4.釣果
一夜明け、百江は再び騒々しくなったが、今度は新顔警官が被害を
彼の死因は、意外にも脱水症状によるものだった。
ただ、手にはナイフが握られており、その刃と、例の木の黒ずみからは持田の血液が検出された。わずかに見つかった下足痕は乱れており、誰のものか判別つかなかったが争った可能性は高かった。
――彼ら以外の誰かが居た可能性を、十分残して。
故に末永は結論を急がなかったが、既に報道陣は「何らかのトラブルによる揉み合いの末、同士討ちになったのでは」と安易な推理をお構いなしに発信した。
その為、マスコミの矛先は、完全に彼らの勤め先だった旅行会社、「パラダイス・チケット」と、彼らのプライベートに移った。
島にもそれなりに報道陣は訪れたが、何しろ事件現場が
「ともかく、モモはお手柄だったね」
出勤してきた誠一を
「賢彦先生のおかげです」
「末永警部が、賢彦くんとモモにも感謝状を贈りたいそうだよ」
「えっ、猫に?」
美味しい魚でも貰った方が、と笑う誠一に達巳も同意した。
「とにかく、解決しないことにはね」
達巳は腑に落ちない顔つきだった。誠一も同じ気持ちだ。
恐らく、末永はもっと怪しんでいるに違いない。
なんといっても、多くが不自然なのだ。旅行会社の下見で、同僚二人で百江にやって来たというのは、おかしくはない。しかし、報道されているような、金や女性トラブルなどが原因ならば、わざわざ山に登る意味が不明だ。仮にどちらかが山を殺害現場に選んだとしても、島ではなくてもいい筈。
一体彼らは何をしにあの山林に向かい、わざわざ頂上に登ってから争ったのか?
登ってみた誠一は身を持って知ったが、彼らがスーツを着込んだまま死亡していたのは異様にさえ思える。草や虫で傷つかないように着ていたとしても、上着くらいは脱ぎたくなる筈だ。犯人が持田と亀井のどちらかは不明だが、持田が外傷を負っていた点からして、亀井に刺されてから
もし、潜伏する必要があるなら、夏の頃だ、少なくとも水は持参するだろうに、それらしい容器は見つかっていない。結局のところ、犯行に対し、犯行現場が割に合わない。人目に付くことを恐れただけなら、もっと他に良いやり方がありそうなものだし、図書館に残されたメモも謎のままである。
実は本に付着していた謎の指紋二つの内、一つは亀井のものだった。
不気味なのは、もう一つ何者かわからない指紋があること。
もし……この人物が真犯人だとしたら――末永や達巳が苦慮するのはこの点だった。
「確信を掴むまで、余計な発言は控えよう。本当にただ単に関与の無い人物がたまたま、あの本を手に取った可能性もあるからね」
「はい」
「ところで大鳥くん……今夜ヒマかな? 三波町長が会いたがっているんだけど」
赴任直後に挨拶に行って以来だ。実は、誠一もぼんやりしていて気付かなかったのだが、町長は賢彦の実父である。長いこと百江の町長を務める人物で、他にやる人が居ないからなどと言っていたが、就任後に対抗馬が出たことは無いという。
「お叱りじゃなければ喜んで」
笑って言うと、達巳も同じように笑みを浮かべた。
「もちろん。頑張っている君を労いたいそうだ」
そうして呼ばれて行った町長の家は、家というよりも屋敷だった。熱帯夜に久方ぶりにきちんとスーツを着て仰いだそこは、立派な塀に覆われ、料亭のような日本庭園には、見事な松や椿の樹がそびえ立ち、池には美しい斑点の鯉が泳ぐ。
純和風の庭に比べて、母屋はモダンな感があり、道から見えた立派な倉さえ真新しい。よっぽど田舎者くさく眺めていた誠一に、達巳がそっと教えてくれた。
「九年前の台風で、殆ど壊れてしまったそうなんだ。その時に一新したから、町の中でも特に綺麗なんだよ」
なるほど、倉まで再築せねばならないのは大変だろうが――こんな肩の凝る場所は久しぶりで、達巳が来てくれたのは心強かった。
松木の店の方がよっぽど落ち着くなと思いながら、通された客間できちんと正座していると、先に顔を覗かせたのは賢彦だった。
いつものブルーの制服ではなく、紺のシャツを着て白いズボンを履いていた。彼は挨拶も程々に、二人の警官の隙の無い構えを面白そうに見て、微笑した。
「エアコンがあっても暑いでしょう。上着を脱いで、足も楽にしないと――父さんの相手は
そう言われて上着こそ脱いだものの、くつろげる筈も無く、とっとと現れてくれまいかと思う頃、程なくして町長――三波
賢彦は母親似なのか、賢継は痩せ型で小柄な男だが、若い頃はハンサムだったろう精悍な容貌だった。白髪混じりの髪を短めにカットし、麻と思しき軽やかな白シャツに七宝焼きのついたループタイを身に着け、ベージュのズボンを履くという、どことなくハイソな印象の人物だ。
「お待たせして、申し訳ない」
ようこそおいで下さいました、と頭を下げる姿は一見気さくだが、にこやかというよりは生真面目な印象で、覇気と威厳のある声は近寄りがたい雰囲気もあった。
堅苦しい状態が続くのを覚悟した誠一が達巳に続いて挨拶すると、賢継は下々の報告を聞く大名のように頷いた。
「赴任早々、御苦労様でした。今後も、島の為にお勤め頂ければ幸いです」
これにはもう平伏するしかない。出された料理はどこぞの料亭から取り寄せたという一流の懐石だった。女将のように上等の着物を纏って場を取り仕切った
賢彦がちょこちょこ合の手を入れて和ませてくれるものの、島の成り立ち云々からスタートした町長の語りは、小中高の卒業式で述べられる誰かもよくわからぬ来賓の祝辞を思い出させた。
全て終わる頃、町長は誠に、それはもう丁寧に述べた。
「事件解決を心待ちにしています。宜しくお願い致します」
痺れた足でこけないか不安になりながら席を立つと、賢彦が入口まで付いて来て、苦笑いを浮かべながら軽く手をしゃくった。
「大鳥さん、疲れたでしょう。まっさんとこで飲み直しませんか?」
願ってもない一言に断る理由は無かった。嫁がうるさいからと笑う模範的な夫の達巳と別れ、誠一は棒のような足で賢彦と連れ立って歩き出した。
「父さんに付き合わせて、すみません」
何もかも見抜いた様子の賢彦に、誠一はネクタイを緩めて恥ずかしさに頭を掻くしかない。
「いえ……こちらこそ。庶民なもので……上等なおもてなしに慣れていなくて申し訳ないです」
「そんなことないですよ。よく正座が続くなあと感心して見ていました」
「いやいや、もうガクガクですから」
笑いながら歩いて行く先に、あの入り江――ハンドレッド・ベイが見えてきた。何となく探してしまった淋の姿は見えず、雲に霞む月明かりが、黒い器に溜まったような暗い海に仄かな光を広げていた。
「淋くんと仲良くなってきたそうですね」
「えっ……」
心どころか行動さえ見透かすような言葉に振り向くと、賢彦はにこにこ笑っていた。
「図書館のおばちゃん達に聞いたんです。うちの病院に来る人も居るので」
「あ、ああ……なるほど」
マスコミ騒ぎの時に、入り浸っていたからだろう。
確かにあの時、周囲の目を気にせず話し掛けてきたのは淋だけだ。館長指示とはいえ、あの良い景色を教えてくれたのも彼だった。
「仲良く……というと、少し言い過ぎな気がします」
悪い奴ではないのだが、柚子のことを思うといま一つ好きになれないし、初対面の記憶はいまだに火傷のように残っている。
「僕も昔は、ゆっちゃんも含めて一緒に遊んだんですけどね……二年前に戻って来てからは、どうしたわけか避けられています」
寂しそうに言う賢彦に、誠一は怪訝な顔をした。あの偏屈な青年は、この好人物の何が気に入らないのだろう? 賢彦を嫌う人間を探す方がよほど難しいだろうに。
「どんな遊びをしていたんですか?」
「もっぱら海で。海水浴や素潜り……後は釣りですね。僕も自信がありますが、彼も上手です。戻って来てから、やっている姿は見ませんが……」
「釣りですか……」
何かヒントを得たように、誠一は呟いた。
ドンドンとドアを叩く音で淋は目覚めた。
眠気に落ちる瞼を辛そうに押し上げて、時計を確認し、枕にがくりと突っ伏す。
午前六時――こんな朝っぱらから? 一体誰だ?
また、ゆず子がお節介に来たのかなと思いながら、ようやっと左足を引きながら出ると、淋は変なものを見る目をした。
「おはよう」
「……何そのカッコ」
誠一だった。
驚くほど似合わないオッサン臭いライフジャケットを着込み、長靴を履き、釣竿を
「……まさかとは思うけど」
「ああ、誘いに来た」
今度は淋がうんざりした顔をする番だったらしい。
「嫌だよ、この暑いのに……バカなの? 面倒くさ……」
「まあ、そう言わずに。初心者に教えてくれ」
「
「賢彦先生はお忙しいだろ。お前は俺と同じ非番だ」
「……それ、口実になると思う?」
「頼むよ。まっさんにお前と釣って来るって約束したから」
「げ……警官がそんな卑怯な手使うわけ……?」
さすがの王子様も、島随一の頑固オヤジの雷は避けて通りたいらしい。後ろに倒れ込みそうになりながら、本当に仕方なさそうに承諾してくれた。
「言っとくけど俺、そんなに上手くないよ……」
口では言いつつ、九年ぶりという男の手際は良かった。本当に初心者である誠一に、ぶつぶつ文句を垂れながら指導する。松木が教えてくれたスポットは、淋も彼から聞いて知っている穴場だった。
木立の陰に隠れて、昼間でも道路からは見え辛い。
魚が集まりやすそうな岩礁が手近な波間にゆらめき、一見浅く見える海は、切り立った崖っぷちのように深いという。
掛かるかな、と、年甲斐も無くわくわくしている男を淋は呆れた顔で見た。
「そんなすぐに掛かるわけ――」
「お、引いた!」
ビギナーズ・ラックなのか、誠一の引きは良かった。
あっさり一匹――良いサイズのカワハギを釣り上げて、顔の傍に掲げ、彼は子供みたいに笑った。なんだか悔しくなってきた淋が釣り出すと、何やら競うように竿が振られた。昼を回る頃、淋は釣果を眺めて、ぼそりと呟いた。
「……バカなことに付き合ったなあ……」
バケツもクーラーボックスも魚市場状態だった。キスやカワハギの山に、ヒラメやホウボウ、小ぶりのスズキまで混じる。
「大漁だったな」
わずかに日焼けした赤い顔で誠一は満足そうに笑った。
「どうすんの、コレ?」
「そりゃあもちろん、釣り具貸してくれたまっさんにお裾分け。あとは達巳さんとこと……賢彦先生にも持ってくか」
お好きにどうぞと言って去ろうとする淋だったが、とても運べる量ではないと告げた誠一に、うんざり顔で付き合った。いずれの家でも顔は出さなかったが、最後に松木の店に着くと、誠一に強引に引っ張り込まれてしまった。首尾よく大漁だったことに、松木は雷オヤジどころか仏のような顔で出迎えてくれた。
準備中だというのに店内に手招き、誠一を褒め称え、更に気まずそうな淋を見つけると目を輝かせた。カウンターからまろぶように出てくると、細い両肩を力強い手で左右からバンバン叩く。
「
「どーも……」
居たたまれない様子の淋だったが、松木の覚えは良いらしい。
「別嬪の母ちゃんに似てきたなあ……」
切なそうに呟いて、松木は誠一を振り返った。
「
親し気に呼ばれるようになった誠一は座りながら笑った。
「まっさんの料理なら何でも大歓迎」
「おお、そうかそうか、任しとけ。――お、スズキ綺麗に血抜きしたなあ、淋坊か」
「ええ。俺は素人で何にもできないですけど、彼が上手くやるので助かりました」
「そうだろう、そうだろう、賢彦センセイとよく釣りしてたもんなあ。まあ、そのセンセイとこいつに釣りのイロハを教えたのは俺だけどな」
にやっと笑うと、松木は厨房で張り切って腕を振るい始めた。
「……」
淋は座ると、どこか違う世界を眺めるように店内を見つめた。
女将のハツが挨拶に来て、真昼間だというのに、にこやかに冷えた生ビールを二つ置いた。
「淋ちゃん、久しぶりねえ……来てくれて嬉しいわ」
「……ご無沙汰してます」
「ほんとう、お母ちゃんに似て……
「…………」
「いつでもおいで。うちの人も喜ぶから」
ぺこ、と頭を下げた淋を、誠一は優しい笑みで眺めていた。
「……なに笑ってんの」
「別に。乾杯しよう」
面倒臭そうな淋とジョッキを鳴らし、心地好い清涼感とホップの香が喉から体に染み渡る。
「あんなに好かれてるのに、どうして来ないんだ?」
ぐいと呷っても平然としている淋に、誠一は不思議そうに尋ねた。淋はアルコールでは少しも濁らない目を伏せると、掻き消えそうなほど小さく呟いた。
「……俺は、此処に来ていいような奴じゃないんだよ」
この店で淋の母親が働いていた話は既に聞いていた。
今の淋によく似た美人で、朗らかで気立てが良く、ちょっぴり危なっかしい女性だったらしい。出産したばかりの淋を連れ、母子だけで身寄りもない百江に越してきたというから、何か訳ありに違いない。しばらくしてこの店で働き始め、客が彼女の気を引こうと躍起になっては、松木に怒鳴られていたと女将は笑って話していた。
釣りが上手いという点以外にも、松木がこの青年を好いているのはよくわかった。
「どうしてそんなこと言うんだ? 歓迎されてると思うが」
「……どうしても」
「そう思ってるのは、お前だけなんじゃないか?」
誠一の言葉に、淋は顔を上げた。その目を見た時、誠一は前の発言を後悔した。今日一番――寝起きでイライラしていた時よりも、暗い目だった。
「誠一くんはいい奴だけど、やっぱりお節介くんだね」
「わ、悪かったな……ほっとけ」
淋は鼻で笑った。それはどこか、寂しい笑顔に見えた。
「……知りたければ明日、図書館に来ればいい」
「は……?」
「閉館後。ただし、一人で来ること。誰にも言わないこと。覚悟してくること。そうすれば、誠一くんが知りたいことがわかる」
謎めいた誘いに声を発する前に、松木の大きな声が響いた。
「おーい、誠さん! カワハギの刺身上がったぞ。肝食えるよな? 醤油に混ぜると旨いんだ――ほれ、淋坊、キス天も持ってけ!」
閉館後の図書館は、開館時よりも静かだった。
せいぜい、空調の音が聴こえる程度の空間を、月に何度か、淋は丁寧に掃除をした。
スタッフが帰った後、普段行き届かない箇所の埃を払い、背の高い本棚の上を拭き、ガラス窓をぴかぴかに磨く。時間が余れば、隅の椅子に腰かけ、あまり手に取られない本を抜いて捲っては風を通し、破れや虫食いなどの傷みが無いか確かめた。
地味で面倒なこの作業を、淋はそれなりに気に入っていた。時間が止まったような、古びた施設も気に入っていた。
母親が、愛した場所だからかもしれない。
当初は、進んで申し出たこの仕事を、陽の落ちる中……ただ、静かに行うだけだったが。
「淋……、」
もどかしげに名を呼ばれ、淋は本から顔を上げた。
目の前に若い男が立っていた。閉館後だというのにすんなり入って来た人物は、夕闇迫る暗がりに表情はしかと見えない。
淋が黙って本を脇に置くと、男はやにわにその細い双肩を掴んだ。そのまま――興奮気味の呼吸のまま口付けられて、はしたなく放り出した脚が身動いだ。長く粘るような口付けから戻ってくると、耳許や首筋を食みだした相手を一瞥し、淋は出入口に目をやった。
暗がりに、微かに目を瞠った誠一が立っていた。
息を呑む表情はショックに強張り、沈む陽に暗くなってゆく。
――本当に来たのか。
自身を貪るのに夢中な男は気付いておらず、淋は苦笑いを浮かべると、空いた片手で蝿でも追っ払うような仕草をした。弾かれたように誠一が後退って出ていくと、男が申し合わせたように大胆さを増していく。
――もしかして、待っているつもりかな。
などと考えた淋のエプロンを、男の手は引っ張るように外し、荒っぽくシャツを掻き分ける。忙しない吐息が胸に掛かり、手や舌が肌をまさぐる。彼に聴こえるのではと思うと、声が出た。
並の女には無理だろう、熱と毒を孕むおぞましい吐息が響く。
――なんて、言うだろう。
今、肌触れ合わせる相手よりも、淋は誠一のことを考えていた。
怒るだろうか。現行犯逮捕で手錠でも持って来たら、笑ってしまいそうだ。
それとも、彼は……――
男にしては艶かしく悩ましい声が、黒ずんでいく図書館を支配する。
「……一体、何のつもりだ……?」
男が立ち去った後、苛立った口調と共にやって来た誠一が、窓を開けていた淋の格好に眉を寄せた。ズボンこそ履いていたが、シャツのボタンは全て外れていたし、見え隠れする白い皮膚には赤い痕が散っていた。
「何って、ナニしてるように見えたの?」
振り向いた淋がうっすら笑って答えると、誠一は悔しげに歯噛みした。
「……言いたくもない。あんなイカれたことをやるなんて、何処の誰だ?」
出て行った男は、何処から見てもサイクリングに来た観光客だった。顔のわからないサングラスをかけ、きちんとヘルメットも被っていた為、せいぜい痩せ型の男ぐらいしか特徴が無かった。
「俺とセックスしたいです、って来る人だよ。他にも居る」
何か文句でも、と尋ねる青年に、誠一は苦々しい口調で答えた。
「……公然猥褻罪になるぞ」
警察官の口から出た罪状を鼻で笑うと、淋はだらしなくシャツをはだけたまま、片手でカウンターを伝い、その前ににじり寄った。気圧されるように後退る男に尚も近付いて壁際に追い詰めると、怒りと軽蔑に染まった眼を見上げる。
「じゃ、あんたは閉館後に勝手に入って、俺がヤられるのじっと覗き見てましたって名乗り出るつもり?」
「じ、じっと? いや、俺は覗いてない……! 大体お前が呼び出して――」
明らかに動揺するのが面白く、淋はへらへらと笑った。
「ふーん、じゃあ、耳は澄ましていたのかな? 俺の声、聴こえた?」
囁くような一言に、赤くなって目を逸らすのが全てを物語っていた。当然だ。聴かせるつもりで、要らぬ嬌声を上げて犯されたのだから。
「……変態め……!」
とんだ王子様だと吐き捨てる男をせせら笑い、わずかな距離を進むと綺麗な指先で……男の股間を上に向けて逆撫でた。
「……ッ!」
「ああ、ノンケくんでもこうなるわけ……人のこと言えないね」
シてあげようか?
耳許に尋ねる青年を、誠一は感情に任せて強く押しのけた。不自由な左足のせいでバランスを崩し、淋はふらっとしてから尻もちをついた。
「乱暴だな」
怒る様子もなく言って、仰いだ加害者の顔は蒼白だった。
「そんな顔しなくていいよ、マジメなお巡りさん。訴える気なんか無い」
こんな事実を吹聴したところで、何も良いことは起きない。淋はカウンターに手を掛けて体を持ち上げると、慣れた手付きで身支度を整えて、立ち尽くす青年に声を掛けた。
「わかったかい? 誠一くん。俺がどういう人間なのか」
彼は、震える拳を握りしめ、闇に唇を噛んだ。
「……こんなことを……簡単に受け入れられると思うか……?」
「……簡単だよ。お節介をやめればいい」
「…………」
黙してしまう男に、淋は静かに言った。
「いい加減、閉めるよ。まだ用があるなら外で話そうか?」
誠一は、臓腑でも痛むような顔で首を振った。
――なんで、そんな顔をするんだ。
「……お前……なんでいつも裏切るんだ……? 良い奴だと思ったのに……!」
「……裏切り呼ばわりは心外だね。あんたの勝手な買い被りだよ」
そう言って、淋は微かに胸が軋んだ。歪む誠一の表情が、あまりにも悲しかったからだ。
「ああ、そうかよ……! くそっ……もう沢山だ……!」
行き場の無い拳を放り出すように、誠一は踵を返した。
響いた音を立てて去るのを、淋は呼吸もせずに見送った。
気だるげに電気を点け、丁寧に館内を見回り、ばつの悪い痕跡は綺麗に拭いた。納得が行くと、戸締りを確認してから電気を消し、鍵を掛けた。
ガチャン!と、淡い闇に強めの音が響く。
帰宅せず、波の音がする方へ左足をわずかに擦りながら歩んだ。
暗いトンネルの先の浜は鈍色をしていたが、波の向こうには闇に喘ぐようなオレンジのラインが残り、徐々に呑まれていく様が見えた。サンダルを履いたまま裾も捲らずにざぶざぶと波に分け入る。弱い左が揺らぎにもつれ、倒れそうになりながら、膝まで浸かった辺りで……小さく溜息を吐いた。顔を上げたとき、もはやオレンジは見る影もなく、蒸れた青黒い波が押し寄せるばかりだった。
――彼、自分で抜いたのかな。
どうでもいいことが頭に浮かんで、淋は自嘲気味に笑うと、片手を波にくぐらせた。ひと呼吸も待たず、笑った唇にこぼれる闇色の水を含む。すぐに磯臭さを含んだ苦くて辛い水が口を襲い、吐き捨てる。
それは、ひとつの習慣だった。
その水を体が拒絶する内は地に足ついていられる気がしたが、心は早く……その水底に行きたかった。
もう、淋は笑っていなかった。
体温を奪う波間から引き返し、半分だけ海に浸かった大きな岩場に上がると、両足を浸して狭い海を眺めた。吹いてくる生ぬるい空気は磯臭く、心はどんどん沈むのに、深く冷たい海には辿り着けない。
この足元に――海へ引きずり込む者が居ればいいのに。
溜息が出た。
風になれなくてもいい。
せめて、泡になって、消えられたらいいのに。
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