14.狂気

 町長を刺したのは、日田という島民だった。

誠一を疑い、松木に淋に対する何らかの協力を頼みに来ていた男だ。

警官によると、野次馬の人だかりから包丁を手に飛び出し、一直線に町長を刺したという。すぐに取り押さえられたが、大きく震えた手から血塗れの包丁を取り落とし、「あんたが悪い、皆捕まっちまう……!」などと同じようなことをぶつぶつと呟き続け、呆然自失のまま、現行犯逮捕され、連行された。

後でわかったことだが、彼は雅玲ヤーリンの親戚が犠牲となった『海隠し』でも実行犯の一人で、九年前の時も被害者を運ぶのを手伝い、報酬を得ていた。今回も、雅玲や淋を攫う為、乙津に声を掛けられていたが、彼が死に、次は自分かもしれないと恐慌状態になっての犯行だった。

町長が救急車で運ばれた後、末永は家宅捜索を一旦引き上げ、賢彦たかひこ蓮美はすみ夫人も共にパトカーで病院へと向かった。

後に残された重要参考人である淋は、ひとまず一時帰宅を許されたが、監視を付けたいと申し出た末永に、もろに嫌な顔をした。

「誠一くんならいいですよ」

いけしゃあしゃあと希望を述べた男の言葉に、末永はしばし悩んだようだったが、先に達巳が了承してくれた為、承諾した。

「では、大鳥巡査、宜しくお願い致します」

「は、はい……!」

既に警戒中の図書館から脱走を謀っている男が、これ以上こちらの面目を潰さないことを祈りつつ、誠一は自宅に引き返し、マイカーを持ってくる羽目になった。

「誠一くん、帰る前に、ゆず子の家に寄ってくれない?」

当然のように寄り道を頼む重要参考人に、誠一は説教する気も起きない。

彼はがさごそと例の似合わないトートバッグの中身を、断りも無く車に放り出し、空っぽにした。絵本やエプロンに紛れて、水と思しきペットボトルが出てきたが、訊ねる前に到着した。音を聞き付けてか、中から柚子ゆうこ季実子きみこが飛び出してきた。

淋の姿を見ると、二人は心底ほっとした顔をした。

そして何故か、揃って誠一に深々と頭を下げた。

「ゆず子、さっきはありがと」

町長宅まで送迎したという柚子は神妙な顔で、無言で頷いた。

「季実子おばさんも、ありがとう」

礼を述べてトートバッグを季実子に返すと、淋はさっさと踵を返そうとし、思い出したように振り向いた。

「あ、婆ちゃん何か言ってた?」

「何も言ってないわよ。大鳥さんのイルカ抱っこして、うたた寝してる」

柚子の言葉が心なしか寿々子に似ていて、誠一は「おや」と思ったが言及はしなかった。季実子はバッグを大事そうに抱きかかえて、小首を傾げた。

「二人とも、上がって行けば?」

「ううん、いいや。婆ちゃんと夏子さんに宜しく」

言葉少なな淋は、どこか憑き物が落ちたような顔をしていたが、一方でふわふわ飛んでしまいそうな危うさが見えた。代わりにしかと頭を下げ、誠一は車に乗り込んだ。

「次は図書館」

もはや頼みもしない男に、誠一もいちいち取り合わない。持っている物を見れば、目的は明らかだ。

「お前、どうやって包囲を突破したんだ?」

「あれで包囲? 次は二階の窓も見張った方が良いね」

「お、お前その足で窓から降りたのか……?」

不敵な淋に泡を食っている内に、図書館に着いてしまう。

パトカーはまだ一台停まっていたが、警官は見当たらない。私服警官が詰めていた数時間前ほど物々しくはないらしい。

よくまあ、不自由な足でかわしたものだ。感心半分、呆れ半分の誠一をよそに、淋は絵本とペットボトル片手に車を降りた。

「ただいま。沢村さんは?」

既に閉館時間だ。

二人ほど残っていた受付のスタッフは、やや気後れした顔で首を振った。

「館長の方から、警察に行くと仰って……」

末永の部下が確認を取り、共に出て行ったという。証言するつもりなのだろう。

自分が罪に問われる可能性も含めて。八千代こと雅玲が滞在していた場所も開放し、既に捜査員が入っているという。淋は無言で頷くと、ごく事務的に本やエプロンを元の場所に戻し、スタッフと言葉を交わしてから、ペットボトルだけ手にして戻って来た。

「お待たせ。行こうか」

「ああ……」

何だか、あっさりし過ぎていると思った。

ほんの少し前に聞いた話が鮮烈過ぎるからだろうか。

『海隠し』の真相も、賢彦と淋が異母兄弟であることも、愛憎、嫉妬、死の色が濃過ぎて、現実なのか疑わしいぐらいだ。

どうして人間は、こんな長閑な島で互いを憎み合い、殺し合えるのだろう。

初めはきっと、恋であり、愛であり、傍で笑っていたいと思っただけの筈なのに。

その間に居るのが子供の筈で、彼らは皆、その奇跡の間に生まれてくる筈なのに。

「誠一くん」

「……ん?」

「やっぱり、もう一ケ所、行っていいかな?」

何となく、そう言うと思っていたので、頷いた。

二人揃ってトンネルを抜けたのは、初めてかもしれない。

ハンドレッド・ベイは、沈もうとする夕陽を抱いていた。緩やかに、潮が流れ込んできている。

「先客がいるね」

岩場を指差して淋が笑った。堂々と寝そべり、毛並みを赤に美しく輝かせていたのはモモだ。

「あいつ、海の上では『姫』だったんだよ」

「姫って名前だったのか?」

「そう。百江に来て、モモになった」

他愛もない話だが、誠一は不思議な符合を感じた。

思い出してしまうのは、人魚姫。モモを連れてきたのは賢彦だ。彼はモモを利用したが、あの船の秘密を知った後、連れ出さずにはいられなかったのではないだろうか。

生涯、海の上に居たかもしれない猫を、在るべき陸に。

淋は海の方をぼんやり眺めた。その色素の薄い髪を、橙色の光と風がいていく。

「……ホントはさ、嫌だったんだ」

「……何が?」

「帰って来るのが」

浮かんだ笑みは、どこか自嘲気味で、いつか見たような寂しさを含んでいた。

「帰って来てからもそう思った。……だってさ、俺があの時、海に沈んでたら……賢ちゃんは復讐を考えたり、犯罪に手を貸すこともなかった。町長や館長もこういう形にはならなかっただろうし、死んだ連中だって、無駄な殺し合いをせずに済んだかもしれない」

「……そんなこと言うな。お前が帰って来たから、俺たちは寿々子さん達を助け出せたし、犠牲者を増やそうとする悪徳企業を摘発できた。賢彦先生が親殺しをしないで済んだのも、お前が居たからだろ?」

振り向いて、淋は少し笑った。心なしか、初めて会ったときより痩せて見えた。

頼りない肩や、袖から伸びた腕の細さに切なくなる。

「これでも、何度か諦めたんだ」

何を、と聞かない代わりに、誠一はその腕を掴んだ。最初に会った日、慌てて掴んだ時と同じように。淋は苦笑した。

「どうして海は……俺を殺さなかったんだろう……」

呟いた淋が述懐するその瞬間は、溺れる苦しさの比ではなかった。



 母の清香が死亡したと聞いた後、淋は目に見えて反抗的だった。

ふっと思いついたように死のうとするので、乙津たちは手を焼いていた。相変わらずほっそりした体格だったが、少年期から青年期になった淋は、暴れれば十分危険だったし、客に無礼を働くなど、何とも思っていなかった。

その白膚に痕が残るのを嫌った乙津は、以前のように殴ることは無くなったが、気に入らないことがあると手荒く犯した。

無論、淋は抵抗したが、着々と増えた睡眠薬や鎮静剤の為、混濁と微睡みに支配された淋が、まともに抗うのは無理だった。

「お前、無駄な抵抗はいい加減やめたらどうだ? 見ろよほら、だらしねえ顔でよがってるぞ」

割ると困るからだろう、その都度わざわざ持ち込んだ鏡に映して、男は笑った。

鏡の中で無様に喘ぎ、身をくねらす自分を見る度、淋は身の内に毒が広がるのを感じた。それは快楽と入り混じって、恐怖と怒りに苛まれながら、涙や涎や体液になって流れ落ちる。そんなことばかりしている所為か、異様な渇きに苦しみ、清香が生きていた頃から過剰摂取気味だった水を飲む量が増え、代わりに食欲は衰えた。

絶食を目論んだことも有ったが、朦朧とした状態の口に、誰かがスプーンを突っ込む事の方が多かった。

室内は厳重管理され、自傷に繋がりそうなものは紙一枚、ペン一本置くこともなく、爪も切りそろえられ、舌を噛んだり首を吊らぬよう見張りも立った。

寿々子は籠と称したが、淋は水槽のようだと思っていた。管理された綺麗な空間で、水に溺れ、餌が落とされる。その水槽の中身で、ガラスにへばりつき、淋は思う。

乙津も、客も、此処に関わる全員を、殺したい。こいつら皆、殺したい。ここに来る理由になった奴を、全て。気が違うほど、殺したい。

その日、淋を買った客は顔見知りだった。

「……警察辞めたの?」

開口一番、ぼんやりしつつも、つっけんどんな調子の淋に男は薄く笑った。

「辞めてない」

端的に述べるなり、こちらの脚を割って唇を近づけてくる。昔からそうだが、性急な奴だ。

一番最初――高校生の自身に手を出した最初の男は、単なるレイプ魔ではなかった。

「……現役でこんなとこ来たわけ? 津田さん――あんたやっぱイカレてんな」

「何とでも言えよ」

とっくに狂っているのを認めた様子で、男は淋の肌を貪った。

途中で軽く舌打ちした。

「此処の連中はバカだな。こんな薬漬けにしちまって……お前はもっと――張りが有って……刺さる様な棘があって……――」

執拗な性格そのものの愛撫に淋は喉元から震えた。首元に顔を埋めた男の耳の辺りが見えて、ぞっとした。髪に隠れて、妙な傷痕が有る。小指の先ほどの小さなそれは赤く盛り上がり、火傷の痕にも見えた。

――最初の日、無理やり抱きすくめられた時に噛みついた痕だ。

古傷が開く気がした。心を突き破る様な、深い傷が。

「なんだ、大人しいな……つまらない。抵抗していいんだぞ、淋。お前が望むなら耳ぐらい噛み千切ってくれていい。此処を触ると、お前を感じる」

薬でぼやけた頭の靄を掻き消すほどの狂気を含んで、男が笑う。甦る恐怖に、淋は吐きそうになる口元を押さえた。その指先を見つめて、津田は溜息を吐く。

「なんだ……爪を深く切り過ぎだ。せっかく、あの日みたいに気が違うほど立てて欲しかったのになあ……」

昼なのに暗い部屋が甦る。いくら引き剥がそうとしても無駄だった。

気が付いたら、相手の背を引っかきながら嬌声を上げていた。気持ちが悪いのに、脳が溶ける。怒りを吠えた筈が、取りすがり、しがみついて、けだもののように媚びて啼いた。今と同じように。

断れば補導すると言った、正しさを装ったクズ野郎に、望まれるままに。

ひとつ波が行き過ぎる頃、淋は最初の日のように、魂が擦り切れるのを感じた。

嫌だ。嫌なのに、熱が冷めない。冷めないところに触れる手が、食い千切りたいほど憎む手に、熱が期待する。次の波が来て、どんどん遠くに押し流される。

「淋、お前さえ良いなら――俺が此処から出してやるよ」

囁いた声に、淋は不規則な呼吸に喘いだ。もう答える余力も無い。

「明朝、騒ぎを起こしてやる。いいか、お前は明日まで俺が買っている。睡眠薬は免除してやるから、堂々と一般フロアに出ろ」

「……あんたが……そんなにがっついたら、歩けねえよ……」

皮肉に唇を歪めた淋に、男は心底嬉しそうに笑った。

「悪いなあ……淋、こっちは数年も冷めない恋なんだ……給料三年分は掛かってんだよ……この期に及んで我慢しろなんて――無理だ……無理だぜ、淋……!」

覗いた瞳の奥は、虚ろな闇だ。初めて会った時、どうして気付かなかった?

……いや、途中で変わったのか? いつ?

島中を自転車で颯爽と走る姿が、笑顔で挨拶してくれた姿が、打ち明けた不安に優しい励ましをくれた姿が、変わったのはいつだ?

あの頃、父が居ないのだから、自分が母を守らねばと気負っていた。

か弱い女性の手より、年上の力強い手に惹かれた。


こいつを、けだものにしたのは――……


毒にむしばまれるように、淋は呻いた。

いつもより薬は少ない筈だった。抵抗できた筈だった。蹴飛ばすことも、振り払うこともできた筈なのに、幾十の蛇に絡まれたように四肢の自由が利かない。

いつ終わったのかもわからぬまま眠っていた淋を叩き起こしたのは、けたたましい警報ベルだ。

セミの大合唱にも似た騒音が辺りを叩き付ける中、よろよろと身を起こす。

部屋には誰も居なかった。この騒ぎでは誰か来そうなものだが、周囲を走り回る音だけが響く。

衣服を着ていることを確かめ、呆然としつつもドアに手をかけた。

鍵は掛かっていなかった。

一般フロアに出ろ、と津田は言った。そこで待つつもりだろう。

淋は逆方向に突っ走った。日光浴をしていたデッキの方だ。

誰かが通り掛かって声を掛けたが無視した。向こうもフロアの方向ではない為か、深追いせずに立ち去る。

もう後は誰ともすれ違わなかった。

デッキに出ると、思いもよらず――雨が降っていた。やかましい警報ベルがわずかに遠のき、雨に打たれながら、淋はデッキを進んだ。

わけもなく、笑みが浮かんだ。どうして笑ったのだろう。ずぶ濡れになりながら、手すりに手をかける。誰かが叫ぶのが聴こえたが、迷わなかった。

覗き込んだそこには、デッキは見えない。海だけだ。雨が降り注いでいる海。

深い、深い、紺色。

風はそれほど強くはないが、雨は追い立てるように強くなる。

手すりに足を掛け、思い切り飛んだ。

えずくような浮遊感の後――海面までの距離を落下すると、叩き付けられる手前――ひと掬いするように盛り上がった大波に浚われた。苦くて塩辛い海水が襲い掛かり、鼻に滲み、目を潰す。足掻くことなく慌てずにいれば良かったが、荒れ始めた海ではどうにもならない。焦らず、もがくのをやめて浮けばいい――そう思ってから、ふと、淋は思った。

――浮く必要など、ないのでは。

どうせ、母親は死んだ。浮いたらまた、繰り返すのでは?

船に引っ張り込まれて、同じ暮らしに身をやつすのか?

なんだそりゃ、バカらしい。

淋は力を抜いた。

抜けば浮くが、ざぶりと襲い来る波をもろにかぶった。無遠慮に入り込む海水を吐かずにごくりと飲み干すと、その一部になれる気がしたが、嗚咽のような吐き気がこみ上げ、喉が真水を求めて悲鳴を上げた。

黙れ。水ならそこらにあるだろう。浮力など、すぐに無くなるんだ。

漂う間もなく沈めばいい。そうすれば、全部終わる。

全部終われ。


終われ。



「……俺は、お前を生かした海に感謝するよ」

聞き終えた誠一の言葉に、淋は吹いて来た風に紛れるように笑った。

「誠一くん、聞いていい?」

「何を――……」

問い掛けた語尾に、パンッ!と、幾らか気の抜けた音が響いた。視界の奥で、モモがサっと身を翻すのが見えた。

「誠一くん……!」

淋にしては慌てた声が響く。ぱっと手を離れたペットボトルが砂に落ち、両手が伸べられたが、誠一はまともに返事ができなかった。左足を焼けた火箸で刺されたような痛みに苦悶する。夕焼けに照り映える浜に、いっそ黒いぐらいの赤が飛び散った。

何とか振り向いた目が、こちらに銃口を向ける男を捉えた。

波音に紛れて、淋が息を呑むのがわかった。

「……津田さん……あんた……!」

恰好は警察官そのままだが、同職とは思えない冷酷な顔で津田は銃を片手に立っていた。制服のままなのは都合が良いと考えたのか、それとも末永の根回しから慌てて逃げて来たか。

暗闇に沈みつつある浜へと、ずんずんと歩んできた。

「に、逃げろ、淋……!」

食い縛った歯の間から軋る様に告げた誠一を、淋が夕映えにも蒼白な顔で見た。

「淋、こっちに来い」

はっきりと命じた声に、淋がうろうろと視線を彷徨わせ、不規則な呼吸を始める。

「早くしろ! 今度はそいつの頭を吹き飛ばすぞ!」

弾かれる様に身を震わせた淋が、ずるりと足を引いた。思わず誠一は血濡れた手でその服の裾を掴む。こちらを見下ろした淋の目が波のように揺れる。

「……行くな……!」

取りすがった誠一を、淋はしばし見つめたが……何か思い出したように、ぱっと振り払った。

すかさずその手指を輪にして口に含むと、崖の上に向かって大きく音を鳴らした。

見事な指笛だった。入り江の形状が適したのか、波と風に乗る様に警笛にも匹敵する音を立てて反響していく。

「何を無駄なことを……!」

距離を詰めた津田が淋の腕を掴み、己の胸に無理やり引っ張った。よろめいた淋がペットボトルを拾い上げるが、津田はそのまま毟り取るように、さっさと行こうとする。

「ま……待て……! 何処に行くつもりだ……!」

まともに立ち上がることもできずに砂を掴んだ誠一に、津田は半身だけ振り返って笑った。死神とて、もう少々マシな笑顔をするだろう。

ぞっとするような笑みを浮かべ、津田は淋を抱き寄せた。

「逃げるんだ。あんたが余計なことしなけりゃ、俺はこれまでと同じで良かったってのに」

「……か、勝手なことを言うな……! 散々人を傷つけて……それでも警察か!」

「ハハ……交番勤務が何を偉そうに。俺だってなあ……こいつに会うまでは『普通』だったんだよ……!」

舐めるような視線で淋を見下ろし、その耳朶に唇触れるほどの距離で囁いた。

「そうだよなあ? 淋? こいつと同じだろ? 俺はフツーの優しいお巡りさんだったよなあ……? 一緒に釣りもしたし、海で泳いで、サイクリングして、女の悩みも聞いたさ――……そう、さっきの指笛を教えたのも俺だ……! 綺麗な顔したお前が、痴漢だのストーカーだのに困ってるって言うから……――」

背筋が冷えた。羽交い絞めされている淋は、人形かと思うほど大人しく、微かに開いた口から生気が抜けていく様だった。

明らかに、様子がおかしい。津田と接触しているのを見るのは二度目だが、あの時は暗がりで、すぐに退去してしまったが――淋の目に有るのは恐怖だ。

いつだったか、警察署で性被害の相談に訪れた女性を見掛けたのを思い出した。

一見、気丈に見えた彼女の目の奥には、明確な恐怖が溢れんばかりに溜まっていた。誰かが抱き締めてやらねば壊れてしまいそうな顔をした彼女は、その人肌から絶大な恐怖を植え付けられ、周囲の誰も寄せ付けまいと身を固くしていた。

今の淋の目は、その女性に似ている。

こいつか。こいつが――最初に淋の心を踏みにじった男か……!

「静かだな、淋……最初の日みたいだ。まあ……結局は、乱れてやらしい声で啼いてたが……」

淋の頬が強張る。

浅い呼吸を繰り返すその鼓動が聴こえるようで、誠一は怒りに震えた。

「やめろ……! それ以上喋ると――」

怒声に対し、轟音が鳴り響いた。淋が息を呑む。砂が弾け翔ぶが、誠一も今度はじっとしていない。辛くもよろめいた体から、弾丸はわずかに逸れていた。

津田は鼻を鳴らし、淋を引き摺るようにトンネルを抜けて行った。

「ま……待て……!」

同じ場所を幾度もえぐられるような痛みに耐えつつ、誠一は遮二無二立ち上がった。砂に足を取られながら、気力で身を引っ張る様に進みつつ、達巳に電話をかけた。彼はわずかな言葉で理解してくれたが、救急車を回すから動かないように、という言葉が終わらぬ内に、誠一は通話を切っていた。

エンジン音がして、走り去る音が聴こえる。

待っているなんてできない。

追わねばならない。決勝で敗れた悔しさが、同じ大会の決勝でしか晴らせないように、今、彼を救わなくてはならないのは、きっと自分だ。

痛みに呻きながらようやくトンネルを抜け出た瞬間、駆け寄って来た人物に誠一は目を剥いた。

「大鳥さん!」

「ゆ……柚子さん……!? どうして此処に――……」

「さっき……大きな音の後に指笛が聴こえて……不安になって……そしたら淋と……大鳥さんも見えて……」

息を整えながら言い掛けて、柚子は誠一の血塗れの片足と手に、はっとした。

「お、大鳥さん……血が……!」

「だ、大丈夫です。淋を……車を追わないと――……」

やせ我慢しながら車に手を掛ける誠一に、柚子がさっと割り込んだ。

「私が運転します……! 車が行った方なら見ました……!」

「し、しかし……」

「いいから! まず足を何かで縛らないと――」

彼女に手を貸してもらいながら助手席に座ると、口を挟む間もなく綺麗なハンカチを取り出し、患部にぎゅっと結ぶ。さすが介助をしているだけのことはある、手際よくこちらのシートベルトを装着し、その距離感に誠一がどぎまぎするのも束の間、すぐに運転席に滑り込んだ彼女は、勢いよくアクセルを踏みつけた。

凄まじいロケットスタートを切った車に、シートに背中を叩き付けられた誠一がぎょっとして柚子を見た。ハンドルを握る彼女は真剣だが、耳許が赤く、唇を真一文字に結んでいる。そこだけ見れば可愛いが、とんでもない運転だった。

本来なら取り締まらねばならない誠一が、一言述べる隙もない。カーブでレーシングカーさながらのドリフト走行を決め、スピード違反どころではない速度で島を突っ走った。直線の少ない道路をヘビのように素早く蛇行し、タイムラグを感じさせない暴走車は、港に入ろうとする津田の車を捉えた。

闇に覆われ始めた漁港に人影はなく、数隻の漁船のシルエットに紛れて、見慣れぬ小型クルーザーらしき船影が見えた。あれに乗られたら面倒なことになる。

無論、あんなもので逃げ切るのは不可能だが、もし、淋が先に諦めてしまったら――

嫌な予感に青くなる誠一をよそに、隣の名ドライバーは目の前の何もかもを轢き殺さんばかりにまっしぐらに突き進み、映画のように回転しながら津田の車の進行方向を塞ぐように割り込んだ。強かにぶつかった車体が揺れ、一瞬だけ誠一の胸に修繕費を思う痛みが走ったが、代わりに足の痛みが多少なりとも誤魔化される。

「お、お見事です……!」

半ば本能的に出た賛辞と頭を下げて外に出ないことを告げながら、誠一は大急ぎでドアを押した。失血か、否、あまりのスピードに振られた為か、激痛と相まって足元がおぼつかなくなるが、なんとか車体に手を掛けながら移動する。被害状況はボンネットを潰された津田の車の方が悲惨だった。彼は怒りと衝撃に顔を歪めていたが、逃走を優先したらしい。殆ど無抵抗の淋を引っ張り出そうとしたところで、緩慢な動きだが、容赦のない誠一の拳が襲った。

強かにヒットして苦悶するが、そこは腐っても警察官か、並の男よりは頑健らしい。すぐに起き上がって銃を掲げるが、今度は誠一も黙ってはいない。威嚇には近すぎる距離に冷や汗を垂らしつつも、拳銃を掲げる。

目の前の男は容易く撃ったが、こちらは人間を撃った経験はない。

淋は――視界の端には座席の隅しか映らない。できれば反対側から出て、この隙に柚子と逃げてほしい――そう思う中、サイレンの音が聴こえてくる。

早く、早く来てくれ。

同じくサイレンに気付いた為か、津田の殺気が色濃くなる。既に警察官を撃った身だ、最悪、淋を連れられなくても逃げるだろう。

そうはいかない。もう禍根を残すわけにはいかない。

それでも躊躇った警察官に対し、躊躇いを捨てた警察官の銃が火を吹くかと思った時だった。

突如、横から飛び掛かった影が、振り向いた津田の顔面に何かを浴びせた。

暗闇で殆ど何かわからない液体に、津田がわずかにひるむ。

淋だ。あの謎のペットボトル――残った中身を一息に呷ると、津田を押し倒し、仰向けになったその口に覆い被さる。

すぐに津田が溺れるような声で喚き、淋を乱暴に投げ飛ばした。

「淋!」

コンクリート面を転げた淋に、誠一が叫ぶ頃、津田が大きくむせた。肺を病んだかのように咳込み、胸を押さえて這いつくばり、臓腑が出そうな勢いで何かを吐く。

一方、淋も激しく咳込んでいたが、こちらはまだ余裕が有りそうだ。

誠一は銃を掲げた状態で歩み寄り、津田が取り落とした拳銃を拾い上げ、近付いて来たサイレンの赤に目を細めた。足下では未だに津田が苦し気に咳込み、声すら出ぬものらしい。

淋は――頭を巡らす先で、柚子がその背をさすっているのが見えた。

達巳たちが走って来る音が聴こえる。

淋が口元を乱暴に拭って、こっちを見た。

見交わしたとき、何か言った気がしたが――誠一の意識はそこで途切れた。



 夢を見た。

雨が降っている。小学生になったばかりの自分が泣いている。

真っ黒な服の人々が入り乱れる。皆同じ黒。黒。黒。誰が誰やらわからない黒い脚の波の中、真新しい黒を着た子供が、情けない鼻水を垂らして泣いている。

「この度は、御愁傷様です……」

「惜しい方を亡くしました」

「……お悔み申し上げます」

「お世話になりまして……」

「犯人から庇って――……」

黒い波が気の毒そうにこちらを見ながら流れていく。

かわいそうにと言いながら、流れゆく。

涙でぐしゃぐしゃの子供の前に、誰かが立ち止まった。

「泣くんじゃない!」

ぴしゃりと叱咤したのは、小柄な女だった。

「父さんの子なら、しゃんとおし!」

落雷のように言った彼女の目も、涙でいっぱいだった。

「人を助けたんだから……泣いたらいけない。立派だって……褒めてやらなくちゃあ……!」

あれ以来、彼女が泣くのを見ていない。

ああ……泣かせてしまわないように、気を付けていたのに。



 目を覚ますや否や、誠一は仰天した。

いや、それ以前に全身が気怠いとか、胸だけが異様に重いと感じつつ、目を覚ましたのだが……数センチ――鼻先触れんばかりの距離に、淋の寝顔が有った。

患者の胸を枕に、堂々と寝息を立てている。

予想だにしない状況に、病院――しかも、夜だとわかるのにしばし掛かった。

空調か、機械か、低い機械音が響く。薄い上掛けと衣服の上から、淋の鼓動と呼吸が伝わってきて、何やら気まずい。

あれから、どうなったのだろう。津田は無事に連行されただろうか?

誰かに尋ねようにも部屋は個室らしく、廊下の方は至って静かで、誰かが来る気配も無い。

足の方を確かめたいが、淋が邪魔で身動きできない上、視線を投げることもできなかった。

ええい。これは、改めて寝る他ないのだろうか? このままで……?

悶々としながら、呑気な男に視線を戻し――誠一はあと一歩で叫びそうになった。

いつの間にか、気怠そうに目を開けていた男が、間一髪――誠一の口にそっと人差し指を当てた。

「お……お前、いつから……!」

「心臓がうるさくて」

言うなり身を起こし、伸びをしてあくびをした。

が悪いね、誠一くん。昨日なら、ゆず子が居たのに」

「昨日……? お、おい……あれから何日経った?」

「二日ないし、丸一日半かなあ……皆に連絡しないと……」

溜息混じりに、淋はだるそうにスマートフォンをいじり始める。

丸一日半。思ったより昏睡していたようだ。が、ようやく確認できた左足はギプスかと思いきや、ごく普通に包帯を巻かれてズボンの下に有った。

「後で説明してもらえると思うけど、掠っただけだって。下手くそでラッキーだったね」

本当にその通りだ。歩きながら薄々感じてはいたが、弾丸が貫通するしないに関わらず、侵入した段階で、肉も骨もズタズタになるのが銃の威力だ。包丁に置き換えれば、拳大の穴ができるほど何度も突き刺すのに等しい。

殆ど真横に並んでいた淋に当たらないように配慮した結果か、本当に狙いが逸れたか――不幸中の幸いとはこのことだ。

連絡が済んだらしい淋は、ベッド脇の椅子に座り直してニヤニヤ笑った。

「お揃いになると思ったのにな」

縁起でもないことを言った男をどうにか動く手で小突いてやると、くすぐったそうに笑った。

「奴は……どうなった?」

「……勿論、逮捕されたよ」

淋に聞くのは躊躇われたが、既に聴取を終えた後なのか、思ったよりすらすらと喋った。

達巳は誰より早くパトカーを飛び出し、呻いていた津田に手錠をかけると、身内に放り出して、すぐに誠一に駆け寄ったという。

「あんな怖い顔の達巳さん、初めて見た」

柚子もおののくほどの鬼の形相だったらしい。誠一は早く復帰しなくてはと思いながら、彼が上司だったことに改めて感謝した。

「その後は、俺も病院」

「ど、どこか怪我したのか?」

すぐに焦る誠一に、淋は苦笑混じりに肩をすくめた。

「おかげさまで、してないよ。あの時、ちょっと海水を飲み過ぎちゃってさ」

「海水……?」

あのペットボトルの中身か。

「あれは、賢ちゃんがクラゲを持っていたらまずいと思って用意したんだけど」

仮にクラゲに刺された場合、患部をそっと海水で流すのが良いという。真水を使うと悪化の恐れがある為、海水は必須らしい。

「殺人クラゲ並じゃ、とにかく急いで搬送するしかないけどね。念のためと思ったのが、別の役に立ったってわけ」

海水を一度に大量に飲めば、塩分過剰摂取によってタダでは済まない――最悪は死に至る。普通はあまりに濃い辛さや苦みで飲めたものではなく、瞬く間に拒絶反応で吐き出す。淋がコップ一杯近く口に含んだこと自体、異常だ。

指摘すると、淋はぼやくように言った。

「俺はまあ、時々やってたから……慣れてたんだよ」

「なんでお前は……まったく、もう少し自分を大事にしろ……!」

「あーあ……また、お節介くんが帰って来た」

もうしないよ、と小さく呟いて、淋はしばし黙った。

「話さなくていい」

先に口を開いた誠一を見下ろし、淋は薄闇に笑った。

「あいつ、カラッカラのかすれ声で吠えてたよ。絶対に戻って来るって。俺を絶対に手に入れるって。あいつがムショから出る頃なんて、俺もオッサンだと思うんだけどな……ゆず子だけじゃなくて、警官もビビってたね。あんなヤバい告白初めてだ」

誠一は天井を睨みつけた。往生際が悪いとはこの事だ。

「そんなこと、こっちが絶対に許さない。何度でも捕まえてやる」

淋は返事をせずに微笑した。

「もう休んだ方がいいよ、誠一くん」

「ああ……でも、お前は?」

「此処にいるよ」

「そこじゃ眠れないだろ」

「良いんだ。此処に居たい」

細い指が絡んで、ぎゅ、と手を掴む。不覚にも、どきりとして――津田を思い出し、誠一は煩悩を払わんと目を閉じた。閉じてしまうと、体が疲れているのを自覚した。水底に引きずり込むような睡魔に微睡む中、淋がそっと耳元に囁くのを聞いた。

「……ありがとう」



 誠一が目を覚ますと、誰かが隣に座っていた。

淋かな? そう思って目を向けると、その小柄な人は大きなバッグから静かに荷を取り出しては整理していた。タオル、パジャマ、男物の下着をてきぱきと仕分けていた人物は、呼び掛ける前に、振り向いた。

「あら、起きてたの」

短く言うなり、また作業に戻る女性に、誰何すいかは必要なかった。

「……か、母さん、いつの間に……?」

「さっき着いたばっかり。上司さんが連絡くれて、慌てて準備したんよ。まったく、しょうもないとこがお父さんによう似て、あんたって子は……」

涙ぐむかと思いきや、心底呆れた調子の母に、返す言葉も無い。

「あの、母さん……此処に誰か居た?」

母はきょとんとして、首を振った。

「誰も。ああ、先生と看護師さんは来たけど、あんたが起きんから出直すって」

「そ……そう……」

「なあに、彼女でも来てたの?」

「ち、違う……! そんなんじゃない……」

「ガッカリした顔でよく言うわ。誰がお見舞いに来るか楽しみだわあ」

本当にわくわくし始める母をよそに、何やら冷たい水を飲んだような気分が腹を占めた。何故か、淋が居ないのがたまらなく不安だった。

津田じゃあるまいし……どうかしている。

昨夜のことは夢じゃないかという気がしてくる。今すぐ……あの入り江に行きたい。行かないと。

いや、待て、待て……俺は本当にどうかしちまったのか?

「あんた、顔が青いけど、大丈夫?」

「……ああ、うん……」

生返事をしながら、心が波に呑まれて引っ張られる。

ハンドレッド・ベイに。波間に立っている淋が瞼に浮かぶ。

それなのに、吹く風に透き通るような美貌が振り返らない。

刹那、地鳴りのように感じた電話の音に飛び上がる。

命綱のように掴んだ息子を、母が胡乱げに見た。

「は、はい……!」

〈大鳥さん――……〉

柚子だった。挨拶も、その節はお世話になどという言葉も浮かばなかった。

何故か、彼女が何を言うか、わかっていた。

〈淋が〉

嗚咽のような声が響いた。

一呼吸毎に、彼女と自身の魂が、一筋ずつ消える気がした。


〈……居なくなりました……〉

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