11.綺麗なひと
「そうか……」
沢村の話と津田の行動について聞き終えた達巳は、祈るように目を閉じた。昨夜、電話で話した時よりも、交番で向かい合った彼の声は重苦しく聞こえた。
「……達巳さんには、信じられないと思いますが……」
なんだか職員室に叱られに来たような気分で、誠一は言った。
津田は年齢だけなら達巳のわずか一つ下だ。ほぼ同期であり、共に働いた仲間の話だ。
「もちろん、信じたくはないよ」
「……そう、ですよね……まだ、声と背格好だけですし、寿々子さんの話だけで断定はできませんから……」
「うん。沢村さんに確認を取らなければいけないね」
後ろめたさか怒りか、達巳の声はちょっと厳しく聴こえた。
「その……申し訳ありませんでした」
まだ怒られてもいないのに頭を下げた青年に、達巳はようやく困ったように笑った。
「顔を上げてくれ、大鳥くん」
「で、ですが……沢村さんに確認すれば、どのみち、始末書を書くことになりますし……」
「確かに不法侵入は感心しないが、そうとは限らない。君はきちんと沢村さんと会う約束をした上で図書館に行ったんだし、閉館後の図書館に異常を感じて戻ったのは警官として当たり前の行動だ。月島さんを伴ったのも、巻き込むと言うよりは殺人現場の近くに一人にするわけにはいかなかったからだろう?」
「は……はい……」
有難い取り成しに平伏する他ない。物は言い様だが、確かに間違いはなかった。
「それにね、大鳥くん……僕だって、ぼんやり交番勤務していたわけじゃないんだ」
「えっ?」
勝手な捜査を叱られるかと思いきや、達巳はいつもと変わらず勤務すると見せかけ、堂々と捜査活動をしていたという。目を丸くする青年に、あっさり言い放つ。
「末永警部が前任の警察官が事件を黙認したのを暗に言ったろう。僕は当然、津田くんのことも調べた。あっさり同僚を疑う上司で申し訳ないが」
「いえ、そうだったんですか……」
達巳が例の鍵付き引き出しから取り出したのは、当時の勤務記録の写しだった。
九年も前となると必要情報はデータ化の上、紙媒体は処分されているが、『海隠し』のあった年だけはあらゆる資料を保管していたという。
ごくありきたりな当直日誌だが、問題は『海隠し』当日のことだ。
「記録に頼るまでもないが、僕はその日は非番だった。僕が行方不明者の捜索に駆り出されたのが、菜々ちゃんの通報から一時間後。これだけでも相当な後手だが、本島から捜索隊が増員されるまで更に数時間――舐めて掛かっていると一部の世論が唱えた通りだが、それだけだ」
「……初めから、捜す気が無かった……と?」
「……そんな風に考える余裕は、当時の僕には無かったが」
自責を思わす言葉に、誠一は首を振った。達巳は、命じられた以前に一心不乱に捜したのだろう。職務に真剣である前に、一人の人間として必死であった為、裏で何が
「達巳さん、津田は沢村さんに何を求めていたのでしょう?」
「淋くんを島から連れ出す為に、口裏を合わせる――が、最も自然な感じがするね」
「では、津田が島を出た真意にお心当たりはありますか?」
「当時は無かった。だが……今はある」
達巳の声は確信に満ちていた。一体この人は何を掴んだのだろう、誠一が感心しながら見上げると、達巳は瞳を少年のようにきらめかせた。
「まず、モモだよ、大鳥くん」
「も……モモ? 猫の、ですか?」
「そうだ。潔癖症で動物が苦手だった津田くんが……もし、自宅に野良猫が居着いたらどうすると思う?」
「……追い払うか……保健所を呼ぶ……でしょうか」
もっと嫌な方法も思い付いたが、言うのもおぞましいので閉口していると、達巳は頷いた。
「だろうね。しかし、その猫が余りにも目立つ外見で、多くの住民に知られていたら? おまけに避妊処置もされている。簡単に処分はできない筈だ」
「それなら……詳しい人に頼――……」
達巳の言わんとすることに、気付いた。そんな人間、この島には一人しか居ない。
彼も気付いたのだ。注目を集める淋に隠れて……誰が暗躍していたのか。
「僕も、動物のことで困ったら賢彦くんに頼む。この島に保健所は無いし、役場が相談を受けても、結局は彼の所に話が行く。一般人なら警察を頼ることもあるが、生憎と僕らがその職務。やはり、賢彦くんが最適だ。――逆に言えば、彼が無理と判断した場合、他の誰にもどうこうできないと諦めるだろう」
「賢彦先生は、津田さんを飲みに誘ったこともあると言っていましたが……」
「君のように、賢彦先生は彼と友人のように接していたよ。今思えば奇妙なことだ。動物が苦手な男と、動物が何より大切な男。あまり馬が合うとは思えない」
「あらかじめ、津田に何かをやらせるつもりで……近付いたということですか?」
達巳は腕を組むと、いつかの末永のように鋭い視線になった。
「……もしも、だよ」
その一言は、禁じられた言葉を口にするようだった。
「モモを津田くんの自宅に居着くようにしたのが、賢彦くんだとしたら?」
「な……なんでそんなことを?」
「きっと、津田くんがモモと仲良くなれないからだ」
「え? ええと……?」
「モモを捜査に使う流れは、非常に自然だったが……人為的に可能だと思わないか?」
ようやく、誠一は気が付いた。
「良識的な君が、なし崩し的にモモを飼う羽目になれば、ごく自然に賢彦くんと接点を得る。事件が起きたとき、モモに血液が付いていれば当然、高確率で君が発見する。違う人間だったとしても賢彦くんのところに運ばれ、飼い主である君も呼ばれる筈だね。すると、どうだ……賢彦くんは捜査に当たり前に関わることになる」
「……そ……それは……」
思えば当初から、賢彦は好意的だった。あまりに感じが良いため、そうした人柄だと信じて疑わなかったが――……計算の内だとしたら、ぞっとする。猫をダシに使えない津田をお役御免とし、首尾よくやって来た扱いやすい新任警官と親しくなる。
上手いこと捜査に関わって――その後は?
「賢彦くんは『エデン』で知った事実に対し、その時点で行動を起こしている。それが、君の予想通り、彼の人の死に対してなら、復讐の可能性が出てくる。亡くなった三名が、その相手だとしたら最悪だ」
持田、亀井、乙津――この三人が清香の死に関わるとしたら……
「淋は……犯行に関わっていないのでしょうか……?」
「わからない。でも、僕も君と同じように、彼が口を閉ざすのは賢彦くんの為だと思う」
そこまで言って、達巳は腰を上げた。
「……行こうか、大鳥くん。そろそろ末永さんが詰めている頃だよ」
「え……」
「我々が気付く段階も、賢彦くんには予測済みだと思う。今日、研修から戻るそうだから……きっと、何かが起きる。杞憂ならそれでいいが、起きるなら止めなくては」
「何か……とは……」
「僕らの予想が正しければ」
達巳は立ち上がり、パトカーのキーを握った。
「『海隠し』の真犯人が殺される」
ジャー……と、水道から水を流しながら、賢彦は静かに手を洗っていた。
研修から戻ってすぐに、自宅ではなくクリニックに直帰した彼は、ちょうど居た患者の処置を済ませたところだった。
「先生、では……失礼致します」
菜々子が顔を覗かせて一礼するのに、賢彦は振り向いてにっこり頷いた。
「おつかれさま。そうだ、菜々ちゃん……寿々ちゃんは元気?」
「あ、はい。『
賢彦は微笑んだ。
「そう……良かった。僕も今度、お祝いに奢ろうかな」
「そんな、今日もこんなにお土産を頂いたのに」
菜々子は大きな紙袋を手に苦笑した。お菓子が好きな女性にはたまらない洋菓子メーカーの紺色の紙袋は、これでもかと言うほど中身が詰まっている。
「いいんだよ。それは留守の間、君に任せっきりだったお礼だから」
「ありがとうございます。姉と謹んでいただきます」
笑顔で立ち去る菜々子に手を振って、賢彦は診察室を丁寧に見回り、片付けて、電気を消す――筈だったが、そうしなかった。
菜々子も入室しない小さな部屋――学習室と称している鍵付きの扉を開けた。こじんまりとしたそこは、綺麗に片付けられ、壁付きの小さな本棚には動物や魚類、昆虫、植物図鑑や書籍、ファイルなどがぎっしり詰まっていた。
机の上にはノートパソコンと、小さな水槽が二つあった。どちらも砂が厚く敷かれ、水草が植えられたそこは、こぽこぽと空気が流れ、片方には小さな魚が何匹も泳いでいたが、もう一方には何も居なかった。賢彦は小魚の水槽を開けると、小さな網で一匹掬い――何も入っていない水槽にぽとりと落とした。小魚には何の変化もなく、ただ広々した場で泳ぎ始めた。
それを見届けると、何事も無かったように静かにペンをとって、余った仕事に手を付けた。ぽこぽこと……水を揺らす静かな空気の音と、モーターの低い唸りが響く中、滑らかにペンを走らせる音だけが続いた。
三十分もそうしていただろうか。
賢彦が顔を上げたとき、一匹だけ小魚が泳いでいた筈の水槽は、再び、空っぽになっていた。気にすることもなく、賢彦は出していた書類やノートを片付けると、席を立った。明らかに帰り支度をしてから、賢彦は空の水槽に向かった。
「行こうか」
数年来の友人に話すように告げると、厚手の手袋をはめ、小ぶりの――キャンディでも掬えそうなスコップを、水槽の砂に埋めた。
そこから砂をたっぷり掬い上げると、小さな瓶に移し替え、ぎゅっと蓋を閉じた。手袋もスコップも瓶も、すべて荷物に詰めると、賢彦はようやく電気を消した。
真っ暗な部屋の中――気泡の音と、モーター音だけが残る。
空っぽの水槽は、静かなままだった。
あの人を初めて見たのは、夏の暑い日だった。
蝉がうるさくて、日差しは身を地面に押し付ける様に強かった。
ほんの六歳児だった自分は、母親が無理やり被せたハイ・ブランドの帽子を頭に乗せ、大好きな本を持って歩いていた。後ろの駐車場からお手伝いさんが呼んだが、無視してさっさと図書館に向かう。
この頃、図書館に通うのが好きだった。
本など幾らでも買ってやると言われたが、両親が非科学的な物語や、絵本の類を嫌うのは既に知っていた為、自宅に置けないそれらに囲まれに行くのは一つの楽しみだった。
あの人は、図書館の前で赤ちゃんを抱いていた。
物珍しそうに辺りを見渡す人は、見たことの無い女性だった。
――お姫様が居る。
子供心に、そう思った。
色素の薄い髪を肩口にまとめた、透けるような美貌の彼女は、薄い水色のワンピースを着て、図書館前のわずかな庇の下に立っていた。周囲を物珍しそうに眺め、どう見ても大人だったが、その楽しそうに弾んだ瞳は少女のようにも見えた。大人しく眠る赤ちゃんはふっくらしたほっぺの可愛い子で、男なのか女なのか定かではない。
溜息が出そうな顔で立ち止まった少年を、彼女は清々しい目で見た。
「こんにちは」
優しく微笑んだ綺麗な人は、ぎくしゃくと頭を下げた少年が持っていた本に目を留めた。
「それ……私も好きな本」
嬉しそうに呟くと、かちこちに固まった少年に小首を傾げた。
「此処で借りられるの?」
「う……うん、全巻あるよ」
少年は何とか頷いて、母親に知らない人と口を利かないよう言われていたのを思い出したが、そんなことはどうでもいいと思った。
「すてき。私、潮見 清香。越してきたばかりなの。どうぞ宜しく」
お手伝いさんが走って来る音が背後で聴こえたが、少年は無視した。屈んで差し出された繊手を思わず握り、眩しい笑顔に頷いた。
今まで繋いだどの手とも違う、白くて、細くて、滑らかで、可憐な手だった。
「……僕、三波 賢彦です。よろしく……」
「三波……賢彦くん?」
「はい……」
「そう。すてきな名前」
微笑んだあの人に、身の程知らずの恋をした。
ひと夏で終わればいいものを――今でも醒めない、叶わぬ恋を。
「淋!」
呼ばれた少年は面倒くさそうに振り向いた。近頃、母親に似てきた少年は、一緒に海で遊んでいても全く陽に焼ける気配が無かった。
「賢ちゃん、暑いのに元気だね」
母子家庭だからなのか、昔からちょっと捻くれている少年は、笑顔の賢彦を眩しそうに見て、面白くなさそうに言った。彼は不機嫌ではなくてもこういう反応だ。
対照的な二人が並んで歩くのは、昔からよくある光景だった。
島暮らしの色白少年に対し、大学卒業を控えた賢彦は、相反するように日焼けして逞しくなっていた。大学といってもコンクリートにまみれて勉学に励んでいたわけではなく、大自然に抱かれた、実習が多い獣医学部に居た為だ。
「元気だよ。島に帰ると、落ち着く。北海道は何処行っても良いとこばかりだけど、やっぱり環境が違うのは疲れるよ」
六年の長いカリキュラムも、この冬でようやく終わる。
勉強は勿論、多くの動物と触れ合えた学校は楽しかったが、島に戻って来られるのは、賢彦にとってこの上なく喜ばしかった。
二十歳も超えたし、仕事を始めれば堂々と松木の店に通える。
夏休みと冬休みぐらいしか会えなかった、『あの人』に会う機会も増えるというわけだ。
「帰ってきたら、あの丘に造ってるヤツで開業すんの?」
島のなだらかな高台で建設途中の建物のことだ。以前は古びた教会がぽつりと建っていて、幼い頃はこの少年ともかくれんぼしたりして遊んだ場所だ。
「ああ。俺はあのまま使いたかったけど……親がうるさくて。だから完成まで、余所に勤めて経験を積む。近いから、島から通うよ」
「ふーん……」
気の無い様子で頷いたが、彼はいつもこんな具合だったので、賢彦は苦笑した。
「淋もこの冬には卒業だな。大学に行くのか?」
「母さんはそう言うけどね……」
その気は無いらしく、淋は首を振った。潮見親子に経済的な余裕が無いのは賢彦も知っている。
「俺も行った方が良いと思うな。奨学金もあるし、就職も幅が広がるし……」
何なら援助してもいいと思っていた賢彦が呟くと、淋はわずかに目を細めて振り向いた。
「行くのはいいんだけどさ、母さんを一人にするのは気になるんだよね」
静かな一言に、賢彦はぎくりとした。
母親を狙うオオカミを見るような目で、淋がこちらを見ている気がした。じりじりと、太陽にも責められる気がして、暑さとは裏腹に汗が引く。
そんな筈はない――やましい気があるからそう思えるだけだ。
清香さんに会いに行ったのは幼い頃だけだし、淋はもちろん、他の誰にもこの気持ちを打ち明けたことなどない。そんなことをすれば、只でさえ余所者である清香に迷惑が掛かる。だからこそ、清香ではなく、この少年と仲良くなろうと努めてきたのだ。
下心丸出しにならないよう、注意深く、あくまで友達として――
「……そ、そうだよな、清香さん一人じゃ不安だよな……」
美人だからと付け加えそうになる言葉を呑み込む。
出会ってから十八年も経過したというのに、清香の美しさは些かも陰りが無かった。様々な男が求婚してきたが、彼女は「男なんてもう沢山」と言って片っ端から断り、勤め先では松木やハツがうまいことガードしていた。
或いはそのために、松木の店に勤めたのかもしれない。
淋は、その通りだと言うように頷いた。
「母さんは、おっちょこちょいだし、ぼさっとしてるから――俺が出て行ったら、すぐに振り込め詐欺に騙される気がするよ」
なんだ、そっちの心配か。
まあ、確かに息子が不在時の『オレオレ』は危険かもしれない。
「心配だろうけど、清香さんは三十八歳じゃないか。まだ騙されるほどじゃ――」
「よく知ってるね、賢ちゃん」
淋はこちらを見なかったが、その横顔は微かに笑っていた。
「……初めて会った時の清香さん、二十歳だから。淋の歳を足せばいい」
勘の良さそうな母親似の顔を不気味に思いつつ、賢彦はなるだけ自然に笑って歩を進めた。坂やカーブの多い町を歩いていると、時折、観光客と思しき女性たちが振り向いた。夏休みの百江島には、長閑な海や風景を求めて、そこそこ人々が集まるが――時たま、この少年目当ての人間が訪れる。母親似の整った容貌は、男らしい精悍さも相まってすっきりとした美しさで目を引いた。足が長くすらりとしていて姿勢が良いため、実際の身長よりも高く見える。シャツから覗いた白いうなじなど、男でもどきりとすると誰かがこぼしていた。
こっそり写真を撮られることもあったが、淋はいちいち相手にしなかった。気に留めることもなく、颯爽と歩いて行く様は、本当に王子様の風格を思わせた。
「そういえば、淋……新しいお巡りさんと親しいって聞いたけど」
微かに淋の頬が強張った気がしたが、彼は吹き消すように鼻を鳴らして微笑んだ。
「そんなこと、誰に聞いたの?」
「寿々ちゃんだよ。菜々ちゃんが淋に嫉妬してるって笑いながら」
「趣味悪いよね、あの姉妹。……おっと、賢ちゃんは動物狂いってだけか」
小突いてやるが、寿々子のアプローチに気付いていないわけではない。
明るくて素直な寿々子は良い子だと思うし、他の女性と付き合うぐらいなら彼女の方がずっと気楽だ。
でも、今は……清香が心から離れない。
「お前こそ、ゆっちゃんとはどうなんだ」
「ゆず子? さあね……最近、俺も忙しくて」
サラリーマンのような言い訳に首を捻りながら、賢彦は色素の薄い横顔を見つめた。
「恋愛に興味が無いなら、いっそ、モデルか――芸能界でも入ればいいじゃないか」
その容姿を生かさぬ手はないと思ったが、淋はニヤニヤ笑った。
「それは母さんが反対してるんだ」
「清香さんが?」
親が勝手に、子供の写真を芸能事務所に送る話はまま有る。淋なら何処に送っても引く手数多――というよりも、スカウトする側が土下座して頼むレベルだろうに。
意外そうな賢彦に、淋は取り澄ました顔で頷いた。
「あれでも、母さんは痛い目を見たことがあるらしくて。どうしてもやりたいなら止めない、とは言われたけど、俺もやる気はないね……芝居もテレビも興味ないし」
「ファッションモデルとかも?」
「そんなもん、この島で興味があるのは寿々子だけだよ。俺がオシャレな世界でやってけると思う?」
「お前を着飾りたい人は、沢山居ると思うけどな」
「じゃ、困ったら脱ぐ方をやろうかな」
天邪鬼な王子様は皮肉に笑った。こんなことを平然と言うが、淋は頭は良く、大抵のことはこなせる。恵まれ過ぎた容姿のせいで、高校はそれなりに苦労もあったようだが、仕事ではプラスに転じるかもしれない。
淋は、日差しに消えてしまいそうな姿を、まっすぐ前に向けたままぼんやり言った。
「でも、そっか……賢ちゃんが島に残るんだったら、ちょっと安心だな」
「……な、なんで?」
「なんでって、賢ちゃんは母さんの同志だろ。あの人、寂しがり屋だから」
淋の笑った顔が、清香に重なる。
――同志とは、同じジャンルの本好きという意味だ。
清香は筋金入りの読書家――と言いたいところだが、大人が読むものはからきしの童話や絵本が好きな女性だった。絵本に図鑑、童話、児童向け小説を、島に来てからというもの図書館を訪れては読み漁っている。そもそも、あの洋館を利用した図書館が気に入って、百江を移住先に選んだらしい。
そのお陰で顔見知りになれた賢彦は、幼い頃、初めて清香の家に招待された時も仰天した。こじんまりと小さな家は、キッチンと浴室以外には、トイレさえも本が積み上がっていた。借り物や購入したものもあったが、タダ同然で譲り受けたものが殆どということで、ページが黄ばんだものや、表紙がぽろりと抜けてしまうような古本もあった。
「片付けないと、危ないんだけど……」
恥ずかしそうな清香と、幼い淋、山のような本、冷えた麦茶や、二つに割れるアイス、蒸した薩摩芋、マシュマロが浮いたココアなどを挟んで過ごした日々が、熱でぼやける頭に浮かんで消えた。母親が嫌がる、しゅわしゅわと泡が口に広がる紅色やブルーの飴玉、清香が上手に膨らませるピンクのフーセンガム、「ヒミツね」と言って一緒に食べた、カラフルな着色料のゼリー菓子。
一番好きだったのは、清香が手作りしてくれたプリンだった。
たまに失敗して、すが立つこともあるプリンは、流行りのとろとろしたものではなく、しっかり固めのものだった。カラメルの色はいつもばらばらで、香ばしいというよりも焦げた味がする時もあり、妙に薄くさらさらしていて、甘過ぎる時もあった。
「今も……片付けないと危ない部屋なのか?」
微苦笑と共に尋ねると、淋は大まじめに頷いた。遺伝なのか、あの家に暮らして自然に染みついたのか、彼も相当な本好きだった。
「地震が起きたら、死因は『本』で決まりだね」
最近、寝ぼけてトイレ行くのが危険、と言う声に笑ってから、賢彦は思わず呟いていた。
「また……遊びに行きたいなあ」
「は? 来たいなら来ればいいだろ」
「え、ああ――……うん……」
口ごもる賢彦を、淋は訝しげに見つめている。
「……いや、ええと……ほら、俺もガキじゃないし……図体でかいし、本倒しちゃ危ないし……」
顔も見られずにぼそぼそ言うと、淋は鼻で笑ったようだった。
「俺、賢ちゃんのそういうとこ好きだよ」
軽やかに言うと、淋はすたすたと先に歩いて、立ち止まってから振り向いた。
「で、俺んちの前に着いたけど」
入る? と、面白そうに尋ねる青年と、懐かしい小さな家を仰いだ。
大雑把に草むしりされた庭、雑草も植えた植物もいっしょくたに花開き、咲き始めの濃いピンク色の百日紅が、ボンボンのような蕾をぶら下げて風に揺れている。
この家の前で、清香とシャボン玉を膨らませ、淋や柚子と、安っぽい駄菓子の包み紙みたいな花火をした。火薬と、かき氷やスイカの香に混じって、あの人の……石鹸みたいな香がした気がして――思い出が胸に甦る。
熱風である筈の潮風は、淋が立っているだけで涼やかに見えた。
彼は百日紅の下で、ジーンズのポケットに両の親指だけ突っ込み、愉快そうに笑っている。
――……ばれているのかな。
汗ひと筋――垂れると思ったとき、あの人の声がした。
「淋ー? 帰ったのー?」
声と殆ど同時に開いた扉の向こうで、少しも色褪せぬあの人は、
「あっ」と声を上げてから、出会った時のように、にっこり笑った。
「賢彦くんじゃない。帰ってたのね。もう、淋ったら何ぼさっとしてるの? 暑いんだから、早く上がってもらって」
引くに引けなくなり、澄まし顔の淋に押されて、久方ぶりにあの家に入った。
「ねえ、すごいの。ちょうど冷蔵庫にプリンが三つあるの。卵一個余分に割っちゃって良かったあ」
ふわふわ笑う清香を見て、今日のカラメルは何色だろうと思った。
心がぽうっと赤らむあの時、自分はどんな顔をしていただろう。
待ちかねた春を控えた冬に、何が起きるかも知らずに。
あの人が聞きたがる動物の話をして……呑気に笑っていただろうか。
待ち受けていた末永と合流したのは、三波邸の前だった。
「達巳さん、大鳥さん」
相変わらず丁寧に腰を折る末永はパトカー二台を伴っていたが、すぐに別の場所へ走らせた。既に数台を港などの島の各所と、本島に繋がる道路に配備したという。
「三波町長はご在宅でした。賢彦先生はまだクリニックに――今日はもともとお休みだったそうなので、じきに戻るか……他に行くかですね」
末永の言葉に頷いたとき、誠一の電話が鳴った。
〈もしもし? 大鳥くん?〉
寿々子だ。
〈達巳さん、居る?〉
「あ、はい……居ますよ。代わります――」
〈ううん、いいよ。菜々子、ちゃんと帰って来たから。そう伝えて〉
なるほど、そういうことか。
スマホを耳に当てたまま達巳を振り返ると、彼は無言で頷いた。一体いつの間に連絡したのか、寿々子は何が起きるか把握した様子だった。
「ご連絡するまでは、戸締りをしっかりして、気を付けて下さい」
〈うん、籠はもうこりごりだもん。大鳥くんも気を付けてね〉
「はい、ありがとうございます」
〈急に知らないお巡りさんてカンジね? あ、上司が居るからか〉
妥当な意見に誠一が苦笑いを浮かべると、寿々子は顔が見えるかの様に電話の向こうで笑った。
〈……賢ちゃんを、お願いね〉
「……はい」
頷いて電話を切ると、末永がすかさず教えてくれた。
「月島さんのご自宅は、部下が張っています。安心して下さい」
そんな気はしていたが、ほっとした。月島姉妹はこの件の重要参考人だ。クリニックのスタッフである菜々子は、知らぬ間にとんでもないものを見ている可能性があるし、人質にされては一大事だ。
寿々子に至っては、当事者そのものである。
尤も――あの賢彦が、彼女たちを傷付けるとは思えなかったが。
「じゃあ、淋……潮見くんもですか?」
「潮見くんはご出勤だったので、図書館をマークさせました。中にも私服警官を数名入れてあります」
「そうですか……」
手落ちの無いことだが、こちらは何となく不安だった。
淋が『話さない』と言った意味を悟った以上、彼が無茶な行動を起こさないか、気掛かりだった。
「てっきり、クリニックに直接行くのかと思っていましたが――」
思わず呟いてしまった誠一に、末永は嫌な顔はしなかった。
「僕もそう思いますが、刺激するのも危険ですし、答え合わせがまだなので」
仰る通り、クリニックの周囲には隠れられる場所も無く、パトカーではなくても、患者ではない車が多数現れれば警戒されるのは必至だ。とはいえ、逮捕の確たる準備ができぬままこれだけ動くのは……既に相当大胆ではある。
それだけ、達巳を高く買っているということか。
「では、行きましょう。ごねられましたが、許可は得ています」
豪邸に些かも気後れが無いらしい末永が歩き出すと、二人も従った。
緊張した様子のお手伝いさんが現れ、いつか通された客間に案内した。今日は襖が開け放たれ、縁側から美しい日本庭園がよく見えた。
「三波町長は……?」
「かなりご立腹でしたが、部下を付けました」
家主の怒りなど聴こえる気配も無い程、屋敷は静かだった。上座を開けた状態で席に着くと、あの日のように、賢彦が笑顔で顔を出してくれればいいのにと思った。
末永は畳の似合う正座をした状態で、待ちかねたように膝を進めて切り出した。
「達巳さん……御見解を伺いたいのですが」
「はい」
「お電話では……持田殺しは刺殺による失血死ではないと仰っていましたが……」
「はい。最終的には失血死かもしれませんが、僕は……毒が使われたと思います」
末永は目を丸くした。誠一に至ってはポカンとしてしまった。達巳は気にせず言葉を続ける。
「誰でも、腹に穴が開いていれば、それが原因だと真っ先に思います。刺殺なら、亀井と争ったことにできますし、死んだ後に腹を刺し、血液を抜いても怪しまれない」
大胆過ぎる推理に、誠一は思わず末永を振り返ってしまった。彼は反論しなかったが、珍しく気色ばんだ顔つきで食い下がった。
「ですが、達巳さん……持田の遺体からは薬物は勿論、睡眠薬の類いも検出されていません。遺体には毒殺に見られる特徴もありませんでしたし……」
「末永警部、暖流域での溺死事故に、ある生物が関わるのをご存知ですか?」
唐突な問い掛けに、末永は目を瞬いた。
「暖流域で……ですか?」
「多くは、サンゴ礁で起きます――ダイビングやシュノーケリングをしていた人が、ごく稀にその生物の為に溺死するケースがあります」
「急な不調や、足がつるなどではなく?」
達巳は頷くと、一枚の紙を差し出した。
図鑑のコピーと思しきそれは、水族館のお土産ショップで見かけたような貝の写真と、説明文が書かれている。貝は円錐状の巻貝で、白と茶の斑のものや、焦げ茶色のもの、赤や黒の斑点を持つものなど様々だった。
「イモガイです」
「イモガイ……?」
「刺激しなければいいのですが、綺麗な見た目なので、知識のないダイバーが触れたり、漁獲の網に掛かったものを誤って触ったり、砂に潜んでいたところを踏むなどすると、密着した瞬間に攻撃されます。彼らの毒銛はウェットスーツや軍手を貫通することもあり、初めは蚊が刺した程度の痛みですが、すぐに激痛に変わり、最悪は死に至る神経毒を持ちます。故に海の只中で気を失い、溺死と断定されてしまう」
「そ……そんなものが百江に居るんですか?」
「いや、大鳥くん、世界中にだよ。日本では沖縄や鹿児島などが主な生息地だが、四国や伊豆、房総半島海域にも居る。沖縄では毒蛇のハブに因んで、『ハブガイ』と呼んだり、陸に辿り着く前に浜の中ほどで死亡するため『ハマナカー』とも呼ぶそうだ」
身震いする部下に、人間を殺すほどのイモガイは一部だと達巳は付け加えた。
「人間を殺すレベルのものに刺されると、即死に等しいようですね」
自身で調べた検索結果をとんでもないスピードで読んでいる末永に対し、誠一は急に不気味に見える貝の写真を見つめた。
「対処法は、あるんですか?」
「人工呼吸器を用いて毒が代謝されるまで耐えるしか。現在は血清が無いらしいので」
「では……持田殺しは……」
達巳の推測は、獣医師であり、島のあらゆる動物を知る賢彦の才をフルに生かした犯行だった。何かの理由で持田をクリニックに呼び出し、イモガイによって死、或いは行動不能にする。
恐らくナイフを刺した後、抜かずに紐などで括り、傷の端から注射器で採血をする。車で持田を発見現場――流れ着く場所に遺棄し、この時点でナイフを抜く。仮にイモガイによる死と判断されても、海に遺棄されれば、たまたま触れた可能性が発生する為、刺殺による失血死、または溺死となる。
「ナイフを回収したということは、亀井殺しは……その後ですか?」
「そうでしょうね」
事務的に殺人計画を紐解く様に、誠一は達巳が警官で良かった、と胸に呟いた。
「亀井も、神経毒でしょうか?」
「恐らく。彼の方は毒で死んでもらう必要があったと思います」
亀井を毒殺した現場が、あの山ではと達巳は言った。
「図書館の『見つけた』のメモからして、彼らが何かを探して島を訪れたのは間違いない。大鳥くんもそうだと思うが、初めは僕も、あのメモが指すのは淋くんのことだと思った。だが……住んでいた百江に帰るのは、容易に想像がつくことだろう?」
言われてみれば、奇妙なタイムラグがある。淋が戻ったのは二年前。
いくら『エデン』から何かの理由で海に落ちて、行方不明になったとしても、真っ先に百江を捜索、又は見張るのが自然だ。
寿々子の話からして、淋が重宝されていたのは間違いない。それなのに何故――彼らはすぐに行動を起こさなかったのだろう?
「淋くんに関しては憶測の域を出ないので控えますが、探していたのは彼だけでは無いと思います」
「登藤八千代さんですか」
末永の正確な解答に達巳は大きく頷いた。
「乙津がわざわざ登藤を名乗ったのは、八千代さんが現れると踏んでのことじゃないかと思います。この作戦を提案したのが賢彦くんかはわかりませんが、現れなければ、彼らは業を煮やした筈。そんな中、賢彦くんがあの山に『彼女が居る』と告げたらどうなるか……」
「こっそり行くでしょうね。あの山の山頂は下からも上からも木々で見えません。建物があると嘘を吐いて案内しても難がありませんし、遺体は捜しに行かなければ発見すらされないでしょう」
達巳は頷きながら、顎を撫でた。
「スーツを着たままだったのは、腐食或いは臭いを抑える為だと思う。賢彦くんのようなタイプが、虫が居るから着た方がいいなどと忠告すれば、まあ大抵の人間は従う筈だ。これで、亀井が殺された前後が乱れる」
殺された亀井の遺体を転がし、争ったように周囲を彼の靴で踏み荒らす。無論、持田の靴跡が無いのを悟られないため、引き摺って潰しておく。あらかじめ抜いた持田の血液を木にぶちまけ、亀井にナイフを握らせる。こんなどたばたをしても、あの山では真っ昼間だろうと誰も気付かないというわけだ。
「そして、モモ。たぶん、モモは眠らせた上で血液を付着させ、大鳥くんのところに帰宅させたんだ」
「でも――あの日、俺のところに帰宅するとは……」
言い掛けて誠一ははっとした。
「……そう、淋くんのところに帰宅しないときは、彼の自宅に誰か居る場合だったね。賢彦くんが、津田くんと乙津、各々と結託していれば、それは可能だ」
エデンに乗った賢彦が、乙津と協力或いは取引をし、淋の行動を知るのは自然なことだ。いや……津田に近付いた時点で、既に知っていた可能性もある。
「首尾よく持田と亀井を殺したわけですが……彼は何故、自分も疑われる百江島を犯行現場にしたのでしょう?」
「炙り出す為です。海隠しの主犯を」
「潮見清香さんの…仇討ち……ですか?」
「動機はあくまで推測ですが。もし、清香さんを殺したのが持田と亀井だとしたら、賢彦くんは乙津と取引をして、彼らを島に派遣させ、代わりに淋くんを連れ出すのに手を貸すと言えば済む。思うに、賢彦くんは初めから淋くんを渡す気はなかったと思いますが……」
「だから、スコールの日に乙津を殺したんですか……?」
部下の問い掛けに、これまで流暢だった達巳の言葉は、やや失速した。自信が無いのか、腕を組んで小さく唸った。
「いくら賢彦くんが協力すると言っても、乙津も警戒していただろう。しかし、殺された……乙津殺しは、賢彦くんの計画にしろ、彼の犯行ではないと思う」
「ま、まさか津田さんが……?」
現役警察官の殺人など信じがたいと青くなる誠一に、達巳は首を振った。
「……たぶん、津田くんでもないと思う。僕は初め……乙津と接点の強い淋くんを疑ったが、大鳥くんがアリバイの証人だし、現場からして彼ではないのは立証済だ。乙津を恨むのは月島姉妹もだが、この段階では菜々ちゃんは乙津の正体を知らないし、寿々ちゃんはエデンに居た」
「では……他に誰が……?」
「――話しましょうか」
突如、響いた声に誠一は飛び上がるかと思った。
「た、賢彦先生……」
いつかのように、穏やかな顔をにっこり微笑ませた賢彦が立っていた。
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