9.恋

〈クルーズ船から行方不明者を保護〉


〈行方不明者は船内にて人身売買を強制されていた模様。警察はパラダイス・チケット本社を捜索。代表は関係を否定。警察は先日の殺人事件との関連も含め、一部役員による犯行とみて、誘拐の面からも捜査を進めている〉


 面白くもないニュースが世間を駆け巡った週末、誠一は柚子と飛び上がるイルカを見ていた。事件が企業相手に切り替わった時点で、交番勤務の出番は終わった為でもあるが、無茶な潜入捜査に付き合わせたからと達巳や末永が気を利かせてくれたのもある。

末永はもう一歩気を遣い、「今度は英雄としてマスコミに持ち上げられますが」と断った上で、若手警察官の活躍に関する情報開示の有無を尋ねてくれた。

無論、誠一の返事はNOだ。

良くも悪くも、彼らに追い回されるのは沢山だった。

被害者である寿々子も撮影を拒否した為、代わりに記者たちは百江で聞き回り、面倒臭そうな島民たちの振るわないインタビューを流すのみに至った。

彼らは皆、「早く犯人が捕まってほしいわ」とか、「こんな平和な島でねえ」などとありきたりな返答をするばかりで、テレビ受けするような恐怖心や嫌悪感などに結びつくような、目立ったコメントは見られなかった。

ピィッ!と引き締まった笛の音が響くと、水中のイルカは音もなくぐんぐんスピードを上げた。

――イルカ・ショーは大人になっても楽しい。

淋が言った通りだと思った。

水飛沫が上がるたび、隣の柚子や、最前列に座る子供たちが歓声や笑い声を響かせた。水中を自在に駆け巡り、高らかにジャンプするイルカは優雅な隆線ボディを宙に輝かせ、二十分余りのショーはもう終わりかと思ってしまう程に見事だった。

「ああ、楽しかった!」

可愛かったですね、と笑う柚子に、誠一も素直に頷いた。

「本当に。すごく見応えがありました」

「でしょう? 賢くてすごいですよねー……イルカって」

あんな風に泳げたらいいのに、と呟く柚子は、なんとなく淋のことを考えている気がした。一通り館内を見て回り、最後にお土産のコーナーを眺めると、柚子は小ぶりのイルカのぬいぐるみを手に取った。

「可愛い。ばあちゃんに買おうかしら」

「タマさんは、こういうのがお好きなんですか」

少し驚いて尋ねると、柚子はにこにこと首を振った。

「好きじゃなくてもいいんです。かわいいかわいいって喜ぶのが可愛いから」

認知症の人がいる家庭は、苦労を垣間見ることが多いが、そのセリフには不思議な余裕を感じた。達巳によれば、タマは実際、何度も同じことを尋ねたり、同じ探し物をしたり、食事をしたか忘れ、急に出掛けようとするなど、症状は顕著に現れているそうだ。しかし、明日野家は皆まったりとしていて慌てず、姿が見えなくても、騒いだり怒ったりしないという。それは認知症患者に適切な処置だが、わかっていても難しい対応だった。

「じゃあ、プレゼントしますよ」

「ほんとう? 若い男の人からなんて、ばあちゃん照れちゃうかも」

「見てみたいですね」

「可愛いですよ」

包んでもらったのを受け取ると、柚子は自分が貰ったように喜んだ。

「お世話をするのは、大変でしょう?」

「大変は、大変ですね。イライラすることだってあります。でも、慣れると面白いこともあるんです」

「と、いうと?」

タマの武勇伝は聞いたが、面白い話は初耳だ。

「例えば……そうですね……ばあちゃんが夜中にトイレに立ったとき、終わったのに、電気点けたまま扉の前に立っていたんですよね」

「ふむ」

「もう一回行くのかなあと思って『トイレ行く?』 って聞いたら、『エレベーターいつ来るのかねえ』って」

さすがに誠一も笑ってしまった。

なるほど。エレベーターか。芸人顔負けの表現だ。

「可笑しいでしょう? ばあちゃんは真面目だから、悪いと思ったけど、私も笑っちゃって。大体、うちにエレベーターなんか無いのにどうしてよーって」

「団地やマンションに居たことがあったとか」

「無いですよー。ずっと島暮らしで貧乏してたって聞いてますから、エレベーターがあるお家に居たわけないですし」

「明日野一家は明るくていいですね」

「そうじゃないと、大変なだけだから」

柚子は笑った。

「お母ちゃんの指針なんです。お父ちゃんが死んだとき、うちは皆『大変だったら笑うのよ』って決めたんです。私は、あんまり得意じゃないんですけど」

「いや、そんなことは、」

言い掛けて、誠一はつんのめるように言葉を切ってしまった。頭に過るのは、淋を見つめる彼女の顔だ。柚子は微笑していた。

「大鳥さんは正直ですね」

面目ない、と反省する男に、柚子は軽やかに笑った。

「褒めてるんですよ」

その笑顔は日向を仰ぐ白い花のようで、誠一も褒めたいと思ったが、うまく言葉にならなかった。



「これ、先日のお礼です」

Tシャツ姿のスタッフや、サーフボードが飾られた南国を思わせるカフェの一角で、柚子は照れ臭そうにリボンが掛けられた細長い小さな箱を差し出した。

「お礼なんて……かえって気を遣わせてしまったようで……すみません」

「いえ、淋のことばかりじゃなくて。喜んでもらえたら嬉しいです」

献上品でも受け取るように手にすると、誠一は柚子に断ってから包みを開いた。

出てきたのは銀にきらめくボディのボールペンだった。丸みがあるフォルムが特徴的なデザインに、誠一はすぐに思い当たった。淋が図書カードを渡した際に貸してくれたボールペンと同じ社のものだ。

「……二番煎じじゃないですよ?」

誠一の顔を見て気付いたのか、伏し目がちに柚子は言った。

「淋にあげたのは、別のデザイン。大鳥さんのは、前からあるクラシックなデザインで……だから何ってカンジですけど……そのう、自己満足なので……」

おかしなことを口走り始めた柚子に、なんと声を掛けたものか目を瞬いていると、彼女は慌てて両手を振った。

「やだ……私、ヘンですね。何言ってるのかな? ……それ、最初にあげたのお父ちゃんで……なんていうか……男の人がそのボールペン使ってるとこが好きで……達兄さんにもあげたし……だから――ええと……」

それきり顔を赤くして俯いてしまう。

彼女が、ボールペンを使ってほしい四人目の男になれたのか。光栄だなと思った。

「ありがとうございます。大切に使います」

なんだかにやけてしまいそうで、しっかり頭を下げてから顔を上げると、柚子は面映ゆそうな顔をしていた。何か喋らないといけないか、と誠一がボキャブラリー不足を悲嘆する前に、柚子は小鳥のように首を捻っていた。

「ひょっとして……お疲れですか?」

「あ、いえいえ! そんなことは……」

「焦らなくてもいいですよ、大鳥さん。だって……大変な事件でしたから」

誠一は頷きつつも、困った様に頭を掻いた。

柚子は過去形で言ったが、この事件は全く解決していない。

『パラダイス・チケット』の悪事は責任のなすり合いで、死んだ持田と亀井に押し付けられそうな気配さえあった。

ひとつ、収穫だったのは、『エデン』に勤務していた方の『登藤』である。

彼は登藤 君孝きみたかと云い、依然として行方不明のままである登藤八千代の実兄だった。彼は妹の行方を捜して百江に来てはいたが、仕事上、なかなか来られず、数える程度だという。しかも淋と接触したことはなく、そもそも八千代は図書館に通っていたわけではなく、島で誰と親しかったのかも話していなかったそうだ。

最も親しかった夏子と偶然でも会えていれば良かったが、彼女とて少し前までは本島に出て普通に仕事をしていた為、会うことはなかった。

更に彼は、死亡した登藤が『乙津おづ 直貴なおき』というパラダイス・チケット社の社員であるのは知っていた。寿々子の証言とも一致することから、死んだ登藤=乙津は、ほぼ確定と見られている。

問題は何故――乙津が登藤の名を騙り、頻繁に百江に来て、淋と会っていたかということだ。淋は相変わらず海隠しに関してはだんまりで、登藤が乙津であるという件も「ああ、そう」と言わんばかりの態度だった。

寿々子の証言は有力だが、彼女は『エデン』船内で淋と顔を合わせていない為、確証には至らず、清香の死亡理由は不明のまま、八千代は行方不明のままとなった。

ひとり、謎の行動をとっていた賢彦は、記録こそ残っているものの、あくまで『エデン』に乗った“だけ”であり、それこそ誠一も考えたモモの保護を理由に言い逃れており、個人的にも忙しさを理由に話す機会が持てない有様だった。

「でも、スズが帰って来られて……本当に良かったです」

ありがとうございます、と柚子は頭を下げた。

「いや、お礼なら末永警部に仰ってください」

謙遜でも何でもない。末永警部でなければ、優秀な弟の公平でもいい。柚子はくすくす笑って首を振った。

「大鳥さんだって、助けてくれた一人でしょう? スズは嬉しそうでした。好きになっちゃいそう、って」

「いやいや……そんな……」

末永兄弟に踊らされたも同然なので他に言うことも無く、誠一は手を振った。

「月島さんは……大丈夫そうですか?」

『エデン』で話した後は、取り調べに同席したくらいしか会っていない。

百江に帰りたくないと言っていた寿々子がどうしているか気になって尋ねると、柚子は小さく頷いた。

「大丈夫だと思います。しばらく菜々ちゃんと姉妹水入らずって喜んでましたし。スズって昔から切り替え早いトコが有るので、こないだ会ったら仕事情報と物件と、ファッション誌見てましたよ」

「逞しいなあ……尊敬します。彼女の長所ですね」

「私もそう思います。百江に越して来た時も、スズって何となく考え方が大人っぽくて……ちょっと荒んでましたけど、生きてく覚悟みたいなものがいつもありました」

「ご両親が亡くなって……姉妹で百江の親戚を頼ったそうですね」

「ええ、そう聞いています。スズが行方不明になった後、その親戚のご夫婦も亡くなって……菜々ちゃんはきっと寂しかったと思います。ほんとに良かった……」

月島菜々子か。彼女が淋とどういう関係なのか未だに気になるが、まさか柚子に聞くわけにもいかない。神妙に頷いて口を付けたコーヒーは、深い香りが鼻に抜けて苦みが残った。

「あとは殺人犯がわかれば、落ち着くんですけど……」

綺麗なオレンジ色のマンゴージュースに刺さったストローを弄いながら、柚子ははっと顔を上げた。

「あっ、違いますよ! 捜査に文句を言ってるんじゃなくて――」

カラコロ喋るグラスを置いて言い出す柚子に、むしろ誠一の方が慌てて首を振った。

「い、いえ! それは本当にそうですから! 早く解決しないと、皆さん不安でしょう――……」

そう答えてみて、誠一はふと違和感を覚えた。

――皆、不安?

「……あの、柚子さん……百江の皆さん、事件のこと……何か話していますか?」

「事件のこと、ですか?」

柚子はきょとんとして首を振った。

「いえ、格別……早く犯人が捕まればいいのにね、くらいは皆言いますけど」

「そ、そうですか……善処します」

にこ、と笑ってくれた柚子に笑みを返しながら、誠一は背筋がひやりとした。

変だ。何かが変だ。

――人が三人死んで、その犯人は不明。

持田と亀井の件も、同士討ちと断定されたわけではない。何処かに殺人犯が潜んでいるかもしれないのに……どうして島民は落ち着いている?

普通は神経を尖らせるものだ。特に子供を持つ親は気が気ではなくなる。学校は子供たちの送り迎えを依頼し、集団登校を促したり、地域住民や教師が通学路の見張りに立つ。

百江はどうだ? 今までもそんなことは無かったし、いくら子供が少ないとはいえ、注意喚起や放送も無かった。親もそれに関して何も言わない。確かに、パトロールの警察官は増員されていて、それ故に誠一も此処に来られている。

だとしても、海隠しの前例があるのに、のんびりし過ぎではあるまいか。

――死んだのが……島民ではないから?

「でも、私……登藤さんが亡くなったとき、ちょっとホッとしました」

心を読むように柚子が呟いて、誠一はぎくりとした。

まだ、登藤=乙津の話は一部にしか公表されていないが、どちらにしろ、島民ではない。見つめた彼女はいつものように穏やかでありつつも、悪いことをした後の子供みたいな顔をしていた。

「人が亡くなったことを喜ぶなんて、バチが当たりますよね」

「あ、いや……――俺は……同意はできませんが、柚子さんは……淋のことを考えて、そう思うんですよね?」

去来するのは盗聴機の件だが、頷いた柚子の面持ちは決して悪党ではなかった。

淋の寂しい顔を思い出すと、許されるとは思わない。けれど、彼女がどんな気持ちでそれを実行し、得た真実に傷付いたかは理解できる。知った上で尚、淋を軽蔑するのではなく、気に掛け、守ろうと奔走した気持ちは、安易に非難できない。

「……淋は、いつも迷惑みたいですけどね……」

「あいつは……ちょっと捻くれてるだけですよ」

慰めるというよりも、本心で誠一は言っていた。そうだ。淋は捻くれている。

全て……彼が悪いとは言えないが。

「……優しい思いやりは、伝わるものですから」

顔を上げた柚子に、誠一は恥ずかしそうに笑った。

「……達巳さんはそう仰ってました」

受け売りですと頭を掻く男に、柚子はにっこり笑った。

「ありがとう、大鳥さん」

達巳に大盤振る舞いしてもいい、と思う程度に柚子は明るく笑うと、窓から見える海を眺めた。喘ぐように光を増した水面が輝き、曖昧な紺が靄のように広がり始める。もうじき、夕刻だった。

「……私、淋に愛されなくてもいいんです」

その瞳は眺める水面にも似ていた。絶えず揺らいでいるが、きらきらとして、深い色をしている。

「ただ、淋が……過去に囚われないで生きられるなら、それでいいんです」

過去に。淋が『エデン』で何をさせられていたか、寿々子から聞いたのだろうか。

「勿体ないな……彼は後悔しますよ」

「そんなこと言ったら、調子に乗ります」

「……淋が、ですか?」

「……いいえ。私が」

屋内では吹きもしない潮風になびくようにそっぽを向いた柚子の髪が、ふわりと揺れた。

何処からか、爽やかな香りがしたと思った。

「大鳥さん、今日はとっても楽しかったです」

「は、はい……良かった……でも、それこそ調子に乗りますよ。俺は単純なんですから」

「あら……何処かで聞いたセリフ」

お互い笑って、沈む夕陽を見送った。物寂しい筈の夕暮れは、なんだか温かく、美味しい夕食が湯気を立てる家に帰る気分に似ていた。

「……あいつに、土産を買って帰りますか?」

ちょっと意地悪な質問かもしれない。そう思いながら誠一が尋ねると、柚子は黙って柔らかな紫紺に染まる暗がりを見つめていた。

「買いましょうか。でも……」

遠慮がちに、柚子は呟いた。

「お夕食は……どこかでご一緒しませんか……?」

その控えめな声は、バカな男を調子付かせるどころか、勘違いにまで導いた。

急に誠一は訳もなく咳払いしてから、自信が無さそうな柚子に大急ぎで向き直った。

敬礼するときのように大げさに胸を張ったのは、カッコつけたわけでも、ウケを狙ったわけでもなく、本当にウッカリやってしまっただけだった。

短い人生の中でも、最高に恥ずかしい格好で誠一は叫んでいた。

「よ、喜んでお供致します!」

彼女が吹き出して笑ったので、それは最高に恥ずかしいが、最高に嬉しくなる一瞬だった。


 波の音が、聴こえる。

そう思って目を開けたが、聴こえてくるのは船が動く為の地鳴りのような響きだった。船は海のど真ん中に居るというのに、波の音は殆ど聴こえなかった。

身を起こして時間を確かめる時、淋は独房に居る心地がした。

実際、そうだったのかもしれない。

島で遊んでいた頃から日焼けしづらい肌は、今ではすっかり生白くなってしまい、薄い寝間着の白と同化しそうだった。

病気を防ぐ為に時折浴びる太陽は、むしろきつく、懐かしんだ暑さと、人肌の持つ熱さは、今では淋を追い詰める対象にしかならなかった。

パラダイス・チケット社が運航する大型クルーズ船『エデン』には、スタッフも一割程度しか知らない秘密のフロアが存在する。

紹介制でしか入れないこのフロアは、厳しい会員制と緘口令が敷かれていた。淋がぼんやりした意識で暮らしていたのは、このフロアの一室だった。

淋自身はよく知らなかったが、部屋の豪華さは“まともな”フロアのスイートに匹敵する。落ち着いたブラウン系の色調で揃えられた調度品も、温かな光を灯すシックな照明も、大人三人は寝られそうなベッドも、隙のない美に整えられていた。牢獄にしてはおしゃれな格子がはめられた窓から外を覗くと、夜明けにも似た夕闇が、水平線に染みていた。

「……起きたの?」

入口を開ける音に振り返ると、すらりとした妙齢の美人が立っていた。

母親の清香だった。

二十歳を過ぎた息子を持つ母とは思えぬ若々しさで、一般の客室係と同じ制服とエプロンに身を包み、髪をきちんと後ろで纏めていた。

「……顔色が悪いわ。昼、ちゃんと食べたの?」

淋が返事をしないで小さく笑うと、清香は両腰に手をやって溜息を吐いた。

「お水ばっかり飲んでると……水中毒になるわよ」

「なったら、病院に担ぎ込まれるかな」

「……体を壊すことをするのはやめて」

苦笑する息子を窘めると、清香はベッドのシーツを剥ぎ取り、手に持っていた真っ白なシーツを敷き直した。此処で何が起きているのか知らないランドリー係のスタッフが、染み一つ残さず洗濯したものだ。おめでたいことに、堂々と行われる犯罪に穢れたシーツさえ、お客様への最高のサービスと一緒くたに洗われる。

そして、そのシーツをベッドに敷くのが、フロアで一番人気の青年の母親なのだから、これ以上皮肉な話もない。

「ねえ、淋……やっぱり私も――」

「その話はしないよ」

するなら親子の縁を切るという息子に、母親はいつものように押し黙った。

「だって……私もそんなにバカじゃないわ……睡眠薬で眠って、起きたらまた客を取るなんて……スズちゃんよりひどい」

「母さん、約束したよね? 俺がやることに口を出さないって」

「そんなの無理よ!」

清香は鋭く答えた。彼女の言い分は尤もだったが、淋も譲るわけにはいかなかった。

『エデン』の秘密フロアで行われていることは、単純明快な人身売買――売春だ。

所謂セックスツーリズムの一環で、最低年齢は淋が入室したときの十八歳。仕込み専門のスタッフに数日間なぶられた後、精神崩壊するかしないかで正式な入室が決まる。

淋はこれを、母親を守ろうとする意志で乗り切ってしまった。

以降は快楽に溺れ、沈められた後は、睡眠薬で強制的に終わる日々を過ごした。

熱に喘ぐ首に冷たい針が宛がわれ、薬が注射されるため、眠ることさえ管理される生活。ヤクザ者など可愛く思える非人道的行為に、母がどれほど心を傷めていたかは理解していたが、淋にとって、母親が客を取らされなかったのはひとつの救いだった。

この場を仕切っていた乙津という男は当初、清香も欲しがったが、お披露目に出した淋を見た客の反応に、考えを改めたらしい。

母親を質に取っておけば抵抗すまい――乙津の下卑た考えは、実際上手くいった。

清香は自分も客を取るから、淋の負担を減らしてほしいと懇願したが、これは淋が断固許さなかった。乙津が情けの欠片もない算盤そろばん勘定をしようとする度、淋は儲けの幅を増やしたり、逆にへそを曲げて客に無礼を働いたからだ。

一年もすると、淋は固定客がつき始め、大抵は大金持ちだった。二年、三年、四年、五年……六年目となった年では、チップだけでも恐ろしい額になっていた。

「いくら母さんが若いからって、もう四十過ぎなんだよ? 馬鹿なこと言わないで、いい加減先に降りてくれないかな?」

優先的に淋を買おうとする客がこっそり渡すチップを清香に握らせ、淋は後ろめたそうな母親に言った。既に相当な額になっているそれを手ごろなスタッフか客に掴ませれば、清香はフロアを脱出できるだろう。フロアさえ出れば、目を引く容姿である清香を擁護してくれる人間はいくらでも居る筈だ。

しかし、自身が息子の足枷であるのは自覚しつつ、清香はいつまでもまごまごしていた。先に自分が船を降りて、息子が降りられる保障など何処にもないからだ。

「……淋、だったら一緒に降りましょう? 一緒の方が……」

何度も繰り返された問答に、淋は首を縦に振らなかった。

諦めていたのではなく、淋はそれが簡単ではないことを見抜いていた。一千程度の儲けにも厳しい乙津が、金の鶏を容易く逃がす筈も無い。それよりも確実なのは、客を利用することだと思っていた。できればほどほどに社会的に高めの立場を持つ金持ちで、さほど若くない相手が望ましい。

淋にはひとり、狙っている男が居た。

一色いっしきという定年間近の常連客である。見た目は日本人と言っても難のない顔立ちだが、少し西洋の血が混ざっているのか鼻筋が通っていて彫り深く、目はやや色素が薄い。客の名前はほぼ偽名であり、実におぞましいことだが、彼は家庭も持ち、妻と良い年の娘が二人居るらしい。あまつさえ淋に家族の写真を見せ、美人だろなどと自慢気に言うのだ。彼は様々な事業を手掛け、アジアを中心に展開しているというが、性欲だけがどうにもならず、一度誘われたセックスツーリズムに病み付きになってしまったという。だが、エイズなどの病気が怖いから、という理由で長続きせず、この船に行き着いた。

女も好きだが、とにかく金が掛かって厄介だと愚痴をこぼした。

「その点、君は全く清楚でいい」

自身とかけ離れた表現を淋はわらったが、彼は本気だった。

事後、淋が薬で眠らされるのを嫌っていた一色は、自分の身支度が終わるまでの時間をも買い取り、会話を楽しんだ。情事の時でさえも穏やかに話す男は、シャツを纏い、ズボンのベルトを締めると、本当に只の働くお父さんといった風だった。

「時々、会えなくて寂しくなるよ」

このセリフに、淋は毎回、ベッドにごろごろしながら笑った。

「俺も、いつも一色さんみたいな人に買ってもらいたいよ」

おべっかにならないよう、丁寧に言葉を選ぶ淋に一色は上等なネクタイを締めながら機嫌良く頷いた。

「他の客は、ひどいのかい?」

「痕が残れば、罰金が取れるけどね」

肩をすくめて笑う青年に、一色は悲しそうに首を振った。

「許しがたい。君のように綺麗な青年を傷つけるなんて。責任者は何をしているんだ?」

「あいつらにとって重要なのは、俺が綺麗でいることではなくて、幾ら稼ぐかだよ」

本当のことなので、淋は包み隠さず答えた。一色は心底腹立たしいといった風に両の手を組んで唸った。

「なんとか、君を買うことはできないかな」

「……船から降ろすつもりですか?」

なるだけ意外そうに淋は言った。

「無理だと思います」

「無理なものか。これでも金は余っている方だよ。人身を救うと思えばよい」

「でも……凄まじい額です。乙津が頷いても、会社は拒むと思います」

「あと数年、此処に来ると思えば安いものだ」

頼もしい返事ではあった。

しかし、それでも淋は頷かなかった。躊躇いがちに目を伏せ、首を振る。

「無理です。俺が降りれば、母親が客を取らされます。それだけは耐えられません」

「いいとも。お母さんも面倒を見ようじゃないか」

二つ返事とはまさにこの事だ。あまりにも上手い話なので、淋は我が耳を疑ったぐらいだ。

「責任者に話をしておこう」

「……どうして、そんなに良くしてくれるんです?」

「そう言われると耳が痛い」

一色は気恥ずかしそうに笑った。

「君が欲しいからだ。大枚叩いても構わない程度にはね」



「姫……どう思う?」

人払いされたデッキのベンチで日光浴を強いられながら、淋は猫に話し掛けていた。

近くには見張りのスタッフが居たが、あからさまに立っているわけではなく、清掃員や客のフリをしていた為、猫とのお喋りまで興味は無いようだった。

猫は茶虎と焦げ茶の混じり合った不思議な模様で、光に当たると赤い色が燃え上がった。彼女は淋が日光浴をさせられる時間をきちんと覚えていて、いつも隣にやって来ていた。

清香はおとなしいこの猫がお気に入りで、『姫』と呼び、率先して世話をしていた。この異常な現場で、動物が好きな彼女を唯一慰めるものだったに違いない。母の姿を見るのか、単に相性がいいのか、猫は淋のことも気に入っているらしかった。

大抵は傍らに座るか丸まるかして、本を読む青年と静かに過ごすのが習慣だった。

「あの人の言うこと、信じられるかな」

文庫本を持ったまま呟く淋の声は小さく、見張りに届く前に海風と波音が攫った。猫は聞いているのかいないのか、陽だまりに座って目を細めていた。

「乙津が素直に聞くとは思えないけど」

鼻筋を指先で撫でると、猫は目元をきゅうとすぼめて笑うみたいな顔になった。

一色が淋を母もろとも買うと告げてから、二週間が経過していた。一週間ほど前に一旦、船を下りた男は、次の乗船で迎えに来るつもりだと言っていたが。

「降りた先も……同じような所だったら笑えるな」

船に乗ったのと同じく、陸にも地獄は数多あるだろう。

一色が、淋を別のよからぬ店に売り渡す可能性も有り得る。

「でも、母さんを降ろせるなら……とりあえず、鬼でも悪魔でも良いけど……」

海を身一つで渡れない人間である以上、少なくとも歩ける陸に降ろしてやりたい。逃げるにしろ、戦うにしろ、海の上で人間は無力だ。

吹き上げてきた潮風に、淋は目を細めた。

今日は、随分と風が強い。

空はよく晴れていたが、海上は落ち着きのない風が吹いていた。群青の海と空以外は何も見えない景色を眺めながら、そろそろ戻る時間かなと思った時だった。

姫が、ぴくりと耳を震わせた。針のように細い瞳孔を持つ金目が、背後を凝視する。

「……どうした?」

同じ方を見て、淋は我が目を疑った。

清香が立っていた。同時刻にデッキに来ることなど滅多にない彼女は、いつものエプロン姿だったが――両手で信じられないものを握り締めていた。

「……母さん……?――……」

立ち上がる淋の傍に、すぐにスタッフが立ち塞がるようにやってくる。周囲がざわめき始めていた。清香が握っていたものを見て、誰かが悲鳴を上げた。

彼女は、ナプキンから露出した包丁を手に震えていた。

真っ白だった筈のナプキンは赤く染まり、あたかも両手で真っ赤なブーケを掴んでいるようだった。

「……淋……! ああ……淋……私……!」

淋の姿を見つけると、気が触れたように清香は唇をわななかせた。美しい顔は恐怖か狂気に歪み、凶器を掴む蒼白な手にはどんどん力が籠もるようだった。

「母さん……一体何を……――」

どう見ても、彼女が誰かを刺したとしか思えない。

徐々に騒ぎを聞きつけたスタッフが駆け付け始め、見張りも焦った様子だった。一般スタッフにも知られたくない淋を、なんとか連れ去りたい様子だったが、凶器を手に立つ清香の傍を通らねばならず、歯噛みしている。

「淋……淋を返して……!」

ぶつぶつとうわ言のように呟く女に、見張りの男は焦りも露わに叫んだ。

「おい! 警備はまだか! 早くこの女を連れて行け!」

だが、一般のスタッフは客をこの場から退けるので精一杯だった。緊急を報せるアナウンスが響き、警備か社員か、バタバタと走って来る音がする。全員が冷や汗を垂らしているに違いない。

「……母さん、落ち着いて。何があったんだ?」

淋が尋ねるが、清香はぶるぶると首を振った。手の凶器から、ぽたり、と血が垂れ落ち、潮風に鉄錆びた臭いが混じった。

「許せないわ――許せない――!なんて……なんてひどいの……!」

「母さん、何を言ってるんだ……?」

何故、なかなか人が来ないのだろう?

……母に刺されて……誰か死んだのか?

嫌な予感に淋の血の気が引いたとき、清香は何か呟きながらにじり寄って来た。

「淋……淋だけはあげないわ……誰にもあげないんだから……!」

「――母さん……まさか……あの人――一色さんを刺したのか……?」

「一色? 誰? いいえ、あんな男! 死んで当然よ!」

声を荒げたことなどない清香が、錯乱状態で吠えた。

「……あなたの……お父さんなのよ!!」

歪に震えた叫びを、淋は聞き違えたと思った。清香は尚も狂ったように呻いた。

「あの男は……貴方の……お父さんなの……父親なの……!――」

――一色が? まさか、そんなことあるわけがない――!

だって、俺の父親は、百江島の――……

心の臓を刺し貫かれた心地に淋が声を出せずにいると、清香はぽろぽろと涙を流した。

「私とあなたを捨てたのに……今度はあなたを買うですって……? 私から奪っていくの? そんなこと……許さないわ……絶対に……絶対に許さない……!」

もう手から離れなくなってしまったように、真っ赤なブーケを持ったまま、ぶるぶると清香は震えた。吹きっ晒しの甲板に、血痕が紅の小花を描く。

「母さ――」

声を掛けようとした淋は、不意に背後から羽交い絞めにされた。

間髪入れずに鼻と口に宛がわれた布から、何か香ったと思った刹那――伸ばした手も空しく、意識は遠退いた。



 気が付いたときは、いつもの部屋の中だった。

「清香は死んだよ」

ベッドの傍らに立った乙津が実験動物の話でもするように言ったとき、淋はすぐに返事ができなかった。嗅がされた薬の影響か、動こうとすると頭はくらくらして瞼が重かった。それでも、ぐらつく手で乙津の上着を握り締めると、地獄から這い出たように睨み上げた。

「……嘘だ……!」

「嘘じゃない。俺も、清香が死んで困っている――真実を教えてやっただけ有難く思え」

「ふざけるな……!」

「図に乗るなよ、淋」

満足に力が入らない細腕をうるさそうに払いのけて、乙津は唇を吊り上げた。揺れると目眩がひどいらしい青年の髪を掴み上げ、そこだけ反抗的な目を嘲笑った。

「いいか、淋――お前が悪いんだぞ? お前が色仕掛けで懐柔しやがったから、あの客は死んだんだ……トチ狂った女に刺されてな」

「……!」

ぐらつく意識の中で、悪魔のような目が嗤った。

「……お前が……お前が騙して殺させたのか……!?」

「さあ、そんなこと言ったか?」

「母さんを殺したのも……――」

「おいおい、勝手に俺の罪を増やすなよ。上手く処理したから安心しろ」

「殺してやる……!!」

手負いの獣のように淋は唸った。

「……絶対に……俺が殺してやる……!!」

そのふらついた抵抗が面白いというように、乙津は喉の奥で笑った。悪意に滴る唇を牙を剥く唇に当てて、もがく両腕を抑え込む。長い拷問のような口付けの後――眼下の憎悪に満ちた双眸に目を細め、乙津は己が唇を舐めた。

「いいか、淋――お前が変な気を起こせば、かわいそうな死体が増える。海は偉大だが、安易に人間を捨てるわけにはいかないからな」

怒りに震える目を見据え、ベッドに放り投げる様にして乙津は出て行った。

「…………」

すぐさま起き上がって、奴の横面を殴りつけたかったが、ぴくりとも動けなかった。頭と心臓は憤怒にドクドクと疼いているのに、体は気怠さが支配し、瞼は閉じることを望んだ。

――俺が、変な気を起こしたから――一色は巻き込まれ、母は死んだのか。

「…………」

何か呟こうとして、唇は動かなかった。

……なんだか、頬が冷たい――……

押さえが無いようにさらさらと溢れる涙がシーツを濡らしていたが、そんな感覚もよくわからぬまま、微睡みに呑まれた。



雨音に、淋は目を覚ました。

「……」

嫌な夢だった。

魂が抜け出るような溜息を吐いて、手元に置いたままだった本を手近な山に積み、水滴がはねる窓を見上げた。喉の乾きを感じたが、立つのが面倒だった。

誠一と柚子はどうしたろう、と考えた。

せっかくのデートなのに。

まだ、午後七時だ。雨を避けて、ディナーでもしているだろうか。

仲睦まじい二人を思うと、四肢の血管を毒のような痛みが走る。

そんな自分を蔑むと、先ほどよりも辛い痛みがじくじくと臓腑を抉った。息苦しくて空気を吸ったが、気分はよくならなかった。

「……やな奴……」

呟くと、ズブズブと内側をナイフで切り開かれるような心地がした。

――嫌な奴。バカな奴。

どうして、生きようとしたんだ。

お人好しに肩入れなどせず、さっさと消えていれば、こんな気持ちにはならなかったのに。

「…………」

たまらず、ベッドにうつ伏せた。

痛い。

悲しい。

淋しい…………

うつ伏せたまま、腕をきつく抱いた。

――どうしていつも、望んだ人は離れて行くのだろう。

あの暑い夜、確かに抱き締めてくれた腕を思い出して、泣けた。

彼の熱い体温も、優しい笑みも言葉も、戻りはしない。自分で捨てたくせに傷心か。お前はどうかしている。イカレているのは百も承知だが、それにしたって痛々しい。

バカバカしくて、笑ったとき……電話が鳴り、すぐに止んだ。

歪んで見える画面を見て、淋は肩を落とした。

溜息をばねにするように、よろめきながら立ち上がる。

雨は止みそうだった。見上げる心など、知らん顔で。



 楽しい晩餐の後、柚子を送り届けてから、誠一は自宅にハンドルを切った。

雨が降ったらしい地面はぬかるんで、空気はしっとりとしていたが、暑くも寒くもなかった。最近まで、あれほど鼻についた濃い緑の匂いは鳴りを潜め、湿った落ち葉から昇る微かな甘い香りが潮風に混じる。

鼻歌でも出そうな気分だ。本当に単純だなと我ながら可笑しくなる。

赴任当初と同じく、車窓からハンドレッド・ベイが見えた。

暗く、規制線が張られたままのそこさえ、今はただ穏やかな入り江に見えた。

助手席には、「大鳥さんから渡してあげて」と柚子に託された淋への土産があった。

あんまり上機嫌で訪ねるのは感じが悪いかもしれない……明日、冷静になってから――そんなことを考えつつ、誠一は淋の自宅前を通り掛かり、ふと、スピードを緩めた。

路上の端に寄せて家を仰ぐが、真っ暗だった。

ハンドレッド・ベイに規制線がある今は居ると思ったため、首を捻る。午後九時を回ったところだ。高齢者ならばともかく、若者が電気を消して寝入るには些か早い。

「……」

何となく、嫌な予感がした誠一は、車を降りてチャイムを鳴らした。

返事はおろか、気配もない。

不審者よろしく、ぺしゃんこに踏み締められた百日紅の花が散る路上を回って躊躇いがちに窓の方から覗いてみる。中は暗く、カーテンの隙間に見えるのは、空のベッドと本ばかりだ。電話を掛けてみたものの、電源オフのアナウンスが流れた。

能天気な幸福感は、もはや消えていた。不安と焦燥がどんどん膨れ上がる。モモが居ないのも気になった。誠一が遅い日、淋のところに来客が無ければ、示し合わせたようにこちらに来ている筈だ。

「……どこに……」

他に思い当るのは図書館しかない。

開いている筈の無い施設に向けて、誠一は車を走らせた。

先程、呑気に見つめたハンドレッド・ベイの波が、今度は不気味にうねる。

当たり前だが、図書館も真っ暗だった。波音が響くばかりで、人の気配は無かったが――建物から、すっと現れた人影があった。

危険を承知で拳を握ると、誠一はまっすぐそちらに向かって行った。

若い男と思しき人物には、見覚えがあった。図書館で――淋と密通していた男だ。

立て掛けていた自転車を引いていて気付かなかったらしく、振り向いた相手は、誠一の姿にはっとしたようだった。

夜中だというのに、目元の見えないスポーツ用のサングラスを掛け、ロードバイクに乗る用のサイクルジャージを着ている。実際、ロードバイクを引いて来ていたが、この暗い中では違和感の塊だった。男は声を発することも無く、行き過ぎようとした。

誠一は反射的に警察手帳に手を伸ばしていた。

「――ちょっと待ってください」

声を掛けると、男は背を向けたまま立ち止まった。警察手帳を提示し、誠一は落ち着いた声で言った。

「警察です。こんな時間に、規制線の傍で何をしていらしたんですか?」

些か卑怯な言い方だったが、真実ではある。男はちらと振り返りこそしたものの、手帳に怯んだ様子は無かった。

「規制線? ……いえ、ただサイクリングの途中に、珍しい建物を見て――」

「――とぼけないで下さい。防犯カメラがありますから、すぐにわかりますよ」

口から出まかせに、そんなことは知っているとでも言うように、男は笑ったようだった。誠一も退くわけにはいかない。

「……不法侵入罪がいいですか。それとも公然猥褻罪にしますか?」

「何のことです? あまりしつこいと冤罪で訴えられますよ」

挑発に乗らない。警察相手に強気な男だ。白を切り通すつもりなのか、さっと自転車に乗ってそのまま走り出してしまう。追い掛けようかと車に歩を進めた誠一だったが、後ろから響いた声に立ち止まった。

「こんばんは、お節介くん」

「……淋」

誠一は苦虫を噛んだような顔になった。

暗闇にあの自転車をすぐに走らせる素早さからして、何度も来ているに違いない。

小回りも利き、手練れであれば、バイクよりもスピードの出る自転車を追い掛けるのは容易ではない。

「お前……またあいつと……」

淋はきちんとシャツを着てズボンも履いていたが、月夜に浮かぶ唇は艶めいて、目元は妖しく潤んでいる。

「誠一くん、俺言ったよね? ストーカーもほどほどにって」

「ストーカーなもんか……友達だ!」

半ば叫んだ青年を、うるさそうに一瞥して淋は片手を振った。

「はいはい……初デートどうだった?」

「……今はその話をしてる場合じゃない」

ふう、と淋は溜息を吐いた。図書館を振り返って、がらんどうのように開いていた扉をがちゃん、と重い音と共に鍵を掛けた。

「素直に幸せ気分に浸ってればいいのに……俺に何の用?」

「通りかかったら家が暗くて……気になったんだ」

「やっぱりお人好しかよ……別に俺、徘徊老人じゃないんだけど」

「同じくらい……いや、お前は圧倒的に不安だ」

肩をすくめて淋は笑ったが、重そうな左足を引いて車に近付いた。

「……じゃあ、お人好しのおともだち……困った徘徊変態を送ってくれる?」

「……」

誠一が黙って乗り込むと、淋はやや緩慢な動作で助手席に乗り込もうとして、土産の袋に気が付いた。

「……それ、柚子さんから、お前に」

「まったく……お人好しカップルめ」

淋は鼻で笑うと、ありがとう、と言って座った膝に乗せた。

車を走らせると、暗い道が二人の気持ちをそのまま映すようだった。

「やめろって言っても……駄目なのか」

「君のお説教は何度目だろ」

「……俺、お前のそういう顔、嫌なんだ」

「どんな顔だよ」

「辛そうなんだ」

そう言っている誠一の方が、よほど苦しそうな顔をしていた。

周囲に粉塵でもあるように眉間に皺を寄せ、目が滲みるように細めている。

淋はその顔から眼を逸らして、曖昧な月明かりに揺れる外の暗闇を見つめた。

「……俺が辛いと、どうして嫌なの?」

「友達だからに決まってるだろ」

怒ったように答えると、カーブでいくらか乱暴にハンドルが切られる。

「――誠一くん、俺さ……これでも何回か、変わろうとしたんだ」

窓を見たままの声を合図にするように、車は停車した。

誠一が何か言う隙も与えず、徒歩でも十分程度の距離は、ほんのわずかなドライブで済んでしまった。

「どーも」

「こ……こら、待て!」

さっさと降りて行こうとする青年に、慌てて誠一も車を降りる。

足が悪い癖に、こういうときの淋は異様に素早い。枯れ落ちた百日紅を踏み引き摺って、真っ暗闇の玄関で細い手を引いた。

「まだ……まだ諦めるなよ……!」

「何を」

面倒くさそうに振り向いた淋に、誠一は己の足りない辞書を必死に捲っていた。

「お前に……変わりたい気持ちがあるんなら、俺は……間に合うと思う……」

「どうしろって? 精神科に行けとか言わないよね?」

「違う。柚子さんは……お前のこと――まだ、ちゃんと好きだ」

『ちゃんと』などと加えたのは余計だったかもしれないが、淋は一瞬はっとした。

すぐにどろりと流すように一笑に伏した顔を、誠一は必死の形相で見つめる。

「はぐらかすなよ。お前が向き合いさえすれば、間に合うんだ……!」

「……なに言い出すかと思えば」

嘲笑う淋に、取りすがるような気持ちで、手折ってしまいそうな手首を握り締めた。

「逃げるな。彼女の気持ちは、ずっとお前にあるんだ。明日野家の人達は皆いい人だ。お前の辛さだって、きっと一緒に分かち合ってくれる――」

「呆れたお人好しだね。返さないって言ったくせに。あんたはそれでいいわけ?」

好きなんだろうと挑むような目で見られて、わずかに怯みつつも、誠一は頷いた。

「……そうだ。今なら俺は、お前たちを笑って祝える」

「……」

「淋、わかってるんだろ? 彼女が盗聴なんて真似をしたのは、お前のことを考えてたからで――……」

「お節介でお人好しの誠一くん、あんたは残酷な奴だ……」

まるで、肺腑が潮で満つようだった。息苦しく、呼吸がままならなくなる。足元を踏み直して向き直ると、夜気に枯れ花の香が舞った。

「俺はね……ゆず子より、あんたが好きだ」

「……!」

瞬く間に、目の前の真摯な表情が強張る。掴んでいた手から、緩く力が抜けた。

「安心しなよ。友達になるって言ったのは、本当だから」

「お前が……最初に友達になれないって言ったのは……」

「……そうだよ。俺はあんたに発情するし、キスして、抱き締めて欲しいと思ってる。他の奴と手を切るなら、代わりをしてほしいと思うくらいにはね」

喋っていて、淋は喉が渇くと思った。喉元がひび割れてしまいそうだ。こんなセリフを吐く羽目になるなら、いっそ声など潰れてしまえば良かったのに。

「……そうか……」

そう呟いた誠一は、すっと手を放した。肩を落とし、寂しい目を地に伏せた。

「……わかった。お前がそうなら……俺は……迷わないことにする」

握った拳は恐らく、淋の告白をでまかせだと思っているのだろう。

ノンケなのだから。当たり前の反応だ。立っているのが嫌になりながら、淋は語調を穏やかに改めた。

「……そうしなよ。ゆず子も、その方がずっといい」

「……せめて、あんな男とは縁を切ってくれ。もっと大事にしてくれる奴はきっと居る」

残酷な言葉を被せる生真面目な男に、淋は苦い唇を歪めた。

「……わかったよ、しつこいお巡りさん……」

何度目かの了解だ。死ねと言っているのと同じだと思いながら、純朴な目を仰いで淋は答えた。体に染み付いた色で気が狂いそうな男に、肌触れ合うのを禁じるなんて。

それじゃ、と手を振ったとき、そこから身が引きちぎれそうだと思った。

見送る赤いテールランプが闇に溶ける。

奪われたのは、声でもなければ、ヒレでもないが。


――人魚姫と、同じもの。

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