋は笑った。

「誠一くんの方が辛そうだね」

何か吹っ切れた顔で言うと、強くなってきた風と光に輝く海を見つめた。

「いいんだ。本当に。俺もどっかで……母さんは帰って来られないと思ってたから」

「どうして」

「人を殺したから」

天気の話でもするように淋は海に呟いて、振り返った。

「ねえ、誠一くん。人魚姫が王子を殺して血を浴びたら、本当に助かったと思う?」

「そ、それは……」

「思わないだろ。俺もそう……だって理不尽じゃないか。恋が叶わないからって相手を殺すなんて酷すぎる。今なら間違いなく悪質なストーカーだ。母さんが一色を三波町長と間違えて刺したのも、意味は違うけど同じだよ」

「それはそうだが、そもそも……清香さんは被害者だ。泡になるしかない人魚姫と同じように、酷な生き方を選ばせられたんじゃ……」

「優しいな。誠一くんみたいな人と会ってたら、母さんはもう少し、幸せだったんだろうなあ……」

ぼんやり呟くと、淋は深い溜息を吐いた。

「誠一くんさ、母さんの部屋見た?」

急に喉に何か詰まったような顔をする男を、面白そうに淋は眺め、誠一も気になっていたことを明かした。

「母さんは『普通』じゃなかったんだよ」

「……病気か何かだったのか……?」

「ちゃんと調べなかったけど、軽度の知的障害だと思う。極端な子供っぽさは、性格もあるかもしれないけどね……」

松木も、清香は“ちょっと変わっている”と表現した辺り、障害が有るかどうかの怪しいラインだったようだ。

最も傍に居た息子からすると、おや?と感じるシーンは多数有ったらしい。

「マイペースとか、空気読めないとか、そういうのはしょっちゅうだったね。思い付きや、目の前のものにすぐに気を取られるし、赤信号に切り替わりそうな青信号見たら、GOを選ぶような人。三波町長と関係したのも、『カッコいいおじさんだと思った』程度で、百江に来たのも町長に聞いて気になって、来てみたら気に入っただけ。異常だろ? 不倫して、本妻と戦う気もない癖に、その近所に住むトラブルの想像がつかないわけ。まっさんとこ選んだのも『美味しかったから』だけなんだから。最終的には、町長じゃない男を俺の父親だって言われたのを信じて刺した。いやもう、マジかって……気の毒なぐらい……ずっと頭のネジが緩んだ”女の子”だったんだ」

淋が言う通りなら、清香の行動は火に油を注ぎに行ったようなものだ。

町長も面食らったに違いない――そりゃ、ループタイを落としても気付かぬほど、泡を食って会いに来ただろう。そこで恐らく、清香は出て行けと怒鳴られたか、金を掴まされた。だが、既に百江を気に入ってしまった幼い精神に、意味不明な怒りも、手切れ金の意味もわからなかった。もしかすると、夫人の方も来たのかもしれない。

事情を知らなければ、異様に美しく、まるで悪びれた様子のない清香は、さぞやイライラさせる小娘だったことだろう。

「だから、母さんは仕方ない。かわいそうなのは寿々子だよ。俺は一生、あいつには頭が上がんない。あいつがやれって言うなら火にだって飛び込むさ」

これには、部外者である誠一には返す言葉が無い。

蓮美夫人は、寿々子が賢彦に思いを寄せていたのが気に入らずに犯行に及んだというが、その悪意のきっかけが、清香に無いとは言い難い。

「賢ちゃんもかわいそうだよね……だって、母さんは『知ってた』んだから」

「……!」

そうか。百江に来る前から、清香は淋の父親が誰か知っている。

つまり、賢彦が誰の子であり、誰と父を一緒にしているか、知っていた。

それなのに、兄だと、弟だと報せずにいたのか。悪意ではなく、それが重大なことで、注意しなければならない事情だと理解できずに。

「母さんを悪女にする気はないけどさ……俺が賢ちゃんの気持ちに気付いた後で兄弟だってバラすんだから、悪魔みたいなタイミングだよね。え? それ俺がバラすのかよ?って思った。あんな……一途に、けなげに、大人になるまで待ってた人にさあ……」

きっと、思わせぶりな発言もしてしまったことだろう。

翻弄する気も、からかう気もさらさら無いのに、相手の心を弄び、自分の運命も狂わせてしまった綺麗な人。清香が人魚なら、三波町長は王子ではなく、人魚姫に薬をやった魔法使いみたいだ。悲劇を生むと知ってか知らずか、彼女の大事なものを奪い、代わりに子供を与えてしまった。

風が、煩く吹き付けた。

「――淋、ずっと、気になってたことがあるんだが……」

「……なに?」

「津田に撃たれる前、俺に何を聞こうとしたんだ?」

「ああ……」

大きめの波が、押し寄せる。あれはね、と答える声が波に揉まれる。

「なんで、『あの日』、俺に声を掛けたのか、聞こうと思った」

「あの日……?」

いつのことだ。声を掛けた日は、何度もある。

お節介だと言われた日。容疑者扱いされた日。友達だと思った日。

裏切られたと思った日。かわいそうだと思った日。

――恋をしたと、思った日。

淋は立ち上がった。左足を擦りながら、砂に奇妙な足跡を描きながら、風に向かって海に近付く。

一歩踏み入らんとした腕を、不安にかられて強く引いた。

振り向いた淋が、寂しい笑みを刻んだ。記憶と一致して、誠一は息を呑んだ。

あの日とは、まさか――……

「お前……あの日……本当に自殺する気だったのか……!?」

初めて会った日だ。服を着たまま入り江に浸かり、どんどん沖に歩いていた淋。

そうだ、あの日――着衣とは裏腹に、サンダルは履いていなかった。

イモガイが居る、深みのある入り江。

素足で、海に入るということは……

「あんたが、あんな真剣な顔で強く引っ張るから……行きそびれたんだ」

呆けた顔になってしまった男の頬を、淋は軽くひたひたと叩いた。

「誠一くん。人魚姫が、生かした王子に会いに行くのを諦めたら、あの話はどうなると思う?」

「は……? は、始まらないだろ、それじゃ……違う話になるし……」

「だよね。でも、王子は先に恋をしてる。だから人魚姫を探すけど、彼女は海の底だ。永久に見つからない。ずっと探していたいけれど、王子だからそうもいかない。諦めて、自分に嘘をついて結婚する」

何故だろう。人魚姫が泡にならなくても……幸せな結末に聞こえない。

住む世界が別の者同士が出会ったことが悲劇ではなく、別の者同士だと、どちらかが諦めたとき、悲劇になるのかもしれない。

「俺は、あっちに行くのはやめにした」

深く青い海を見つめて、淋は言った。

「あんたがこっちに居るから、諦めて……陸に上がることにした」

寂しそうな横顔に、かける言葉が見当たらない。

どうして清香は、彼に『淋』なんて名付けたんだろう。『淋しい』という意味なんて考えず、音や雰囲気で選んだ気がして、誠一は無性に切なくなってきた。

「淋、俺を殴ってくれ」

「……は?」

「頼む」

「いや、意味わかんない。……なんで? 理由もなく警官殴るとか、罪になりそうで嫌なんだけど」

「………………から」

「はい?」

「……お……お前のこと、考えて…………その…………」

淋がピンときた顔をした。どんどん伏せて横に逸れるこちらの顔を覗き込み、鑑定士のように眺め回す。見なくていいから、いっそ、ボコボコにしてほしい。

顔から火が出そうな羞恥に耐えていると、淋はやにわに誠一の手を引っ張った。

「帰ろ」

顔が赤いままの男の手を引いて、淋は歩き出した。

「モモ、一緒に行く?」

声を掛けられた猫は、耳をぴくりとさせたが、見向きもしなかった。

「空気が読める猫だよな。二人で帰れって」

「ち、ちょっと待て……このまま?」

誰かに見られたら、瞬く間に島中に伝わる。

淋は何でも無さそうに手を握って離さない。風が追い立てるように強く吹く。

「手を繋ぐのは、公然猥褻じゃないだろ」

「し、知ってるけど……!」

「じゃあ何? もしかしてゆず子と付き合ってんのに俺で抜いたとか?」

言い辛いことをずばずば言う男に、慌てて首を振った。

「違う! 柚子さんとは付き合ってない……!」

「他の女は?」

「居ない!」

焦って叫ぶように答えたが、何やら虚しくこだました。淋はにやっと笑った。

「そんなら俺に異存はない」



 百日紅さるすべりが、茶色の差し始めた濃い緑の葉を揺らしている。

誰ともすれ違わなかったことに安堵と妙な後ろめたさを感じながら、淋の家の前に辿り着くと、彼はごく自然にもう片手を差し出した。

「鍵」

こちらが持っていて当然という態度に、思わず呆れ声が出た。

「柚子さんに鍵預けたくせに、どうして……」

受け取った鍵を見つめ、淋は苦笑した。

「悪いと思ったけど、ゆず子を試したんだ。八割がた、誠一くんに渡すと思ってたけどね」

「……じゃあ、彼女が持ったままなら……」

「此処を出るつもりだった。俺はゆず子の気持ちには応えられないから」

相変わらず、残酷さと気遣いが紙一重だ。

慣れた様子で扉を開けると、一瞬、躊躇った男を淋はぐいと引っ張った。飛び込むように小さな玄関に踏み入ると、ばかに勿体付けた調子で緩やかにドアが閉まった。

突如、世界が遠退く。

壁に押し付けられて息を呑んだ唇に、滑らかな唇が触れた。

食われると思った。

構わないとも思った。

怖くもあり、切なくもあり、愛しくもあって、苦しくて、眩暈がしそうだった。

「……もしかして、埃だらけかな?」

急に色気のないことをほざく男に、誠一はうんざりと言った。

「……時々、掃除してる」

「良いお嫁さんになるかもしれない」

「なってたまるか」

懐かしく感じるフレーズに苦笑がこぼれた。

「誠一くんさ、いつ、道を踏み外しちゃったの?」

ごく自然に手を引いたままベッドに腰掛け、淋は面白そうに言った。

「人を素行不良児みたいに言わないでくれ」

「だって、最初は明らかにノンケだったのに」

体重に任せてベッドにもたれるのを追うように見下ろして、幾らか自嘲気味な笑みが浮かんだ。

「今だってそうだよ。俺は別に、男が好きなわけじゃない……」

「まあ、俺もゲイってわけじゃないね」

「だろうな。……ん? じゃあお前はいつ、俺が気になったんだよ?」

一度、好きだと言われたが、あの時は柚子の気持ちを思うと腹が立って考える隙がなかった。

「悪いけど、一目惚れじゃないから」

「そ……そんなことはわかってんだよ……!」

「だんだん、と。良い人だなあって思う度に、好きになった」

「ああ、そう……」

「それにしても、いざこうなると、親御さんに悪いことしたなー……俺、訴えられないよね?」

「訴えるか、バカ。そりゃあ……俺は一人っ子だから、孫は欲しいかもしれないけど……」

「あーあ……結局、俺はあんたも壊しちゃったんだ……人魚姫は喋らなくて正解だ」

「……それは――……ていうか、お前はやけにベラベラ喋るな……」

ほつれた前髪を指先で払うと、淋は溜息混じりに笑った。

「笑わない?」

「何を……?」

「好きな人とするの、初めてなんだ」

気恥ずかしそうに歪んだ唇に、胸がつかえて……思わず吸い寄せられて、触れた。

いつかのように、冷たい唇ではなかった。幾度も触れて、熱が疼く。ほっとするのに苦しくて、体があるのがむしろもどかしくて、戯れる余裕なんて無い。触れながら、自分も、他の誰かと同じように、欲望を押し付けているような気がして、怖くなる。

海に抱かれていると思ったのに、気付いたら呑まれているような気がして、怯えるように。淋はもう喋らなかった。いつかのように、心を掻き毟る悩ましい溜息も嬌声もなかった。

声を失う代わりに、尾びれを足に変えた人魚姫。

愛を得られなければ泡になる人魚姫。

もし、愛を得たなら……――

「駄目だ、ごめん、笑える……」

唐突に腕で顔を覆って含み笑いを始めた淋を、誠一は不安げに覗き込んだ。

「……もしかして、下手くそか?」

「違う違う……ごめん、良いよ、すごく」

「う……嘘つけ。じゃあ、なんで――……」

「俺もわかんないや……嬉しいんだと思うんだけど――……」

ニタニタしながら、捻る様に半身を締められて、誠一の方が呻いた。

その背を細い両腕が抱き締め、もっと奥深くに誘う。低い吐息をこぼした男の耳に唇をあてがい、淋は囁いた。

「……なんかね、今、人間になった気がしてんの……おかしいだろ?」

最初から人間である筈の男はそう言うと、心底可笑しそうな笑い声で耳をくすぐった。



「こんな時間に何してるの?」

問い掛けに、砂浜に座っていた二人の男は同時に振り向いた。

ハンドレッド・ベイを見下ろす夜空は、久方ぶりに晴れている。

瞬く星と月明かりの下、やや強い風に不審そうに眉をひそめていたのは柚子だ。

パーティー帰りだろうか。淡いグリーンのタイトなワンピースを纏い、しっかりした化粧に加え、髪も丁寧に結い上げてある。片手に大きな紙袋を持ち、バッグの他に花束まで抱えていた。

「こ……こんばんは」

慌てて砂を払って立ち上がる誠一に、隣の淋が飛んできた砂粒に迷惑そうに顔を背ける。

「ゆず子こそ、夜中に何してんの?」

「友達の結婚式に行って遅くなったの。そしたら、貴方たちが上から見えて」

お疲れさまでした、と頭を下げた誠一に対し、柚子はようやく仕方なさそうに笑ってくれた。

「それで? 立ち入り禁止のところで何してたの?」

「エッチなことはしてない」

「おい……!」

「現役警察官がそんなことするわけないでしょ」

御尤もな返事を寄越す柚子に、誠一はむしろ狼狽えたが、淋はニヤニヤ笑った。

「久しぶりなのにドライだな、ゆず子。誠一くんはものすごく情熱的な喜び方したのに」

そういえば、と柚子を見てから、余計なことを言う淋を睨んだ誠一だが、彼女は取り澄ました様子で顎を反らした。

「ごあいにくさま。女は現実主義なの。私がいつまでも放浪癖の王子に優しいと思わないで」

「へえ、お嬢さん気取りはやめたんだ。かっこよ」

「……相変わらず、うるさいわね」

舌打ちでもしそうな口調で突っぱねると、柚子はちらりと誠一を見てから言う。

「別に、良い子ぶってたわけじゃないわ。あんたと違って大人だもの。礼儀作法を心得てただけ」

「よく言う……すっかり昔のゆず子じゃん。誠一くんにフラれたからやめたの?」

「フラれてません。ストーカーにたかられて死んじゃいそうなあんたに譲っただけよ」

「うわあ、誠一くん、今の聞いた? 幼馴染にそれはないよね。俺はこれから裁判だの何だの大変だってのに」

「仕方ないじゃない。スズは慰謝料むしり取るって頑張ってるわよ。あんたはストーカーからも取れるじゃない」

「げえ、俺にスズ節は無理だよ……他人事だと思ってさあ……」

二人のラリーにむずむずしてきた誠一はついに吹き出してしまった。

幼馴染が揃って似たような顔を向ける中、しゃくり上げるように笑ってしまう。

「ああ……ごめん、いや……なんか良いなあ……幼馴染って」

二人が顔を見合わせる。

「俺……この数ヶ月、何してたんだろうな? 二人のこともまだ全然知らない。早足で、外堀をうろうろしてた気がする」

無論、事件のせいだろう。

だが、誰もが本当の姿を隠していた気がした。過去や、些細な遠慮や、見栄や、秘密を守るための嘘で鎧われていて、ずっともやに覆われた海で彷徨う様に。

「もっと知りたいな。二人だけじゃなくて……皆のことも」

「……とか何とか言って、誠一くんは“後出し”だからなあ……こう見えて浮気性かもしれないよね? 誰にでも良い顔してるし」

「……おい、淋……」

「ホントは既にそれっぽい幼馴染がいるんじゃないの?」

「いやいや、居ないって……!」

「でも大鳥さん、好い人だから流されやすそうね……」

「え……柚子さんまで?」

目に見えて慌てる男を、幼馴染二人が面白そうに見た。

「今みたいなのを流されるって言うんだよ、誠一くん」

「真に受けなくていいんですよ」

「……あ、あー……」

頭を掻いた男に対し、二人は愉快そうに笑った。初めて、二人が笑い合っているのを見た。

「ねえ、ゆず子。その洒落しゃれたヤツ、俺にも一本ちょうだい」

花束を指差す淋に、柚子は不思議そうにしながらも一本――白いバラを手渡した。

「いいけど、会場に使っていたお花だから長持ちしないわよ」

「その方がいいや」

既に盛りを終えようとする白い花を、淋はてのひらの上で崩すと、ざぶざぶと入り込んだ波に花弁だけ散らした。波に揉まれながら、白い花びらが流れていく。

浮かんだまま波に揺られ、打ち上げられるかと思う距離を漂い、少しずつ……海に引かれていった。

海も、風も、静かに凪いでいる中……誰かが欲しがるように、花は沖に流れていく。

人を押し戻す海辺から、離れていく。

ふと、人魚姫を思い出した。彼女は今、海を泳いでいるだろうか。

それとも、風と共に空を漂っているだろうか。

どちらでも良いと思った。

ただ、願わくは……その物語が、悲劇で終わりませんように。

どうか、誰かの心が傍にありますように。

「大鳥さんもいかが?」

差し出された花から、同じように花弁を摘まんだ。

恋をした二人の手前。

ハンドレッド・ベイに向けて、誠一は白い花びらをそっと流した。

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