12.秘密
図書館は物々しい雰囲気に包まれていた。
淋は仕事をしながら、常に目に入って来る私服警官にうんざりしていた。
常連客の顔などとっくに把握しているスタッフにとって、見慣れない男たちは明らかに異質だ。それらしく雑誌や書籍を手にしているものの、時折辺りを窺ったり、明らかにこちらを見ている視線は否応にも感じた。
あれで自然に振る舞っているつもりなのかと思うと、演技が
――よく来るおっちゃんみたいに、
仕立ての良さそうなシャツ姿の男を視界の端に収めながら、淋はせせら笑った。
まあ、そんな”にわか”変装も見破る自信はあったが。
「……淋くん、少し早いけど、休憩してきたらどうだい?」
横から掛かった気弱な声に、淋は振り向いた。
沢村が眼鏡の奥で気遣いと気苦労が綯い交ぜの表情をしていた。よっぽど休んだ方が良さそうな腫れぼった目を見て、淋は首を振った。
「気遣わなくていいですよ。あの人たち、俺目当てでしょ? 二階でマンツーで見られちゃ敵わない」
「うん……二階は断ってあるけれど……ああ、それじゃ、これを片付けて来てくれるかい? ついでに休憩室の棚を少し整頓してくれると助かるんだが」
沢村が淋の方に押しやったのは、今しがた返された絵本などが数冊だ。どれも子供向けだが、一冊だけ、誠一が借りたこともある人魚姫が有った。
――休憩室に、本を?
借りたものを休憩中に持ち込むスタッフは居るが、棚はせいぜいカップが収まった小さな棚があるだけで、本棚は無い。
おかしなことを言う沢村を、淋は言葉を切ってしばし見つめた。
「……わかりました」
頷くと、絵本数冊を抱えて二階に向かった。
数秒後、申し合わせたように警官が一人付いてきたが、階段が見えるロビーの椅子に座った。誠一なら上まで来られるのにご苦労なことだ。
そう思いながら休憩室に辿り着くと、無人の部屋にひとまず本を置いた。
「……」
他の絵本は脇に寄せ、人魚姫を手に取ると、ページを捲る。
ひらりと出た来たメモ一枚には、几帳面な字が綴られていた。
目を通してから、淋はメモを丁寧に折り畳み、ズボンのポケットに突っ込んだ。冷蔵庫に入れていたペットボトルを手に取り、只の水をごくごく飲み干し、
窓を開け放つと、生温い潮風が吹き込んだ。
もし、今、他のスタッフが入ってきたら血の気が引いたかもしれない。淋はおもむろに窓枠に右足を掛けると、不自由な左足も引っ張り上げ、窓の外へ消えた。
わずかな間を置いて――窓が外から静かに閉じられた。
滅多に要求を述べない達巳が『外出禁止』を申し渡した明日野家は、女四人が居間の座敷に集まって、タマ婆以外は不安そうな顔をしていた。いつか、誠一が運搬を手伝った立派なガラステーブルの上には、季実子が淹れた爽やかな香りの冷茶が置かれていたが、喉に着々と流しているのはタマ婆だけで、他はまだコップの半分以上を満たしていた。
「夏姉……大丈夫?」
妹の言葉に、身重の夏子はお腹を撫でながら、やんわり頷いた。
尋ねた柚子の方が青ざめた顔をしているので、季実子がその肩をとんと叩いた。
「柚ちゃん、こういう時は笑わなくっちゃ」
「……わかってるわ」
そう答えたものの、柚子は寄せた眉が強張ったまま動かないようだった。
季実子は場を和ませようと、ぼんやり呟いた。
「一体何があるのかしらねえ……達巳さんが話さないのは、珍しいけど」
「あの人がああいう顔をするときは、とても危険なときよ、お母さん」
言葉のわりに、夏子はおっとり笑っていた。
もともと、言い知れぬ余裕に包まれている夏子だが、さすがは警察官の妻か――座椅子にゆったりと背を預けて落ち着いている。
異なる意味でタマ婆も静かだった。肌身離さない巾着と真新しいイルカのぬいぐるみを膝に乗せ、しきりにコップを傾けている。
対照的に、察知したままの不安を露わにしているのは柚子だ。
目線はそろそろと、壁の時計と手元を行き来し、時折意味も無くスマホ画面を点灯させては消した。
「何もしないと落ち着かないわね。せっかくだから録画しといた番組でも見る?」
などと言いながら、季実子がリモコンに手を伸ばした時だった。
トントン、と――玄関――ではない、勝手口を叩く音がした。
タマを除く三人が顔を見合わせた。
「……誰かしら?」
「お隣さんじゃないの?」
季実子の呑気な言葉に、柚子は首を振った。
「だったら表からインターフォン鳴らせばいいでしょ……あの勝手口だって、知らない人の方が多いんだし……」
季実子が若い頃はよく使ったというが、今は隣の家との境で庭木が茂り、人の出入りは無い。夏子をタマの傍に残し、柚子は立ち上がった。フライパン持ったら? などと言いながら付いてくる季実子を後ろに、勝手口の前に向かう。
キッチンの脇に有るそれは、ガラスが付いていたが曇りガラスであるため、せいぜい外の光と曖昧なシルエットがわかるぐらいだ。何年も開けていない取っ手や鍵は埃だらけで、油によってべたべたと纏わりついていた。
夕方の五時を回っているが、外はまだ明るい。
トントン、と再び鳴った。
七匹の子ヤギみたい――余計なことを考えながら、柚子は覚悟を決めて声を上げた。
「ど……どちら様ですか?」
響いてきたのは、狼がものまねするのもバカバカしいほど、ぶっきらぼうな声だった。
「あ、ゆず子。俺」
「……淋!?」
季実子も殆ど同時に『淋ちゃん』と呟いていた。
鍵が鈍い音を立てる扉を開けると、片手を小さく上げた淋が立っていた。手に図書館の制服である黒いエプロンと、本を一冊抱え、ぶら下げたペットボトルには何やら水らしきものが入っている。
淋は空いた片手の人差し指を口にやり、通りの方をちらりと見た。
「淋……仕事は? 何してるの?」
「嫁か母さんみたい」
肩をすくめてにやにや笑う淋を、変なものを見るような目で柚子は仰いだ。
「柚ちゃん、とりあえず、中に入ってもらいんさい」
季実子に言われて、柚子はしぶしぶ身を引いた。緩慢な動作で靴を脱いだ青年を引き入れて、靴は手近な新聞紙に置いてやる。
「どーも」
「何が『どーも』よ……表から入ればいいのに……」
ぶつぶつ文句を言う幼馴染を笑顔で見てから、淋は声を潜めた。
「表は警察が居るかもしれないからさ……見つかるとめんどくさい」
犯罪者のように言いながら、一体何処をどうやって来たのか、肩口に乗っていた葉っぱをひとつ取った。
「警察って……ちょっと待ってよ、淋――あなた何かやったの?」
「ゆず子、幼馴染にそれはないんじゃない?」
ぱっと顔を赤くする柚子を片手で制して、淋は季実子を振り返って頭を下げた。
「季実子おばさん、急に押しかけてすみません」
「おばちゃんはいいのよ。でも……淋ちゃんがうちに来るなんてしばらくぶりじゃないの……何かあったの?」
「すみません、説明する時間が無くて――タマ婆ちゃんに会いたいんです」
「婆ちゃんに?」
柚子と季実子は顔を見合わせた。この青年と、タマにどんな関係が?
よくわからぬまま、二人は淋を連れて居間に戻った。
夏子はびっくりした顔をしたが一言たりとも騒ぎ立てることは無く、にこりと笑みを浮かべた。淋は夏子に会釈し、ガラステーブルに向かってコップを傾けていたタマにまっすぐ歩み寄ると、傍に座った。
「婆ちゃん、俺だよ。わかる?」
さして大きくもない声に、コップだけしか眼中にない様子だったタマが振り向いた。
「淋ちゃんかい?」
「あたり」
三人の女が驚いたのは言うまでもない。耳も遠いため、声を張り上げねばならない時もあるというのに、淋の声は普段話すのと何ら変わりない。まして、ボケてしばらく経つタマが、個人の名を間違えなかったのは非常に珍しいことだった。
「それ、可愛いね」
淋がイルカのぬいぐるみを指すと、タマはそれを撫でて「可愛いよ、可愛い可愛い」ところころと笑った。
その顔を眩しそうに見てから、淋はタマに尋ねた。
「婆ちゃん、俺があげた『アレ』、まだ持ってる?」
「はてねえ……なんだったかねえ……」
「アレだよ。きらきらしてて、綺麗なやつ」
「ああ、わかったァ。アレだねえ?」
そうそう、と淋が頷くが、見守る三人にはさっぱりわからない。驚くほどスムーズな会話の後、タマはいつも離さない古ぼけた巾着をがさごそと探った。
「これ?」
差し出したものは、きらっと輝く――ブローチか、コートのボタンのようなものだ。
「うん、さすが婆ちゃん!」
淋が頷くと、タマも嬉しそうにしわくちゃの顔に更に皺を寄せた。
「婆ちゃん、これ、持って行っていい?」
「おや、どうしようかねえ」
「お願い。また良いものあげるから」
「そうかい……淋ちゃんなら、いいよ」
「さんきゅ、婆ちゃん――」
淋は両手でタマの手を握り、優しく微笑んでから立ち上がった。
「ゆず子、悪いんだけど、手貸してくれない?」
「な、何に貸すのよ? 私――……」
犯罪はしないわよ、と言い掛けて、過去にやったことを思い出した柚子は口をつぐんだ。その被害者たる青年はフンと鼻で笑うと、片手で拝むようにした。
「頼む。急いでんだけど、俺、運転できないし。タクシーじゃあ、途中で止められるかも」
「何よ……手じゃなくて足を借りる気なの? ホント昔っから勝手なんだから――」
「ごめん。でも今、ゆず子しか頼れない」
柚子は黙って唇を噛み締めた。その肩を、季実子がトンと叩いた。
「……そんな言い方、卑怯だわ」
怒ったように頬を膨らませたが、柚子は先に立って車のキーを取ると、玄関から出た。すぐに引き返してくると、ぐいと親指を背後に振った。
「誰も居ないわ。さっさと靴取ってきなさい!」
「淋ちゃん、これ使っていいわよ」
すかさず季実子が差し出したのは、彼女が図書館に行くのに使っていたトートバッグだ。淋が持ってきていた人魚姫の本やペットボトルなどを素早く入れて手渡すと、王子様はにこりと笑った。
「ありがとう、季実子おばさん」
「淋ちゃんに言われると照れちゃう」
何も知らないようだったが、季実子は神妙な顔で「気を付けて」と告げ、玄関で腕組みする娘に頷いた。
巡回しているだけかもしれないが、周囲にパトカーや警官らしき姿は見えなかった。柚子は、ガラスに薄いスモークフィルムが貼ってある後部に淋を押しやり、運転席に座るとエンジンをかけた。
「で? 私に何処に行けって言うの?」
「俺んち経由して三波町長のとこ」
「忘れ物でもしたわけ?」
ハンドルを回転させながらの呆れた口調は、どこか淋に似ていた。気付いた淋が後部座席でニヤニヤ笑った。
「ゆず子、昔の調子だな。誠一くんが聞いたらドン引きするね」
「よ、余計なお世話よ!」
そのスタートダッシュも、誠一ならば開いた口が塞がらなかったに違いない。
丸みのあるフォルムが可愛らしい軽自動車が唸るように急発進したときは、淋も驚いた顔をしてから、「かっけー」とげらげら笑った。複雑なカーブの多い島でも、さすがは島育ち、手慣れたものだ。疾走するスピードは誠一の運転など「お散歩」と言われてしまいそうだった。
「それ……何なの?」
淋が手に見つめるものをバックミラーに見ながら、柚子は尋ねた。
コートに使うボタンくらいのサイズのそれは、銀縁に丸い緑の石らしきものがはまっていた。何か刻まれているようだったが、柚子からは見えない。ブローチか何かかと思ったが、裏には留め金具も無く、ネックレスの為のバチカンも無い。ただ、何かを通す為に使うらしい、見たことの無い輪が二つくっ付いていた。
「ひみつ」
淋はそう言って、小さく溜息を吐いた。
「本当は、婆ちゃんに墓まで持っていってもらうつもりだった」
「どうして……タマ婆ちゃんに?」
「婆ちゃんは同志だからね。誰より信頼できると思って預けた」
「……同志?」
思い付く限りの接点を探したが、淋とタマに共通点は見当たらなかった。確かに、昔、彼は明日野家に遊びに来ると律儀にタマに挨拶をし、タマも孫のように可愛がっていた。二人が会話らしい会話をしていたのはそんな時ぐらいで、互いが互いを訪ねたことも無かった筈だ。
「同志って……何のこと?」
「ゆず子、前見てよ。俺、右足もやっちゃうのは困る」
「う……うるさいわね!」
子供の頃に戻ったようだった。いちいち淋が茶化すので、幼い柚子は怒ってばかりだった。おまけにこの王子ときたら、「ゆず子は怒った顔が可愛い」と言い出し、ますます柚子のほっぺたは膨らみっぱなしだった。
姉の夏子が素敵な笑顔をする度、明日野家の指針が重く圧し掛かり、柚子はしょっちゅう自己嫌悪にメソメソせねばならなかった。
「それは淋が悪いわ!」
つい、その母親に悩みを打ち明けてしまったとき、清香はそう叫んで飛び出して行った。すぐに息子にヘッドロックをキめて戻ってくると、きまり悪そうな息子に謝るよう指図し、呆然としていた柚子の頬を美しい手で包んだ。
「ゆーちゃんはこんなに可愛いのに。笑ったら、もーっと可愛いわ。ホラ、一緒にやりましょ?」
――なんで今、清香さんのことを思い出すのかしら……
ハンドルを切りながら、柚子は不思議な気持ちだった。
若々しくて、友達のお母さんというよりは、年の離れた姉のような清香。本当の姉とも仲が良い柚子だが、彼女に言い辛いことは、みんな清香に相談した。
彼女は優しく、じっくり話を聞いてくれて、いつも味方になってくれた。
淋と清香が消えたとき、柚子の世界からは太陽と月の両方が消えたようだった。最初の一年は、戻るのを信じて待てた。二年目は、笑って待つなど無理だった。三年、四年……徐々に諦めの色が心を満たし、柚子は変わらなければと、思い出に蓋をした。
仕事の合間を縫って、懸命に捜査する達巳に申し訳ない気持ちも有った為だ。
暗い顔をしていても、周囲を困らせ、要らぬ気遣いをさせるだけだ。
――笑わなくちゃ。清香さんみたいに。
鏡に誓って――太陽と月を失った七年後……戻って来た淋に、柚子はどんな顔で会ったのか覚えていない。
「おかえりなさい」
たぶん、そう言った。淋は少しだけ笑った。
彼は、こんな笑い方をしていただろうか――忘れようと努めた思い出は
それは、ほんの少し揺らしたら涙がこぼれてしまいそうな、寂しい笑顔だった。
今、バックミラーに映る彼と、同じ顔だった気がした。
三波邸の客間は、異様な雰囲気に包まれていた。
テーブルを挟んで向かい合った賢彦は普段と変わらぬ様子で、もてなしてくれた時よりも穏やかな表情だった。きちんと正座して、仕事用と思しき鞄を脇に置くのを、末永が鋭い目で追っていたが、彼は何も言わなかった。
「やはり、最初に気付いたのは、達巳さんでしたか」
称賛するような言葉に、達巳は苦笑いと共に首を振った。
「……僕だけで辿り着いたわけじゃない。それに、此処までは君の思惑通りだ」
「そう仰ると思っていました」
何もかも知っているようなセリフに、誠一は背筋が寒くなった。
「余裕ですね、賢彦先生」
どこか冷たい口調で言ったのは末永だ。
「達巳さんの推理通りなら、貴方は逮捕されるのに」
「そうなりますね、末永警部」
微苦笑と共に肩をすくめた賢彦は、それでも十分余裕に見えた。
島外に出る道路が封鎖された状態で、捕まらないとでも思っているのだろうか?
「先ほど、話してくれると仰いましたね?」
「ええ。殆ど、達巳さんの推測通りだと思いますが――」
彼が口を開き掛けた時、ドタドタと厳つい足音が聴こえてきた。
「賢彦ッ!!」
恫喝と共に現れた三波賢継――家主にして百江の町長である男は、凄まじい形相で、見向きもしない息子を睨みつけた。いつもそうなのか、着替えたのか――以前同様、洒落たシャツに、宝石のように煌めく七宝焼きのループタイを掛けている。彼の背後では、末永に指示されていたらしい警官二人が、困り顔でついて来ていた。
「貴様……!! これは一体何の騒ぎだ!?」
「お父さん、静かにしてくれませんか」
目の前の机を見たまま、疎ましそうに言う賢彦に、何故か誠一は、淋を思い出した。何者も寄せ付けない、寂しく、孤独な声だ。
「これから僕は、島で起こした犯行の全貌を明かさなければならないんです」
「な……何をバカな……ッ! お前が犯罪――そんな筈が有るか!!」
松木並の剣幕で怒鳴りつけると、ぶるぶると肩を震わせ、居合わせた三人の警官を睨んだ。
「犯人は息子ではない!! いいか、犯人はあの小僧――潮見の小僧だ!」
「淋が……犯人?」
釣り込まれるように唖然と口にした誠一に、町長は勝ち誇るように唸った。
「そうとも……! あいつが全部やったんだ。貴様らの仲間……警官の恥さらしを色仕掛けなんぞで利用して――……」
淋が、津田を利用して? 有り得ない話ではないが――この計画に猫のモモが関わる以上、津田が手出しできるのは半ばまでだ。
それに、如何に津田が淋欲しさに結託したとしても、三人を殺すのはリスキーだし、彼にとって利益が無い。殺人など犯さずとも、現役警察官なのだから『海隠し』の件か『エデン』の秘密フロアを引き合いに、ただ悪党を強請るなり、正規通りに刑務所に送れば済む。
賢彦は、やはり見向きもせず言った。
「お父さん、無意味な狂言はやめて下さい」
「黙れ賢彦ッ!!」
「いいえ――貴方は困るとすぐにそうなりますが、怒鳴り声で人は操れません。いい加減覚えてください」
「私も、お静かにして頂けると助かります」
末永の水を打つ言葉に、町長は今にも爆発しそうな顔で、青筋をひくつかせて押し黙った。
「賢彦先生、持田と亀井殺しは、先生の犯行だと認められるのですか?」
賢彦は微笑みさえ浮かべそうな顔で、さらりと頷いた。
「ええ、認めます」
「では……登藤を
「それも、僕がやりました」
すらすらと述べる賢彦に、誠一は胸がつかえる気がしてきた。
何だろう――何か、変だ。何か見落としている気がする――ベルトコンベアーを進む商品をチェックしていて、ほんのわずかに塵が付着したのが見えた様な――気のせいに近いぐらいの違和感。
「あのう……賢彦先生……」
申し訳なさそうに、誠一は話の輿を折っていた。
「何ですか、大鳥さん」
犯罪スピーチの最中だったが、賢彦は場違いな質問に応じてくれた。一時的だが、その流暢な舌がストップしたことにほっとしつつ、誠一は尋ねていた。
「乙津殺害の日……どうして、雨が降るとわかったんですか?」
質問さえも場違いであることを、咎める者は居なかったが――皆が胡乱げな顔になった。
――賢彦一人を除いて。
「……何故、そんなことを聞くんです?」
賢彦が質問に質問を返した瞬間、誠一は直感した。何故かはわからないが――彼は動揺している。
「俺にも、わかりません。でも……あの日、月島菜々子さんが傘を所持していた時から、ずっと気になっていました。彼女は先生が、クリニックの傘を持っていくように仰ったと……」
「……ただ、雨が降る気がしただけですよ」
「本当に?」
「失礼、大鳥巡査――月島さんは、傘を持ってどちらに行かれたかご存知ですか?」
斬り込むように口を挟んだのは末永だ。
「え、はい――本島に買物に行ったと伺いましたが」
「クリニックに立ち寄ってからですか?」
「確か……非番でしたが、忘れ物をしたそうです。その後は、り……潮見くんと会ってから、出掛けたようですが」
「お車ですか」
「いいえ、徒歩でした。潮見くんの自宅付近まで徒歩で来たということは、電車を利用なさったと思いますが」
「なるほど」
末永の目が、黙したままの賢彦をちらと見た。
「その傘――雨など降らなくても、持って頂く必要が有ったなら如何でしょう?」
静かな双肩が震えたように見えたが、誠一は未だにピンとこない。雨じゃなくても傘が要る理由など思いつかなかった。
「ど、どういう――……」
「雨が降る話は、嘘でもいいということです。本当に降ったのは、先生も予想外の偶然だったのではありませんか。月島さんがクリニックに戻るよう前日に荷物を抜き、何も知らない彼女が、非番の日にクリニックの傘を持って出かけてもらうのが目的だった――」
顔を上げない賢彦を、末永の目が見つめる。
「つまり、傘は差す為ではなく、誰かへの合図だったのでは?」
「誰か……?」
「賢彦先生、達巳さんも仰っていましたが、乙津殺害は貴方の犯行ではないのではありませんか? 貴方が例の傘で指示し、別の人間が行った……違いますか?」
「……」
話す、と言った筈の賢彦の口は動かなかった。
傘の件は、よほど知られてはならない秘密だったのか、それとも……問題は共犯者の方なのか。
「月島さんに、本島の何処に行ったのか詳しく聞きますか?」
白を切ることも可能である推測だったが、賢彦は、それが通用しないことを理解しているようだった。菜々子の行動ルートを知っても無意味だが、ある場所に言い逃れできない証拠が確実に残っている。それは誠一も気付いていた。
菜々子が計画に加担していないのなら、傘を持ち――つまり徒歩で本島に行くのなら、絶対に訪れる場所はただ一つしかない。そこは、たとえのんびりした島でも、監視カメラが存在する場所でもある。
「賢彦先生……話して下さい。駅の監視カメラを調べれば、わかってしまうことです」
嘆願するような誠一の言葉に、賢彦が溜息を吐いた。
「まさか……大鳥さんがお気付きになるとは……」
厭味にも聞こえるが、その苦笑いは朗らかで、誠一はむしろ切なくなった。
「おみそれしました。お若いと甘く見た僕がいけませんね」
話しましょう、と呟くと、賢彦は口を開いた。
「先ほども言いましたが、持田と亀井は僕が殺しました。乙津を殺したのは――」
穏やかに紡がれた一言を、誠一は聞き違いだと思った。
「人魚です」
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