7.エデン
「お二人に話しておきたいのは、パラダイス・チケットの件です」
交番の椅子に座って尚、正座でもしているような末永は、開口一番そう切り出した。
「約八年前から、急速に業績を伸ばしているのがわかりました」
達巳と誠一は顔を見合わせた。末永はそっと薄いファイルを差し出した。開いたそこにはシンプルな棒グラフがある。パラダイス・チケットが保有する大型クルーズ船『エデン』の年度別の売り上げと、客数の推移だ。
末永が言う通り、殆ど横ばいだったグラフは八年前から右肩上がりで、一見、何でもない好景気を示すものだったが。
互いにグラフを見つめていた両者は、おや、という顔になった。
「お気付きになりましたか」
「客数が……動いていませんね?」
達巳の言葉に、末永は頷いた。
「最大客数は約300人……ですが、客数は業績を上げた年から250前後止まりです」
「どういうことでしょう? 船上で高価な商品を扱っているとか?」
「可能性はあります。殆どの大型船の旅行は、船上で行われるサービスは乗船代に含まれ、食事やエンターテイメントも然りですが、土産物や一部の飲酒は別途です。オリジナルの高額商品を売ることもありますしね」
「ホテルと同じ感覚か。そうだとしても腑に落ちない。それほど高給取りやクルーズ船のファンばかり乗船するわけじゃないだろう?」
「ええ。船の規模もどちらかというと中堅です。例えば行き先も、世界一周旅行など大それたものではなく、日本近海やアジア圏を中心に、ヨーロッパは一部に限られます」
ファイルを閉じて、末永は静かに言った。
「僕の想像通りなら、船内で何らかの違法取引が行われていると思います」
「違法……ドラッグなどですか?」
誠一の問い掛けに、末永は生徒の質問を受ける教師のようにゆったり頷いた。
「有ってはならないものですが、あるかもしれませんね。ですが、それなら客数を伏せる意味はありません」
「客数を……伏せる?」
「そうです。報告に存在しない、隠れた数名が乗船していると僕は見ています」
「な、何のために……?」
「――人身売買の為なら、如何でしょう」
達巳の目に、光が閃いた。
「何故そう思われるのか……伺っても?」
「最初に気になったのは、猫です」
「モモが?」
「モモちゃんが反応を示した持田を、僕は徹底的に洗いました。持田と、次に見つかった亀井は、どちらも相当な人物でしたよ。表向きは『エデン』の営業スタッフ……普通のサラリーマンでしたが、事件に至らぬギリギリの暴力的な人間で、警察の手が回らない範囲でやる狡猾なタイプだったようです。そんな人間に、静かな場を好むという猫が付いていくとは、僕にはどうしても信じられませんでした」
「賢彦先生も……そう思っていたようです」
「はい。先生が、モモちゃんは人間の顔を認識しているのではと仰られたとき、両者の接点を考えました。あの子が認識するだけの時間を、何処で共に過ごしたのか。まず、持田のプライベートに猫の姿はありませんでした。実家で飼っていたこともない。ということは……」
「それが……『エデン』だと仰るのですね」
「その通りです」
大変出来が宜しい、とでも言いそうな敏腕警部は、何処までも静かに解説を続けた。
「もし、エデンに秘密のフロアがあるとして、そこにネズミでも出たらと考えました。一般スタッフさえ知らないだろう場所に、外部業者を入れたくはありませんよね?」
「モモが、ネズミ捕り用の猫だったと……?」
「はい。仮に獲ることがなくても、未然に防ぐ為に置いていた可能性はあると思います。あの子が人慣れしているにも関わらず、自由な気風を望むのも、放し飼いされていた生活の表れではないでしょうか」
言われてみれば、モモが時間にきっかりしているのも船で鍛えられたと思えば頷ける。ネズミの為に船で猫が飼われているなど、誰に聞かれても問題はないし、猫なら何処で何を見ようとも口は利かない。賢彦によれば、避妊処置を施すと活発ではなくなるというが、モモがあちこちでエサを貰っていたにも関わらず、スリムな体型ということは、十分に動き回っている証拠だ。
船内を自由にうろつき、好きなところで眠る。行きたい場所の扉が開いていなければ立ち止まり、人に開けてもらうのを静かに待つ……現在のモモの暮らしと大差ない。
「……嫌な想像ですが、もし……人身売買が対象者の同意なしである場合、トラブルもあると思います。猫がいれば、少々不審な物音がしてもそのせいにできますし、鳴き声もごまかしに使えるでしょう」
まさにうってつけ、か。
「末永警部……最初と仰いましたが、他に気になる点とは、もしかして――」
達巳の言葉に、末永は頷いた。
「九年前の『海隠し』です。達巳さんが調べられた通り、あそこで離岸流はまず有り得ません。人為的なものだと断定はできませんが、可能性はかなり高い」
「……」
達巳は押し黙った。『海隠し』で消えた四人の外見からしても、これ以上ない構図ではある。だが、誠一にもわかっていた。『海隠し』が『エデン』に人を送る犯罪計画なら、認めがたい事実が浮かんで来る。
「達巳さん……当時、事件を担当なさった
冴えない口調での末永の言葉に、達巳は顔を上げた。達巳の当時の上司だ。事件当時、長いこと百江の交番を担当し、定年間近だった警察官は既に引退して余暇を楽しんでいたという。
「開口一番が、『何も知らん』でしたよ」
慌てた様子を思い出すのか、末永は苦笑した。会ったこともない退職者を想像して、誠一も苦い気持ちになった。そのセリフ、まるきり隠し事をした悪役ではないか。
「達巳さんは、何度も訪ねたそうですね」
「……いい加減にしろと怒鳴られて、尚更退けなくなりまして」
若気の至りですと達巳は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「おかげで一言吐きました。『頼まれて仕方なく』と。相手が誰なのかまでは出ませんでしたが」
そうでしたか、と溜息を吐いた達巳に、末永は鋭い目を細めた。
「達巳さんは、お気付きなのではありませんか?」
「……何をですか?」
「『エデン』に人を売り渡し、専門家に離岸流の見解を喋らせ、菅に捜査の中断を頼んだ人物です」
誠一は達巳を見た。彼は机の端を見つめ、微動だにしなかった。
「この件は対象者を車に押し込むような誘拐とは別物です。その人物には複数の協力者が居たはず。島の海を知り、小船を出せる人たちが。そうした人たちに声を掛け……大金を受け取り、使用しても違和感のない人物は誰ですかね?」
達巳は静かな溜息を吐いた。
「最も可能性が高いのは、町長――――三波賢継さんです」
「そ……そんな……! 町長自ら……島民を売ったんですか?」
誠一は立ち上がりかけていた。末永は疲れた様子の達巳を静かに見つめ、当の達巳は隣の若者に気遣う様な視線を向けた。
「……大鳥くん、『それ』が――この件の一番恐ろしい部分なんだ」
「え……?」
「島民だが、島の人じゃないんだよ」
達巳の口調は、悔しさに満ちていた。
「四人全員が、島の出身者じゃない……島外からの移住者だ」
――そうだ。淋も、母と一緒に島外からやって来たと……
「じ……じゃあ、彼らが選ばれたのは……見た目だけではなく……」
「そうだ。『よそ者』だったから……!」
ドン!と達巳は拳で机を叩いた。
「……当時は、今よりも因習が根深かったんだ……僕が捜査しようとしても、誰も耳を貸さなかった。……情けないが、ここ最近でやっとなんだ……淋くんが戻って来たことで、動揺した人々を見て、気付いたよ……」
そうだったのか。
誠一は自分に向けられた針のような視線を思い出していた。
あれはマスコミに宣揚された人々の視線とは異なる――秘密を共有し、外部のものを疑い、過去を暴かれるのを恐れる目だったのだ。
では……あの中に、『海隠し』の犯人も居たのだろうか……?
達巳が落ち着くのを待って、末永は静かに口を開いた。
「三波町長が関わったという、確かな証拠は無いんですね」
想定だけならば、ほぼ確定だが、物的証拠は皆無だ。俯いたまま唇を噛む達巳が頷くのを、誠一も歯がゆい気持ちで見つめた。賢い達巳なら、きちんとした捜査さえできれば、数年前――いや、事件当時でも摘発できたに違いない。
さすがに九年も経過してしまえば、よほど愚鈍な犯人でもない限り、証拠をいつまでも傍に置く筈がない。
末永はそっと頷いてから、やはり水を打つように呟いた。
「何故、潮見くんは口を閉ざすのでしょう?」
「達巳さんは……脅迫を疑っていましたが……」
項垂れる上司に代わって誠一が答えると、末永は賢そうな印象の眉を寄せた。
「人質か、何かでしょうか」
「さあ……彼は何も教えてくれないので……」
「彼が、登藤と接触していたのは、間違いないんですね?」
達巳が頷いた。
「……うちの義母や義妹は図書館で目撃しています。あとは、沢村館長がお詳しいかと」
「他に、彼と接触していた人物に心当たりはありませんか」
「……図書館でなら、他にも居ます」
躊躇いがちに、誠一は淋と密通していた男のことを話した。達巳は初耳だったらしく、淋の行動そのものに驚いたが、末永の推理に準ずるならば、自然な話ではある。
「その男、また現れるでしょうか?」
「それは……わかりません……」
この件は淋を真っ向から非難したため、彼自身が男を遠ざける可能性もある。余計なことをしたと悪びれる誠一に、末永は首を振った。
「いえ、それはご友人として当たり前の行動です。潮見くんを思うと良くはありませんが、それほど執着した男が、そう簡単に彼を諦めることはないでしょう」
頼もしい返答に頭を下げつつ、やはり誠一は迷ったが正直に言った。
「あとは、ほんの一瞬会っているのを見ただけですが……三波クリニックにお勤めの看護士、月島菜々子さんです」
「月島寿々子さんの妹さんですか……」
顎を撫でると、末永はしばし黙してから顔を上げた。
「大鳥さん、潮見くんに話を聞くわけにはいかないでしょうか?」
「……どうでしょう……あいつはすぐに話をはぐらかすので……」
自信が無さそうな誠一を見つめてから、末永はとんでもないことを口にした。
「では、先に僕と、
「えっ……!?」
『エデン』に乗るということか?
「お……わ、私なんかより、適切な人材が居るのでは……?」
「いいえ。一連の人物の顔を認識している大鳥巡査は適任です。一度見ただけの持田のことも覚えていらした記憶力も頼りになります。それに、達巳さんをお誘いするのは、奥様に申し訳ありません」
「そ、それはそうですけど――……」
「チケットは僕が買いました。ああ、支払いはいいです。これで違法行為を摘発できるなら、安いものですから」
「末永くん……君って男は……」
「お叱りは勘弁してください、達巳さん」
困った形に眉を下げると、末永は実に清々しい表情で言った。
「どうせ隠しても顔は割れます。正面から堂々と、気楽に行きましょう」
クルーズ船『エデン』は、海にそびえ立つ真っ白な巨大ホテルのようだった。
滑らかな曲線ラインのボディには規律正しく開けられた穴のような窓がぎっしりと並び、周囲をぐるりと展望デッキが囲んでいる。クルーズ船の中では中堅クラスだというが、仰いだところで上層部までは見えず、端から端もかなりの距離があった。
そうに決まっているだろうが、外見からは妙な所は確認できず、乗船客や案内のスタッフに怪しい人物は見当たらない。
「末永さん……こういった船に乗ったことありますか?」
できるだけ同僚のように話すよう言い含められていた誠一だが、つい上司に対する姿勢で尋ねると、末永は苦笑しながら首を振った。彼はスーツ姿でこそなかったが、仕立ての良さそうな淡いグレーのサマーウール・ジャケットに、パリッとした襟のシャツ、よれのないベージュのパンツスタイルだった。
「いいえ。忙しいを理由にしたくはありませんが、機会がなくて。一人で乗るのも何ですしね」
「え、お一人って……」
「僕は独身です。なにぶん、変わった人間なもので」
意外です、と隙の無いファッションだけでも正直な感想を述べた青年に、末永は気を悪くした様子もなく笑った。男の目から見ても『カッコいい』印象を受けるが、女性相手では賢彦に似たタイプなのだろうか。
どうもこのところ、フリーの良い男が周りに多い。
「男が好きというわけではありませんから、安心してください」
何やら淋のことが頭に浮かんで、ひきつりそうになる顔を何とか笑いでごまかし、誠一は風変わりな上司とエデンに乗り込んだ。
初めてということだが、彼は非常に落ち着いていて、潜入などという名目で来た割にきょろきょろと辺りを窺うこともしなかった。
代わりに、彼は客室に案内してくれた若いボーイに、穏やかに尋ねた。
「大きい船ですね。こう大きいと、メンテナンスが大変でしょう」
「仰る通りです」
こういう質問の客は多いのか、ボーイはフランクに答えた。
「スタッフ一同、気を遣っていますが……お気付きの事がありましたら、何でも仰ってください」
「ありがとうございます。彼も僕も、こうした船は初めてで」
「左様でございましたか。初乗船にお選び頂けたとは光栄です。夕陽の時間帯は、ぜひ最上甲板にいらしてください」
にこやかに客室の説明を一通りすると、ボーイは去って行った。
ボーイが去ると、末永は急に刑事の顔になり、互いの部屋をつぶさに観察した。驚いたことに、彼はシックな旅行鞄から当然のように盗聴探知機を取り出し、室内をうろうろしてから「大丈夫ですね」などと言ってのけた。
「大鳥さん、室内の声が廊下と隣の部屋で聴こえるか試したいのですが」
それで二部屋取ったらしい。呆れた仕事熱心ぶりに舌を巻いての恥ずかしい実験結果は、叫べば聴こえるが普通の会話ぐらいは聴こえない、というものだった。
「では、夕陽の時間帯まで少し歩きましょうか」
捜査しなくていいですよ、と念を押され、ぶらぶらと連れ立って歩き始めた。
「……末永さんは、もう目星がついてらっしゃるんですか」
主語のない問い掛けに、末永は世間話でもするように軽く頷いた。
「一般人が堂々と入れるエリアだと思います」
「え……未公開区域ではなく……ですか?」
事前に見てきた様々なクルーズ船内部には、もともと一般人が立ち入れない場所が多くあった。船長室などのスタッフルームもそうだが、この殆どは未公開区域と述べておけば、マスコミも入れない。事実、エデンの船内案内図も、未公開区域は多く存在している。操舵室は元より、電気設備などの危険な場所や、研修生の部屋などもこれに含まれているようだった。
「未公開のエリアを、客とわかる一般人が歩いているのは不自然でしょう」
「確かにそうですが……」
「抜け穴があるんですよ。大の大人が通れる程度のね」
どう見ても一般人と思しき、家族連れや老夫婦などとすれ違いながら客室のエリアを通り抜けると、末永は後ろを振り返ったが、何も言わずに次のフロアに移った。
デッキと呼ばれる『エデン』のフロアは大きく分けて六つある。
最上甲板やスパのあるスカイデッキ、レストランやバー、ショップがあるデッキ、客室デッキが二層続き、レセプション・ルームやセルフランドリーがあるデッキ、積荷などがある最下層となっている。デッキのそれぞれにはエンジンルームや非公開エリアが点在するが、そちらはどのみち一般客は入らない。
次のデッキは、スイートなど上等の部屋が並ぶ客室フロアだった。
彼は周囲を見渡していたが、ただ物珍しそうに見学している客にしか見えない。前のデッキよりも人は少なく、前からやって来たのは制服を着たスタッフだった。
「ああ、先ほどの」
親し気に会釈したのは案内してくれたボーイだった。
「どうかなさいました?」
「上流階級がどんなものか気になりまして」
末永の冗談めかした言葉に、ボーイはにこりと微笑んだ。
「よろしければ、空いている部屋をお見せしましょうか?」
「いいんですか?」
「ええ。夏休み明けですから」
満室ではない言い訳をするように、彼は先に立って歩き出した。
一つの部屋の前で慣れた手つきで鍵を取り出すと、ドアを開いて促してくれた。
「どうぞ」
色々なサイトの写真で見た、きらびやかな部屋がそこに有った。
ブラウン調の落ち着いた色で揃えられた家具に、絨毯の毛足も高く、十分な広さのリビングにダイニング、仕切りで隔てられたベッドルーム、海を眺められるジャグジー付きバスルームまである。堂々としていられる末永に感心しながら、潜入の件も忘れて誠一は華美な室内を眺めた。
「素晴らしいですね。どんな富豪が泊まられるのか気になります」
「はは、意外と一般の方が多いですよ。ボーナスの使い道に迷われましたら、ぜひ」
乙なことを言うボーイに、末永は愛想良く笑った。
「貴重な経験をありがとうございます」
「いえいえ。お楽しみ頂ければ幸いです」
宣伝のつもりだったのか、男は丁寧に室内の説明をしてくれた後、エレベーター前まで共に歩き、笑顔で別れた。その背を見送ってから、末永はそっと誠一に言った。
「大鳥さん、さっきの男――覚えておいてください」
「……ど、どうしてです?」
慌てて聞き返した誠一に、やや面白そうに末永は笑った。
「ネームプレートを見ましたか? 彼の名前――“登藤”でしたよ」
「……!」
死んだ登藤と同じ名前?
「それほどポピュラーな名前ではありませんから、偶然ではないでしょう。さて……レストランは後でお目に掛かれますし、彼おすすめのスカイデッキに行きましょうか」
驚きに言葉も出ない青年の肩を叩いて、エリート警部は先に歩き始めた。
最上階のスカイデッキから眺める夕陽は、圧巻だった。
いつも見ている陽と何が違うのだろう――それはやけに丸く、色濃く、輝きは叫ぶように眩しい。たなびく濃紺の水面に、力強い橙のきらめきが躍り、曖昧な薄紫に染まる雲が漂い、皆やがて冷たい闇に溶けていく。親子連れやカップルが写真を撮っているのを眺めつつ、柚子や淋はどうしているかなと考え――いやいや、遊びに来たんじゃないんだと首を振った。
「写真撮ってもいいですよ」
周囲を哨戒していた末永が、いつの間にか隣で言った。
「す、末永さんとですか?」
誠一のどぎまぎした返事に、末永は彼にしては珍しく、きょとんとしてから声を立てて笑った。
「大鳥さんは面白い」
「は、はあ……よく言われます……」
「僕と撮りたいなどと奇特な事を仰るなら構いませんが、そうではなくて――最近の人は出掛け先で撮影したものを、SNSなどにアップするものでしょう?」
「あ、ああ……そうですね……どうもそういうの苦手で……」
「奇遇ですね。僕も苦手です。綺麗だと思いますが、写真に残したり、発信する気はどうも湧きません。肉眼で見たいですし、見せたい人が居るなら一緒に来ます」
「わかります……皆マメですよね」
早速アップしているらしく、スマホを見つめる人々を別世界の者のように誠一は眺めた。恐らく、一緒に見たかった人は隣に居るのになと不思議そうに見ている間に、既に陽はすっかり落ちている。
「スカイデッキには……何か気になることはありましたか」
尋ねると、末永は首を振った。
「今のところは。ああ、レストランでは普通に食事を楽しんでください。できれば、飲酒だけ控えめにして頂けるとありがたいです」
「も、もちろんです……」
上司の前で管を巻くわけには、という誠一に、末永はいやいやと手を上げた。
「食事の後、バーに行きたいんです」
「バーに……?」
「はい。そこで取引、或いは抜け穴がわかると思います。大鳥さん、僕が何を言っても驚かないで下さいね」
「わ、わかりました」
既に何度も驚かされているので自信は無かったが、頷いた。
仕事を忘れる程度に華麗なディナーを緊張気味に食べた後、件のバーに入った。
薄暗い照明は大人びた雰囲気だったが、大きくとられた窓や、天井の星が降るような灯りは厭らしい感じはしなかった。
マホガニー調の良い色のカウンターやテーブルも、程良いクッションの椅子も、怪しいと思わなければ、女性も喜びそうな良い感じだ。他の客も妙な感じは無く、ラフな格好でカクテルを楽しんでいた。
「ハンドレッド・ベイを頂きたいのですが」
ウェイターの顔つきがわずかに変わった。
誠一は口を開けそうになるのを何とか堪えたが、目だけはどうにもならなかった。
取り澄ました様子の末永に、ウェイターはあくまでも丁寧な物腰で頷いた。
「こちらのお客様も?」
「ええ、彼も同じものを」
「かしこまりました」
引き下がって行くウェイターを見送ってから、誠一は末永を見た。
彼はにこりと唇だけ歪めると、そっと人差し指を口に当てた。
一体何がやって来るのか――誠一が化け物でも待つような心地になりつつ、程なくしてウェイターが運んできたのは、何のことは無い――綺麗なカクテルだった。
ブルー・キュラソーが使われているのか、爽やかな青いカクテルだ。冷たいグラスの縁には塩がまぶされ、ソルティ・ドッグのようなグレープフルーツの香りがした。
行き届いた仕草で厚紙のコースターが置かれ、その上にカクテルグラスが載るのを子細に見つめていると、去り際にウェイターはモンブランのボールペンを一本置いて、会釈と共に密かに言った。
「……ご希望がありましたらお申し付けください。今夜はある程度融通が利きます」
「ありがとう」
末永が頷くと、ウェイターは去って行った。
「末永さん……これは一体――」
「まあ、頂きましょうか。毒ではないと思いますよ」
悪い冗談を述べる末永がグラスに口を付けるのを、何やら狐につままれた気持ちで見ていると、彼は「強いですね」と笑ってからコースターを手にして裏返した。
表にはエデンのロゴとバーの店名が書かれてたが、すうと机を滑って差し出された裏面を見て、誠一は声を上げそうになった。
そこに書かれていたのは、十余りの英字だった。
名前だ。どれも英語とローマ字表記で、優雅な文字で綴られている。
名前といっても、あだ名のようで苗字はない。外国人らしき名が殆どだが、その中に誠一は見覚えのある名があった。
『suzu.』――スズ……? 月島寿々子か?
しかし、潮見清香と登藤八千代と思われる名はなかった。
名の脇にはチェックが入れられるようになっており、入れたらどうなるのか……嫌な想像が悪い酒のように頭を支配した。青ざめた顔を上げると、刑事の顔になっていた末永が頷いた。
「僕は登藤の事件前、アジア近海の島国を巡っていました。百江の他にも、ハンドレッド・ベイと呼ばれている入り江がありましたよ。尤も、公的な呼び名ではなく、現地の一部の人々が呼んでいるだけでしたが」
「……此処に、書かれているのは……」
「そこから連れられた人たちでしょう。現地の行方不明者の名前とほぼ一致します。いずれも貧しい界隈だったので、同意の上という方も居るかもしれませんが」
複雑な顔をしてから、末永は強いと言ったカクテルをあっさり飲み干して苦笑いを浮かべた。
「さて、そこで相談ですが。大鳥さんは英語はご堪能ですか?」
情けないが大きく首を振った男に、末永は頷いた。
「では、『スズ』さんを当たって頂きましょう。念のため申し上げますが、無理に連れ出そうとはしないで下さい。本人であると確認できれば十分です。その後はまあ……定時までおとなしく過ごして頂きたいのですが、皆まで言わなくても大鳥さんはきちんとなさってくれますよね」
思わず顔を赤くしてカクテルを呷った男に、末永は満足そうに頷いた。
「心配なさらなくても、恋人には言いませんよ」
「い、いや……俺はそういう相手は居ませんから……!」
柑橘類特有の苦みと、強い酒の苦みが重なるカクテルは、なんとも皮肉な味わいだ。
「では、チェックをお願いします」
末永は外国人と思しき名前にチェックを入れ、誠一は言われた通り『スズ』にチェックを入れた。末永が片手を上げると、地獄への使いのようにやってきたウェイターが、空のグラスと共にさりげなくコースターを回収した。
引き返した彼はすぐに戻ってくると、確実にカクテル二杯分ではない高額の支払いを提示した。
末永は少しも動じる様子がなく、笑顔で頷くとカードとチップを手渡した。
「彼の分もまとめて下さい。一括で」
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