5.雨

 マスコミにうんざりしていた時より、よっぽど最悪の気分だった。

得体の知れぬ黒い塊を呑み込んだように、夏の鮮烈な風景全てが暗い海に沈んだ気がする。失恋の後のようで、それも気持ちが悪かった。

淋が何処の誰ともわからぬ男と密通していたのがショックなのか、その嬌声を聞いてよからぬ気持ちにかられた自分が気色悪いのか、気付けばすっかり魔物に魅入られていたようで――腹に広がる汚いシミのようなものが、どうにも拭い去れない。

一転して足が遠退いた図書館も、淋の背が見えるハンドレッド・ベイも、魔窟に思えた。更に、モモが帰ってくる日は、言い様の無い気持ちに胸が軋んだ。

――きっと今、あいつの所には……――

嫌な想像を振り払おうとモモに触れると、迷惑そうに避けられた。

「……冷たいなー……」

不平を言ったところで、人間の心の機微など、猫には関与の無いことだ。あの王子様のように鼻を鳴らすと、くるりと丸まって眠ってしまう。

溜息を吐いて、あの悩ましい声だけでも、さっさと忘れよう――どうせ、この島に永住するわけじゃない。

そんなことばかり考えている内に、季節は台風の頃に傾こうとしていた。

鬱屈な日々はそのまま、へそを曲げた天候に覆い被され、列島を丸ごと包み込んで北上する台風に百江島も曝された。ひとつ過ぎ去る毎に海は荒れ、道路には山から下る泥水や、薙ぎ倒された木々、千切れた葉っぱが汚らしく散乱した。

ちょうどその日は、運ばれてきた熱帯の空気で肺の奥まで湿気るような蒸し暑さで、物みな腐れ落ちるようだった。夕方に差し掛かっても一向に冷えない中、苦行と化したパトロールで町内を廻りながら、制服を脱いで放り投げたい気分にかられていた時だった。

「……淋! 待って!」

焦りを含んだ声に、誠一は自転車に急ブレーキをかけた。

そういえば、明日野家の近くだったかと目深に被っていた帽子を持ち上げると、目先の道路を歩いてくる青年が見えた。

止まったことを後悔した誠一だが、向こうもそうだったのか、立ち止まった顔は間の悪そうな表情だった。グレーのズボンに白いシャツを着て、晒した顔も腕も白い。

その後ろから走って来たのは、思った通りの柚子だ。白いカットソーに淡いブルーのジーンズを履き、相変わらず爽やかな印象を受けたが、表情は硬かった。

片手に少し重そうなビニール袋を提げていた彼女は、誠一を見るとハッとした。

「大鳥さん……」

坂道だったので気付かなかったらしい。妙な睨み合いから彼女に視線を移すと、誠一は愛想良く頭を下げた。柚子が慌てて会釈する頃、淋は足が悪いわりにさっさと誠一の脇を行き過ぎた。

「り、淋……! 待ってったら……!」

ようやく追いついた青年を逃すまいと柚子は駆け出すが、短いヒールのサンダルにつんのめってよろけた。今度は誠一が慌てる番で、手を伸ばして間一髪、転びそうな体を支えた。

「……大丈夫ですか?」

助けておいて申し訳なさそうに手を放した男に、柚子は手の物を持ち直し、頬を染めて頷いた。

「……は、はい、すみません……」

その様子を肩越しに見ていた青年は、やっぱり何も言わずに歩いて行ってしまった。

「おい、待て!」

静かに言ったつもりだったが、どうにも厳しい声になってしまう。

淋は立ち止まった。しかし、振り向かない。微かに覗くうなじの白さに胸焼けを感じつつ、誠一は怒りに任せてその肩を掴んだ。

「そういう態度は……やめたらどうだ?」

言い掛けて、見つめ返してきた目に声を失った。初めて会った日よりも鋭く、冷たい目が射抜く。

「――離せよ。知ったかぶり」

久方ぶりに聞いた声は熱気をも冷やすようだった。呆然とする手を払いのけて再び歩き出す。

つい、拳を握った誠一の腕を、ぎゅっと誰かが掴んだ。

「……大鳥さん、いいんです、ごめんなさい……」

「でも……あいつ、また……――」

「ほ、本当にいいんです……!」

柚子が必死に首を振るので、民間人を殴らずに済んだ警官は静かに腕を下ろした。誠一が落ち着くと見るや、柚子は手を放し、肩を落としたまま手元の袋を見下ろした。

「大鳥さんには、かっこ悪いとこばかり見られちゃってますね……」

切なく笑う柚子に、誠一は自身の察しの良さを呪った。

袋に入っているのは小玉のスイカだった。小ぶりだが、ふっくらとはち切れそうな実は、彼女の気持ちのようで胸が痛んだ。こんなものを見てしまったら、真面目で優しいお巡りさんは、代わりに届けましょうか、と言う他ない。

「……でも、……」

申し訳ない、と柚子は躊躇った。

「届けるだけなら、お安い御用です」

言葉そのものに嘘は無いので、少しは気楽な笑顔を見せられた。柚子が嬉しそうに笑ってくれたので、それだけが心の救いだった。

「……今度、お礼をさせて下さい」

「いえ、そんな……このぐらいでは達巳さんに叱られてしまいます」

「達兄さんは、お礼するのを叱ったりしませんよ」

その通りだと思ったので誠一も少し笑った。なんだか重く感じるスイカを受け取ると、柚子は不安そうな顔をした。

「大鳥さん……淋と……何かありましたか?」

ばれていたか、と己の単純さを反省しつつ、私のせいですかと尋ねる柚子に首を振った。説明のし様がないので、苦笑いだけ浮かべておく。

「俺もまあまあの偏屈なので……相性が悪いみたいですね」

「……大鳥さんは良い人なのに。淋ったら……」

出来の悪い弟の話をするように呟くと、柚子は慎ましく頭を下げた。

「ありがとうございます。お願いします」



 柚子の届け物を手に、淋の自宅に辿り着くころ、空は曇天に変わり始めていた。

厚い黒雲は怪しく蠢き、熱風に時折、冷たい風が混じる。今にも雷雨に変わりそうだった。自宅前が見えた時、誠一は目を瞠った。

彼の家の大きな百日紅さるすべりの下に、淋は立っていた。その前に立っている人物に、何気なく屈むと、触れるだけのキスをした。

短い口付けが離れると、淋がこちらを振り返った。立っていた人物も誠一に気付いたが、こちらは仰天した様子で目を見開くと、脱兎の如く走り去った。

あれは――三波クリニックの――……

ショックに上手く動かない頭をなんとか回転させ、水色の傘を握り締めて走る後ろ姿が、看護師の月島つきしま 菜々子ななこであるとようやく気付く。

淋は逃げず、菜々子を追うことも、声を掛けることもしなかった。

ただ、立ち尽くす誠一を無表情に見つめ、やって来るのを待つように立っていた。

いくらでも悪罵を吐けそうな口を引き結び、誠一は意識してゆっくり歩み寄った。

「これ、柚子さんから」

押し付けるように袋を突き出すと、淋は一瞥してから、無感動な眼を上げた。

「配達屋に転職したの?」

「うるさいな……早く受け取れ」

ぶっきらぼうな誠一の声に、淋の目は不思議な色に揺れ、無言で受け取った。

――なんだよ。

妙に寂しそうに見えた目に一瞬――心を許しそうになって、誠一は慌てて目を逸らした。何度も騙されたじゃないか。もう付き合うのはやめにした筈だ。

菜々子のことを聞くのもやめた。

こいつが最低な男なのはもう嫌と言うほど知っている。

お節介くんも、友達になるのも、やめた。配達屋で十分だ――……

そんなことを考えていた額に、タンッ、と叩くような滴が落ちた。

天を仰いだ刹那、ボタッという音がし始め、空が雨粒を投げつけてくるようにバラバラと降って来た。砂埃が舞い上がる土の匂いと、湿気る緑の香が喘ぎ、判断が鈍った誠一の手を細い手が引いていた。

もつれ込むように玄関に引っ張り込まれると、細い手はすぐに離れた。背後でコントのように滝めいた雨音が響き渡り、急に現実に戻って来たような心地になる。

無言で中に入って行く淋を、驚き冷めぬ目で追った。

「上がれば」

「……いや、俺は勤務中で――……」

「バカなの? スコールだよ。風邪引くつもり?」

「じ……じゃあ、傘だけ借り……」

「無いよ。俺、晴れ男だから」

胃が痛くなりそうだったが、二人立つのがやっとの玄関先に傘は見当たらなかった。

唐突な雨を恨みつつ、誠一はその家に上がった。外見もそうだが、こじんまりと小さな家だ。二階建てだが、淋が一階でしか生活していないのは一目瞭然だった。

雨のせいだろうが、何となく薄暗く、周囲に家が無いためか、うるさい雨音しかしない。淋が入って行ったのは奥のキッチンで、手前の部屋は恐らく畳敷きのリビングだったのだろうが、殆ど寝室状態だ。窓辺に、シングルより幅広のベッドを確認して、なんだか目を逸らしてしまう。その周囲は本棚と、入りきらない本が何冊も重ねられたタワーが数個並ぶ。さすがは図書館勤めか、本好きなのは間違いなかった。

「……何、突っ立ってんの」

入れよ、と言われて、仕方なさそうに誠一は部屋に入った。不気味なくらい男臭さなど微塵も無く、代わりに本屋のような香りがした。促されて、小さなテーブルの前に座ると、淋は空のコップを二つ置き、大きなペットボトルから麦茶を注いだ。

「……どーぞ」

「……どうも」

どしゃぶりの音を聴きながら、室内には変な沈黙が流れる。

居たたまれずに辺りをそっと見渡す誠一は、その部屋があまりにも普通なので顔から火が出そうだった。……勝手にいやらしい想像をしていたかと思うと、である。

「……誠一くん、お節介はやめたんだね」

「……は?」

「菜々ちゃんのこと、聞かないんだなと思って」

菜々子のことか。誠一はうんざりした顔で首を振った。

「……やめた。……もう、お前のことで要らん事考えたくない」

「ふーん……その割には、悩み多き顔しちゃって……」

鼻で笑うかと思ったが、淋は笑わなかった。空になった手元のコップをつまらなそうに眺めたまま、再度なみなみと注いだ。

ひと息に呷ると、改めて注ぐ。誠一が目を丸くする前で、いっそラッパ飲みしてもおかしくなさそうにまた注いで呷った。白い喉が上下して、ぼんやりした目でがぶ飲みする様は、酒や体に悪いものではないのに、やけに不安になる。

「……」

何か言おうかと思ったが、言葉は出なかった。麦茶の飲み方なんぞ、それこそお節介だ。

「……誠一くんさ、ゆず子のこと好き?」

「……また、その話か」

忘れかけていた怒りがむくりと起き上がるようで、誠一は溜息混じりに首を振った。

「俺に殴られたくないなら、彼女の話はやめてくれ」

「……俺が嫌いか聞いたんじゃないんだけど」

「揚げ足取るなよ。俺は……彼女が辛そうなのは嫌なだけだ」

「じゃあ、惚れてるわけじゃないってこと? 単に俺の態度が気に入らないだけ?」

カチンときたが、惚れてないと怒鳴るのもしゃくなので、むっつりと頷いた。すると淋は久方ぶりに鼻で笑った。

「――誠一くん。あんたは知ったかぶりを自覚した方がいい」

「余計なお世話だ。知らないってほどじゃ――」

「知らないさ」

あっさり反論すると、誠一が掴み掛かろうかと思う前に淋は立ち上がっていた。

何をするのかと視線で追う男の手前、本棚の奥から何か小さなものを手に取って、放って来た。驚いてキャッチしたそれを見て、誠一は一瞬、訝し気な顔になる。よく見る、ごく普通の白い電源タップだ。コンセントに差し込み、配線を三つに増やせる一般的なものだが――

子細に見つめていた誠一の表情が微かに強張った。

「やっぱり、お巡りさんは知ってるんだ?」

「これ……まさか……」

「そう、盗聴器。玄関近くに差してあったヤツ。もう動かないけど」

差し込んでおけば、電池が切れることもなく長期間使える盗聴器だ。傍目には電源タップにしか見えない代物だが、本体にAからFのアルファベットが書かれたものは、大抵が盗聴器だ。

「それを仕掛けたの、誰だと思う?」

ベッドに腰かけ、淋は寂しそうに笑った。背後でざあざあと滝のような雨が降り注ぎ、窓や屋根を打ち据える音が響いた。

二度と信じるまいと思ったその顔を見て――誠一は蒼白な顔で首を振った。

そんな馬鹿な。全身に雨を浴びている気がした。

「ゆず子だよ」

「……嘘だ……!」

弾かれるように誠一はそう言ったが、語尾は雨が押し流した。

「本当だよ。本人が認めたんだから。ゆず子が俺に遠慮して気まずいのはそのせい」

「……冗談よせ……! まさか……こんなことする人じゃ……」

「ゆず子だから、やったんだよ」

淋は、妙に優しい顔で言った。

「俺を知りたくて、知らなくていいことを知ったんだ。隠していたこっちの気も知らずに」

「……それは……元はと言えば、お前があんなことしてるから……」

どしゃぶりを背に、彼は苦笑して肩をすくめた。

「……誠一くんはやっぱり、俺が体欲しさに、ああいうことをしてると思ってるんだ」

そのセリフが喉に詰まるように聴こえて、誠一は頷けなかった。

淋はそこで押し黙った。わずかに身を捻り、けたたましい雨だれの外を見上げた。

柚子は、とっくの昔に聴いてしまっていたのか。

好きだった幼馴染が、男に犯されて悦ぶ声を。

どんなにか……胸が潰れたことだろう。

盗聴などという、常軌を逸した行動をとった彼女を責める気も起きず、かといって……目の前で、空虚な目を雨に向ける青年を責める気も起きなかった。

どうしようもなく、心が冷える。

屋内に居るのに、ずぶ濡れになった気分だった。

――どうして、こんな雨なんだ。

やるせなくて、誠一は豪雨に文句を言いたくなった。柚子も、同じ雨を、同じ切なさで見ている気がした。せめてからりと晴れていれば……こんなに息苦しくもないだろうに。

「……どうしてだ」

膝に乗せた拳を握り、誠一は問い掛けた。

「どうして……あんなことをしなければならないんだ……?」

淋は振り向かずに言った。

「……誠一くんには、わからないよ」

「なんでだよ? 俺が余所者だからか? それともノンケだからとでも言いたいのか?」

畳みかけるような言葉に、淋はそっと目を向けた。

「違う。まともだからさ。あんたはこの町で数少ない……狂ってない、まともな人間だ」

「……どういう……?」

「俺は自分でも引くぐらいイカれてる……他の人も大体そうだよ」

「馬鹿言え……ここの人は皆……いい人だろ……?」

「あんたは見た筈だ。簡単に人を疑える連中の目を見ただろ?」

「そ……それは、仕方がないだろう――ああいう事件が起きたら、誰だってよそ者を疑う」

「お人好しめ。まあ、達巳さんやまっさん辺りは例外だからかな……少なくとも、ゆず子が俺に狂ってるのはわかっただろ?」

「俺は……それを信じたわけじゃない」

「頑固だな。純心なのか、優しいのか……損な性格だ」

哀れむように笑うと、淋は再び窓を見上げた。

「止んできたよ。すぐに晴れる……やっと、帰れるね」

早く出たかったろうとでも言うように微笑むと、淋は小さく肩を落とし、窓辺に向いた。

「……帰りなよ。人喰い人魚に、獲って食われない内に」



 空はいまだ、早足に流れる黒雲に覆われていた。

生温かい強風が吹き付ける地上は、空しくなるほどぐちゃぐちゃに濡れて泥まみれだった。突風があちこちから押してくる中、負け犬のような気持ちで、水を垂れ流す自転車を引く。どこか高台から大声で叫びたい気持ちになりながら交番に戻ってくると、達巳が心配そうに出てきた。

「大鳥くん――……その様子だと……大丈夫そうだね」

良かったと胸を撫でおろす上司に、誠一はどうにか苦笑を返した。

「間一髪で雨宿りできました」

「運がいい」

そうでもないと思ったが、頷いて中に入ると、達巳は冷えたお茶を持ってきてくれた。まったく気の利く上司だったが、淋が暴飲していた姿を思い出して何となく胸が重かった。

「……達巳さん、御伺いしたいことがあるのですが……」

「うん? 何だろう?」

思いつめた顔つきの部下に、彼はきちんと体を向けて座り直し、椅子を勧めた。

「九年前の『海隠し』で……達巳さんがご存知のことを、詳しく教えて頂けませんか」

「海隠しの……」

達巳は躊躇したようだったが、部下の真剣な表情を見つめて、小さく頷いた。自身のデスク――鍵付きの場所を開けると、一冊のファイルを取り出した。

「君が知りたいのは、淋くんのことだろう?」

「……はい」

嘘を吐いてもすぐにわかってしまいそうなので、誠一は素直に頷いた。達巳はその返事も見抜いていたように、ファイルをそっと捲ると、広げて手渡してくれた。

そこにあったのは、新聞の小さな切り抜き記事だ。


〈百江島にて、離岸流事故〉


〈3月7日未明、百江島百江町にて島民4人が巻き込まれる離岸流事故が発生。午前7時に百江町交番に「姉が消えてしまった」と月島菜々子さん(15)から通報があり、同署が姉の月島 寿々子すずこさん(18)の行方を捜査する内、町内で彼女を含む4名が行方不明であると判明。行方不明者は、月島寿々子さん(18)、潮見しおみ 清香きよかさん(38)、潮見淋さん(18)、登藤 八千代やちよさん(26)で、所在がわからない状態だったが、同町の入り江・ハンドレッド・ベイ付近で目撃された情報があり、専門家は離岸流に巻き込まれたのではとの見解を示し、同署や県の消防局は行方を捜している〉


「……登藤?」

菜々子の姉にも驚いたが、意外な名前に誠一が呻くと、達巳は頷いた。

「その人が、夏子の友人だったんだ。そしてゆっちゃんが怪しんでいる男の、妹さんだよ。彼女は百江在住ではなかったが、夏の間によくダイビングの為に長期滞在していたんだ。事件当時は冬だけど、たまたま訪れていたらしい。兄は島外に住んでいて、妹さんの行方を捜して此処にやって来た後、戻って来た淋くんに近付くようになった」

そういうことだったのか。

「通報者は、あの看護士さんだったんですね」

「そう。実は菜々子ちゃんの証言も、この事件の違和感のひとつなんだ。彼女はお姉さんの寿々子さんと、この日に出掛ける約束をしていたそうなんだ。その朝に行方不明になるなんて……おかしいだろう?」

「仰る通りですね……」

「それと、大鳥くん……気付いたかい? 行方不明者の年齢に」

「……年齢ですか?」

淋の母親だという清香の年齢が飛び抜けて上ということ以外、変なところは無いように思うが……達巳は数字だけ、縦に並べて書き出して示した。18、38、18、26……めぐりの悪い誠一でも、あっと声を上げていた。達巳は頷いた。

「ハンドレッド……四人の年齢を足すと、百になるんだ。この符合に、当時の島の人達は不気味だと慄いてね……皆、大昔の『海隠し』が再来したと怯えていた」

無言で頷くほか無い。これでは、迷信深い者はハンドレッド・ベイが生贄を望んだように思ってしまうに違いない。この件に犯人が居るとすれば、それが狙いだろうか?

「過去の『海隠し』に関しては、図書館に少しだけ資料があったが、せいぜい伝説の域を出ない話だったよ。この島がまだ道路で繋がる以前――侍が居た時代からの話で、大嵐や台風なんかの災害で海が荒れる度、生贄を差し出したらしい」

「……達巳さんは、この事件を人為的なものとお考えですよね」

達巳は頷いた。ファイルの他のページを占めるのは、島のその後の様子を記したレポートだった。不思議なことに、以降の新聞の切り抜きは事件ではなく、イベントや町長選挙の無投票決定、台風の被害状況などの日常的なものしかなかった。ファイルから顔を上げた青年に、達巳は難しい顔をしたまま声を潜めた。

「大鳥くん、僕は九年前の事件当時、赴任して間もなくで……百江のことをよく知らなかったんだ。この記録を付け始めて、翌年、翌々年と島を見つめる内、ようやく気付いたのが、この島で『島民による海難事故は起きない』ということだ」

「……子供が溺れる事故さえ、無いんですね?」

「うん。台風の時でさえ、この町の人達はきちんと理解して行動していた。もちろん、建物や道路などの公共機関には甚大な被害が出ている。一般家庭も、町長の家を始め、旧家や簡易な倉庫などは被害を受けた。しかし、自然災害によって、死者や行方不明者が出たことはないんだ」

「それならこれは……誘拐か、拉致……なのでしょうか?」

「……僕は、そう見ている」

確信した瞳で頷くと、達巳は何気なく外の様子を窺ってから、もう一度向き直った。

「四人の年齢を足して百になるのは偶然か、迷信を煽る作為だと思うが、行方不明者にはもう一つ、目立った共通点があるんだ」

「共通点……?」

年齢は寿々子と淋以外バラバラだし、淋だけが男性だ。淋以外を知らぬ誠一に、達巳は静かに言った。

「全員が、飛び抜けて美形なんだ」

「えっ……?」

「ふざけているわけじゃないよ」

苦笑いを浮かべて、達巳はファイルの先を捲った。

そこには行方不明になる前の四人の写真があった。

淋は黒の学生服に身を包み、今の鬱屈とした雰囲気を排した爽やかな印象の少年だった。その隣に寄り添うように写った人物は、すぐに母親の清香だとわかった。姉でも通用する若々しい清香は、現在の淋にもよく似ていた。透明感のある美女は線が細く、綺麗に纏めたふわふわの髪が肩口に垂れ、笑みに垂れた眼差しは優しい。

誠一は、ふと……人魚姫を思い出した。

寿々子は歳の頃より大人びた印象の少女で、ウェーブのかかった黒髪に、やや派手な目鼻立ちをしていた。制服の短いスカートからしても、島民というより渋谷や原宿を歩いていそうな雰囲気がある。八千代は前の三人よりもスポーティーな印象の美人で、スレンダーな体型に日焼けした肌やショートヘアがよく似合う。彼女だけが、どことなく海外の血筋を彷彿とさせた。

「美形ばかりを拉致して……犯人は何をするつもりだと思う?」

「……正直に申し上げて、嫌な想像しかできません」

恥じ入るように答えると、達巳は微笑んで首を振った。

「僕もだ。……ただ、個人の仕業とは思えない。事故を疑ったときから彼らの足取りを探したが、陸路にその足跡そくせきは無かった」

もはや、言うまでも無かった。達巳は誠一の顔を見て頷いた。

「そうだよ、海だ。こちらは陸よりも証拠が残らない――最も安易に思いつく手段は、近海に船を停泊し、小型船でハンドレッド・ベイから四人を連れ出すこと。だが……推測の域を出ないんだ。犯人が現れるか……淋くんが、話してくれない限りは」

「……達巳さんは、『パラダイス・チケット』に関してはどう思われているんですか?」

「君が彼らを疑うなら、同意見だよ。……末永くんもね」

誠一は少し安堵しながら頷いた。

「それは……彼らがクルーズ船を持っているからですね?」

「ああ。末永くんによれば、九年前の『海隠し』当時にも、彼らのクルーズ船がこの近くの港に寄港している。攫ったという証拠はないが」

「登藤八千代の兄は、事情を知らないのでしょうか……? 柚子さんは怪しんでいましたが……」

柚子は盗聴器の件を含め、淋に対して過剰な入れ込み様だが、沢村など図書館のスタッフも登藤に不安を感じていた。妹の行方を捜すのに淋を当たるのはわかるが、沢村らの印象は、どちらかというと淋自体に近付いているそれだった。

「サツの勘は怪しいと告げているが、悲しいことにそれ止まりだよ」

「達巳さんが、彼を怪しいと思う理由はなんです?」

「妹さんの失踪を受けてやって来たにも関わらず、真剣に探していないように見えるからだね。個人の意見を言えば、本当に妹だったのかも怪しいと思っている。淋くんに近付き過ぎているのは、ゆっちゃんの取り越し苦労ではないと思うよ」

わかりやすい回答に、誠一は頷いた。

やはり、全ての答え――或いは手がかりを知るのは、淋なのか。

「話して下さって、ありがとうございます」

「いや……巻き込むのは気が引けるが、味方が増えるのは嬉しい」

「味方ですか……頼りないですけどね……――」

「そんなことはない。大鳥くんになら、淋くんは話してくれる気がするんだ」

上司のうたうような期待に、誠一は慌てて首を振ってから膝の拳を見つめた。

「か……買い被りですよ、俺は……さっきだって……」

「喧嘩でもしたのかい?」

達巳はファイルを片付けてから、穏やかに微笑した。

「でも、君は今だって、彼の為に事件のことを聞いたんだろう?」

「そ、それは……何と言いますか……もやもやとして……」

「大鳥くん。優しさはね、どんなに嫌がられても、その人の心に響くんだ。君はそういう素直な優しさがある男だと僕は思う」

諭すような声に顔を上げると、包むような笑顔で達巳は頷いた。

もしかしたら……淋が明日野家を避けるのは、達巳の前で口を割りかけた為ではないだろうか。自信無さげにすぼめられる部下の肩を、達巳はぽん、と叩いた。

「……水を差すようだが、君が余所者であることも、彼の殻を破る手段だと僕は思う。君が真剣に向き合えば、きっと彼に届く筈だ」



 『人魚姫』を、読んだ。

海での暮らしを経て、十五歳になった人魚姫は、海上の舟に居た人間の王子に一目惚れする。嵐で舟は難破し、溺れ掛けた王子を人魚姫は助け、岸に運ぶ。

離れて様子を見ていたところ――近くの修道院の女性が彼を介抱し、連れて行った。

人魚姫は育ての親である祖母に人間について多くを訊ねる。

祖母は、人魚は三百年生きられるが、人間は短命であること、人魚は死ぬと泡になるが、人間には魂があることを話す。

人魚姫が魂を得るにはどうすればと訊ねる。

祖母は「人間に愛され、結婚すれば可能」だと教えるが、人間は異形である人魚を愛することはないため、不可能であると告げる。

しかし、人魚姫は魔女を訪ね、声と引き換えに尾びれを足にする薬をもらう。

魔女は「王子の愛を貰えなければ、海の泡になる」こと、

「足になれば歩く度にナイフで抉られるような痛みがする」とも言ったが、人魚姫は意を決して薬を飲む。

人魚姫は浜で王子と再会するが、声が出ないために事情を説明できず、足は歩く度に激痛が走る。王子も命の恩人だと気付かない。

それでも王子は困った様子の人魚姫を助け、宮殿に住まわせ、足が痛む彼女を馬に乗せてあちこち連れていき、可愛いがってくれた。

王子は人魚姫に自身を助けてくれた女性を重ねつつも、それは修道院の女性だと思っており、修道女は結婚できないため、焦がれる気持ちを諦め、人魚姫と結婚してもいいかもしれないと考えていた。

ところが、王子に隣国の姫との縁談が持ち上がる。

実はこの姫こそ、教養のために修道院に来ていた、王子を介抱した女性だった。

王子は歓喜し、喜んで姫を妻に迎える。

悲嘆に暮れる人魚姫の元に、彼女の姉たちが、自らの髪と引き換えに魔女に貰った短剣を渡しにやって来る。

「この短剣で王子を差し、流した血を浴びれば人魚に戻れる」と教えるが、人魚姫は愛する王子を殺せず、海に身を投げて泡になってしまう。

消えてしまうかと思われたが、泡はどんどん上り、精霊が人魚姫に話し掛ける。

「あなたは風の精のところに行き、暑さで苦しむところに涼しい風を送り、ものを爽やかにする仕事をする」と教え、三百年勤めることで、魂を得られること、人魚姫がこれまでの苦労でここまで来られたことを教えてくれる。

人魚姫は風の精となり、自分の最後を知らないはずなのに海の泡を見つめる王子と花嫁を見つける。人魚姫は妃の額にそっと接吻し、王子に微笑みかけて、仲間と共に薔薇色の雲の中を飛び立つ。

「あと三百年すれば天国に行けるのかな」と呟く人魚姫に、先輩の精霊は「親を喜ばせ、愛を受ける子供を見つけて私たちが微笑めば、三百年の時は一年ずつ短くなります。逆に、悪い子を見て私たちが悲しみの涙を流すと、一年ずつ長くなるのです」と教えてくれた。


ここで、物語は収束する。


読み終えて、誠一は淋の言葉を思い出していた。


――……羨ましいよ。


あのセリフは、何に……或いは誰に対する気持ちなのだろう。

叶わない恋。越えようとして越えられなかった壁。

愛する人を殺せず、泡になることを選んだ人魚姫。

その最後は思ったよりも悲しくはなかったが、どうしたわけか、淋の切ない笑みが浮かぶ。

本を見つめていると、電話が鳴った。

達巳だ。何か忘れ物でもしたかなと出ると、厳しい声が響いた。

「大鳥くん、すまないが急いで来てくれ」

「えっ、はい……何かありましたか?」

「まただ」

達巳の声は苦渋に満ちていた。

「遺体が見つかった。通報者の言う通りなら……被害者は、例の登藤さんだ」

「な……! ど……どうして……!」

「わからない。しかも、遺体が上がったのは――」

はっきり告げられた言葉は、刃物のように硬い。


「ハンドレッド・ベイだ」

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