3.血に集る

 事件が進展を見せたのは、思ったより早かった。

被害者の男は「持田もちだ 一朗いちろう」という名で、本に挟まっていたメモの筆跡鑑定と、本に残っていた指紋鑑定――そして、猫のモモに付着していた血液の主は彼だった。

旅行会社「パラダイス・チケット」の社員で、主に船旅を中心に扱う会社の方針で、百江町にはツアーを組めるか視察に来ていたらしい。社によれば目立ったトラブルは無く、真面目な仕事ぶりで、何故殺されたのか見当もつかない、という回答だった。

同時に、会社はメモも、その意味にも心当たりは無いとのことだったが、本からは持田と、彼以外の二つの指紋が見つかった。

無論、淋を含む図書館スタッフや島民のものは別として、二つの指紋に前科は無い。

当面、末永は持田のことを徹底的に洗うと告げて、本島にとんぼ返りしていった。

ところが、問題は居残った。

島民の視線は松木のおかげで幾分やわらいだが、マスコミのうるささは真夏のせみの声など可愛いくらいだった。

「大鳥巡査は最近、島にお見えになったそうですね?」

「犯人は外部の人間ではと疑われていますが、ご見解は?」

『島民が不審に思う新顔警官』はたまらなくウマいネタらしく、自宅はマークされ、常にどこかしらの報道陣が素知らぬ顔でロケ車をそこらに停めている。

やぶをつつきたくてたまらない顔をした連中が、それこそ藪から飛び出るように立て続けに訪れ、家は勝手に撮るわ、インターフォンは一呼吸待たずに押すわ、やりたい放題だった。職務上、怒鳴るわけにもいかず、聞かれたことには答えられるだけ答えるしかない。

マイクを持っていれば何でも聞けると思っているのか、早朝から、成人したてと思しき女性記者に、出会い頭にマイクを顎すれすれに突き出されたときは、さすがに顔をしかめた。

達巳は心配そうに、うちに来てはと再三誘ってくれたが、それはそれで気を遣うし、間違いなく明日野家に迷惑が掛かるだろう。

結果、何となく家に居づらく、かといってうろうろしては目を付けられそうで、逃げ場を求めたのは図書館だった。

静かにしなければならない暗黙のルールを持つこの場は、普段は息を潜めねばならない窮屈さを覚えるが、今は驚くほど落ち着いた。

また、歯にきぬ着せなくていい相手がいるのも、信じられないほど楽だった。

「容疑者くん、コーヒー飲む?」

話し掛けてきたその相手を、誠一は胡乱げに仰いだ。

「此処で?」

「まさか。図書館は飲食も持ち込みも禁止」

ハンサムな顔で嘲笑うように言うと、本持っておいでと淋は手招いた。

「沢村館長が、あんたのこと心配してるんだ」

「沢村館長?」

「こないだ、坂道でお婆さんの荷物運ぶの手伝ったんだって?」

「ああ……そういえば。暑い日に重そうにふらふらしてたから」

「その人、館長のお母さん」

そんなことで? という顔の誠一に淋は笑った。

「見てる人は見てるんだろ」

からかうような声だったが、思いもよらぬ優しい言葉に誠一は胸が温かくなった。

何やら、正しさを認められたような心地になりつつ、気になってカウンターに目をやると、おじさんとおばさんが一人ずつ仕事をしていた。

淋が誠一の本をバーコードで読む傍ら、彼らをそっと窺う。

「……どっちの人?」

「眼鏡のおじさん。周りを気にして俺に頼んでるくらい気の小さい人だから、あんまり見ないであげて」

淋の言葉に、誠一は歩きながら、ちょっと目の合った館長に会釈した。相手は笑うと眉も目尻も下がる優しそうなおじさんだった。豊かな白髪混じりの髪はきちんと整えられ、他のスタッフと同じ黒いエプロンや、飾り気のない銀縁の眼鏡がよく似合う。彼も同じように会釈を返してくれた。

淋に従うと、ロビーの脇にある小さな階段を器用に上がっていった。

一見、上がってはいけないように見える古い階段で、『関係者以外立ち入り禁止』と書いてある。どうもこの青年とは立ち入り禁止の場に行く機会が多いなと思いながら、二階に上がった。

いくつかあるらしい部屋の内、すぐ手前のそれを開けると、中央に置かれた大きな机が大部分を占める小さな部屋だった。古い椅子がいくつか並べられ、小さめのシンク、小ぶりの冷蔵庫、低い棚にはティーカップや電気ポット、コーヒーメーカーが並んでいる。

「従業員の休憩室なんだけど、館長があんたも使っていいってさ。他のスタッフも知ってるから、見咎みとがめられることはないよ。とりあえず此処には、あんたのこと嫌ってる人は居ないから」

お礼を言おうとすると、ただし、と淋は付け加えた。

「内緒話はやめた方が良いよ。この壁薄いし、向こう側は何もないんだ」

貴族が椅子とかツボ置くような廊下、と言われて誠一は苦笑した。

「ありがとう、助かる。館長さんや皆さんにも宜しく伝えてくれ」

「軍隊みたいなお礼はやめてよ」

お辞儀をした誠一に淋は苦笑すると、コーヒーメーカーに歩み寄り、流れるような動作でコーヒーを淹れ始めた。小さな室内はすぐにコーヒーの香りに満たされ、淋は周囲を眺めていた誠一に声を掛けた。

「窓、開けてごらん」

「暑くないのか?」

「そりゃ暑いよ」

変なことを言う青年に首を傾げながら、誠一は少々立て付けの悪い窓を開けた。

「……!」

吹いてきたのは、熱風よりも強めの潮風だった。

手前に生えた松の木の向こう――眼前に広がるのは海だ。距離はあるが、さえぎるものがない為、きらきらと動く水面が一望できる。

「いい眺めだな……!」

「あんまり開けてると、潮風入って怒られるけどね」

どうぞ、と差し出されたコーヒーがアイスコーヒーなのにちょっと驚きながら、礼を言って受け取った。汗を掻いたガラスコップは冷たく、氷の音は涼やかだった。

「大鳥サン、この島嫌いになった?」

隣で同じようにコップを手に、淋は風に向かって言った。男にしては美しい横顔に、つい言葉を失うが、彼が振り向いたので慌てて景色に向き直った。

「……き、嫌いにはなってない。今日も……お前や館長さんたちのお陰で、むしろ好きになった」

「単純だな」

淋は愉快そうに笑うと、うるさいと顔を赤くする男を仰いだ。

「安心しなよ。大抵の島民は臆病なだけなんだ。あんたは好かれてるし、すぐに元に戻るさ」

「ああ……俺も島の人が親切なのはわかってる。とにかく、マスコミに帰って欲しいよ……同じことばっか聞いてくるし、ヘリもロケ車もうるさい」

「あいつら暑いのに元気だよねー……商店のおばちゃんが、飲み物とアイス馬鹿売れって驚いてたっけ」

「そっか……経済効果になったのか。だったらまあ……良かったのかな……」

「どんだけ人が好いんだよ」

けらけら笑う淋につられて、誠一も声を上げて笑った。

夏の光と、潮風と、コーヒーの香りが爽やかに吹きぬける。

なんだか、久しぶりに笑った気がした。



「モモを……捜査に使う?」

図書館に潤いを得た日から三日。

勤務中の誠一を訪ねてきた末永は、神妙な顔で頷いた。

「一刻も早く、事件現場を特定したいので。ドローンも使ってみましたが、一向に見つかりません。上空に手掛かりなしなら、獣道けものみちかと思いまして……案内してもらおうかと」

「どうでしょう……気ままな子なので。犬みたいに言うことは聞かないと思いますが」

「いえ。首輪にGPSを付けさせて下さい。後は自由にして頂ければ」

そういうことなら、と三波クリニックで寝ていたモモのピンクの首輪に、賢彦にも協力してもらってGPSを取り付けた。賢彦は動物のストレスになりそうなことを嫌うが、誠一の元からマスコミを一掃できるならと二つ返事でやってくれた。モモはぷるぷると首を振ったりしていたが、重いものではないので気にした様子はなく、さっさと定位置に寝に戻った。

「上手くいくでしょうか?」

不安そうな誠一に対し、賢彦は首を捻りつつも頷いた。

「他の猫ならばわかりませんが……モモちゃんは上手くやるかもしれません」

「それは……モモが一定の行動をとる猫だからですか?」

「そうです。それに……僕はあの子の行動で気になっていることがあるんです」

「なんです?」

すかさず尋ねたのは末永だ。賢彦は事もなげに、不思議なことを言った。

「人間を、ほぼ正確に見分けているようなんです」

「誰が誰なのか、理解しているんですか?」

「はい。目というよりは、耳で判断している可能性がありますが。猫は犬よりも耳の良い生き物です。加えて、あの子は賢い。つまり……僕の言うことが正しいと、おかしなことが生じますよね?」

「――何故、あの男の遺体に近付いたのか、ということですね」

末永が鋭い目でモモを見た辺りで、誠一もようやく合点がいった。

「血の匂いに引き寄せられた……という可能性は?」

「あの子が生肉をもらっていれば別ですが……猫は警戒心も強く、生来は茂みに潜んで狩りをする生き物です。故に匂いを消すために毛づくろいを怠らず、トイレの始末もできる。その動物が、強い香りの血にわざわざ足を浸すとは思えません。仮につけたのなら、自分で舐める筈なんです。……もし、血を目指したのなら、口回りに残るでしょう」

「では……三波先生はどうお考えなのですか?」

「――僕は……」

賢彦は答えを躊躇ためらった。

何かとても恥ずかしいことを口にするように、ぼそりと言った。

「モモは、被害者の顔を知っていたと思います」

「えっ……」

「その上で付いていき……証拠を、持ってきたように思います。僕たちに、何かをしらせるために」

その答えは物語じみていて、誠一も思わずぽかんとしてしまった。

木陰に丸まったモモは、とてもそんな大層なことを考える猫には見えない。

だが、末永は賢彦の意見を笑わなかった。

「彼女が先生が仰る通りの、賢い猫だと期待します」

生真面目に言うと、彼は一礼して帰って行った。



 モモにGPSが付いてから、丸二日が過ぎた。

モモは町内をうろうろするばかりで、いまだ成果は出なかったが、先にマスコミの方が飽きてきたらしく、大物芸能人のスキャンダルの方に注目が集まるや否や、あっさり居なくなった。

誠一の余所者騒ぎも、明日野家を始め、松木や賢彦のおかげで穏便に済み、手のひら返したように殆どの島民が笑顔で挨拶してくるようになった。

その日、誠一は柚子を乗せた車を本島まで走らせていた。

柚子に頼まれた時は、要らぬ噂が立ってはと思ったのだが、これは達巳の依頼でもあった。彼女が職場の友人から椅子とテーブルを譲り受けたらしいのだが、これを自ら運ぶ気なのだと、達巳は溜息を吐いた。

「大きなガラス・テーブルらしくてね。送料が凄いから運ぶって聞かないんだ。重いから手伝うって言ったんだけど、先方の都合があるとかで」

相手方は引っ越しの最中ですぐにでも持っていってほしいらしく、達巳の休みには合わなかったという。そういうことなら、と引き受けた誠一である。

何かと世話になっているのだ。荷物運びぐらい、どうということはない。

「大鳥さん、ありがとう」

エアコンが付いた車内とはいえ、うだるような夏日に爽やかな笑顔で柚子は言った。

「いえ、お安い御用です。お世話になってますから」

「そんなこと……大鳥さんの車、広いから助かります。私のは小さい軽だから、ムリかなって思ってたので」

といっても、誠一の車も大きなワゴンというわけではない。コンパクトな普通乗用車だ。

「そんなに大きいテーブルなんですか?」

「ええ。梱包したら膨れ上がったって。ガラスって面倒ですね」

笑いながらも、柚子は口笛でも吹きそうな顔でうきうきしている。

久しぶりに入った本島は当たり前だが信号が多く、車の往来も激しい。それでいて道は大きかったり狭かったりと忙しなく、熱射と陽炎かげろうが揺らめくコンクリート上は、生き物の住処には思えない。

「やっぱり、こっちの方が落ち着きます?」

大変でしたものね、と同情を滲ませた柚子の問い掛けに、誠一はフラッシュの中にあるような赤信号を見ながら苦笑いを浮かべた。

「いいえ。今、島の良さを噛み締めていました」

「本当?」

その問い掛けは、意外そうでもあり、嬉しそうでもあった。

「皆に話さなくっちゃ」

柚子の言葉に、季実子さんがはしゃぎそうだな、と思ったが、嘘ではない。

余所者という扱いは手痛く味わったが、人工物まみれの土地に暮らして、何が楽しいのかと大抵の人間は思っている筈だ。

ところが、雑草が生えるのは困るし、土のままでは建てたい建物は立たず、道路を作らねば車は走れない。スイッチ一つで電気が点き、蛇口を捻れば安全な飲み水が出るということ、その全て……人間の日々の便利と衛生とやらを通すには、生物らしさと自然に晒される安らぎを捨てるという、本末転倒な手を選ぶ他ないのだ。

その点、島の人達は上手くバランスを取っていると思った。自然と、文明と、程良い付き合いに留めている。

目的地は、思ったより近かった。

出迎えた友人に、彼氏じゃない、と柚子は散々に手を振った後、土産を押し付けた。

「違うってば! 義兄さんの代わりに来てくれた同僚の人なの!」

この娘は照れると必ず、つっけんどんな口調になった。当の義兄さんも言っていたが、笑っているのはもちろんだが、怒った顔が妙に可愛かった。

緩衝材でぐるぐる巻きにされたテーブルは本当に大きく、三人がかりでようやくトランクに積み込んだ。てっきりセットなのかと思っていた椅子は別物で、椅子というよりも一人掛けソファといった風のそれはどうにか後部座席に乗り込めた。それらを満足そうに振り返り、柚子は友人と挨拶を交わした。

「大鳥さん、お腹空きません? どこか寄りませんか?」

ドアを閉めた柚子に言われて、誠一は素直に頷いた。女性にそう言われて断る理由は無いし、いい加減この暑さは何か摂らねば干からびると思った。

「はい。何処に行きましょうか」

「お蕎麦とか、いかが?」

「蕎麦でいいんですか?」

自分は願ったりだが、若い女性にしては渋いチョイスについ聞き返すと、柚子はくすくす笑った。

「家族と、例の問題児も好きなんです。お土産にしようかなって」

「……ああ、なるほど」

何となく打ちのめされる気がしたが、格別、彼女に気が有るわけではない。そうだろ、と自分に言い聞かせつつ、熱いハンドルを握り直した。

「……柚子さんは、潮見くんとお付き合いしないんですか?」

厚かましい質問に思えたが、柚子は気にした様子はなかった。爽やかな笑顔のまま、小さく言う。

「皆がそう言うんでしょう?」

「ええ、まあ……」

正確には、『固執している』という心配な意見が多数だったが、誠一は曖昧に頷いた。

「……たぶんね、私じゃ無理なんです」

「無理……?」

何故、と聞けなかった。窓の外を見つめる柚子の顔が、切なそうに見えたからだ。

「淋は、海が連れて行っちゃったから……」

「海が……ですか?」

「返してほしいけれど、淋も帰れないんです」

そこまで言って、柚子は小さく笑った。

「ごめんなさい、変なこと言って。……私たち、この二年間それなりに話し合ったんです。私が……淋が帰れないことを理解できたのは最近のことで、無駄な喧嘩ばかりしちゃいました」

“帰れない”の意味はよくわからなかったが、少なくとも柚子の気持ちは彼にある。

それでいて、何か已む無い事情で叶わぬ恋らしい。淋が自身を人魚と称したことと関係があるのだろうか。

静かになる柚子に、誠一は悪いことを聞いたなと反省した。

「すみません、ぽっと出の部外者が言うことじゃなかったですね」

「いいえ……お母ちゃんも言ってましたが、大鳥さんが来て、淋は少し丸くなりました。前みたいにうなされたりはしていないと思います……」

「うなされる……何か悪い夢を見るんでしょうか」

柚子は頷いた。

「あまり眠れない夜の方が多いみたいですけどね……」

その呟きはどこか、いつも遠くから見ている者のようだった。

淋の家は、ハンドレッド・ベイからも程近い、町から離れた郊外にあるのだが――幼馴染だけに、顔を見ればわかるのかもしれない。

静かになる柚子の顔は、ガラステーブルにはしゃいでいた時とは別人のようだ。

こんなとき、あいつは何て言うのかな――……あらかじめ、音楽かラジオでも流しておけば良かったと思いながら、誠一は光に白むアスファルトに車を走らせた。



「こんにちは、元・容疑者くん」

出くわすや、図書館の王子様は作業の手を止めて微笑した。

土産の紙袋を持った柚子は「失礼よ」と即座に指摘したが、淋の不遜な態度には慣れてきた誠一である。王子はニヤニヤしながら、図書館ではお静かに、などと言いながらロビーに伴った。

「元・容疑者くん、今日は何の用?」

「その呼び方、どうにかならないのか?」

「疑いが晴れて良かったじゃないか、ってことなのに」

「遠回しだな」

内心、それはこっちのセリフだと思った。他の人々はどうだか知らないが、一瞬でもこの青年が怪しいと思ってしまったのは事実だ。

淋は妙に静かな柚子に向き直ると、誠一と見比べて首を捻った。

「ついに、ゆず子とデート?」

「……違うわ」

「そんなに簡単に言うなよ、ゆず」

呆れた様子の淋の指摘に、柚子は怒るのではなくぱっと顔を赤くして押し黙った。

「気にしちゃ駄目だよ、大鳥さん」

「俺は気にしないが、お前はもっと気にしたらどうだ?」

その言葉に、淋は目を瞬かせ、柚子は誠一をちらと仰ぎ見た。彼女は思い出したように、蕎麦が入った袋を突き出した。

「――お土産。もう一つの袋は、大鳥さんから此処の皆さんに」

「あー……ありがとう」

いいのに、と言いながら受け取る淋の顔つきは複雑で、にこりともしない。不思議なことだが、この男は仲良くなれそうだと思うと、急に嫌な顔を覗かせる。例によってふつふつと腹が立ってきた誠一は、うっかり殴ってしまいそうな拳を握りしめた。

落ち着け、と言い聞かせる。此処でこの王子様を殴ったところで、それは単なる自分の憂さ晴らしだ。状況は良くならないし、むしろ悪くなるだろう。

「ゆず子、大鳥さん良い人だろ」

「……知ってるわ」

つんとそっぽを向いて話すのは、いつも明るい柚子とは異なる。

あの可愛らしい怒り方とも違う。彼らを取り巻く違和感に首を捻りつつ、誠一は黙って見つめていた。強いて言えば、淋はあまり変わらない。しかし、その顔は図書館の王子様の顔でもない。初めてハンドレッド・ベイで目にしたような、薄暗がりに潜む、何者にも興味の無さそうな顔だ。その気が無いにしても、何故、彼女には愛想笑いの一つも無いのか。

「……淋、あんまり……海に浸かるのはやめてね」

「……はいはい」

淋がひらひらと手を振ると、柚子は図書館の中を軽く見渡して、誠一の手を取った。

「大鳥さん、帰りましょう。お蕎麦悪くなっちゃう」

「……あ、はい」

ぐいと腕を取っていく柚子に引きずられるように、誠一は図書館を出た。肩越しに振り向くと、淋は困ったような微笑で手を振っていた。

「柚子さん、大丈夫ですか?」

尋ねると、柚子は唇を噛んで頷いた。泣いてしまいそうに見えたが、彼女は泣かなかった。

「平気です」

「……それならいいですけど」

誠一が微苦笑を浮かべているのに、柚子はしばし不思議そうな顔をして、あ、と声を上げた。掴んでいる男の腕がうっ血し始めているのにようやく気付いて、飛び退くように手を放す。

「ご……ごめんなさい……私……!」

「気にしないで下さい。捻くれてるあいつが悪いんですから」

柚子は首を振ると、顔を上げて、目が合うとすぐに伏せた。

「ごめんなさい……ありがとう」

じりじり焼ける陽に寒々しく呟くと、やっと彼女らしく、小さく微笑んだ。



 夕闇迫る頃、誠一は図書館を改めて訪れていた。

淋は早番だったのか休憩なのか、姿は見えなかった。

土産の件で代わる代わる礼を言いに来るスタッフに応じつつ、誠一は探している本を伝えた。館長の沢村はにこやかに対応してくれた。話してみると、この館長は見た目通りの穏やかな人物で、“紳士”という言葉がぴったりだ。

自ら棚まで案内してくれると、引き抜いた本を笑顔で渡してくれた。

「淋くんのお気に入りですね」

「やはり、そうなんですか」

ハンス・クリスチャン・アンデルセン作――「人魚姫」だ。

子供向けの絵本ではなく、表紙の絵柄は優雅な西洋画風で、アンティークといっても良いような古い本だ。めくってみた中身も小難しい言い回しで、人魚姫の父親が男やもめであるとか、姉が沢山いるとか、出足のストーリーからして誠一には馴染みがなかった。

「淋は、よく借りていたんですか?」

「ええ。絵本の方は、お母さんの清香きよかさんがよく借りていましたよ。なんでも、定期的に読みたくなるそうで」

「へえ……」

綺麗な本ではあるが、親子揃って不思議な趣味だ。

読めば、あの奇怪な青年の事が少しはわかるだろうか。礼を述べて一緒にカウンターに戻ろうとしたときだった。

ふと、沢村が硬い表情で立ち止まった。

「……沢村さん?」

「……あ、いや、すみません……」

彼が気にした先を、誠一は見逃さなかった。見慣れぬ男だ。三十か四十そこらだろうか。ややがっしりした体型で、何気ない仕草だが、周囲を窺う様な油断のならない目をしている。

「あの方が、何か?」

「……淋くんに付きまとっている男なんです」

男から目を離さず、囁くよりも小さな声で沢村は言った。

「ひょっとして……あの人が登藤さんですか?」

「ご存知でしたか」

命綱を見つけた様な顔をしつつ、沢村は男が遠い棚に行き過ぎるのを待って口を開いた。

「……大鳥さん、どうも私は……あの男が好かんのです。淋くんは心配しないようにと言っていますが……」

「何か、気になる行動をしていますか……?」

「……いいえ。そのう……何と申し上げたものか……いやらしい感じがするんです。他の職員も、その……淋くんを女だと思っとるんではと……」

言い辛そうな沢村の言葉に、誠一は目を瞬かせたが、言わんとする意味は理解できた。改めて登藤を観察したが、格別、人相は悪くない。平均的な身長と体型、髪型もごく当たり前の黒髪の短髪で、身なりもラフなシャツにズボンだがきちんとしている。強いて言えば、日焼けした肌が海の男っぽい感じがあるが、サーファーと言うほどでもなく、遊び人風の感もない。言われてみれば怪しい気もするし、普通だと言われればそう思うこともできた。少なくとも、他の客やスタッフの迷惑になるような行動はしておらず、無遠慮に辺りを物色したり、無暗に物音を立てることもなかった。ただ静かに本を選ぶ姿は、柚子が不安がっていた危険人物とは直結しない。

念のため、見ている棚のジャンルを確認するが、何のことは無い文庫本の棚だった。

注意しておきますと告げると、気の小さい館長は気が楽になったようだった。

借りた本を抱えて、誠一は図書館を出た。

向かった先は帰路ではなく、ハンドレッド・ベイだ。

『立ち入り禁止』の看板と鎖を乗り越え、トンネルを抜けると――生暖かい潮風が吹いてきた。

思った通り、彼は居た。

岩礁に座り、両足をサンダルごと波に揺らして髪を風に吹き流す様は、本当に人魚を彷彿とさせた。

「館長も皆も喜んでたよ」

挨拶もおざなりに波間を見つめたまま、淋は言った。

「今、会って来た」

淋は誠一が脇に手挟んだ本を見てから、首を捻った。

「今度は何?」

「……どうして、柚子さんには冷たいのか聞こうと思った」

近付いて、同じ方向を眺めて言った誠一に、淋は口許だけ笑った。

「……今度は『お節介くん始めました』ってこと?」

「それでもいい。幼馴染なんだろ? 彼女、お前を心配してる」

どうして応えてやらないんだ、と言うと、淋は海に降り立ち、緩慢な動きでざぶざぶと近付いてきた。

「あんたは何でも、わかったように言うね」

両足を海に付けたまま、淋はつまらなそうに言うと、また海に視線を戻した。

「俺は人魚だって言っただろ。だからゆず子は幸せにしてやれない」

「……その人魚って、何の冗談なんだ」

「冗談じゃない」

「何を偉そうに。足生えてんだろうが」

「人魚だよ」

にやっと笑って、淋は尚も言った。

「この深い海に落っこちて、俺だけ帰ってきたんだから」

「俺だけ……?」

引っ掛かる言葉は、九年前の『海隠し』のことだろうか。反芻はんすうする誠一に、淋は乾いた笑い声を立てた。

「お節介くんは俺に興味が無いくせにこだわるね? ゆず子に気があるから?」

「な……何言ってんだ! 俺は別に……! 大体、彼女は――」

焦ってつい、お前のことがと言いそうになり、誠一は慌てて言葉を飲み下した。

「ゆず子は良い子だよ。他の変な女にするなら、お勧めする」

「……じゃあ、お前が付き合えばいいだろ」

「それは無理。俺は御存じの通り、性格も悪い」

「ああ、そうかよ……性格は激しく同意するな……!」

呆れたと誠一が目を逸らすと、淋は自分の唇を指差して鼻で笑った。

「君も良いヤツだ。下手くそだけど」

「余計なお世話だ、コンチクショウ」

「前から思ってたけど、警官の癖に口が悪いよね」

愉快そうに笑うと、淋は浸けていた足を浜に引き揚げた。

「お節介くん、俺の詮索はやめなよ。ゆず子にもそう言ってくれないかな」

「……直接言えよ。それに……俺がお前を気にするのは柚子さんの為ばかりじゃない。なんだか不安だからだ」

「あ、そ……まあいいけど……ストーカーもほどほどにしてよ」

面倒臭そうに言うと、足の砂を払って、左を引きながら歩き出す。

「――お前、九年前……本当に波にさらわれたのか?」

ふと、口を突いた言葉に、尋ねた誠一の方が狼狽した。

淋は振り向くと、いつものように鼻で笑った。

「そうだよ」

「……事件じゃ、無いんだよな?」

「さあね。何? まるで俺が何かの犯人みたいな言い方だね?」

「……人魚って、人喰う奴もいるだろ」

言い訳のように呟いた誠一に、淋は口を開け、からっ風のような声で笑った。

「ハハハ……詳しいな。本当、あんたの発言はいちいち面白い」

魔物が笑うような感覚に襲われながら、誠一は柚子の気持ちが解る気がした。

ふらふらと地に足付いていないようで、何もかもあっさり捨ててしまいそうで、どうしようもなく、不安にさせる。

「あれは離岸流さ――そうなんだろ? 当時調べた警察もそう言ってる」

その通りなので、誠一は黙した。淋はその難しい表情を楽しむように覗き込み、改めて誠一が手にしていた本を眺めた。

「博識のお節介くん、その人魚姫の最後って知ってる?」

「……? 泡になって消えるんじゃないのか?」

「大抵の絵本はそうだけど、原作は違うんだ」

淋の声は少しだけ、子供っぽく笑っているようだった。

「泡になった後さ、風の精になって……恋敵に祝福のキスをして去るんだよ」

「ふうん……ようわからんが、ロマンチックだな」

長年、悲劇だと思っていた童話の意外な結末に首を捻ると、淋は小さく呟いた。

「……羨ましいよ」

「……お前が? なんで、羨ましいんだ?」

恋なんて、いくらでも叶いそうなハンサムな青年は、とても切ない顔で笑った。

「さあ……なんでかな。人魚の肉を食いたい人間が多いからかも――……」

その不穏な声が、風に乗った時だった。誠一の電話が鳴った。

〈もしもし、賢彦です〉

「賢彦先生……どうしました?」

応じた名前に、淋は微かに眉を寄せたが、誠一は気付かなかった。

〈モモちゃんがいつもと違う方に移動しています。達巳さんや末永さんには連絡しましたが、大鳥さんも来てもらえますか〉

「モモが……わかりました、すぐに行きます」

電話を切って顔を上げると、淋は既にトンネルの方へ歩き出していた。

「さっきの肉を食うって……どういう意味だ?」

「人魚の肉を食うと不死になれる話、知らない?」

迷信か、と呆れ顔で通り過ぎようとした誠一に、淋は一言告げた。

「またね、誠一くん」



 賢彦と合流した誠一は、末永を待つのを達巳に任せ、距離を置いてモモを追った。

既に、辺りは薄い闇に覆われ始めている。モモが向かっていたのは、遺体が打ち上げられた漁港とは別方向だった。嫌な予感がしていたハンドレッド・ベイとも違う。

百江島は名前のわりに、残る入り江はビーチのみで、他は殆どが海に面する切り立った岸ばかりだった。その中でも、鬱蒼うっそうと茂る草木で盛り上がった小さな山を、モモは一心に登っていた。

「……なんでこんな所を上がるんでしょう?」

道らしい道も無く、背丈に迫るような繁みを掻き分けながら、誠一は汗を拭って呟いた。一面、むっとした緑の香がする。当たり前だが外灯など無く、今夜は空も雲が厚い。嫌がらせのように蓋をした空は、熱気だけ地上に閉じ込め、月の光も届かない。

隣で懐中電灯の明かりを頼りに、誠一よりはよほど軽い足取りの賢彦は短く唸った。

「わかりません。モモちゃんはともかく、人間が此処を上がる理由は浮かびませんね。島民も来ないような所です」

「少なくとも、スーツで上がりたくはないですよね」

「はい。虫や擦り傷は防げるでしょうけれど」

登るにつれて、モモとの距離が縮まって来た。賢彦は立ち止まり、灯りをできるだけ絞る。モモの案内は充分だったが、刺激して何処かに飛び出しては危ないからだ。暗闇だが、賢彦は大体どの位置に居るかわかるようだった。

「頂上が近いと思います。頂上といっても……見晴らしが良いところではありませんが」

賢彦が言う通り、何処までいっても木々と伸び放題の草が覆っていた。頂上も平地などなく、でこぼことした地面に大きな根が這い回り、草木で隠れた周囲は何処までが地続きなのか殆ど見えない。

「大鳥さん、此処は昼間でも危険です。僕から離れないようにして下さい」

「危険……と、仰いますと……」

「転落する可能性がありますので」

その一言に、誠一はおののくよりも先に気付いた。賢彦はもう登る段階で気付いていたようだ。

薄い明かりの中、青くなる警官の顔を見て彼は頷いた。

「そうです。此処が殺害現場なら、突き落とされた可能性が出てきます……それに……臭いませんか?」

「……?」

獣医だからなのか、賢彦は“その臭い”に敏感だった。濃い緑の匂いに混じって、それはほんのわずかに鼻を突いた。

「腐敗臭がします。恐らく、生き物の」

「……!」

誠一は息を呑んだ。まさか、他にも死体があるのか?

いくら警官でも、死者に好んでお目に掛かりたいとは思わない。

二人は慎重に辺りを照らし始めた。モモはすぐ傍で木に爪を立てていた姿が見つかり、賢彦が怪我がないのを確かめ、手際よくケージに収めた。そのまま周囲を見渡すが、臭気はあるものの、遺体らしきものは見当たらなかった。

代わりに、誠一は大きめの樹があるのに気が付いた。

「一本だけ、飛び抜けたから大きくなったんですね」

賢彦が呟くのを聞きながら、何気なく後ろに回った時だった。

「――……!」

ライトで照らす木の根元に、赤黒い色がこびりついている。同化してしまったように馴染んだそれの正体を口にする前に、賢彦が声にならない恐怖に喉を震わせた。

「……お、大鳥さん、……」

微かに震える声でライトで照らす先は、急坂になっている繁みの中だった。黒い何かが、草をぺしゃんこに押しつぶし、下降に向けてつんのめって伏している。

もう、確かめる必要はなかった。

「滑らないように気を付けて……!」

短い注意を聞きながら、誠一は慎重に坂道を下った。黒か、或いは濃い色のスーツを着たそれがうつ伏せだったのは、大変都合が良かったかもしれない。熱帯夜に、生ごみなど比べ物にならない腐臭と、その身にたかった大量のはえうじうごめく様を見て、こみ上げる吐き気を抑えるのがやっとだった。

救急車を呼んだところで無駄なことは、一目瞭然だった。

心配そうな賢彦の元に戻り、電話をとって厳しい口調で言った。

「……大鳥です。達巳さん、例の現場と思われる場所を見つけましたが、別の遺体があります。かなり腐敗が進んでいますが……また、スーツを着た……恐らく、男です」

応じる声に返事をした後、電話を切った誠一はケージを持った賢彦を振り返った。

「ありがとうございました、賢彦先生。とんだ所にお連れしてしまって……」

「いいえ。お役に立てたようで良かったです。しかし、お気の毒に……一体どなたなんでしょうね……」

「ええ……惨いことをする……」

悔し気に言う誠一を、モモの爛々とした目が静かに見つめている。

遠くでサイレンの音が響き始めた。明日からまた、うるさいマスコミが来るのかなと思いながら、数名がガサガサと草を割って駆け上がって来る音に耳を澄ました。

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