10.真相
翌朝の百江島はしっとり濡れた地面を輝かせる快晴だった。
草木もアスファルトも海面のように光を反射し、午後には蒸し暑くなりそうだった。いまだ冷めやらぬ夏にうんざりしつつ、誠一は自転車を走らせていた。
慣れてきた坂道やカーブを廻りながら、通りすがりの島民と挨拶を交わし、唯一の学校から響く子供たちの声を聞く。
穏やかな風景の中、ペダルを漕ぎながら巡らすのは……事件のことだった。
乙津は『エデン』を降りた後、有給消化をしていたことが判明した。退職の気配があったが、転職する様子も無かったらしい。捜査が入った本島の自宅からも、死に繋がるものは見つからなかった。
誠一は賢彦に会いたかったが、勉強会だか研修だとかで島を留守にしており、クリニックも、菜々子が保護した動物の管理や、簡単な処置をしているだけで、急患や重病は本島の病院対応になっている。
台風で壊れた教会が、どうも引っかかるのだが。
いくら考えても暗雲立ち込めるばかりの頭に愛想を尽かしながら、誠一は松木の店を訪れていた。
淋の母、清香について聞いてみたかったからだ。
夫妻は彼女と良好な関係を築いていたようだし、先日、寿々子の証言によって死を聞かされた際は二人とも涙を流した。遺体が無い為なのか、葬式をする気がない様子の淋に対し、夫妻が写真の前で線香を上げていた姿は、誠一も胸が詰まった。
淋は、あれから大人しい。モモがあまり帰って来なくなった辺り、彼の家を訪ねる不埒者は居ない様だが、皮肉や笑顔も減ってしまい、死者がうろついているように覇気がない。
清香は明るい人だったと聞いている。松木夫妻なら、その思い出から淋を元気づける方法ぐらいはわかるかもしれない。
ほのかな期待を胸に、店に入る手前――誠一は足を止めた。
中で誰かが揉めている声がした。
止める必要があるかと思ったが、片方は松木、片方は誰だろう?
誠一は、ふと……自転車ごと裏手に回り、ドアの脇に積まれたダンボールとビールケースの影に大急ぎで身を潜めた。油汚れに曇った小窓から様子を窺うと、厨房で仕込みをしているらしい松木に、初老の男が詰め寄っていた。
「まっさん……そこを何とか……!」
食って掛かる男には見覚えがあった。持田の遺体が上がったとき、港でこちらに難癖付けようとした男だ――確か、名前は
「やかましい! 俺はお前らなんぞに協力するつもりはねえ!」
「あ、あんたも台風の時、世話になったろ!」
「へっ! あん時の援助金なんざ、とっくに色付けて返済してらあ!」
「だ、だからって……! その場は確かに……」
「あんまり四の五の言いやがると、あの警部サンに洗いざらい吐いちまうぞ!」
「じ……冗談じゃない! あんたまで捕まるぞ!」
「上等だ! 俺がもっとしっかりしてりゃ……くそッ……このままじゃあ清香に申し訳が立たねえンだよ……!」
清香。
それに――台風? 援助金? 洗いざらい吐く――あんたも捕まる……声が出そうになる口を慌てて押さえた。
清香に……申し訳ない? 何が?
「……まっさん……とにかく落ち着いて聞いてくれ。もう三人死んでるんだ。次は誰なのか……皆怯えてる。早いとこ淋を……――」
淋を? 気になる言葉は続かなかった。
微かに響いた金属音のあと、松木は静かに言った。
「俺はもうやらねえ。お前ら、淋坊に手ぇ出してみろ……この包丁で一人残らずかっさばいてやるからな……!」
「……っ……」
日田は黙していたが、ガタガタと何かにぶつかりながら表から出たようだった。
松木が静かになり、黙々と手元を動かすのを確認し、誠一は注意深く雑多の陰から抜け出た。変に鉢合わせない様に裏手の通りをぐるりと回り込んでから、改めて表に出ると、今度は堂々と玄関を叩いた。
「……あいよ」
幾らか元気のない松木の声がしたが、誠一が顔を覗かせると、彼は少し嬉しそうに笑ってくれた。
「おお、誠さんか。どうかしたかい?」
「こんにちは。お仕事中、すみません」
「構わねえよ。まだ暇な時間だ」
何か出そうかと言う松木に、勤務中だからと丁寧に断ると、先日、夫婦が手を合わせていた清香の写真に目を留めた。
そこには松木夫妻と清香、幼い淋が笑顔で写っていた。
それとなく手を合わせた誠一に、松木はしみじみと呟いた。
「……清香のことで用事かい、誠さん」
「まっさんは、察しが良いですね」
振り向くと、松木は鼻を啜って首を振った。
「いいや。俺は大層なアホンダラだ……どうしようもねえヤツだよ」
「そんなことないです。俺はもう、週末にまっさんの料理を食べないと頭が変になりそうになる」
「ハハ……あんたは良い奴だなあ……」
お袋も女房も言ってた、と言って、松木は手元を休めて笑った。
カウンターから冷えた麦茶のコップを両手に出てくると、店の椅子を勧めて自分も向かいにどっかと腰かけた。
「で? 清香の何を聞きたいんだい?」
「あ、いえ、大したことではなく……ただ、どんな方だったのか伺いたくて」
松木は意外そうな顔をした。
「淋が、元気が無いんです。清香さんのお話を伺えば、以前の釣りの時の様に歩み寄るきっかけが見つかるかと思いまして……」
正直に告白すると、先程は鬼のような形相だった男が、目に見えて穏やかな印象になった。
「そうかい……」
目元を和ませると、松木は静かに語り始めた。
「……清香は、そうだなあ、言うまでもねえが綺麗な女だったよ。中身はちっとばかし足らねえとこもある、変わった女だったが」
「まっさーん! 煮付けとアジフライ一つずつー」
九年前まで、清香はその名にぴったりの清々しい声を響かせていた。
私服にシンプルなエプロンを付けて、髪をぴっと結い上げた彼女は、白いうなじのラインが芸者にも劣らぬ色香だった。小さな店内を、盆やメモ、ジョッキ片手にくるくると回りながら、いつも愛想良く給仕をしていた。都心のレストランでも十分やっていけそうな彼女が、働かせてくれと頼みに来たときは、夫婦揃って面食らった。
「そりゃ……うちは手伝いが居たらありがてえが、稼ぎも大したことねえし、あんたみたいな別嬪雇うなんて……緊張しちまうなあ」
ちょうど先日、赤ん坊と一緒に見慣れぬ美人が食べに来ているなと思っていた松木は、頭を掻いた。清香は顔に似合わず、簡単には折れなかった。
料理に一目……ひと口惚れしたというのだ。
「お給料は少なくてもいいんです。その……よろしければ、お料理を教えて欲しくて……」
天使のような赤ちゃんを抱えて、清香は恥ずかしそうに言った。
「この子を育てなくちゃいけないのに……私、目玉焼き一つできないので……お願いします」
人が良く、子供の居ない松木夫妻は、訳有りと思しきよそ者を門前払いにはできなかった。そもそも、そんな赤ん坊が居るのに働こうとする清香にも面食らった。
母親が働く間、一体誰がその子を見るのかと指摘すると、清香は「あっ」と小さく叫び、今気づいたとばかりにしょんぼりした。そのどうにも放っておけない様子に、松木夫妻は折れた。何より松木は、初めから『何もできない』と
そうして清香は、寝る以外は殆ど松木の店に入り浸り、ハツ夫人や松木の母などに赤ん坊を見てもらいながら、松木の手伝いをしたり、給仕をしたりし始めた。
彼女はそそっかしい反面、何でも真剣に聞くし、覚えはともかく一生懸命だった。
足りない分を埋めようとするようにせっせと動き、松木の母やハツとは仲良く喋る。言うことなしだった。
何より清香は、お嬢様然たる見た目でありながら、気取ったところがまるで無かった。松木の母が余り物で作る骨煎餅やアラ汁を大喜びで食べ、豪快な漁師飯を美味しい美味しいと高校生のように掻き込み、生きた魚を捌くのも嫌がらなかった。
彼女を目当てに訪れる客も増え、店は大いに繁盛した。一方、清香はそうした目を苦手としており、既婚者や高齢者とは非常に仲良しだったが、厭らしい視線の男からはすぐに逃げを打った。松木は実の娘のように清香を庇護し、しょっちゅう男どもを叱りつける羽目になったが、それさえも楽しい日常だった。
もう一つ、子供のいない松木夫妻を和ませたのは、孫のようにすくすく育つ淋だった。中学生までの淋は、母親の仕事中、カウンターの隅っこによく座っていたという。聞き分けの良い子供で、一人静かに本を読んだり、教科書を捲り、字を書いたり計算をしていた。
「淋ちゃん、お勉強? えらいわねえ。麦茶どうぞ」
「ありがとう」
清香の教育なのか、淋はその都度きちんと礼を述べた。
笑顔こそ少ない子供だったが、ハツのみならず、大抵の客はこの天使のように可愛い少年がお気に入りで、姿を見ると飴やチョコをあげたり、わざわざアイスクリームやケーキを買って来る者まで居た。
また、淋は非常に聡い子供で、自分をダシに母親に近付こうとする男はすぐに見抜いた。彼は何気なく座っている時も、賢そうな目で人間観察をしているのだった。
「淋坊、学校は楽しいか?」
仕事の合間、松木は目の前で机に向かう淋によく話し掛けた。
中学になる頃の淋は、妙に達観した印象の少年になり、皮肉っぽい話し方をするが、すらりとした体つきと母親似の美貌が板に付いて来ていた。
「楽しいよ」
声変わりし始めたトーンでそう答えてから、淋は接客中の母親を振り返ってからニヤッと笑った。
「ホントはまあまあ。小学校から面子が変わんないしさ。ちょっと飽きてきた」
「心得てるなあ、お前は」
ニヤニヤ笑いながら、松木は頷いた。
「高校はどうするんだ?」
「行くよ。早く働きたいけど、中卒じゃ、さすがにね」
「そうか……島出るのか?」
「ううん、母さんを一人にするのは心配だから、此処から通う」
「偉い奴だ。ひょろっこいが良い男になってきたな」
「そうかなあ」
賢ちゃんみたいな体型なら良かったのに、と言いながら淋は細腕を撫でて笑った。
「学校行ってる間の母ちゃんは任せとけ」
「うん、まっさんが居るからいつも安心してる」
にこにこ笑う淋に、よせやい、と松木は柄にもなく赤くなって頭を掻いた。
「楽しそうね。何の話?」
盆片手に顔を覗かせてくる清香に、淋はニヤニヤ笑ったまま手を振った。そうして並んでいると、若々しい清香は母よりも姉のように見えた。
「男同士の話」
「あら、まあ……いっちょ前にー」
クスクス笑いながら息子の髪をくしゃくしゃにすると、清香は松木に注文を告げた。髪をちょいちょい整えながら、淋はカウンター向こうで作業する松木に言った。
「まっさん、今度、釣り教えてよ」
「おお、いいぞ。賢彦くんが一番弟子だから、二番弟子だな」
「やった! 実はもうやってるんだけど、賢ちゃんみたいに上手くいかないんだ」
「よしよし、何がよくねえか見てやろう」
「いいなー私もやりたいなあ」
すかさず子供みたいに入り込んでくる清香に、淋は近頃やるようになった鼻で笑う仕草と共に首を振った。
「イヤだね、母さんはゆず子と編み物でもしてればいいだろ」
「えー男女差別反対。ゆーちゃんも誘いましょ」
「諦めろや淋坊、清香は一度言い出したら聞かねえよ」
「さすがまっさん! わかってるわー」
「いいわねえ、おにぎり握りましょうか」
「ハツさんのおにぎり付きじゃあ、仕方ない」
「淋ったら。私のだと具が出てるとか言うくせに。あんたの為に教わったプリンも文句言うし」
「母さんのとハツさんのじゃあレベルが違うよ」
「それはそうだけど。ちょっとは賢彦くんみたいに気遣ってよー失礼しちゃうわ」
笑い声が、聞こえる。
今は無人の店内を見渡して、誠一はそう思った。松木の思い出の中で、松木夫妻も、潮見親子も笑顔だ。何気ないことが、楽しい日々。
見せてくれた写真は、七五三だろう。店の前で、夫妻と清香、お坊ちゃんめいた服装の淋が、千歳飴の袋を持って笑っている。
どうして、そのまま続かなかったのだろう。
松木の悔やむような表情に、その真相を見た気がした。
「……話して下さって、ありがとうございました」
深々とお辞儀をした誠一に、松木は切なそうに笑ったようだった。
「このぐらいで何だい、水臭えや」
「いいえ。まっさんは最初から、俺に親切にして下さった。本当に有難いです」
「そいつぁ違えよ。先にお袋に親切にしてくれたのは、あんただろ」
「まっさんは、お母さん想いで……頭が下がります」
「……まあ、俺も『しんぐるまざー』ってやつだからな」
そうだったのか。
漁師だった父親は胸を病み、早くに亡くなったという。
誠一は納得した。松木が島の出身でありながら、よそ者である潮見親子を受け入れたのは、苦労した母親と自身を重ねたからなのだろう。
「ありがてえよ、誠さんみたいな人が来てくれて。あの後も、散歩中のお袋に声掛けてくれるし、淋坊も店に連れて来てくれた。感謝してる」
「いえ、淋は……俺の自己満足みたいなもので――」
言い掛けて、誠一は言葉を切った。
胡乱気な表情になる松木に向き直って、姿勢を正す。
「まっさん……じゃあお言葉に甘えて、ひとつ……お願いしてもいいですか?」
「あ、優しいお巡りさん」
顔を合わせた瞬間、
勤務後、夕陽に照らされる月島家を訪ねた誠一である。
姉妹二人の家は、亡くなった親戚が使っていたもので、島の中心地に在った。
両隣の家にきゅっとすぼまるように収まった家は、若い娘が住むには少々古めかしく、雨染みや苔が生えたブロック塀や、窮屈そうに生えた小ぶりの松などは前の住人を思わせた。菜々子はまだ勤務中とのことで、寿々子は豊かな髪を背に束ね、部屋着っぽいパンツスタイルにパーカーを羽織っていた。そんな恰好でも、彼女は充分キラキラして見えた。
「ご無沙汰してます。お元気ですか」
「おかげさまで」
髪を耳許に放る指先に、派手なマニキュアは見られなかった。ルージュも心なしか淡い色になり、薄化粧は寿々子をよりエレガントに見せていた。
「急に申し訳ないんですが……お時間があれば、図書館にご一緒願えませんか?」
遠慮がちな申し出に、寿々子は目をぱちぱちさせて首を傾げた。
「いいけど……あたしと居たら、ゆず子に勘違いされちゃわない?」
「え? あ、いや……俺と柚子さんはそういう関係じゃあ……!」
誰が話したんだ? 淋か? 首を振る男を、面白そうな両目が仰いだ。
「大鳥さんはホント可愛い人ねえ」
いいわよ、と承諾してくれた寿々子は、一度奥に引っ返してから、スマートフォン片手にすぐに戻って来た。
「菜々子にメールするから、待ってね……もう、スマホって慣れなくって……なんでボタンが無いわけ? 画面押しづらいったらー……」
こんなものを軽々使いこなしそうな姿で、苦笑いを浮かべながら画面を指で押し込むように叩く寿々子は、自分の母にも似ていて、誠一はつい笑ってしまった。
「ちょっと、笑わないでよ!」
そう言いながら自身も笑う寿々子は、それでも十分早くメールを打ち終えた。何の抵抗もない様子で車に乗り込もうとして立ち止まる。
「あ、助手席は……ゆず子のものかしら?」
「いや、だからあの……」
「冗談よ」
口許に手を当てて含み笑いをした寿々子が助手席に滑り込むと、誠一は図書館に車を走らせた。
「ところで、あたしに何の用?」
「例の教会の事を伺いたくて」
「お化け屋敷の? ……それなら淋や、ゆず子の方が詳しくない?」
「……非常に言い難いんですが、二人を頼れない事情があるんです」
「ふうん……? じゃあこれって秘密の捜査ってこと?」
「そこまで大それたものじゃないですけど、そう思って頂けると助かります」
「オッケー。ちょっとワクワクしてきたわ」
図書館に着く頃には、既に陽は落ちていた。
寿々子は捜査と聞いてから、むしろ楽しそうだった。スキップするような足取りで図書館の入り口をくぐると、あれ、と声を上げた。
待つようにロビーに立っていた、見るからに優しそうな面差しは沢村館長だった。
「寿々ちゃん、久しぶりだね……大きくなって……」
眼鏡越しに潤みそうな目の男に、寿々子はにこりと笑ってお辞儀をした。
「こんにち……ああ、もう『こんばんは』かな。お久しぶりです」
「うん、うん……」
まるで生き別れた娘か孫に対面したような応対だ。
誠一は無意識に淋を探してしまったが、閉館時間の過ぎた館内は灯りが落ち、人の気配は無かった。
「沢村さん、時間外にすみません」
「……いえいえ、大鳥さん。お安い御用です。こちらにどうぞ」
穏やかに微笑んだ沢村に伴われたのは、図書館の二階だ。
何度も訪れた従業員休憩室とは別の部屋――そこは、かなり旧い資料が詰め込まれた小さな部屋だった。わずかにひやりとする空間は微かにかび臭く、低い天井に届くほどの本棚は錆びたハンドル付きの可動式だ。殆どが装丁された本ではないファイルらしく、同じ青色のものがずらりと並んでいた。隅には一人暮らしのダイニングテーブルぐらいの机がひとつ置かれ、本棚とはようやく人ひとり通れる隙間があるだけだ。恐らく、いつもは椅子も一脚なのだろう――錆びが転々としたパイプ椅子に、三人は何とか腰かけた。
沢村は机に乗せられていたファイルを開いて、寿々子と誠一の方にページを向けた。
「そう、これよ。お化け屋敷って呼ばれてた教会」
寿々子が頷く建物の写真が載っていた。かろうじてカラーであるという感の、古い写真だ。のっぺりと他には何もない丘は、現在、三波動物クリニックが建つ場所に間違いなかった。教会は、白いログハウスに、十字架を掲げた白の尖塔がひょいと伸びている感じの、とても簡単な造りに見えた。映画の撮影用セットと言われても頷ける。急ごしらえのようなぺらっとした建物は、老朽化せずとも、あの台風ではひとたまりも無かったろう。
「……沢村さん、どうしてこの島に教会が在ったかご存知ですか?」
「……」
沢村は黙した。困っているというよりも、思いつめた表情だった。
「お願いです。教えてください。『海隠し』と、関係があるんじゃありませんか?」
誠一の思い切った言葉に、寿々子がはっと振り向いた。沢村は静かに教会の写真を見つめていたが、眼鏡を取り、目元を押さえた。
「……その通りです。……寿々ちゃんを連れてくると仰ったので、覚悟していましたが……」
「……卑怯なやり方をしてすみません……でも、寿々子さんが居れば、きっと話して下さると思いました」
利用されたことに腹を立てるかと思ったが、寿々子は唇を引き結び、草むらに潜む小動物のように耳を澄ましていた。
「何故、私が知っていると思ったのですか?」
「……この図書館も、洋館だからです。気になってからは、どうしてなのかと思っていました。普通は、元の持ち主が誰だったとか、いつ建てられたかなどの説明文があるでしょう? 観光地でよく見る碑文のような……あれが見当たらないのに、違和感がありました」
述懐しながら、誠一は寿々子を振り返った。
「彼女と話したとき、歴史的建造物という言葉を聞いて、気付いたんです。もし、本当に歴史的建造物なら――島にとって大切な遺産の筈ですよね。たとえ価値が無くても観光に役立てられますし、教会はそのまま利用できる。それなのに……お化け屋敷状態のまま放置した上、あっさり取り壊し、図書館はあくまで図書館という格好だけです。教会のスタッフは確かめようがないので、図書館の方に最も長くお勤めになっている貴方が、何かご存知ではと……」
沢村は得心がいったように数回頷いた。気の小さい彼らしく、辺りをそっと見回してから殊更、小さな声で言った。
「あの教会が稼働していたのは、ずっと昔――まだ私が図書館に勤め始める前のことです。最後の信者は数名の外国人で、神父も居ました」
「外国人ですって……? この島に?」
寿々子が信じられないという顔で呟いた。誠一も同感だった。この島では、観光客ならば見かけるが、外国人は一人も住んでいない。役場にそういう人が居ないか尋ねに言ったときの、職員の不審そうな顔を思い出す。
「彼らは、何処へ行ったんです……?」
「……消えました。ある日突然。……寿々ちゃん、君みたいに」
皺の寄った目元に
「私が体感した、最初の『海隠し』です。それ以前は伝説のようなものでしたから、まさか本当に起きるとは思ってもみませんでした」
「消える前に……変わったことはありましたか?」
「ありましたとも。九年前と同じ――直撃型の台風です」
誠一は思わず寿々子を見ていた。彼女も目をまん丸にして、誠一を見返した。
「教会が最初に大きく崩れたのはその時です。教会だけではありません……島中の建物が被害を受けました。道路、電気や水道を含め、当時の被害総額は一千万単位に上ったと聞いています」
「教会を……再建する動きは?」
「ありましたが、明らかに後回しでしたね……どうしても中心地のインフラが優先されましたし、因習深い土地柄で――……彼らが住んでいた界隈も、後手になっていました」
「……かわいそう」
寿々子がぽつりと呟いた。誠一は嫌なものが胃にどんどん溜まる気がした。
「……彼らが住んでいた界隈は――結局、整備されたんですか?」
沢村は無言で首を振った。
「その前に、彼らが海隠しで消えました。小さな子供も一緒に……」
海隠し=人身売買とは限らないが――その当時、『エデン』はまだ就航しておらず、遺体も発見されていない。別ルートだったのか……救いがあるとすれば、彼らが自ら出て行った可能性だが、家財道具一式は残ったままだったらしい。クーデター時や紛争地域ならばともかく、数名が着の身着のまま出て行くとは考えにくい。
寿々子が拳にした親指先を唇に当てて、舌打ちでもしそうな顔で呟いた。
「どうしてわざわざ……こんな島に住んだのかしら……」
「それはね、逆なんだよ、寿々ちゃん……」
「え?」
「因習深い島に彼らがやって来たのではなく――……彼らが住んでいた島に、後から入居したのが、島民の祖先なんだ」
「……この島、日本じゃなかったの?」
「……いいや、」
沢村は首を振り、疲れたような溜息を吐いた。
「日本だよ。ただ、昔は流刑地だったんだ」
「流刑地……そうか、だから就航できる場所が少ないんですね?」
本島から程良く近く、漁港が一つ、ビーチも一つ、残りはハンドレッド・ベイと崖っぷち――道路の無い時代には、まさにうってつけの場所だ。
「そうです。普通の人が住むようなところではなかった。流刑そのものが廃れた後、縁起が悪いでしょう、日本人が避けた島を開墾したのが、海外から何かの理由で流れてきた人たちだと言われています」
「じゃあ……どっちにしろ、ひどいじゃない……後釜の癖に……」
自身も被害者である寿々子は、ショックよりも怒りを隠せぬ様子だった。誠一が気詰まりな思いをさせたことを反省する傍ら、きっと黒い瞳を上げる。
「ねえ、それじゃ――もし、その人たちを売ったなら……誰がそのお金を受け取ったの?」
「……」
「沢村さん……あたし、男の嘘を見抜くのは得意よ」
娘ほど年の離れた女性の威勢に、沢村は気圧される様に頷いた。
「……当時の、町長だよ。今の三波町長のお父さんだ。そして……島の復興費用と、当時の島民に分配されたと……私はそう聞いている」
「――あたしの時もそうだったの!?」
さっと立ち上がった寿々子の細い双肩を、誠一はそっと押さえ、項垂れる沢村を見下ろした。
「……沢村さん、……あなたは、今回の事件には――」
「犯人かと仰るなら、子供以外はみんな犯人ですよ……大鳥さん……」
沢村の赤くなった目から、苦しそうに涙が垂れた。
「勿論、何があったか知らない人が殆どでしょう。信じてもらえないかもしれませんが、私も……まさかこの時世に人身売買したなどとは思っていませんでした。援助金を受け取ったとき、あなた方が行方不明になったことと、イコールで結べた人間がどれほど居たか。みんな自分たちの暮らしを取り戻すのに躍起で、せいぜい『何があったのだろう』と訝しむか、『お気の毒に』などと述べて終わりですよ……」
押さえている寿々子の肩が震えた。沢村は顔も上げられず、机の何もない一点を凝視した。
「……そう……明日野達巳さんや松木さんくらいです。何をしたと、町長に歯向かったのは……――明日野さんは、大鳥さんのように赴任したばかりで、上司の方に随分怒鳴られていましたが、本当に熱心に調べていたと思います。松木さんは、あんなに大切にしていた潮見親子を裏切ることになって……どんなに……どんなにか……」
――清香に申し訳が立たねえ。
松木のセリフが心に反芻する。
「……その話、末永警部の前でもできますか……?」
沢村はきちんと折り畳まれたハンカチで目元を拭い、静かに頷いた。
「……私でよろしければ」
「……ありがとうございます。では、そろそろ失礼致します」
顔を上げることもできない沢村に丁寧に頭を下げると、帰ろう、と寿々子に声を掛けた。娘の黒い両目は厳しい光を宿したままだったが、おとなしく頷いた。
「……沢村さん、あたし……――」
出口を向いたまま言い掛けて、寿々子は口をつぐんだ。
「……やっぱ、いいわ……いい大人が、くよくよしちゃ駄目よ」
小さくもきりりとした声で言い放つと、やって来た時とは真逆の足取りで図書館を出た。
車に乗り込んだとき、寿々子はいつかの淋のように窓の方を見てぽつりと言った。
「……大鳥さん、あたしね……成人式の着物、着たかったんだ……」
それは、寿々子にしては、か弱い一言だった。
誠一はエンジンを掛けようとした手を止めて、彼女を見た。
シートにぺったり沈み込み、窓に向いている表情は見えなかったが、ほつれた髪が肩に掛かるそれは、切ない横顔に思えた。
「高卒後はね、本島のアパレル企業で働く予定だったの。意外かもしれないけど、和服のお店。遊びに行ったとき、店頭にね……モノトーンに金と藍色の、大きな薔薇と絞りの模様が入ってる振袖があって――一ひと目惚れ。ありきたりなピンクとか赤の小花柄じゃあないの。あれ着て……堂々とこの島を闊歩してやってから、飛び出してやるつもりだった」
ふう、と溜息を吐くと、寿々子は苦笑いを浮かべた顔で振り向くと、髪を掻き上げた。
「言ってやろうかと思ったけど……沢村さんだけが悪いわけじゃないからさあ……」
誠一は笑おうとして笑えなかった。奪われた時間を、返してやってほしい――心からそう思った。
「そんな顔しないで」
微笑む気丈な顔に、涙が出そうになった。
「まだ……間に合いますよ、きっと――」
「どうかしら……お店は無くなっちゃってたんだけど……」
九年て長いわね、と小首を傾げ、寿々子は肩をすくめて笑った。
「でも、ありがと。清香さんもそう言ってくれ――」
そこでふと、言葉を切った。誠一を見ていた筈の目が、その背後に向けられていた。
「……大鳥さん、向こうを今……何か通ったわ」
「えっ……」
「動いちゃだめ」
ぴしゃりと言うと、寿々子は微動だにせず、目だけで何かを追った。
「早かったけど、音がしなかった。自転車だと思う。図書館の方に行った……電気点いてないんだから、閉館してるってわかるわよね……?」
自転車。はっとした誠一は、素早くキーを抜いていた。
寿々子をどうするか――迷う間もなく、察しの良い彼女はシートベルトを外している。
「一人は御免よ。それに、あたしがこの車に乗ってるとこ見られたら、誤解されちゃう」
誤解云々はともかく、遺体発見現場に近い場所で一人にするのは不安だった為、誠一は頷くと、スパイか泥棒にでもなった気分で寿々子と図書館に向かった。
淋が来るのだろうか――電話を掛けるか迷っていると、薄暗がりに自転車が見えた。入口に立て掛けられているのはロードバイクだ。当時も暗がりで見たデザインである為、同じ自転車かはわからず、普通の自転車のような車体番号らしきものは見当たらなかった。
図書館の入り口は、ぽっかり開いた洞窟にも見えた。
非常灯の灯りだけがぼんやりしているだけで、中の灯りは見えないが――……確か、徒歩で来ているという沢村は、まだ館内に居るのだろうか?
「……なんかの音がする」
殆ど耳打ちに近い音量で寿々子が言うが、誠一にはよくわからなかった。
吹いてくる潮風が生温いのに、館内の空気は妙に冷たく思える。外から見た通り、中は暗く、転ばないように注意しながら、二人は歩を進めた。
真っ暗な一階に人の気配は無い。手擦りと壁を伝うように階段を上がった。
寿々子が猫のように静かなのに感心しつつ、先に立った誠一は息を殺して二階に到達すると、思った通りの光に気付いた。
閉じたドアの隙間から細い光――休憩室だ。
声を出さず、寿々子の手を引いて部屋の隣――部屋と部屋の間にぽっかり空いたスペースに身を潜めた。そこが、窓はあるが壁も扉もない場所で――休憩室の話が聴こえることは淋に聞いて覚えていた。運が良いことに、本が幾らか積まれた移動ラックが置かれており、しゃがめば廊下からも見えない。向こう側の音が聴こえるということは、こちらの音も聴こえる筈――自分の鼓動がうるさいなと思いながら、できるだけ壁に寄って耳を澄ませた。
「……困りましたね、沢村さん」
声を聞いて戦慄に身震いしそうになる。間違いない。淋と会っていたあの男だ。
「先日は良いと仰っていたのに」
「……気が変わったんです。お引き取り下さい」
応じる沢村の声は、先ほどとは打って変わって硬かった。
男は溜息を吐いたようだった。
「図書館が、教会の二の舞になってもいいんですか」
「いいえ……でも、私は協力しません。お金なら、寄付でも何でも……自分の力で何とかします」
――また、金の話だ。
それに……教会の二の舞とは……此処が壊れるということか?
月明かりに、寿々子が眉を寄せているのがうっすら見えた。怒っているのとは違う様だ。難しい問題を考えるような顔つきで、壁を見つめている。
「……淋くんに手を出すのは、私が許しません。勿論、他の住民であってもです。あまりしつこいと、通報致しますよ。今、この島の警察は出来た方々です……」
沢村の震えた声で綴られた淋と我が事に、誠一は瞠目した。
男は黙っていたが、嘲笑う様に不敵な声がした。
「勇ましいですね。気が小さい人だと思っていましたが」
以前と同じだ。警察の名に怯んだ様子がない――何故、こいつはこれほど強気なのだろう? どうせ警察には何もできないと高を括っているのだろうか?
「……登藤……いいえ、乙津という人が死んだのをご存じでしょう。貴方もそうなりたくなければ、彼から手を引くことです……」
「そんな怖い顔で睨まないで下さい――わかりました。今日の所は帰ります」
男はそう言うと、踵を返したようだった。立て付けの悪い木製扉の音がして、廊下と階段を通る音が遠ざかる。沢村はしばし休憩室で黙していたようだが、程なくして電気を消し、階下へ降りて行った。
「……閉められちゃうんじゃない?」
月明かり以外は真っ暗になってしまった廊下に立ち上がると、腰を反らし、膝を摩りながらの寿々子が言った。
「……多分、大丈夫」
立ち上がった誠一の言葉とは裏腹に、がちゃん、と入口が閉まる音がした。
「ほら……閉めちゃった」
「大丈夫。ゆっくり降りましょう。少し待ってから内側から開ければいいです」
「でも、開けっ放しで帰るつもり?」
誠一は苦笑しながら、自身のスマートフォンを取り出した。
「此処に、セキュリティが無くて良かった」
もしかしたら――あの男が行っているかもしれなかったが、目的の人物は電話に出た。
誠一の「助けてくれ」から始まった短い応答はすぐに済んだ。
電話を切った誠一がグー・サインを出すと、寿々子はほっと胸を撫で下ろし、周囲を見てから声を潜めた。
「……大鳥さん、話してたの誰だかわかった?」
「あ、はい……名前は知りませんが、会ったことのある男です」
「会ったことあるのに、知らないの?」
寿々子はぱちぱち瞬きをして、小首を傾げた。
「あれ……? じゃあ、違う人なのかな?」
「えっ……寿々子さん、さっきの男、ご存じなんですか……!?」
「え? うん、だって――大鳥さんの方が知ってると思ってた。同じ仕事でしょ……あれれ、もしかしてもう居ないの? それとも違う課とかそういうの?」
「同じ仕事? だ……誰です?」
答え合わせは、寿々子の代名詞になりそうだった。淋に会っていた男と同じ男と知った以上に、彼女のセリフは誠一の頭をガツンと殴りつけた。
「津田さんだと思うわ。九年前、交番に居たわよ。菜々子がお熱だったし、淋とよく一緒に居たから覚えてて……違う?」
左足を引っ張った救世主が仏頂面で現れたとき、誠一と寿々子は揃って図書館前で手を振っていた。悪びれる様子も無い両者に、淋は鍵を片手に唇を尖らせた。
知らん顔で笑っている誠一と寿々子を見て、綺麗な眉が寄せられる。
「誠一くん、泥棒に転職した上、寿々子に浮気までしてんの?」
「浮気は心外ね。あたしと大鳥くんはすごーく誠実なタイプの凄腕・捜査官よ」
「そうだそうだ、お前も見習え」
泥棒どころか捜査官を名乗り始めた二人組が笑い合うと、淋は月明かりにうんざりした顔を浮かべた。
「スズ
面倒臭そうな顔つきで、今しがた誠一らが脱出した表玄関を施錠すると、淋は溜息を吐いた。
「で? 本当に何してたわけ?」
誠一はニヤニヤ笑うと、ふんぞり返って頷いた。
「話してやるから、夕飯に付き合え」
「はあ?」
「どうせ食ってないんだろ? いいから行くぞ」
「大鳥くんが奢ってくれるってー」
“くん”呼びになっている寿々子と、笑っている誠一に淋は幽霊でも見た様な顔をした。
「二人して気持ち悪ィな……」
「いいから早く行こ。あたし、お腹ぺっこぺこ」
強引な寿々子に押され、仕方なさそうに淋は従った。寿々子は淋よりもよっぽど力が有りそうな勢いで彼を助手席に放り込むと、自分はするっと後部座席に飛び乗った。
「……ったく……めんどくさいなあ、もう……」
「そう言うなって。まっさんとこなら文句はないだろ」
淋が違う意味の文句を垂れる前に、寿々子が後部から嬉しそうな声を上げた。
「やったー! 島は嫌でもお刺身は好きー!」
短いドライブを経て、松木の店に辿り着くと、午後八時を回っていた。非常に長い夜を過ごした気もしたが、まだまだ宴の頃合いだ。
「おう、誠さん待ってたよ!」
「ああ、淋坊も一緒か……! 寿々ちゃんも……」
「まっさん久しぶりー」
屈託なく手を振る寿々子に、店内に居合わせた客もざわついた。
どうやら此処に来る人々は松木の同志らしく、皆が寿々子に労わる声を掛け、島を嫌う彼女も笑顔で応じていた。ハツに至っては涙ぐみながら、寿々子をぎゅうと抱き締め、綺麗になって、と目を細めた。
きっと、淋が帰って来た時もこんな具合だったのだろう。
「まっさんとハツさんは好きよ。なんたって優しいもの。この腐った島じゃ別格ね」
席に着いてから、頬杖付いた彼女は微笑んだ。
「淋もそうでしょ?」
「……ハイハイ」
さしもの王子様も、この女性には敵わないらしい。
乾杯の音頭も店を巻き込んだ寿々子は、上機嫌でジョッキを手にしたが、今夜はドライバーである誠一に肩をすくめた。
「ごめんね、大鳥くん。飲めないのに」
「気にしないでどうぞ」
笑顔で促された寿々子は、男顔負けの勢いで呷り、心底旨そうな顔をした。
「沁みるわあー……」
「おっさんくっさ」
「うるさいわね、痩せっぽち」
渋面の青年に、思い切り舌を出す娘を見つつ、誠一は笑ってしまった。
「……ヘラヘラ笑ってないでそろそろ話せよ、誠一くん。何してたわけ?」
「その前にお前、今日はあの公然猥褻野郎に会ったか?」
「は? 会ってないけど――あんたが会うなって言ったんだろ」
少し怒ったような返答だったが、誠一は満足げに頷いた。
「良かった。じゃあ話す。お前にも話してもらうことがありそうだけど」
何やら一般人を問い詰める賊のような気分だったが、致し方ない。
辺りの騒ぎを隠れ蓑に、泥棒ならぬ凄腕捜査官の二人組は、図書館で聞いたことを話した。淋は初めの内こそ気怠そうに聞いていたが、やがて話が『海隠し』の真相と、沢村と例の男――津田の話題になると顔色が変わった。念のため、誠一は津田の名を『T』とし、彼が現れた場合に備えて入口を向いて座っていた。
「淋、あんたも知ってることは話しなさいよ」
嘘は駄目よ、と心眼持ちの女捜査官に小突かれ、淋は嫌そうな顔をしつつ溜息を吐いた。
「寿々子を使うなんて……悪知恵が働くね、誠一くん」
「俺じゃあ、せいぜいパトロールが限界だからな」
「忍び足と運転は上手かったわよ」
くすくす笑う寿々子に会釈して、誠一は淋に向き直った。
「Tはお前に何を要求してるんだ?」
「聞いてどうするつもり?」
「聞いてから考える」
「またそれか。後出しは反則じゃないの」
つべこべ言うな、と悪党のように言うと、今日初めて淋はへらっと笑った。
「相変わらず口が悪いなあ――……いいよ、もう関係ないし、教えてあげる」
観念した様子で椅子に寄り掛かると、けろりと言った。
「Tさんは俺と商売したかったんだって」
瞬く間に誠一の表情が曇る。寿々子はそれと理解した顔だった。
「淋……あんた、いつからあいつと?」
「菜々ちゃんに言うつもり?」
「バカね、言えるわけないでしょ」
「九年前より前」
それ以上は言うつもりが無いのか、淋はそこで黙した。寿々子は舌打ちして、手にしたジョッキに八つ当たりでもしそうな顔になった。誠一はジョッキが空を飛ばないか気にしながら、首を捻った。
「待てよ……じゃあ、お前が帰って来た時、Tはまだ島に居たんだよな? お前に入れ込んでたのに、なんで入れ違いに出て行った?」
「知らない。また来るって出て行ったから、俺も『あっそ』って答えただけ」
「……現に、また来てるわけか……」
出て行かねばならない事情があったのだろうが―― 一体何だ?
出世とは聞いていない。津田は島の出身ではないから、人間関係か?……いや、松木と合わなかった話は賢彦に聞いたが、それならもっと早く手を打つだろうし、他に問題があった様子は無い。もし、彼が何か島民と揉めていたら、後釜の自分はもっと警戒されたろうし、総スカンに遭ってもおかしくない。
「――釈然としないな……回りくどいっつうか……」
唸る誠一を余所に、ハツが料理を運んで来てくれた。
「あらあら、皆難しい顔しちゃってどうしたの。スズちゃん、これ、うちの人から」
置かれた豪華な刺身の盛り合わせに、寿々子は手のひら合わせて歓声を上げた。
「わあ……嬉しい! まっさんありがとー!」
カウンター向こうで松木が照れ臭そうにしながら、早く食え食えと手を振った。
「ナナちゃんは来ないの?」
ハツが小首を傾げると、寿々子が悪戯っぽく笑った。
「今日は三人で秘密の会議なの。今度一緒に来るわ」
「あらそう……ふふ、楽しそう。ゆっくりしてって」
誠一は二人の会話を何気なく聞いていたが、顔を上げた。
「――そうだ……菜々子さん――淋、お前……彼女とはどういう――」
「誠一くん……マジで後出しだね」
呆れた様子だったが、それでも淋は口を開いた。
「あれはまあ、いわゆる間接キスだよ」
今度は誠一が呆れる番だった。
「……つくづくひねてんなあ……お前……」
「俺が悪いって? あのね……菜々ちゃんがTさんのはどんなだってうるさいからしてあげたの。こんな感じですよって」
「あのなあ、お姉さんの前で言うことかよ……」
「あたしはいいよ、大鳥くん。淋と菜々子がトンチンカンなのは昔からだから」
美味しそうに箸を付けながら、寿々子はさらりと言った。
「それにしたってあの子、あんたと出来てた男にまだ執着してんの? それとも、あたしが居ない間におかしなシュミに走ったのかしら?」
「菜々ちゃんの趣味までは知らないよ。大体さあ……俺に聞きに来るなら、Tさんに直接言えばいいだろ。寿々子から言ってやってよ」
「やーよ。姉の言うこと聞くなら、もっと前からフツーの恋をしてるわ。あたしなら、同じ年代だって明日野さんの方がいいもん」
見る目がある、と寿々子の意見に同意しながら誠一は首を捻った。
「菜々子さんは……どうやって淋との関係を知ったんだろう……?」
疑問を口に乗せた誠一に、二人の幼馴染は目を向けた。
「淋が喋ったんじゃないだろ?」
「当たり前だろ。あんたに教えんのとはワケが違うんだし」
「だよな……じゃあ、誰が喋ったんだ? T自身か?」
「菜々子と会ってたかってこと? それなら菜々子、淋のとこに来ないわよね」
おっと、その通りだ。寿々子は本当に捜査官向きの頭をしているかもしれない。
「誠一くん、なんでそんなことにこだわんの?」
「わからん……ただ、なんか引っ掛かってんだ……お前と菜々子さんが会ってるとき、俺は何か違和感というか……変なものを見た気がするんだが……お前のせいで忘れ――……」
ぶつぶつ言いながら、誠一が料理を口に含んだときだった。
客の一人が、松木に声を上げた。
「まっさん、こないだ借りた傘、ここ置いとくぜ。どうもありがとうなー」
傘。
箸を宙に浮かせたまま、誠一は引き寄せられるように、そちらを見た。
傘……走って行った菜々子の手に有った――水色の傘。
「傘……だ」
「どしたの? 大鳥くん?」
訝し気な寿々子の声がしたが、誠一はタン!と箸を置くと淋に向き直った。
「思い出した……! 傘……あの日、菜々子さんは傘持ってたよな?」
「ああ……かもね。片手になんか持ってたのは覚えてるけど」
「なんで傘持ってたんだ?」
「はあ? なんでって――……」
「雨降るからじゃないの?」
全く以てその通りのことを寿々子が言うが、そう言われて初めて、淋は気付いたようだった。
「そっか……違う。あの日――天気予報は雨じゃなかった。晴天で、いきなり降ったんだ。俺やゆず子も気付かなかったのに……どうして菜々ちゃんは、傘持ってきてたんだろ……?」
「そのスコールの日に、なんかあったの?」
「……乙津が殺された日なんだ。死亡推定時刻ははっきりしないけど、騒動や目撃者が居ないから、警察はスコールの時間帯が犯行時刻だと考えてる」
声を抑えた誠一の言葉に、寿々子が息を呑んだ。
「菜々子が……関わってるかもしれないの……?」
「いや、そう考えるのは早い。でも……どうして傘を持っていたかは確かめたい」
寿々子は厳しい目をしていたが、ふと淋を振り返った。
「ねえ、淋……あんたと会ったとき、菜々子、どんな格好してた?」
「……よく覚えてないけど……化粧はばっちりだったと思う」
名捜査官の目が閃いたようだった。
「大鳥くん、ごはん食べたら一緒に来て。あたしが思うに……菜々子は犯罪やらかして平然としていられる子じゃないわ。けど……勉強できてもおつむはイマイチなの。意味わかるわよね?」
大変失礼な話だが、もとより送っていくつもりだった誠一は一も二も無く頷くと、淋を見た。
「お前も来い」
「……言うと思った」
面倒臭そうな顔をしつつも、淋は頷いた。
午後九時半。
女性の家を訪ねるには非常に不謹慎な時刻だったが、寿々子に招かれるまま、二人の男は月島家に顔を出した。くつろいだ格好だった菜々子はほろ酔いの姉と珍客に驚いた様子だったが、素面の誠一は元より、淋も平然としていた為か、嫌な顔はしなかった。姉妹二人暮らしだが、家の至る所には親戚夫婦の名残があり、小さなリビング&ダイニングにも、ちょうど四脚の椅子があった。
「傘?」
淋同様、オブラートに包まないタイプの姉の問い掛けに、菜々子はお茶を出しながら、玄関の傘立ての方を見た。
入るときに確認したが、そこに例の水色の傘は無かった。
「もしかして……クリニックの傘のこと?」
「三波クリニックの?」
「そう。置き傘というか……飼い主さんの為にも常備してる傘なんです。あの日は、賢彦先生が持っていきなさいって」
「菜々ちゃん、あの日出勤してたの?」
意外そうな淋の問い掛けに、菜々子は曖昧に頷いた。
「お休みだったんだけど、忘れ物しちゃって取りに行ったの。傘はその時に」
「賢彦先生は……雨が降ると思っていたのか……?」
「だと思いますよ。過去にも何度かありましたし。動物が教えてくれるんだって」
菜々子の言葉に寿々子がきょとんとした。
「アマガエルが鳴くとかそういうこと?」
思わず三人の視線が集まって、寿々子は「何よー?」と言いながら組んでいた足を組み直し、恥ずかしそうに髪を弄った。
「私はよくわかりませんけど、天気の変化に敏感なわんちゃんや猫ちゃんはわりと居ますよ。先生のことだから、鳥も有りそう」
「犬や猫も……わかるんですか」
モモも、わかるのかな……などと思いながら、今夜は何処に居るのか誠一は気になった。
「菜々子は淋に会った後、どこ行ってたのよ?」
「え、ええと――……」
「津田と会った?」
包み隠さないコンビの問い掛けに、菜々子はどぎまぎしながら首を振った。
「え? 津田さん? ううん、会ってないわ」
「ホントにいー?」
「もう、スズ姉は疑い深いんだから……ホントだってば。私、前から全然相手にされなかったの、知ってるでしょ?」
「知らないわよー……あたし居なかったんだもん。じゃあ九年前から進展ナシってこと?」
こくりと頷いた菜々子は、男二人の目が気になるのか、ちらちらと視線を寄越しながらもじもじと手を摩った。
「あの日は、本島に買い物に行ってたの。疑うんならレシートもあるわ。服買ったりしたから」
「その為の『きちんとお化粧』ってわけ……大鳥くん、これはハズレ?」
妹が犯罪と関わりないことにホッとしたようだったが、寿々子は椅子に両膝を乗せ、だれるように尋ねた。誠一は何か考える顔で黙りこくっていた。その横顔を淋が眺めつつ、ちょいちょいと肩を小突いた。
「誠一くん、用が済んだら帰った方が良くない? 現役警察官が、事件でも無いのに女二人の家に夜中に居るのはどうだろ」
「あ、ああ……そうだな……」
顔を上げつつ、最後に一つだけ、と誠一は菜々子に向き直った。
「淋と……津田さんの関係は誰に聞いたんです?」
「えっ……ええと……」
言い辛そうに菜々子の目はきょろきょろしたが、それで答えはわかった。
「ひょっとして……賢彦先生ではありませんか?」
菜々子は困り顔で頷いた。
「内緒って約束ですから……言わないで下さいね」
やはり――賢彦は、知っていた。
素知らぬ顔の淋を見てから、誠一は腰を上げた。
夜分にすみませんでしたと月島姉妹に頭を下げると、「ごちそうさまー! また行こうね!」と寿々子が大きく手を振って見送ってくれた。
誠一は手を振り返し、淋を乗せてその自宅へと車を向けた。道中も警官は思案顔のままで、淋は黙っていたが、ぶつけないかなと少々不安な面持ちだった。
淋の自宅前で車を停車させたとき、誠一はようやく口を開いた。
「淋……賢彦先生が好きだった人、知ってるか?」
シートベルトを外していた淋は、手を止めて振り向いた。
「賢ちゃんが、好きな人は知ってる」
「……それは、『今も』って意味だな?」
ふっと蝋燭の火を吹き消すような溜息をしてから、淋は苦笑した。
「そのとおり」
「淋……お前が一切喋らないのは、まさか――……」
ようやく気付いた。ずっとそうだと思っていた集約点は――淋ではなかったのだ。
彼は闇に笑った。
「――話さないよ。あんたが気付いたんなら、尚更ね」
足の代わりに声を差し出し、口を閉ざす人魚姫。
愛を与えなかったのなら、泡になる。
ふと思い出した、あの物語の結末は……
「……俺は――……掴まえるからな」
捕らえたいのではない。あの入り江に、確かに呑み込まれた『彼ら』が、再び沈む前に……手を掴みたいと思った。
淋はいつものように鼻で笑った。
「やってみろよ」
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