6.涙
ハンドレッド・ベイに張られたイエローの規制線が、潮風にバタバタと揺れていた。心なしか波も騒がしく、空は嵐の前触れのような暗雲が千切れ飛び、風は生暖かく激しい。
遺体は、登藤という男で間違いなさそうだった。
誠一も顔を確認したが、確かに図書館で見かけた男だ。発見当時は、浜に打ち上げられるように倒れていたという。目立った外傷は無く、全身濡れていた為、司法解剖しなければはっきりしないが、溺死の可能性が高そうだ。
服は靴も含めてしっかり着込んだままだった為、戯れに泳ごうとしたとは考え難い。
はためくブルーシートの周辺で鑑識が働くのを遠巻きに眺め、周辺警備に当たっていた誠一の目に末永警部の姿が見えたのは、事件発生から半日を過ぎてからだった。
疾風のような彼にしては珍しいと思っていたが、達巳によれば、別件で遠方に赴いていたらしい。
「大鳥巡査、ちょっと宜しいですか」
鑑識のリーダーとやり取りをした後、末永はまっすぐ誠一のところにやって来た。
彼は砂地でもきびきびと歩き、大急ぎでやって来た焦りは全く見えなかった。きちんと敬礼をしてから従うと、彼は部下が離れた辺りで楽にしていいと微笑んだ。
「図書館で困った騒ぎが起きていまして。今、達巳さんに制止を頼みましたが、どうにも世論が興奮状態のようです」
「……図書館で……?――」
「アリバイを伺いましたが、貴方といらしたそうですね」
「アリバイ……」
つられて呟いてから、誰のと聞く前にはたと気が付いた。
職務に気を取られていたが、ハンドレッド・ベイで遺体が上がり、その被害者が登藤――真っ先に疑われるのは……
思い当るよりも早く目に留まったのは、図書館の入り口に屯するカメラとマイクを持ったハイエナ達だった。こちらに気が付くと、続々と向かってきたが、末永が表情をぴくりとも動かさずに闊歩するため、誰も止めることはできなかった。
入口をくぐると、小さなロビーにおしくらまんじゅうでもするようにマスコミと島民が詰めかけていた。その奥深くには、達巳に庇われる形で、明快な困惑を顔に描いた沢村館長が居た。
気の小さい彼はかわいそうに、話し掛けられる度に冷や汗を垂らすようにまごまごと言葉を紡ごうとするが、どもるばかりで上手くいかないようだった。
「沢村館長」
誠一が大きくもない声を掛けると、彼は弾かれるように顔を上げて、拝むような目で仰いできた。
「大鳥さん……警部さんも」
「――皆さん、申し訳ありませんが、下がって頂けませんか」
末永の声は、細かなざわめきにがさついていたロビーに、水を打つように響いた。
島民は手なづけられた動物のように退き、マスコミは何か言いたげだったが、末永が周囲をゆったり眺めると、おとなしく数歩引き下がった。
「沢村館長……淋はどこです?」
「ここ」
静かになるとみるや、館長と達巳が立ち塞がっていた図書館の出入り口から、小さく片手を上げて淋は出てきた。目当ての人物に、カメラのフラッシュが光り、再びにわかにざわめき始める。
「――お静かに願います!」
空を鋭く裂くような末永の声に、辺りはシン、となった。
「こんな所ですみませんが、少し聴取をしても宜しいですか?」
末永のダイレクトな問い掛けに、誠一は彼が何故自分を連れてきたのかわかった。
達巳を見ると、彼も小さく頷いた。
「潮見さん、皆さんに確認していることですが、昨日の午後五時近くはどちらにいらっしゃいましたか?」
「自宅に居ました」
淋がいつもと変わらぬ様子で答えると、末永は頷いた。
「誰かと一緒でしたか?」
その問い掛けに答えたのは、淋ではなかった。
「私と居ました」
はっきり言った誠一の言葉に、皆の視線が集まった。淋もちらと誠一を見た。
「確かなんですか、大鳥巡査」
問い詰めるような末永の鋭い声に、誠一は頷く。
「本当です。ちょうど彼の自宅に頼まれものを届けたとき、急なスコールが降ったので、雨宿りさせてもらいました」
「頼まれものとは?」
「明日野柚子さんに預かったスイカです。パトロール中に通り掛かるところだったので、ついでに引き受けました」
「なるほど。スコールが降っていた時間帯は、少なくとも彼と居たということですね?」
「はい」
「貴方や彼が、席を立ったり、電話を掛けたりは?」
「いいえ、ありません。最初の数秒だけ、彼はキッチンに居ましたが、あとはずっと同じ部屋に居ました」
「よくわかりました」
末永は満足そうに頷くと、淋を振り返った。
「今の証言に、訂正や間違いはありますか?」
淋は首を振った。
「……ありません」
「それは何より」
敏腕警部は静かに頷くと、達巳の方を振り返った。
「明日野柚子さんは義妹さんでしたね。証言はとれますか?」
「連絡を取ってみましょう」
それで、騒ぎは済んでしまった。
末永は初めから淋を疑ってはおらず、無駄な疑いを一切処理するつもりだったのだ。
昨日、島に居た島民ならば、スコールが降った時間を知らない者は居ない。末永がわざわざ尋ねたその時間帯が死亡推定時刻であるのは間違いなく、警官と一緒に居た上、柚子からの届け物を受け取っている淋のアリバイは完璧だ。
「……どうして、こんな大胆なことを?」
尋ねた誠一に、末永は悪戯っ子のように笑った。
「彼が自宅に居たのなら、犯行がこの場所以外でもほぼ不可能です。左足が不自由な彼が走るのは無理ですし、車やバイク、自転車も所持していませんね? 人を使った犯行という話なら、島民を含め、誰もが容疑者ですから、今は意味の無い議論です」
大胆な聴取をしたのは、淋のように目立つ外見の若者にマスコミが食いつくと、余計な騒ぎをやらかし、捜査に支障が出るためらしい。騒ぎは御免だが、聴衆がうるさい状態は犯人の目くらましになるのではと尋ねた誠一に、末永はにこやかに微笑んだ。
――もしかしたら、この男は既に犯人の目星もついているのかもしれない。
「他の者はどうか知りませんが、僕は騒々しい中で物を考えるのは苦手です。エアコンの音を邪魔に思うぐらいですから」
非常にまともな神経質警部のお陰で、美青年は報道の毒牙に掛かるのは免れた。
最もほっとしたのは沢村館長らしく、ぞろぞろと引き下がって行った人々を見送りながら胸を撫で下ろしていた。
「沢村さん……大丈夫ですか?」
「はい、ええ、ありがとうございます、大鳥さん。淋くんが犯人だったら……私はもうどうしようかと……」
安易に流されてしまいそうになっていたらしい。気弱な館長に苦笑しながら、誠一はぼんやりしている淋を軽く小突いてやった。
「お前が怪しいことばっかりするから、館長を困らせるんだぞ」
「誠一くんが言うことかな?」
そう答えた淋は、ばつが悪そうだったが少しだけ笑った。
「悪かったよ、沢村さん。元気出して」
淋の変な励ましに、沢村は何度か頷きながらハンカチで顔を拭いた。
「いや、良かった……本当に良かった……」
その様子を眺めながら、誠一は不思議な感覚を覚えていた。
同じ島民でも、何故この館長は、そんなに淋を心配するのだろう? やはり同じ職場のスタッフは仲間意識があるのだろうか?
疑問に答える様に、事の次第を息を潜めて見ていた他のスタッフも出てきた。皆嬉しそうに淋を囲んで言葉を掛けるのに、誠一は浮かんだ疑問を口にしなかった。
皆が好いている王子様が何ともなかった――普通に考えれば、そういう反応になるか。
思い直して、達巳と末永に従って、現場に戻って行った。
登藤の死は、島に妙な結果をもたらした。
死者に対しては大変気の毒だが、どこか安堵の空気が流れ、図書館に至っては、風通しが良くなったとでもいうような清々しい雰囲気だった。生前の姿にあまり危険を感じなかった誠一には、些か過剰反応に思えたが、よほど不審がられていたものらしい。司法解剖の結果が出るまで、前の事件との関連もわからず、ひとまずはマスコミも落ち着いた。
ハンドレッド・ベイの規制線は居残ったが、もともと淋ぐらいしか目立った出入りはしていないため、島民が気にする程の事ではないようだった。
――仮にも住んでいる場所なのに、いつも、
そんな風に思いながら、翌日『人魚姫』の本を返しに行くと、カウンターに居た淋は気まずそうな目を持ち上げたが、誠一は自然に声を掛けた。
「綺麗な内容だった。ガサツな俺には難しいけど……絵本より良いな」
素直に述べた感想に、淋は少しだけ驚いた顔をしてから、嬉しそうに微笑した。
「誠一くんは、ガサツなの?」
「繊細に見えるか?」
淋はにやっと笑って首を振った。
その表情からは、登藤の死をどう考えているのかはわからなかったが、少なくとも冷たい印象は受けなかった。
――優しさは、どんなに嫌がられても、その人の心に響く。
達巳の温かな言葉を思い出しながら、誠一はできるだけ静かに淋に言った。
「お前、今夜空いてるか?」
「……なに? 逢引きのお誘い?」
「……言うと思った」
呆れたように天を仰ぐと、やや意外そうな淋に首を振った。
「違う。ただ、話したいだけだ。お前の蔵書も気になる」
「つまんない誘いだな」
本当につまらなそうに答えたが、淋は頷いた。
「いいよ。ハンドレッド・ベイにも行けないし……何のお構いもしないけど」
二度目の訪問となった淋の自宅は、雨が降らなくても陰鬱な雰囲気の場所だった。男の『お構い』など期待していなかった誠一だが、夕食時を過ぎたばかりの家になんの匂いもしないことに気付くと、一笑に伏すわけにはいかなかった。
「夕飯食ったのか?」
兄か母親のような気分になりながら尋ねると、本を片手に面倒くさいというおぞましい返事が返って来た。冷蔵庫を覗き込んでみて、ペットボトルと、先日のスイカがあるだけの水分一択のすっからかん状態に絶句してから、誠一は思わず叫んでいた。
「ああ……もう! なんにもねえ家だな!」
ちょっと待ってろ!と言い捨てると、お節介な男は荷物――缶ビールと子供っぽいチョイスの菓子を置き去りに出ていった。
一人で騒いで消えた男を見送って、淋は鍵でも掛けてやろうかと思ったが、また騒がれるのも面倒で、ビールだけ冷蔵庫に突っ込んで本に向かっていた。
程なくして彼は戻ってきた。手にはラップのかかった皿を器用に二つ持ち、有無を言わさぬ態度でテーブルに置いた。
「……なにこれ?」
湯気で曇ったラップの下が、わからなかったわけではない。
が、持ってきた男はご丁寧にスプーンまで突き出し、見てわかるだろという顔をした。
「炒飯!」
言い放つと、さっさとラップを外して湯気を立てるそれを淋の前に押しやった。言われた通り、炒飯だ。ツナに、細かく刻んだレタス、卵を纏ったシンプルな炒飯だった。仄かに黒コショウが香るそれを前に、淋は怪訝な顔をした。
「なんで炒飯?」
「いいから食えよ。ガリガリ人魚野郎」
「変な悪口」
「う、うるさい……! 残したら怒るからな!」
「……いただきます」
意外にも丁重に受けとると、淋は行儀よく手を合わせてから、静かに口に運んだ。
「良いお嫁さんになるかもしれない」
「なってたまるか」
美味いならそう言えばいいのに、と悪態吐きつつも、笑えていることに誠一は気が楽になってきていた。
「ごちそうさま」
きちんと挨拶する格好は、母親の躾けだろうか。
やれやれと思いながら皿を重ねようとすると、淋はひょいと腕を伸ばしていた。
「なん――――」
“何だ”と、聞けなかった。やんわりと、テーブルから手を払いのけられた勢いのまま、淋は膝の上に乗るようにのし掛かっていた。呆気に取られる誠一をベッドの側面に押し付ける様にすると、そっと唇を宛がう。
「……炒飯だな」
ぼそりと出た一言に、誠一はみるみる内に赤くなった。
「……お、下りろ……!」
「どうして? 良さそうなのに」
指摘に気付いた顔から血の気が引く。
「俺とはしたくない?」
鼻先触れるほど間近に囁かれ、聞かれた方は生唾飲む他ない。残る理性を必死にかき集めて首を振ると、押し退けるように起き上がり、背を向けた。
「……したくない」
やっぱり、と笑いかけた淋だったが、先に誠一の言葉が闇に響いていた。
「しちまったら……友達じゃなくなるだろ」
誠一の言葉に、淋は微かに目を見開いた。
「友達?」
「……そうだよ。癪に障るが、お前は友達だ。お前にだけ本音を話してるって気付いた時……そう思った」
決して、にこやかに接している人達に嘘を吐いているわけではない。今の隣人は皆いい人ばかりだ。まして、達巳は尊敬の域に達しているし、柚子を始め、明日野家の人達も皆優しい。賢彦や松木夫妻も温かくて親切だ。けれど……ぬくもりの中に居ても、息苦しい時はある。強いられなくても、礼儀は必要だ。おまけに、どの人物とも会って間も無い。
「……気付いたのは最近だけど、多分、最初から助かってたんだ。何も気遣わないで喋ってんの、お前だけだったから」
「……誠一くんは、俺と友達になれると思うの?」
「思う」
「……バッカじゃねえの」
心底馬鹿にした声で淋は吐き捨てた。
「なれるわけないだろ?」
「なれるよ。俺はお前とセックスするより、他の事がしたい」
「他の事……?」
「何でもいい。今日みたいにメシ食って、バカな話をしたっていい。釣りだって楽しかった。他の遊びをしたっていい。どっか旅行に出てもいい――」
旅行……ふと、その言葉に淋の心は凍り付いた。大きな船が頭に甦る。叩かれ、泣いて、喚いて、足掻いて、犯され……海に――――
「……あんたは何もわかってない……」
口からこぼれるのは、腹立たしい絶望だ。
「俺が……好きで色んな奴とヤってると思ってるんだから」
「……いや、そうじゃないのはわかる。でも、お前が言う通り、理由は知らない」
「だろ?……そうだよ、誠一くん……あんたは何も知らない……俺が、どうしようもない育ち方して、下品で、犯されずにはいられないド変態だって……」
「淋……島を離れてる間に何があったんだ? 行方不明になったのは……離岸流が原因じゃないんだよな?」
「……さあ……警察がそう言ったからそうなんだろ?」
「なんで話さないんだ。お前の身が危ういからか? それなら警察で保護も出来……」
「やめろよ……そんなこと、今更話したってなんにもならない!」
淋はコップを取ると、満たされた水を一息に飲み干した。一筋、唇からこぼれ落ちて、髭など到底生えそうにない白い顎を伝わる。
片手で口許を拭い、淋は誠一を睨み付けた。
「……俺と寝る気がないなら帰れよ。説教垂れるだけの男なんて、鬱陶しいだけだ」
誠一は、思いつめた時いつもそうであるように、厳しい表情で拳を握っていた。
もう二、三言わねば追っ払えないかと淋が思ったとき、誠一はずいと間を詰めた。
両腕が意を決したように抱き締めてきたが――何か違う。
それは欲情した抱擁ではなく、幼子にするような優しいものだった。大きな手が細い背を抱き寄せ、もう一方は後頭部を支え、安心させるような姿勢で動かなくなってしまう。
「……何のつもり?」
違和感に不平を唱えた淋だが、突き飛ばそうにも誠一の両腕は強く、抗いようがなかった。
「……これじゃ、紛れないのか?」
顔の傍で声がしてぞくりとしたが、淋は顔の見えない相手をわずかに睨んだ。
「……ただ、暑苦しいだけだよ……」
「同感だ。なあ、淋……お前が辛いのだけは俺にもわかる。その辛さを除いてやる方法は、体しかないのか?」
「そんな理性的な話、よく心臓バクバクさせながら言えるね」
「……一言多いんだよ、お前は。どうなんだよ」
「……知らない。あんたはこれでいいと思ってんの……?」
「いや、俺は……これから考える……」
「はあ?」
小馬鹿にする声に、間近の心臓は別の早鐘を打ち鳴らした。
「し……仕方無いだろ。こんな流れになるなんて俺は思ってないんだ! 大体……男相手の経験なんか無い……イヤ、普通は無いだろうが……!」
ぶつぶつ言い訳する声は、小さくなり、淋は徐々に笑えてきた。
「ふーん……女は慰めたことあるってか」
「……な、なんだよ……信じてないな?」
「信じてない。キス、下手くそだったからね。俺が女なら願い下げ」
「……そうやって煽って試す気か」
男としてはとっくに陥落している筈だが、誠一は妙に頑張る。
――根っから真面目な警官て、本当に居るんだな。
感心し始めた淋は、疎ましい熱に身をよじった。
「……も、いいよ、誠一くん。暑い」
これが冬なら間違いが起きるところだが、今日に限って、じっとりした熱帯夜はムードも何もあったものではない。誠一の体温は高く、色気のない意味で溶ける気がした。彼は黙って何か思案しているようだったが、ゆっくりと拘束を解いて身を引いた。しかし、片手だけは淋の手に乗せたまま、遠くも近くもない距離から、その顔を子細に見つめた。
「……見せ物じゃないんだけど」
「……わかってる」
そうは言ったが、彼は手を離さない。決して強く握っているわけではないが、何故か抗い難く、抱かれているより――心に迫る。
「……なんだよ」
居心地悪そうに問い掛けた淋に、誠一は少し笑った。
優しい笑顔だった。
その笑顔が、記憶の中の誰かに似ていて……ふと、淋は目元が熱くなった。滲んだ世界で、誠一がはっとしたようだったが、淋にはよくわからなかった。
鼻がツンとして、頬を熱い水が滑った。
「……どうした? ……大丈夫か?」
優しい声がするのが、淋にはたまらなかった。
黙ってほしかったが、息が詰まって言葉にならない。飲んだ水がそのまま溢れるように、はらはら流れる。淋の望みを知ってか知らずか、誠一は言葉を切った。大きな手が淋の髪に触れる。
――キスされるのか、と微かに緊張したが、寄せられたのは唇ではなく肩口だった。そのまま、今度は強く抱き締められる。再び巡ってくる熱に空気が抜けるように、淋の唇から震えた溜息がこぼれた。
「……抱いてよ……」
既に抱き締められた状態で、淋は死に際のように呟いた。
言ってしまってから、胸中に、ノンケに頼むとはどうかしてると嘲笑う。拒むに決まっている。それならいっそ、怒鳴って突き飛ばして欲しい……そんなことを考えていると、身体中が膿むようにじくじくと痛んだ。不思議だ。何故、会って間もない彼に惹かれるのだろう。……どちらかといえば、古傷を刺し直すような相手なのに。
感覚の鈍る体を預けたまま、長い抱擁に任せていると、ふと、誠一が力を抜いた。
帰るのかな、と思って身を引こうとした淋は、不意に体が浮いた。
「……!?」
仰天して声も出ない淋を軽々抱き抱えた誠一は、ほんの数歩ですぐに降ろした。ベッドに降ろされたことを淋が理解する頃には、その唇を唇が塞いでいた。
それは、なんだか面映ゆいキスだった。
求めているのではなく、愛されている、と思った。
そんな筈はないと否定しながら、優しいキスを受ける目元から、すっと涙が落ちて、枕元に沁みた。
離れたくなくて、伸ばした両腕で幅広の背に触れた。
何か言い掛けたような唇と唇は、声の代わりに繋がることを選んだ。
重なるだけでは足りず、互いの舌が、互いの舌と口の中をゆっくり這う。歯列をなぞり、
「……なんだ、上手いんじゃないか」
嘘つきめ、と睨む目から、涙は消えていた。誠一は恥ずかしそうに目を逸らす。
「……嘘じゃない。やる気の問題だ」
そっぽを向いた耳許は、体温を映すように真っ赤だった。
――ああ。優しいなあ……優しすぎる……
“この人”も、俺が触れたら壊れてしまうのかもしれない。それは嫌だ。淋しいけれど、彼はこのままで居てほしい。
「ゆず子にも、こんな風に迫るつもり?」
「冗談抜かせ。もっと紳士的にいく」
「バカだなあ、誠一くん。ボロが出る前に、いつものあんたにした方がいいよ」
「おい、どういう意味だよ……」
「今喋ってる誠一くんのが、面白いヤツってこと」
けらけら笑うと、淋は体に乗らないようにしていた男を軽く押した。
「……もういいよ、ありがと」
「……落ち着いたのか?」
「うん」
淋は頷くと、起き上がって髪を掻き上げて笑った。
「わかったよ、誠一くん。セフレじゃない友達になろう」
誠一の顔色がぱっと明るくなるのがわかって、淋は微笑しつつ、薄紙ほどの痛みを覚えた。
心に、暗い波が押し寄せる。
この優しさと引き換えに、確かな闇が、胸に広がる。
「本当に?」
「……ホント」
嘘だ。――彼は子供みたいに笑った。
「喜びすぎ。ひょっとして誠一くん、友達いないの?」
「し……失礼だな。お前よりは居る……と思う……」
「どっちが失礼なんだよ。嘘つき警官」
「……うるせー貧弱王子」
どちらかというと変態だけどな――己が胸に、淋は呟いた。
乾杯しないと、などと楽しそうな誠一のおしゃべりが、だんだん違う場所で響くように聞こえた。彼は隣に居るのに、彼は岸に居て……自分だけが、深い海の底に居る気がした。意地の悪い自分が、黒い海で笑っている。
良かったな、“彼”は壊さずに済みそうで。
そもそも、お前のような奴を彼のようなまともな男が好きになるわけないんだ。
柚子のような良い娘を好きになって当然だ。
――わかってるよ、それがいい。彼は普通で、良い奴なんだから。
人魚の恋は叶わない。絶対に。叶ってしまったら、男は海に引きずり込まれる。
それは嫌だ……相手をナイフで傷つけなくても、消えられたらいいのに。
彼女のように、消えられたらいいのに。
このおぞましく暗い感情など全て捨て去り、潮風に運ばれて消えてしまいたい。
薄暗い思惑が垂れ落ちる頃、誠一がビールの缶を開けていた。
乾杯、と笑った彼に、うまく笑えたかどうかは、もうわからなかった。
単純だなあ、と思った。
淋と仲直りできたことも良かったが、更に翌日、誠一は柚子に声を掛けられた。
「大鳥さん、今度の日曜、空いてます?」
トントン拍子とは、まさにこの事だった。気恥ずかしそうな柚子にそう聞かれた時、不覚にも単純な男の心はちょっぴり舞い上がった。即座に頷いてから、いやいや、もしかしたらまた別件なのでは――と思った不安はすぐに拭い去られた。
柚子が差し出したのは本島の海沿いにある水族館のチケットだった。
「イルカ、見たくて」
「イルカですか」
「あ、子供っぽいって思いましたね?」
苦笑した柚子に大急ぎで首を振った。自分もわりと好きだとか癒されますよねとかバカなことを口走った挙句、水族館なんて小学生以来だと気が付いた。
明らかにジタバタしてしまった男の心理を知ってか知らずか、柚子は夏を思い出したような日差しに明るく笑った。
「じゃあ、日曜に」
手を振って別れた後、思わず誠一は拳を握っていた。無論、島に来てから何度かやった悔しいそれではない。アホみたいに単純な、ガッツポーズである。
「やっと、デートかあ」
ハンドレッド・ベイが規制中である為、もっぱら図書館の休憩室に居る淋は、水を満たしたコップ片手にぼんやり呟いた。
高校生以下だと、窓辺に向かって呆れた様子の軽口も、誠一には通用しなかった。
「今更返せって言うなよ」
「言わなくても取り返せるよ」
「お前なー……」
仰る通りなので閉口する男に、淋は愉快そうに笑った。
「誠一くんなら、俺以外には取られないさ」
「妙な太鼓判はやめてくれ」
「ホントだって。そんな誠一くんはこれを読むべき」
差し出された子供向けのイルカの本に、苦笑いを浮かべた。
「ゆず子がイルカ好きなのは本当だよ。イルカ・ショーは大人が見ても楽しいしね」
「まさか、お前も好きなのか?」
「俺は……まあまあ」
――母さんが好きだったから、と言いかけてやめた。
どうせこの人のいい青年は、悪いことを聞いてしまったという顔をするだろう。どうにもならない気遣いは御免だった。
ふーん、などと言いながら真面目に厚紙のページを捲る男を眺め、淋は水を呷ってから言った。
「知ってる中では、賢ちゃんが一番好きだよ」
「はは、だろうな」
人間より、女性より、何より動物が好きと言い放った獣医の名に、誠一は苦笑した。
彼なら、どんな動物でも一番好きだと思われていそうだった。
「……そうだ、賢彦先生で思い出した。お前、なんで先生のこと避けてるんだ?」
「……賢ちゃんがそう言ったの?」
「ああ。戻って来てから避けられてるって……寂しそうだったぞ」
「……」
淋は机の上に視線を移して、思案顔になっていた。
「……避けてるわけじゃない。賢ちゃんは殆ど病院に居るだろ。俺はあそこまで行く用事ないし」
何となく言い訳に聴こえたが、筋は通る。
賢彦が引きこもりのように病院に常駐しているのは本当の事だし、せいぜいあの邸宅に帰るか、たまにまっさんの所で飲むかだ。衝撃だったのは、賢彦は仕事に没頭するあまり、衣服など生活用品の殆どが通販だという。時折、母親が見るに見かねて買って来ることもあるらしいが、靴までネット購入と聞いたときは、あまりファッションに頓着しない誠一でも驚いた。
淋が言う通り、病院の場所は辺鄙で、他に何の施設も無い。淋でなくとも、ペットを飼わない限り、用事はないだろう。
「じゃ、今度一緒に飲みに行こう」
「どうも誠一くんは仲良しこよしが好きみたいだね……」
「悪いよりいいじゃないか」
「極論だよ。昔、友達だったからって、ずっと仲良くする必要はない」
「そうかなあ……“持つべきものは”って言うだろ」
「俺に人間の一般常識を押し付けないでくれる?」
「うまい言い逃れすんなよ」
仕方なく一笑に伏したが、二人に何の確執があるのか気になった。
気になるといえば、もう一人――看護士の月島菜々子だ。あの日は聞かなかったが、彼女も淋と関係しているのだろうか?
もしかして、菜々子を巡る三角関係……とか?
それにしては、あの日以来、淋と菜々子が一緒に居る所は見ていない。ヘタクソなメロドラマに首を捻る誠一に、異論を唱える様に電話が鳴った。
末永だ。まずい所を見つかったような気になりつつ電話を取ると、規律正しい声が響いてきた。
「大鳥さん、勤務外にすみません。達巳さんにお帰りになられたと伺ったので」
「いえ……大丈夫です。どうかなさいましたか?」
「明日、そちらにお伺い致します。達巳さんの了解は取りましたので、パトロール前に、お時間を取って頂きたいのですが」
「あ、はい。かしこまりました」
「では明日。宜しくお願い致します」
電話さえも整えられた部屋のような男は、静かに電話を切った。
「あの警部さん?」
「ああ」
「カッコいいよね。如何にも刑事っていうか。誠一くんもあんな感じになるの?」
「どうかな……憧れるけど、究極すぎて追いつけない気がする……」
達巳から聞いた話だと、末永は所謂キャリア組だが、鼻にかけることもなく、常に精進型の“サムライ”と呼ばれているらしい。
剣道の腕前も高く、頭脳は明晰。まさに文武両道の完璧人間――週末のデートに骨抜きにされている煩悩まみれの自分とは、比べる余地も無い。
「ゆず子狙うなら、出世しないとダメじゃないか」
「うるさいなー。お前はどうなんだよ、一生此処に居るつもりか?」
「……いいんだよ、俺は」
いつの間にか空っぽのコップを置いて、淋は笑った。
この顔だ。柚子が不安に思っている――今この瞬間にも消えてしまいそうな、地に足付かぬ雰囲気。
「……ちゃんと考えろよ」
「はいはい、わかってるよ、真面目なおともだち」
ひらひらと手を振って、淋は窓の外を向いてしまった。
淡い闇を連れてくる潮風に、細い髪が音も無く揺れた。
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