15.風の行方

 事件収束への経過を、誠一は殆どベッドで聞いた。

『海隠し』の全容解明は道半ばだが、登藤八千代やちよこと、ヤン雅玲ヤーリンが発見した遺骨は、教会関係者のものと判明し、彼女と同じ境遇の遺族らが三波町長並びに関係者への訴訟を起こした。

現在、あの屋敷では蔵を中心に、大々的な家宅捜索が行われている。

三波町長はギリギリのところで命を拾ったが、寝たきりになってしまったそうだ。

大名さながらの威風も、こうなっては形無しである。三波夫妻は九年前の事件に関しては犯行を認め、精神鑑定中の日田も含め、死者である持田、亀井、乙津の三名の余罪と、『パラダイス・チケット』の犯罪もほぼ明確になりつつある。

三波賢彦に関しては、直接的な殺人ではないにしろ、教唆きょうさか、ほう助か――いずれにせよ、持田と亀井殺しに関しては共犯を供述している上、正犯である乙津が死亡している点から証拠や証言が不十分であり、本人が素直に認めてしまうと、有罪は免れないと末永は言っていた。

ただし、百江の島民たちが――松木や菜々子、明日野家を中心に賢彦に帰ってきてほしいと署名を集めており、協力関係に有った楊雅玲や、『エデン』の被害者である寿々子も賢彦の恩赦を願い出ている他、本人の深く反省する姿勢をかんがみると、情状酌量の余地はあるかもしれないとのことだ。

誠一も、彼に関して可能な限り、良い方向に進むよう証言することを約束した。

何せ、証拠不十分という点では彼の供述そのものが不可解な偶然に満ちている。

もしかしたら、本当に一連の事件は『人魚』の仕業ではと思ってしまう程度には。

津田に関しては、末永は見舞いがてら、直接言いに来てくれた。

「本当にハンサムな警部さんねえ」

達巳が来てくれた時もそうだったが、母はとにかく、しっかりしていて礼儀正しい男が好きだ。お忙しいところをと恐縮し続ける息子をよそに、年甲斐も無くうっとりする母を、彼は如何にも実直そうな会釈と丁寧な挨拶で魅了した。

「素晴らしいご子息でいらっしゃいますね」

「とんでもない。こんな怪我こさえて、お役目を怠る愚息でございます」

「……母さん、もういいから向こうに行ってくれ」

名残惜しそうに頭を下げ下げ出て行った母に、末永は穏やかに微笑した。

「素敵なお母さまですね」

「はあ……元気なのが取り柄といいますか……まあ、有難いです」

「お父さまは、無差別殺人犯から子供を守って殉職なさったと聞きました……お会いしたかったです」

「末永さんにそう言われたら、草葉の陰で舞い上がっていると思います」

苦笑いを浮かべると、彼は優しい目を少し伏せ、勧めた椅子に背筋を伸ばして座った。

「津田は現在、精神鑑定中です」

誠一は小さく頷いた。立件はまだ先だが、既に、淋に対する性的暴行、警察官への発砲、『海隠し』の黙殺など、疑う余地のない罪がある。こちらは明らかな現行犯である為、身内とて恩赦など有る筈もない。

「ただ、過去の出来事に関しては、証拠不十分になる可能性が有ります。大鳥さんを撃った理由と、逃走の理由として、潮見くんの件は立件できる余地がありますが、正直、彼のことは出さない方が良いかもしれません」

「……それは、俺と津田が、淋を奪い合ったと言われるかもしれないから、でしょうか」

「お察しの通りです。潮見くんは今度の件で自分に注意を寄せるよう、津田と関係を持っていました。それを『同意の上』などと言う輩は少なからず出るでしょう。しかも、我々の仕事は身内の不祥事を殊のほか嫌います。これはこの仕事の欠点……いえ、汚点ですね。現役警官のストーカー行為と、痴情のもつれのどちらが恥かは、私には判断付きかねますが」

発砲事件の多くは懲役十年から二十年内の実刑となる。無論、犠牲者が出れば無期懲役や死刑も有るが、今回は死者はおらず、直接的な怪我をしたのはそれこそ身内の誠一だけだ。それも後遺症が残るほどではなく、リハビリ次第では以前と同様に歩くことも可能な程度。さほど重い罪にならない可能性は大いに有りそうだった。

「淋は……その為に居なくなったのでしょうか……?」

淋が本気で訴えるなら余罪は明らかになるかもしれないが、その為に彼は法廷に呼ばれるだろう。ごねるに違いない津田と顔を合わせるのは勿論、過去の性被害や、

『エデン』での話も含め、洗いざらい公表されるし、無遠慮な質問も浴びせられる。更にあの目立つ容姿では、下卑たマスコミ共が黙ってはいまい。

また百江島を騒がせ、淋や周囲を追い回し、新たな犯罪、或いは悪質なストーカーを生み出すかもしれない。

「私には、わかりません」

俯く誠一に、末永は静かに答えた。

「個人的な意見を言わせて頂くと、論争に巻き込まれるのを嫌ったというよりは、大鳥さんに気を遣われたと思います」

「俺に……ですか……」

「ええ。私はあなた方とお会いして日が浅いですが、お二人が親しい間柄なのは少し見ていればわかります」

思わず赤くなる誠一に対し、末永はずばずばと切り込む。

「その関係にいちいち名前を付けるのは野暮だと思いますが、大鳥さんは素直な性格ですし、彼には些か甘い。事件当時、何故ハンドレッド・ベイに二人で居たのかと問われた場合、貴方が裁判官の気に入る回答を答えられるか、私は少々不安ですね」

全くその通りなので、誠一は肩を落とした。

ハンドレッド・ベイの鮮烈な橙色が浮かぶ。

あの時、いや……もっと前かもしれない。

多分、自分は……――


――誠一くん、聞いていい?


淋、あの時、何を聞こうとしたんだ。

どうか、戻ってきて答えをくれ。

この気持ちが泡になると、自分が何をするかわからない。



 丸一週間が経過した頃、誠一は悶々としたまま、退院した。

完治したわけではないが、いつまでも達巳に迷惑は掛けられない。徐々に仕事に戻らねばならないし、各種の証言も手続きも有る。三波町長を殴った件はまさか言い逃れできまいし、愛車の凹みも何とかせねば……溜息だらけの退院だ。

自宅まで押し掛けるかと思った母は、あっさり帰って行った。

達巳や季実子が気を利かせて、百江を案内してくれた為らしい。

「ドライブなんて、何年ぶりだったかね」

土産片手に上機嫌で帰って行った母を見送り、誠一は久方ぶりに百江島の自宅に戻った。何年も留守にしていた気がする日常に待っていたのは、少しも動いていない気がする季節の蒸し暑さと、凹んだ愛車、不在を責めるように睨んでくるモモと、津田の家だったが為に周囲をうろつくマスコミだった。

うんざりしたが、血生臭い事件に比べれば、何もかも些末なものだ。

落ち着いたら家具を買い替えてやる――そんなことを考えながら、掃除をし、洗濯をする。生活家電が奏でる音は心を鎮めたが、妙な侘しさを感じさせた。

彼らの一部になるように、事務的に室内を清め、病院の香が染み込んだ服やタオルが元の香りにリセットされる。

シーツまで干したところで、リハビリを兼ねた挨拶に回った。

道すがらすれ違う島民は、気まずそうにする者も居れば、駆け寄ってくれる者も居た。真っ先に来てくれたのは、柴犬のサクラちゃんだったが。

町長は不在だが、役場はこれまで通り稼働していて、目立った混乱は起きていない。

見舞いにも来てくれた松木夫妻を訪ねると、あれよこれよと退院祝いをしようとするのでこちらから遠慮した。

『海隠し』の件についてありのまま証言した二人は、当時得た金額分を、そっくりそのまま楊雅玲に渡したそうだ。彼女は当初、受け取りを拒否したが、夫妻の気持ちを聞いて、真相を暴く為に役立てると受け入れた。少しだけすっきりした、と松木は言ったが、賢彦のことと、淋の失踪は相当ショックを受けているようだった。

「……困ってる奴ほど、何も言えねえんだよなあ……」

彼はぼやきながら、潮見親子の写真を見つめた。

「誠さんが元気になって良かった。またいつでも来てくれ」

松木の言葉に頷いた。いつもの自分なら今夜すぐにも行きたい筈だが、どうしてか気分が乗らない。飲んで騒ぐよりも、風にでも吹かれていたい。

病院食に慣れ過ぎたのだろうか。

月島姉妹の家は留守だった。菜々子はそのまま、三波クリニックに居るという。

賢彦はきちんと代わりの医師を手配していて、新しく来た若い医師もすこぶる良い先生らしい。菜々子が津田の件をどう思っているのかは定かではなかったが、誠一も淋も賢彦さえ居ない間、モモの面倒を見てくれたそうだ。

「菜々子はトンチンカンだって言ったでしょ。気にすること無いわよ」

すぱっとした言い放ったのは、見舞いに来てくれた寿々子だ。

「新しい先生がちょっとダンディだとか言ってるぐらいだもの」

呆れた様子の寿々子は見舞いがてら、勤め先が決まったことを報告した。島外の商業施設に入っているアパレル店だそうだ。

「多少ブラックでも、キャリアにうるさくないからさ」

相変わらず逞しい発言の寿々子は、会うたびにどんどん『今風』になっていく。

スマートフォンも見違えるほど上手に操作していたし、母とも楽しそうに会話した。恋人ではないのが残念だと幾度もこぼす母に、寿々子は苦笑した。

「ごめんね、お母さん。誠一くんはすごく良い人だと思うし、あたしも大好き。

でも、あたしね……どうしても気になる人が居るの。もう一度……ううん、九年分はアタックしてから、諦めようと思うんだ」

母は不思議そうな顔をしていたが、誠一は応援すると約束した。

当初は引っ越す気満々だった彼女が、近いから島から通うと言った時、何とは無しにほっとした。彼の帰る場所は……ひとつでも多い方が良い。

想いを回らしながら、月島姉妹の玄関口にお礼の品を置いた。

中には、両名それぞれに、あの人からの伝言が添えてある。

「――退院、おめでとうございます。御無事で何よりです」

帰宅するより先に会いに行った賢彦は、面会室のアクリル板の向こうで微笑んだ。

幾らか痩せたようだが、物柔らかい印象が変わらないことに誠一はほっとした。

「大鳥さん、いらして頂いてすみませんが、菜々ちゃんと……寿々ちゃんに、伝言を頼んでも宜しいですか?」

「あ、はい……もちろんです」

「ありがとうございます」

刑務官も居る場で告げられた伝言は、事務的な感覚だった。

忘れないようにメモし、誠一は顔を上げた。

「あの、賢彦先生」

「僕はもう先生ではありませんよ」

「……いいえ、貴方は先生として、皆さんの元に帰らなくちゃいけない。罪を償うよりも、大事なことだと思います」

「大鳥さんは、達巳さんと同じことを仰るんですね」

苦笑した賢彦に、誠一は詰め寄る様に近付いた。

「お願いです。きっと、貴方を待っているのは島の人たちだけじゃない。動物たちも、帰ってほしいと思う筈です」

卑怯な言い方だが、賢彦は眩しそうに誠一を仰ぎ、静かに言った。

「命を軽んじた僕が、命に触れる仕事に戻るなんて……おこがましいと思いませんか」

ぐっと唇を噛んだ誠一だが、すぐに首を振った。

「貴方が命の重さをたっとばれるなら……尚更、戻るべきです。貴方は今回見過ごした命よりも、更に多くを救うことができる。……どうか、貴方を慕う皆さんのことを考えてあげて下さい」

困ったように微笑んだ彼は、どこか淋に似ていた。

その心を読むように、彼は言った。

「淋のこと、聞きました」

不意を突かれた誠一が何とか頷くと、彼は慈父のような顔で頷いた。

「淋は、大丈夫ですよ」

「はい……でも……――」

「大丈夫。淋は海から出て、貴方と会って、海に帰るのをやめた。それだけのことです」

「……?」

訝しそうに賢彦を見たが、彼の目に狂人のそれは見えなかった。

「淋を、宜しく頼みます」

それは、兄の口から出た言葉そのもので、誠一はしばし呆けた。

そこで、時間切れとなった。月島姉妹の伝言を刑務官にチェックしてもらい、誠一は短い面会を終えた。

何故か、賢彦にはまた会いたいと思った。

次に会うのは、法廷なのだろうか……そんなことを思いながら、汗を拭い、やって来たのは明日野家の前だ。

柚子も病院に来てくれたが、母と季実子が居たのが気まずかった。

正直、あのドライブテクニックに賛辞を贈りたかったが、二人の母の手前ではまずかろう。そのじれったい雰囲気を母はしょうもない方へ勘違いしたらしく、ふつつかな息子ですが、などと急に言い出して当の息子は大いに焦った。

季実子は歓迎モードだったが、柚子も誠一がちょっと傷つく程度には、顔を真っ赤にして、ぶんぶんと首を振って否定した。

「……大鳥さん、これを」

母二人が仲良くお茶を飲みに行った途端、柚子は封筒を手渡した。

「淋からです」

「えっ……!」

自分でも引くほど反応してしまった誠一を、柚子は笑いも蔑みもしなかった。

「私宛で届いたんですが……本当は、大鳥さん宛てだと思うんです」

表には、「ゆず子へ 淋」としか書いていない。消印もない。直接、ポストに投函したものらしい。

中には古びた鍵が一本。説明書きも何もない。

「どうしてこれが……俺宛てだと?」

「……勘です」

苦笑して柚子は答えた。いつか聞いたセリフに、誠一は目を瞬いて、鍵を見つめた。

「これ……何処の鍵か、わかりますか?」

「淋の家の鍵です。達兄さんと一緒に確かめました。でも、中には行方の手掛かりになるものは見当たりませんでした。もしかしたら、大鳥さんならわかるかもしれません」

「そうでしょうか……俺は皆さんより、日が浅いですし……あいつのことは、何もわかっていない気がします……」

自信なさげに俯く誠一を、柚子は静かに見つめていたが。

「大鳥さん」

不意に呼ばれて、はいと顔を上げた瞬間、繊手が翻った。

手拍子のようなカラリとした音が響き、誠一は片頬を張った柚子を唖然と見上げた。

「ごめんなさい」

すぐに謝った柚子だが、顔は怒っているようだった。

「でも……そんなこと言わないで。大鳥さんは、もう淋を知ってるでしょ?

きっと、あのひねくれ天邪鬼は……貴方に知ってほしいと思ってる。他の誰でもない、貴方に」

柚子が泣いてしまいそうだったから、阿呆みたいに鍵を握りしめて、のろのろと頷いた。

その鍵は、今――ポケットに入っている。

「あらあら、まあ……具合はどう?」

玄関に出てきた季実子は、足以外も悪いところがあるのではと言うように全身を眺めまわした。

「その節はお世話になりました」

「全然。元気になって良かったわあ」

いつも歓迎してくれる季実子の温かさに感謝しながら、お礼を渡すと、申し訳なさそうにしながらも嬉しそうに笑ってくれた。

「いつも、気を遣わせちゃうわねえ」

「いえ、達巳さんにもお世話になっていますから。母もよくお礼を申し上げる様にと」

上がって上がってと手招く季実子に、誠一は丁寧にかぶりを振った。

「ありがとうございます。でも、他の用事も有りますので」

「そう……? まあ、婆ちゃんと、つわりで参ってるなっちゃんしか居ないからねえ」

柚子は仕事、夏子は出産を控えている。この蒸し暑さでは、高齢のタマも心配だ。

「タマさんのこと……達巳さんから伺いました」

季実子は頷いて、奥の方を振り向いた。

「八千代さん――雅玲さんが、婆ちゃんの親戚だったなんてねえ。私も驚いちゃったわ」

タマ婆ちゃんこと玉美さんは本名をヤン美玉メイユという台湾出身者だった。所謂、帰化した人だが、何故、彼女が台湾を出て日本に来たのか、日本人になることにしたのかは、彼女が認知症であることも含め、わからないそうだ。

認知症は昔のことは覚えている傾向が強いが、タマは故郷のことを尋ねてもにこにこするばかりだったらしい。雅玲は遠縁である上、彼女が生まれた際にタマは既に日本に居た為、二人はそもそも面識がないが、最初に百江に来るきっかけはタマの存在がぼんやりと一族の記録に有った為だという。雅玲が本名を名乗らず、先に帰化していた兄の名を借りて登藤を名乗ったのも、『海隠し』の調査に来た以上、タマに迷惑をかけまいと考えた為だそうだ。

また来ます、と言って明日野家を後にし、交番に立ち寄ると、達巳が「休みの日に職場に来るなんて」と苦笑した。

「今、ご自宅にお伺いしてきたところです」

「いつも、ありがとう。調子はどうだい?」

季実子と同じようなことを言う達巳に笑い返す。

「おかげさまで、歩くのには不自由しません。自転車も大丈夫だと思います」

やせ我慢ではない。全力疾走はまあ……無理だと思うが。

「無理はしないようにね。……そうそう、末永警部が、本庁に来るなら歓迎するそうだよ」

「有難いお話ですけど……今はまだ、こんな状態ですから」

情けない言い訳を、達巳は見抜いているだろう。彼は何も言わずに微笑した。

末永が先輩として慕う達巳は、そうだと思っていたが――若くして、かなり優秀な警察官だったそうだ。

しかし、ある事件で上層部のやり方に真っ向から反発した。

末永は多くを語らなかったが、彼が百江の交番に収められたのは、正しさ故の左遷だったそうだ。末永はいつか本庁に戻ってほしいと切望しているが、達巳は百江に骨を埋める気でいるらしい。夏子が居るということも大きいが、何より、彼は島に来て、閉鎖的な地方こそ、丁寧に見る必要があるのに気付いたという。

「人を疑う仕事より、守る仕事が多い方が良いからね。僕らも人間だから」

教訓のような言葉に、誠一は頷いた。

この人の元で働くのは決して無駄にはならないと思いながら、職場を出た。

ハンドレッド・ベイを見に行ったが、黄色い規制線が張られ、乗り越えることはできるが、入り難い様相だった。

仕方なく上から見下ろすと、遊泳禁止の看板が立てられ、クラゲやイモガイへの注意喚起を促す標識が、強い風に晒されている。

誠一が入院中、末永は賢彦の供述を実証する為、ダイバーに協力要請し、例のクラゲやイモガイの捜索も行ったらしい。貝は幾つか発見されたが、問題のイルカンジクラゲは只でさえ発見が難しい小さな個体であるため遂に見つからず、水族館や専門家の意見を聞くに留まったという。

知らない風景に見える入り江をしばし見下ろしていたが、クラゲよりも見つかり易い筈の姿は何処にも見えなかった。

風の音と、波の音だけが響く。

のんびりした風景の筈なのに、不安を煽るような響きに思えた。

……こんなことで気落ちしていたら、頭がおかしくなる。

早々に切り上げて、図書館を訪れた。

当たり前だが、利用者の合間で仕事をする王子の姿は何処にもない。

挨拶に訪れた誠一に、沢村は立ち上がって深々と頭を下げた。

事件の解明に有力な情報提供をした沢村は、直接的な関わりが無かったことで逮捕は免れ、図書館の館長に戻っていた。

特に、乙津、持田と亀井、津田の三方向から強請られていたことも関係する。

実はこの図書館は公立のものではなく、個人運営だった。昔は寄付で成り立っていたが、島民が減り、台風被害などで徐々に圧迫され、経営は難航した。公立ではないので利用料を取ることもできたが、どのみち微々たる量と見込んで無料を貫き、現状――資金繰りに困っていた沢村に対して、悪党たちは金銭提供の代わりに淋の誘拐に協力するよう頼んだわけだ。誘拐といっても、彼らが欲しかったのは人手ではなく証言であり、沢村は迷いながらも誘いを断った。

吞んでいれば、証言ひとつで定期的に金銭が振り込まれる筈だったが、今はクラウドファンディングや、公立化も視野に入れた取り組みが始まっているそうだ。

少しでも足しになればと差し出した封筒を、沢村は首が取れそうなほど振って断ったが、誠一も引く気が無いのでその傍らの机に置いた。彼は眼鏡を落としそうになりながらぺこぺこと頭を下げ、周囲を憚るような目で誠一を見上げた。

「大鳥さん、代わりというわけではありませんが、少し宜しいですか?」

沢村は隅に誠一を呼ぶと、ひときわ声を潜めた。

「淋くんが、居なくなる前、此処に来たんですが……」

恐らく失踪直前。図書館にはきちんと挨拶に来たらしい。

末永の予想通り、「マスコミから逃げる」を理由にしたそうだが、沢村が協力できることがあればと言うと、彼は一言、誰かに似た謎を残した。

「『人魚姫を探しに行く』と言ったんです」

「は……はい……?」

何をバカな、という顔をしてしまった誠一に、沢村はひどく小さな声で言った。

「……もしかして、清香きよかさんを探しに行ったのではありませんか?」

胸に、松木の所で見た写真が甦る。

人魚姫に劣らぬ美貌の女性。亡くなった筈の人を?

「お亡くなりになっているのは、間違いないと思います……生きていらっしゃるなら、乙津たちは淋くんを連れ出す口実に真っ先に使ったでしょうから」

「ご遺骨を探しに行ったということでしょうか……?」

「或いは、お墓かもしれません。素人考えですが、海上でご遺体を処理するのは、そう簡単なことではないと思います」

言われてみれば……その通りだ。

『エデン』には一般の旅行客も居たのだから、航海ルートは海上で言う所の一般道。いかがわしい航路ではないし、寄港地も至って普通だ。他の船も通る場所で遺体を捨てたりなどしたら、発見される可能性の方が高い。

海賊じゃあるまいし、仮に重しを付けようとも、万一外れたり、海洋生物の影響で一部分だけ浜に打ち上げられでもしたら、途端に事件になってしまう。

『エデン』にとって最も避けたいのは、船内を調べられることと、疑いを持たれることだ。現に『パラダイス・チケット』本社も、『エデン』の中身も今回の件で隈なく調べられ、そのおぞましい実態が次々と明るみに出た。

社長と幹部数名は逮捕・起訴され、会社は倒産。何も知らずにいた社員は退職したり、別会社を立ち上げるなどしているそうだが……調べた際、遺体やその痕跡は見つかっていない。ということは、清香の遺体は船内から、どこかの寄港地に持ち出されて処理された可能性が高くなる。

「大鳥さん? 大丈夫ですか?」

心配そうな声に、誠一は思考から呼び戻された。

「は、はい……大丈夫です」

沢村は好々爺のように優しく微笑んだ。

「元気を出して下さい。きっと、淋くんは帰ってきますよ。私はそう信じています」

誠一は頷いたが、羨ましいと思った。

帰って来ないのでは――その考えが、波の音と一緒に、頭にこびりついて離れない。



 最後に行った淋の自宅は、相変わらず静かだった。

夏の終わりを告げる花だった筈の百日紅さるすべりは、この蒸し暑い中、既に花は一輪も残っていない。

葉と青い実を茂らせ、家屋に濃い影を落としている。

誰かと一緒に来れば良かったか――不法侵入のようで躊躇いつつも、柚子から受け取った鍵を回してみた。

建付けの悪い感のある音と共に、扉は開いた。

開いた瞬間から、薄暗く湿っぽい空気と、何年も無人だったような空虚さが溢れ出た。書物があちこちに積んであるのも、そのままだ。ふと、電気のスイッチを押してみるといた。蛇口を捻れば水も出る。帰ってくるつもりでそのままにしたと思えば安心できるが、ご丁寧に身辺整理をしていく失踪者や自殺者はそう居ない。

悪い方向に想像がいく頭を振って窓を開け、室内を眺め始めた。

淋の生活の全てが詰まった部屋は、乱れていないベッド、何もないテーブル、辺りを埋め尽くす本――以外、目につくものは何もない。

どこかで期待していた書置きやメモも無く、がっかりした。

気を取り直し、未踏の地である二階に上がってみた。

二部屋有ったが、一つは本以外に布団やストーブなどの季節品が置かれた物置状態と化し、入室は困難だった。もう一方は、開けてすぐにわかった。

清香の部屋だ。

直感したが、不思議な部屋だった。

此処が潮見親子の家だから、かろうじて清香の部屋だとわかるが……

そこはまるで、子供部屋だった。

カーテンはふわふわのレースと、小さな女の子が好きそうな水色とピンクのグラデーションに水玉が散った柄が重ねられ、壁には潮見親子の写真や、幼い淋が描いたらしき絵が飾ってあるが、一緒にキラキラした星やハートのシールがペタペタ貼られている。シールはうちの母なら眉つり上げそうなほど有り、ファンシーな印象を感じる白いタンスや扇風機にも貼り付いている。上部には愛らしい動物のぬいぐるみが所狭しと置いてあった。本棚には本がぎっしり詰まっていたが、文庫の殆どが大人というより子供向けで、半分以上が絵本だ。コミックスは無いようだが、積んであったお菓子作りや料理本さえ、大人向けというよりはイラストが豊富な初心者向けらしい。

当然かもしれないが、人魚姫もあった。

原作ではなく、水彩画らしき綺麗な挿絵の絵本だった。

ベッドサイドに置いてあったクッキーの空き缶らしきものには、貝殻や白いサンゴ、シーグラスと呼ばれるガラス片、ラムネ瓶から取り出したと思われるビー玉、リボンや動物型のボタン、玩具の指輪などが入っていて、子供の宝石箱みたいだと思っていたら、急に本物と思しき宝石のついた指輪が出てきて、ぎょっとした。

慌てて蓋をして、改めて部屋を見渡す。女性の部屋に詳しくはないが、見れば見るほど、ここは幼い女の子の部屋だった。

過去に戻っていたような気持ちになりながら、淋の部屋に戻った。

窓を開けると、あの夜のように、むっとした空気が吹き込む。

漂うように波の音が聴こえてきた。

我知らず、溜息がこぼれた。

ケロイドのような痛みに、胸が疼く。

帰ってきてほしい。帰ってきてくれ。頭がおかしくなりそうなんだ。

「淋……」

窓枠にもたれて、呟いた。

もし、呼び掛けが届く距離に居たのなら、何度でも呼んで振り向かせたい。

姿は見えない。応えるのは、波音だけだ。


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