8.魔窟
案内されたのは、末永の推理通り、高級客室のデッキだった。
ただ、ボーイの登藤に見せられた部屋とは真逆の、船尾方向の部屋であり、一見、防火扉のような何も書かれていないドアの向こうにその部屋は続いていた。
何があるか知った上で見つめる部屋は、扉すべてに『STAFF・ONLY』の表札が掛かっている。船内やホテルの扉には文字が直接書かれていることが多いが、表札ならかけ直すことも可能だ。
途中で末永と別れ、登藤と異なる物静かな感じの男が「こちらです」と扉の鍵を開けた。
「緊急時はお電話か、扉脇のスイッチを押してください。翌朝の八時にこちらでドアを開けますが、それ以前、或いは以降をご希望でしたらお電話でお申し付けを。では、ごゆっくりお楽しみください」
丁寧であることに虫唾が走る挨拶を付け加えると、男は頭を下げて戻って行った。
誠一は生唾呑んだ。正義感と良心が、並の男を処刑台に送る感覚だった。
淋や柚子のことを考えよう――いや、いっそ達巳のことでも考えておけば、理性はどうにかなりそうだ。
お
そこは、思ったよりも普通のホテルの一室に似ていた。強いて言えば、ロイヤルスイートに見た、高級感のあるブラウンがベースの落ち着いた部屋だ。照明はおとなしい橙色で、けばけばしいネオンでもあったらどうしようかと思っていた分、拍子抜けしてしまった。そろそろ進むと、洒落た透かし彫りの衝立の向こうにばかに大きなベッドが鎮座していた。綺麗にシーツをかけられたその上で、バスローブを引っかけて背を向けていた女がおっとりと振り向き――小首を傾げた。
「……わ、」
ほっそりした美女は短く呟いた。
誠一はその意味を問う前に、女の顔を見て一目でわかった。
月島寿々子だ。間違いない。
ふんわりした栗色のくせ毛やルージュを引いた唇は写真の本人や菜々子よりも派手な印象だが、化粧をとれば双子に見えるかもしれないほどよく似ている。
「今夜は随分、若いお客さん」
どうやら先ほどの「わ」は驚いた声だったらしい。ひょいと立ち上がると、スリッパを履いた状態でぱたぱたと歩いてきた。
「……あの……――」
「はじめまして。スズです。お兄さん、ひょっとして此処初めて?」
難なく傍に近付き、妙に余裕のある態度はどこか淋に似ていた。
花のようなバニラのような甘い香りを纏った女は赤い唇を歪めて、胸元が覗けるほどの距離に迫って微笑んだ。
「は、はじめてですけど、そうじゃなくて……」
「ご指名ありがとう。誰かの紹介かしら?」
「いや、あの……月島寿々子さんですよね?」
長い睫毛が瞬いた。綺麗に描かれた眉がひそめられ、目元は不審な色に揺れた。
「あなた……誰?」
誠一はポケットに突っ込んでいた警察手帳を引っ張り出し、そっと差し出した。
「……大鳥といいます。百江に赴任したばかりの……警官です」
「……百江? ……警官?」
急に寿々子は目がうろうろと周囲を見渡し、赤いネイルの指先でバスローブの前を手繰り寄せた。
「……どうして警官が、お客さんなの? ……それに、あたしの名前……」
「僕は客として来たわけではありません。事情を話す前に、そのう……宜しければ着替えて頂けるとありがたいんですけど……」
およそ、その部屋に来る人間では有り得ない申し出なのだろう。
寿々子は困惑した顔をしていたが、頷くと、引き出しにしゃがみ込み、取る物もとりあえず掴んだ様子でバスルームに消えた。
誠一は念のため周囲を見渡し、ドレッサーの中や、エアコン、窓の様子など手あたり次第に確認した。ざっと見たところカメラや盗聴器は見当たらない。
末永には、ぱっと見で無ければそれ以上は見なくても良いと言われていた為、ひとまず胸を撫で下ろす。
「……お待たせ……」
振り向くと、バスローブ姿よりも恥ずかしそうにした寿々子がいた。
飾りのない黒いチュニックに白いジーンズを履いた彼女は、誠一に促されるまま、窓際の椅子に腰かけた。一転して面接に来たような顔になってしまった彼女に、誠一はできるだけ落ち着いた声で話し掛けた。
「……こんなやり方で、すみません。驚きましたよね……?」
寿々子は頷いたが、ほんの少し微笑んだ。
「驚いたけど……
――賢ちゃんだと?
今日は何度驚けばいいんだと思いながら、誠一は寿々子に詰め寄るように問い掛けた。
「賢ちゃんって、まさか……三波先生のことですか?」
「そうです。……賢ちゃんはそのうち助けが来るからって……彼に聞いてきたんじゃないんですか?」
事の次第を説明すると、寿々子はぱちぱちと瞬きをしてから、耳元に掛かった髪を後ろに払った。空調の音が響くだけの間をたっぷり置いた後――誠一は尋ねた。
「賢彦先生が……此処に来たんですか?」
「一年くらい前だったかな。だから、お客さんじゃない人は貴方で二人目」
「ということは……彼はあらかじめ、貴女だと気付いて?」
寿々子は頷く代わりに、椅子に持ち上げた膝を抱いた。
「半分賭けだったみたいですけど、賢ちゃんは頭がいいから、そうでもなかったのかも」
「一体、どうして彼は此処に……?」
賢彦が『エデン』に来ていたとすれば、色々なことがおかしくなる。
まず、賢彦はハンドレッド・ベイで起きた離岸流事故を、達巳同様に否定していたが、寿々子を本人と認識して会っていたのなら、何が起きたのか確信していたことになる。
それに、約一年前といえば――……既に淋が百江に戻って来た後だ。
「賢ちゃん、猫を連れて行ったでしょう? トラと黒が混じってる女の子の」
「猫……!」
言うまでもない。モモだ。この船からモモを連れ出したのは賢彦だったのか。
「たぶん、知っている猫です……彼、何の為か言っていましたか?」
「何かを手伝ってもらうって言ってた。だからこの部屋で眠らせて、こっそり連れて行ったの。あたしも連れて行きたいけど、今は無理だからごめんって何度も頭下げて……冗談のつもりで『バッグに入らないものね』って言ったら、めそめそ泣いちゃった」
話す内にリラックスしてきたのか、寿々子の口調はさばさばしたものに変わってきていた。両膝の向こうに当時の光景が見えるように、寿々子は小さく呟いた。
「大鳥さん……でしたっけ。あたし、正直……帰りたくはないの」
「えっ……な……何故です?」
「この船は降りたいわ。でも、百江はもう沢山……あんなところ、鬼ヶ島と同じよ」
「……貴方は、此処に売り渡した相手をご存知なんですか?」
「知らない。眠らされて、目が覚めたら此処だったから。けど……わかるの。島の誰かが売ったって。清香さんは気付いてたかわからないけど……賢ちゃんの青い顔見てたら、もっとそう思ったわ」
「賢彦先生はそのことについて、何か……」
「……ううん、言わなかった。菜々子が元気にしてることは教えてくれたけど」
では、賢彦は何をしに来たのだろう。本当に、菜々子の話をしに来ただけ……だとしたら、手間が掛かり過ぎる。生活用品さえ通販する男にしては、あまりにも大胆な遠出だ。
「貴方は他の……一緒に売られた人とは会っていましたか?」
「淋とお母さんの清香さんが居たのは知っているわ。淋とは直接会わなかったけど……清香さんは何年か後にあたしたちの部屋の客室係をしてたから、時々会って話したわよ」
母親が、息子が使う客室係を――……残酷な仕打ちに、怒りで頭がどうにかなりそうだった。
「淋……くんと、清香さんがどうなったかは?」
「淋は……海に落ちたって聞いたけど……それ以上は知らない」
「う……海に?」
「うん。一度――警報が鳴ったことがあったの。誤作動らしいけど、その時、クルーズ船から落っこちたって……」
――人魚だよ。
この深い海に落っこちて、俺だけ帰ってきたんだから。
胸に淋のセリフが甦るが、信じ難い。
超大型ではないとはいえ、クルーズ船の上から落ちるということは、ビルの三階か四階、或いはそれ以上から転落したことになる。良くても骨が折れるくらいのことは――そう考えて、淋の引き摺った左足を思い出した。
「お巡りさん、淋がどうなったか知ってるの……?」
寿々子の不安そうな声に、誠一は内心首を捻った。
賢彦は、淋の無事は報せなかったのだろうか?
「彼は生きています。憎まれ口が言えるくらいには元気ですよ」
何とか微笑んでの誠一の返事に、寿々子は膝に額を埋めて、深い溜息を吐いた。
「……そう、そうなの――……良かった……」
蓮っ葉な印象の娘だが、心の優しい性格らしい。同じ境遇の彼女が漏らす安堵の声は、泥から綺麗な水を掬い取るように聞こえた。
「……あいつ、今も王子様みたい?」
「……そうですね。何だか偉そうで、面倒くさい奴です」
つい正直に答えてしまった誠一に、寿々子は笑った。
「淋ってば、またお巡りさんを困らせてるの?」
ようやく年頃の娘らしく微笑むと、寿々子は「しょうがない子ね」といつかの柚子のように呟いた。
「淋くんとは同級生……ですよね?」
「ああ……うん。でも、高校は違うわよ。島には小中一貫校がひとつだけだから、子供は皆、顔見知りだけど、高校は島外だから。あたしはおバカさんだけど、淋はまあまあのおつむだから、優等生のゆず子と同じ高校だったわね」
柚子を淋と同じあだ名で呼ぶ辺り、親しかったものらしい。何となく柚子が同じ高校を選んだ気がして、幾らか悔しい気分になった。
「淋が帰ったなら、ゆず子……泣いて喜んだんじゃない?」
「さあ、そうかもしれません。僕が赴任したのは、つい最近なので、当時のことは……」
「そうに決まってるわ。ゆず子は淋ひと筋だったもの」
「妹さんも、そうでしたか?」
淋が菜々子にキスしていたのを思い出して尋ねると、寿々子は意外にもぽかんとした。
「え……菜々子?」
そんな筈ないけど、と寿々子は頬に掛かる髪を苛った。
「だって菜々子は……年上キラーだったのよ。同年代なんか見向きもしなかったわ。七歳差でイケメンの賢ちゃんだって、全然眼中に無かったんだから」
「賢彦先生も……?」
どういうことだ。寿々子の話を聞く度に、知ったつもりの人物像が狂っていく。
目の前の彼女は嘘を吐いているようには見えず、話すほどに正直で素直な娘だとわかった。だとしたら……自分が何か思い違いをしているのか?
寿々子も同じ心境らしく、膝の上で顎を揺らすように首を捻った。
「九年も経つと変わっちゃうものなのかなあ……? でも、淋があの子を好きになるわけないと思う。淋は皮肉屋で天邪鬼だけど、ゆず子のことはちゃんと見てたよ。百江に帰ったんなら、それってゆず子の為じゃない? お母さんも居ないんだし、帰る意味がないもの」
「と、仰ると……清香さんは今も此処に?」
皺の殆どないシーツを見つめて尋ねると、寿々子は同じ姿勢のまま、ぽつりと呟いた。
「……ううん。清香さんは……死んじゃったって……」
「死……そう……だったんですか……」
何故、と問う前に、寿々子は寂しそうな目を持ち上げた。
「客を刺して……自殺したって聞いた。どうしてかは私も知らない……あんなに優しい人が、そんなことするなんて……ううん、だからかも……自分の子供がこんなことしてる傍にずっと居たら……おかしくなっちゃったって仕方ないわ……」
重苦しい沈黙が落ちた。客を刺した――何故だ。
客が息子に何かしたのかもしれないが、自身が死ぬ理由にはならない。良心の呵責という場合もあるが……寿々子はその客の相手をした経験は無く、清香が話しているのを聞いたことも無いと言う。
「登藤八千代さんとは会いましたか?」
「登藤?」
寿々子は記憶を辿るように膝を見つめていたが、誠一の説明を聞いて尚、首を振った。
「知らないわ。あたし、もともと面識もないし……清香さんとは百江のことも話したけど……その人の話はしなかったわよ」
「そうですか……」
どうも彼女だけ、実態が掴めない感がある。新聞に名前も公開されているし、達巳と夏子が探しているのだから、存在しないことはあるまいが。
「賢彦先生と会った時の事、もう少し詳しく伺ってもいいですか」
「どうぞ。……でも、ちょっとお水を飲んでもいい?」
「あ、はい。もちろんです」
「お巡りさんは何か飲む? お酒を頼むこともできるわよ」
「い、いえ、大丈夫です……お構いなく」
今更、ハンドレッド・ベイの強い酒が戻ってくるようで誠一は首を振った。その手に、冷蔵庫から持ってきた冷たいペットボトルの片方を握らせて寿々子は笑った。
「真面目ね。裏表がない良い人ってカンジ。あたしは大鳥さんみたいな人は好きよ」
思わず赤くなりそうになる誠一を、きらきらした目が面白そうに見つめた。この環境で、彼女の目が死んでいないことが不思議だった。
「此処での暮らしは……辛いでしょう?」
聞くまいと思っていた言葉をつい、口に乗せてしまったが、寿々子はペットボトルから直に水を飲み、殆ど落ちないルージュの唇を歪めた。
「籠の鳥の気持ちがわかるわよ。あたし、もう絶対に籠で動物は飼わないって決めてるの」
「……そう、ですよね」
「そんなにガッカリしなくてもいいのに。優しいお巡りさん」
「……いいえ。悔しくてたまりません。人を守る仕事がしたかったのに、今、目の前の君を助けることもできないなんて……」
「……賢ちゃんも、同じような事言ってた」
赤いネイルの指先で、きゅっとボトルを閉めると、寿々子は座り直した。
「賢ちゃんね……ホントは、清香さんに会いたかったんだと思うの」
「淋くんのお母さんに……?」
「あ、勘違いしないで。これはあたしの女の勘。だってそうでしょ? セックスツーリズム楽しみに来たわけでもなく、あたしを助ける気で来たわけでもないなら……賢ちゃんは、高いお金を払っても会いたかった人が居るってことになるじゃない……?」
少し寂しそうな寿々子の指摘は、目が覚めるような響きだった。
賢彦の目的が、潮見清香――?
だとしたら……賢彦が未だに独身であるのは、まさか……
「いや、でも……動物好きの賢彦先生ですから、モモの為ということも……」
「どうかしら。モモだけ連れて行く気なら、医師の顔で来て、病気がどうとか言えば連れ出せると思わない?」
その通りだ。わざわざ大枚はたく必要は全くない。
「……おバカさんなんて、とんでもないですね――月島さん……相当鋭いです」
誠一の独り言めいた感心に、寿々子はくすぐったそうに笑った。
「現役警察官に褒められるって、凄いのかしら?」
「俺なんかより、ずっと良い捜査官になりそうですよ」
「喜んでいいのかよくわからないけど、気分はいいわね」
ルージュの唇を愛らしく歪めて、寿々子は小首を傾げた。きっと、此処に来た男らはこの笑顔に魅了されたに違いないと思った。
「月島さんが仰る通りなら……賢彦先生は、もしかして……」
「……そうよ、あんな賢ちゃん初めて見たわ。しぼんだ風船みたいになっちゃって……それ見て、なんか納得しちゃったの。十以上歳が離れた人って言っても……清香さんは若々しくて、すごく綺麗だったから、ずっと憧れてたんじゃないかな……」
「淋くんと賢彦先生は……親しかったんですよね?」
「あれは殆ど、兄弟てカンジね。淋はあの性格だから御一人様主義だったけど、賢ちゃんが積極的に声掛けてた。今思えば打算的に見ちゃうけど……淋も嫌がらないで遊んでたし、ゆず子と三人で図書館で勉強してるのも見たことあるわ。賢ちゃんが北海道の大学行ってた時も、夏休みとかは帰って来て、海で釣りしたりして一緒に過ごしてたみたい」
淋の母親に恋をしていた賢彦が、淋と親しくなるのは自然なことか。
しかし、いくら母親が亡くなったからといって、兄弟のように過ごしていた賢彦を、今は淋が避けている――何故だ?
「賢彦先生とは、他に何か話されましたか?」
「……そうね……ううん、他に目立ったことは……無いと思う。あ、でも待って……関係あるかわからないけど、賢ちゃんが帰った後、見なくなったスタッフが一人居るわ」
「見なくなったスタッフ? 此処のですか?」
「そう。
「淋、くんに……どんな男か説明できますか?」
「うーん……難しい……普通なのよ……よく居るなってタイプなの。身長は大鳥さんよりは低めかな? ちょっとがっしりしてて、黒髪の短髪で……」
何処かで聞いたような特徴に、誠一は泥水を口に含んだような気になり始めていた。慌ててスマートフォンを取り出すと、ある写真を表示させた。
「……まさかとは思いますが……この男に似ています?」
見せられた写真を見て、寿々子はすぐに頷いた。
「そう、コイツよ! 写真で見るといっそうワルに見えるわね」
「……」
どういうことだ。見せた写真は、『登藤』と呼ばれていた三人目の被害者だ。
登藤が、乙津? だとしたら、死んだのは乙津で――なんだって登藤の偽名を用いて百江に居たのだろう?
「月島さん……『海隠し』の前に……島で何か変わったことはありませんでしたか?」
寿々子は首を捻って虚空を仰いだ。
「九年も前だからなあ……あの前っていうと……卒業式に……お正月に……」
「何でもいいです。大きなことなら尚更――」
「大きなこと……」
寿々子は呟いてから、誠一に向き直った。
「……関係ないかもしれないけど、あの年は台風が凄かったの」
「台風――ああ、そうでしたね……日本列島を通って行くのが多かった年でした」
「そう、百江も直撃で大変だったっけ……大きな樹が倒れて道路は通行止め、電線はぐちゃぐちゃ。あの……丘にあった歴史的建造物ってやつ? あれも象に踏みつぶされたみたいになっちゃって。町長さんトコなんて家も倉も半壊状態で、賢ちゃんとこのおばさん半狂乱だったわね」
「ちょっと待ってください、歴史的建造物って……?」
丘にそんなものあったか? そう思いながら問い掛けると、寿々子は長いマスカラの睫毛を瞬かせた。
「あ、そっか……賢ちゃんの病院造ってたものね。前はあの丘の上にね、えーと……何て言うんだっけ……外国の建物……とんがった屋根のー……」
指を虚空にくるくる回しながら、寿々子は頭を上げ下げしていたが、やがてぱっと顔を上げた。
「あ、そう! チャペル! 古い教会があったのよ。子供はお化け屋敷って呼んでたの。肝試しに使う奴も居たっけ。もともとオンボロだったから」
「教会……?」
島にキリスト教徒が居たのか? いや、そんな印象は無かった。
他宗教が揉み消したならまだわかるが、神社仏閣さえ無い島だし、墓石こそ日本風だが、古いものが素朴に並んでいるだけだった。
しかし、言われてみれば海に近い場所にも関わらず、信仰に
百江には……島民が話したがらない歴史があるのか?
「大きなことは、そのぐらいね。あの島って、いつも生温い水みたいで……なーんにも無いことが自慢なんだもの」
何も無いこと。それが島民そのものの意思だとしたら。
午前、八時。
昨夜はすっかり話し込んだ後、一緒に寝るぐらいなんでも無いと言う寿々子に、半ば懇願するようにベッドを譲り、ソファーでうつらうつらするに留めた誠一は、生あくびをどうにか嚙み殺していた。
そろそろ、スタッフが来てしまう時間だ。
「……じゃあね、優しいお巡りさん」
小さく笑って手を振られると、連れ帰りたくてたまらなくなったが、誠一はその肉の薄い手を両手で握って、しかと頷いた。
「……必ず、助けに戻ります」
ありがと、と寿々子が微笑んだところで、扉の鍵が開いた。
案内したスタッフだと思った誠一は、立っていた人物に目を瞠った。
「楽しい夜は過ごせましたか? 大鳥さん」
「末永……警部……?」
困ったように笑った彼は、あろうことかきちんとスーツを着て、敏腕刑事そのものの格好だった。アホのように口を開けて固まってしまった誠一の後ろで、寿々子も驚いた顔で二人を見比べている。
「大鳥巡査、騙して申し訳ありません」
「だ……騙す? 何のことです?」
腰を直角に折って頭を下げる男に混乱した誠一は、その後ろから現れた人物に、今度こそ大口開けて仰天した。
「おはようございます、大鳥さん」
親し気に手を上げたのは――昨日一緒に居た末永ではないか!
「す……末永警部が、二人……!?」
「はは、良いですねー大鳥さん。その驚き方、ベタで嬉しくなってしまいます」
にこやかに笑う『昨日の末永』に、『スーツ姿の末永』――ドッペルゲンガーであるかのように顔も背格好もそっくり瓜二つだった。
「僕は双子なんです、大鳥巡査。昨日、貴方と乗船したのは、弟の
「ふ……双子……!? いや、だからって……!」
「完璧でした?」
悪戯っぽく笑っているのは私服の末永である。いつの間にか彼の声は兄のものより軽快で、堅さのかけらも無かった。完全に狼狽える誠一は、狂ったように喚いた。
「か……完璧なんてものじゃなかったですよ! 全然気付きませんでした……!」
「公平は劇団員なんです。昔から僕のものまねは得意なので、利用させてもらいました」
「……つ……つまり……?」
「僕は公平から情報を受け次第、動けるように配備していました。まあ、刑事がこの船に乗船してこのフロアに入るのはさすがに言い逃れできないというのもあるのですが……ああ、大鳥さんは支払っていないから大丈夫です。公平が誘った体でどうとでもなりますから、キャリアに傷は付きません」
「もしもの時は弟になすりつける気なんです。ひどい兄でしょう?」
そう言いながらも、公平はウインクでもしそうな顔で笑っている。
本当に狐につままれたのか――誠一はもはや言葉も出ないが、朝陽を見る様な顔をしていた寿々子を振り返り、何とか絞り出した。
「じゃあ……彼女は……!」
「はい。ご安心ください。月島寿々子さん――並びに、届の出ていた行方不明者はすべて保護致します。パラダイス・チケットの悪事は、マスコミが広めてくれますよ」
堅いが頼もしい声は、勝利を告げる声のようだった。
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