2.犬と猫

 赴任から数日、日々はうだるような残暑のように、じりじりと過ぎて行った。

交番勤務が二人では苦労するかと思っていたが、達巳が言った通り、島はあまりにも平穏で、大きな事件といえば近所の犬が行方不明になったぐらいだった。

賢彦医師が血相変えてすっ飛んできた時は何事かと思ったが、犬はその日の夕方、人気ひとけのない林の木陰で眠っているところを発見された。

「いやあ、お騒がせしました」

その夜、島民の常連客ばかり訪れる居酒屋で、誠一の杯に日本酒を注ぎながら、賢彦は苦笑混じりに言った。十席程度の狭い店内は、がやがやと騒がしく、年配の男ばかりだった。唯一の女性は店の奥さんだけで、いぶし銀の面構えをした小柄な大将が、黙々と料理を出していく。

「助かりましたよ、大鳥さんが見つけてくれて」

失踪事件を起こしたのは、最初にクリニックを訪れた時に見た柴犬のサクラちゃんだった。あの時はそんな犬には見えなかったが、単に病院に緊張していただけのおてんば娘だという。嬉しかったり、テンションが上がると家を飛び出してしまい、走り回った末に疲れて寝てしまう常習犯だった。

「見つけたのは偶然ですが、何もなくて良かったです」

「元気なことは良いんですけどね。車に撥ねられたりしたら大変ですから」

良かった良かったと何度も口にする賢彦は、島に小さな子供が沢山居る親のようだ。

「今夜は僕が奢りますので、どうぞ遠慮なくやって下さい」

「いや、それは申し訳ないですよ」

犬を見つけたくらいで、と誠一が手を振ると、賢彦はやんわり微笑んで首を振った。

「いいえ、大鳥さん。飼い主さんや僕にはとても大事なことなんです。不謹慎に聞こえるかもしれませんが……子供一人居なくなったのと、変わらないことなんですよ」

そう言われてしまうと、断る気が失せてしまう。

飼い主のお婆さんが何度も頭を下げていたのを思い出しつつ、ぺこぺこしながら杯を受けた。すると、居酒屋の主以外では漁師が似合いそうな店主が、うまそうな飴色のカサゴの煮つけと、綺麗に盛られた刺身をごとりと置いた。

「今日はお袋が悪かったなあ……賢彦センセイ。これ、サービスな」

ばつが悪そうに言った渋い面構えの大将はサクラちゃんの飼い主の息子さんだった。

「いいんですよ、お礼なら、汗だくになって走り回ってくれたこちらのお巡りさんに」

「いやあ、本当にありがとうございました。お袋はサクラが生き甲斐だってのに、きちんとしねえから……この暑い中、島中走らせちまって面目ねえ」

「気にしないで下さい。こんなご馳走が頂けるなら、何度でも走ります」

誠一の言葉に、大将は目尻に皺を寄せて笑った。怒らせると怖そうだが、笑った顔は何とも愛嬌のある男だった。

「達巳サンが言う通り、良いお巡りさんが来てくれてありがてえや」

ゆっくりしていってくれ、と言い残し、大将はカウンターの向こうへきびすを返した。

「……大将の松木まつきさん――まっさんはね、前のお巡りさんとは馬が合わなかったんです」

「え……それは初耳です」

「津田さん、少し神経質でしょう? 僕は彼とも此処に来ましたが、魚も苦手なものが多くて、大将は『大の男が魚も食えないとは何事だ!』って、怒り心頭だったんです」

当時を思い出すのか、笑いを堪えた様子で賢彦は言った。

「都会の人って、怒鳴られちゃうと弱いんですよね。自然と足が遠のくじゃないですか。そうすると、『気が小さい』とか、また気に入らなくて怒らせちゃうんです」

「津田さんは災難でしたね」

知らぬ同僚に同情しつつも、こんな旨いものが食えないのは可哀想だなと、誠一は思った。

「その点、大鳥さんは着任早々、大人気ですね。うちに来る飼い主さんたちも噂しています」

「恥ずかしいなあ……ろくな噂じゃないでしょう?」

「いえいえ。淑女の皆さんは挨拶されたがっていますし、ゆっちゃんのお婿さんにどうだって、そんな具合ですよ」

「僕のお陰で、柚子さんはご迷惑でしょうね」

どうかな、と賢彦は首を捻った。

「ゆっちゃんは幼馴染ですけど……淋くんのことで気を揉み過ぎなんです。もっと気楽にお付き合いできる人の方が、僕もいいなあと思っているのですが」

「それなら、三波先生こそ、適任なのでは?」

「はは、賢彦でいいですよ。イヤイヤ、僕はもう子供の頃から、ゆっちゃんには『変態』扱いされています。そう……たぶん、僕は死ぬまで動物第一なんでしょうねえ……第二以降で良しとしてくれる女性が現れれば、わかりませんが」

杯を呷る笑顔は男前だが、彼の信念は女性の前では『ヤバい』性質のもののようだ。まあ、確かに彼の働き方では、急患ではなくても、誕生日やクリスマスなど平気ですっぽかすだろう。

「そうそう、モモちゃんはどうしてます?」

「ええ、あの日から時々来ますよ。不思議な猫ですね……帰宅時間に合わせるみたいに来るんですが、今日のように遅くなったりする日は知っているみたいに来ないんです」

まるで、こちらを監視していたり、時計を見ているようだ。

賢彦は面白そうに頷いた。

「動物は、わりと正確な腹時計があるものですが……モモちゃんはそういう所は特に人間じみていますね。トイレなんかは大丈夫でしたか?」

「はい。完璧でしたよ。あらかじめ、何でも知っているような感じですね。あの猫」

「良かった。賢い子ですからね、何といってもあの種類は――」

酒の入った賢彦は、いっそう動物好きに火が点くらしい。この変態扱いされる医師はなかなか面白い人物で、何しろ人が良い。

嫌う者など居なさそうな男には、気付けば周囲のおやじ達が酌をしにやって来て、ついでのように『イイ男』扱いされた誠一も、勧められるまま酒が進む。

すっかり酔いが回る頃、まっさんが囃し立てられて何処かで聞いたような歌謡曲を歌い始める。手拍子に合の手に、わいのわいのと宴もたけなわ――それは明るく、温かい、いい夜だった。

――翌朝の事件を思えば、尚更。



 翌朝。

感覚は明け方だったが、うるさく鳴った電話を誠一は疎まし気に握った。

「はい……」

出た瞬間、きりっとした声が響いてきた。

〈おはよう、大鳥くん。早くからすまないね〉

「た……達巳さん……? お……おはようございます!」

飛び起きた様子が見えるかのように、電話の向こうで達巳は笑ったようだった。

〈焦らなくてもいい。いつもより二時間も早いから。申し訳ないが、急いで来てほしい。大変なことが起きた〉

「大変なこと……?」

今度は猫か小鳥でも居なくなったか、などと思っていた誠一を、達巳はひどく落ち着き払ってちゃぶ台をひっくり返すように答えた。

〈つい先ほど、新聞配達員が男の遺体を見つけたと通報があった〉

「い……遺体……!?」

そんな馬鹿な、とでも言いたげな部下の声に、達巳は静かに応じた。

〈漁港の傍の浜に打ち上げられていたそうだ。スーツを着た男だということしか聞いていないが……島民じゃないらしい〉

達巳との会話が終わるや否や、誠一は大急ぎで身支度を済ませた。

バシバシと叩くように顔を洗い、酒臭いかなと思いつつ、乱暴に歯を磨いてうがいをすると、帽子を被るのも、もどかしげに自転車に飛び乗った。

この手の場合、交番勤務は事件現場ではなく、周囲の警戒に当たるものだが、さすがに狭い土地ではそうもいかない。本島から担当者が来るまでは、現場に誰も入らぬようにしたり、目撃者や怪しい人物が居ないか警戒する必要が有る。

誠一が達巳と現場に向かう頃、朝が早い港は、既に大騒ぎだった。夏場の気の早い太陽が照らす海は、穏やかな波だったが、居合わせた人々の顔つきは不安と苦々しさに覆われていた。

遺体はとっくに救急車で運ばれたが、規制線のための黄色いテープを貼って行く中、いくつかの視線が妙に刺さる気がして、誠一は何となく落ち着かなかった。

「……誰かに何か言われても、相手をしなくていいよ」

達巳がそっと囁いて、誠一も察しがついた。

「――達巳さんよ、お宅のお若いの、何か心当たりねえのか?」

「やあ、おはようございます。いえいえ、彼は何も。さあ、担当刑事に挨拶に行こう」

にこにこと答える達巳に振り向かれて、誠一はかくかく頷いた。

背が視線で針山になる心地だったが、達巳は全ての声掛けに、選挙に出る候補者みたいな笑顔で応じて、この針地獄を通り抜けた。

「――君が余所者だから、警戒しているんだ」

横を歩きながら、達巳は静かに教えてくれた。

「……その様ですね」

「気が立っているだけだから、落ち着けば元に戻る。気にしては駄目だよ」

冷静な言葉に、誠一はやや青ざめつつ頷いた。

「そいつあ、どういう意味だ!!」

その落雷のような大声には、誠一は元より、達巳さえも思わず振り向いた。

昨夜の居酒屋の大将――松木こと、まっさんだ。

遅くまで仕事をしていたにも関わらず、彼は朝市に出ていたらしい。前任者が逃げ出したくなるのも頷けるほど、怒れる男は顔を真っ赤にして周囲をねめつけた。

「いいか! あのお巡りさんは昨日、うちのサクラを必死こいて探してくれた恩人だぞ! 昨夜も俺の店で飲んでたんだ! おかしな事言う奴は承知しねえからなッ!!」

口角泡を飛ばし、それはもう凄い剣幕なので、集まっていた人々は本当に雷に打たれた様に押し黙った。静まり返ると、まっさんは更に勢いを増し、周囲よりも明らかに低い目線から、ばつの悪そうな人々を叱り付けた。

「嘘だと思う奴は、賢彦センセイに聞いてみやがれ! それでも四の五の言う奴は、俺が相手になってやる!」

捨て台詞のように言い放つと、まっさんは瞠目していた誠一と達巳にぺこっと頭を下げ、クーラーボックスを肩に背負ってずんずんと去って行った。

「松木さんは……良い人ですね」

久方ぶりに胸に熱いものがこみ上げるのを感じながら誠一は呟いた。

「そうだね。良い人は良い人を好きになると思うよ」

達巳がにこにこ笑って誠一の肩を叩いた。不覚にも涙が出そうになって、慌てて鼻を啜った。



「達巳さん、ご無沙汰しております」

折目正しく挨拶した私服警官――いわゆる刑事は、達巳と同い年くらいの男だった。

既に周囲では忙しく鑑識が動き回り、警察犬も導入されている。島内にはパトカーが数台走り、動員された警察官が周辺捜査を始めていた。その中心で指揮を執っていたのは、いかにも機敏そうな男で、きちんと着込んだスーツでお辞儀をした姿も、どこか達巳と似ていた。階級的には圧倒的にこちらが頭を下げる筈なのだが、どうやら知り合いらしい。同じように丁寧なお辞儀をした達巳の手を、刑事はしかと握った。

「久しぶりにお会いできたのが、こんな事態で……」

「全くです。末永すえなが警部。痛ましいことです」

「警部はよして下さい」

末永と呼ばれた刑事は恥ずかしそうにはにかんだ。鋭い目をしているが、笑い皺が刻まれると、途端に穏やかな人物に見えた。

「僕は生涯、達巳さんの後輩ですよ」

「それでは貴方の部下に示しがつかない。警部らしい御振る舞いでお願いします」

優しい口調で言うと、達巳は誠一を前に呼んだ。

「うちのピンチヒッターで来てくれた大鳥誠一くんです。将来有望な好青年です」

そんな紹介をされるとは思わず、慌てて敬礼した誠一に、末永も美しい姿勢で挨拶した。

「達巳さんのお墨付きですか。これは頼もしい。末永すえなが 正平しょうへいと申します。どうぞ宜しく」

警察官としては素晴らしく良い名前の男が差し出す手を、誠一は緊張気味に握った。こんな男に慕われるとは、一体、達巳は何者なのだろう。

誠一の疑問を余所に、末永は目元をほころばせてから頷いた。

「達巳さん、今回の件……お心当たりはありますか?」

「いいえ。遺体を見ましたが、覚えのない男でした」

末永は頷いた。彼の目は、一変して鋭いものに変わっていた。

「検死しないことにはわかりませんが、腹を刺されたことによる失血死の可能性が高いです。……彼にも確認してもらいましょう」

言われるまま、差し出された遺体の写真に誠一も目を通す。黒か濃紺かのスーツを着た、三、四十代くらいの男だ。わき腹を刺されたのか、その付近だけシャツが薄茶色に染まっていたが、殆ど水に洗われたらしい。全身ずぶぬれで、白茶けた顔や服のあちこちに砂や細かな海藻が付着し、少しの間、海を漂った印象がある。仕事が出来そうな感はあるが目立った特徴は無く、何処にでも居そうな男だったが……ふと、誠一は既視感を覚えた。

「どうかしましたか?」

すかさず尋ねてくる末永の視線に慄きつつ、誠一は眉を寄せた。

「この人……何処かで見た気がします」

末永と達巳は驚いた様子だったが、二人は大きな声を立てたりはしなかった。顔を見合わせてから、誠一が記憶を辿るのを静かに見守る。

――何処だったか――スーツの男……そう、確か、スーツの人間が居ることに違和感を覚えたところ……

「……図書館……図書館で見た男に似ています。赴任した、すぐ後ぐらいに」

そうだ。初めて図書館を訪れた日だ。

あの日、館内に居たサラリーマン風の男だった。



 事情聴取に応じた淋は、至って物静かに応じた。

達巳が他の捜査を手伝いに向かった後、誠一は末永と共に図書館にやって来ていた。

淋はおとなしく、誠一をちらっと見たものの、何も言わなかった。

「よく覚えていませんけど、たぶん来ていました」

図書館の小さなロビーにある椅子に腰かけて、淋は写真を見ながら首を傾げた。

「でも、常連じゃないです」

「やはり、島の方ではないんですね?」

「島の人なら、俺より明日野さんの方が詳しいですよ」

明日野さんとは達巳のことだ。その通りなので、末永は頷いた。

「名前などは……わかりませんか?」

「いいえ。図書カードも発行していないと思います」

「ふむ……何か気付いたことはありませんか?」

淋はもう一度首を傾げたが、首を振った。

「特に何も。でも、読んでいた本ならわかります」

何気ないその言葉には、誠一も末永も腰を浮かせた。

「本当ですか」

「はい。滅多に読む人が居ない棚の本でしたから、合っていると思います。見ます?」

一も二も無く頷くと、淋に伴われて棚の奥に向かい、人が全く居ない区画で止まった。そこはちょうど、本棚の陰に隠れて、カウンターからも見づらいエリアだった。

「よく、こんな位置に居た人の手に取る本がわかりましたね?」

小声だが、末永の指摘めいた問い掛けに、淋は事もなげに言った。

「目立たないから、目立つんですよ、此処」

なるほど、そうかもしれない。他の本棚のように立っている人も無い分、此処に向かうだけでも、常駐スタッフは珍しいと思うのだろう。

そこは所謂『哲学』の書物が並ぶ棚だった。話題性のあるエッセイや自伝とは異なり、古代の思想を中心とした本が集まり、冊数も少ない。大学などの図書館では読まれるだろうが、小さな島ではコーナーそのものが潰れかかって見えた。

「これです」

細い指が迷いなく指さした文庫本を、末永は念のためハンカチで覆って引き抜いた。

『エピクロス 教説と手紙』

古代ギリシアの哲学者エピクロスの言葉を、彼の手紙などから引用して纏めたものらしい。誠一は聞いたこともない哲学者だが、本になっているということは著名な人物なのだろう。

末永が本をぱらぱらっと捲ると、一枚、白いメモ用紙が挟まっていた。

そこには、ボールペンで一言、書かれていた。


〈見つけた〉


「『見つけた』……」

末永は読み上げてから、難しい顔をした。誠一も怪訝な顔をした。

何を、誰が見つけたのだろう? そもそも……これは死んだ男のメモなのだろうか?メモにしては断片的で、誰かに宛てたメッセージにしては言葉足らずなのが不気味だった。寄贈された古本も多いだけに、全く無関係のメモである可能性もあるが、強いて言えば、黄ばんだページのわりに、メモは真新しい白だった。

「こちらをお借りしても宜しいですか」

問い掛けに、淋は神妙に頷いた。

「館長に断れば大丈夫だと思います。借りる人も居ないでしょうから」

「ご協力、ありがとうございます」

末永は一礼すると、靴音も品良く、カウンターの元へ向かった。

付き従おうとした誠一は、淋がニヤニヤしているのに気付いて足を止めた。

「……何笑ってるんだ?」

先程までのお行儀の良さは何処へやら、見咎められたことを気にしない様子で淋は口端を歪めた。

「容疑者くんも捜査するんだと思って」

ノンケくんから大鳥さん、大鳥さんから容疑者くんに格下げられて、如何に善良な人間でも顔をしかめるのは避けられなかった。

「……お前、失礼な話には耳が早いな」

「この町、狭いからね」

妖しく笑う男にうんざりした目を向けてから、誠一は末永の方へと歩き出した。いちいちイライラする男だと思ったが、その視線は、港で感じた針ではなかった。

そういえば、と誠一は立ち止まって振り向いた。

「……潮見くん、モモって猫は知ってるか?」

「淋でいいよ、容疑者くん」

知ってる、と微笑んだ青年は、少なくとも敵意は感じない。

「三波先生に聞いたんだが、そっちに行くことがあるって……」

「たまに来るよ。誰も来ないとき」

――誰も来ない時?

女かな、などと思いつつ、深入りしないことにして誠一は頷いた。

「そうか。今、俺が飼うていになってるんだ。何かあったら声を掛けて欲しい」

「ああ……あのピンクの首輪は、あんたのってことか」

得心がいったように淋は頷くと、特に何の感想も述べなかった。

「いいよ。連絡先書いて」

そう言ってエプロンのポケットから差し出されたのは図書カードと、スタイリッシュな黒と銀の綺麗なボールペンで、誠一は少し笑ってしまった。

「容疑者から、利用者になれって?」

「そういうこと」

言われるままに、手近な本を台に滑らかな書き心地のペンで書いて手渡すと、淋は受け取って、にこりとした。

「発行しておくよ。今は忙しそうだし、今度取りに来て」

誠一が素直に頷くと、淋はすぐ横をすっと先に通って行った。

「今日はモモ、そっちに帰ると思うよ」

横を通りながらふわっと言うと、淋は仕事に戻って行った。

引き寄せられるようにその背を追ってしまった誠一は、その先で……例の本を片手に手を上げた末永に気付いた。

「お待たせしました、大鳥さん。一度戻りましょう」



 淋の予告通り、自宅に戻った誠一をモモが待っていた。

――と、いうことは、今日は彼の家に誰か来ているのだろうか。

誰だろう……そう思ってから、誠一は疲れた様子で首を振った。

「何を気にしてるんだか。……な?」

モモは鳴きもせず、まん丸い目を見開き、誠一がドアを開けるのを静かに待っていた。開けてやると、さも当然のように入室し、やっぱり同じマットでぎしぎしと爪を研いだ。電気を点け、この調子ではすぐにボロボロになるだろうな、と思いながらマットを覗き込んで……誠一は首を捻った。

素っ気ないグレーのマットに、何やら細かい黒色のものが付着している。

「何だ……?」

砂か泥?と思ったが、いずれも乾けば白っぽくなる筈だ。指にとってよくよく見てみると、黒ではなく、濃い赤……

咄嗟に誠一は靴を放り出すようにモモの後を追っていた。

今にもソファに丸まろうとしていた当人を刺激しないように、静かに持ち上げてみて絶句した。両手足の裏に、乾ききった血がこびりついている。

ケガかと冷や汗が垂れたが、「ニャッ」と短く鳴いてぴょんと飛び上がり、見事に着地した本人が、異常のないことを証明した。心配そうに見る男に対し、何でもないですよと言わんばかりに伸びをしてソファに戻ると、毛繕いをして改めて丸まった。

誠一はモモを見つめたまま、微動だにできずに思案した。

不意に電話を手に取り、賢彦にかけた。

「はーい! もしもしー?」

教育番組のお兄さんのような応答に少々驚きつつ、誠一は申し訳なさそうに言った。

「賢彦先生……大鳥です。夜分にすみません」

彼は電話の向こうでにこっと笑った気がした。

「いえいえ。まっさんに聞きましたが、今日は災難でしたね」

「ああ、いえ……そのまっさんや達巳さんのお陰で、何ともないです」

「それは良かった。では、どうなさいました?」

モモの様子を説明すると、さすがは医者か、賢彦はすぐに誠一が言わんとすることに気付いたようだった。

「このこと、達巳さんには?」

「いいえ、まだ。俺は動物のことはからきしなので、先に先生のご意見を伺おうかと」

「わかりました。達巳さんにはすぐに連絡して下さい。大鳥さん、モモちゃんを連れ出せます? お貸ししたキャリーケースに入れられればいいですが、難しいならエサで釣るか、洗濯ネットに入れるかして、何とかうちの病院に連れて来てください」

車がいいですよ、と付け加え、ではまた後でと賢彦は電話を切った。

誠一が矢継ぎ早に達巳に電話を掛けると、こちらもすぐに出た上、二、三言で理解した。

「すぐに行くよ。三波クリニックで落ち合おう」

まったく頭の回転が速い人達だと感心しながら、誠一はモモの捕獲に踏み切った。

ウトウトしていたモモを難なくキャリーに収容すると、文句を言う猫を人の言葉で宥めながら、丸めた玄関マットと一緒に久しぶりに車に乗った。

嫌な予感は、的中だった。



 賢彦は弾丸を思わせるスピードで手際よくクリニックを開けると、不服そうに鳴くモモを宥めながら、全ての足を念入りに確かめた。

診ながらも、彼は誠一の話に耳を傾け、手元は魔法のようによく動く。

洗えば早いものだが、こびりついた血をピンセットで丁寧に剥がし、難しい部分は脱脂綿で綺麗に拭き取る。

水を得ると微かに鉄錆びた臭いがして、それが何であるのかを決定づけた。

「おつかれさま。すまないね、賢彦くん」

やって来た達巳は、ありがたいことに嫁と姑が持たせてくれたというおにぎりと、冷たい麦茶を持ってきてくれた。高校球児がかぶり付きそうな大きなおにぎりは、ほぐれていない焼鮭がごろりと入り、お手製だという梅干しや、昆布の佃煮は具だけ売り出しても良いと思う旨さだった。わざわざ煮出してから冷やした麦茶を啜って、やっと人心地ついた気分の誠一に、達巳は気の毒そうに微笑んだ。

「大鳥くんには、散々な一日になってしまったね」

苦笑したものの、明日野家の心づくしが何とか首を振らせてくれた。

「いや、助かりました……本当に美味しかったです」

今度お礼に伺います、と言うと、達巳はこのぐらいいいんだよとかぶりを振った。

「お義母さんは若い人の世話を焼くのが好きだから。君が美味しそうに食べてるところを動画に撮った方が喜ぶと思うよ」

まんざら冗談でも無さそうな言葉に笑っていると、モモがひょいと診察台から飛び降りた。そのままスタスタ行ってしまうのを追わずに、賢彦が腰を伸ばした。

「随分乾いてしまっているんですが……証拠になりますかね……」

シャーレに落とした血液の破片に苦笑しつつ、ゴミみたいですけど、と脱脂綿もジッパー付きのビニールに密封した。

「ありがとう、明日、末永くんが取りに来るまで預かるよ」

「末永警部はなんと仰ってましたか?」

「今にもすっ飛んで来そうだったが、どのみち鑑定しないことには不確定だからね……朝一でやって来ると思う。しかし、総動員で探し回ったのに、現場は何処にあったんだろうね?」

モモの足に付着していた血が、被害者のものだとすれば、少なくとも地上の何処かに血痕が有る筈――または、“有った”筈だ。

「見つかったのが午前ですから……現場が浜だった場合、夜の内に流れてしまいますね」

手袋を外しながらの賢彦の尤もな意見に、達巳は唸った。

「浜だとしたら……ビーチは考え難いね。あそこは散歩をする人も多いし、人目に付きやすい」

「ハンドレッド・ベイでしょうか?」

賢彦の言葉に、誠一はぎくりとした。

――……人殺しとか……しそうで……――柚子の言葉が甦る。

思えば、淋は事件を恐れる様子はなかった。あの本に関しても、捜査攪乱だとしたら……?

誠一が嫌な予感に捉われる中、達巳は顔をしかめつつも首を振った。

「図書館で目撃されていたし、浜だとしたら可能性はあるが……ハンドレッド・ベイが殺害現場だと、わざわざあそこで殺して、別の場所から海に落としたことになるね」

「あ、そうか。さすがは達巳さん」

「……どういう意味です……?」

合点のいった賢彦と、首を傾げる誠一を交互に見やり、達巳は肩をすくめた。

「褒められるほどじゃないよ。――大鳥くん、あの入り江はね、離岸流事件があったとされるが、それに呑まれるためにはかなり沖に出る必要があるんだ。浜で殺した男を海に流そうとしても、或いは殺された男がその付近から海に落ちたとしても、港まで運ばれていく筈がない。浮くほど軽いものならまだしも、大人の遺体では、いつまでもその場に浮かぶか沈むか、引き戻されてしまう。遺体が泳がない限りは」

達巳の見解に、誠一は心なしかほっとした。

左足の悪い淋では、仮に男を刺し殺せても、海に投げ入れ、流れのある場所まで押し出すのはほぼ不可能だ。

「……大鳥さん、達巳さんはね、明日野姉妹の為に九年前の事故を調べているんです」

賢彦が静かな声で囁くと、達巳はこらこらと片手を振った。

「大鳥くんを巻き込まないでくれ。あれは僕が気になっているだけだから」

「それは……例の『海隠し』が、事故ではないと思っていらっしゃるんですか?」

誠一の言葉に、達巳はふう、と溜息を吐いた。

「やれやれ……賢彦くんにもバレてしまったが……大鳥くんも察しが良い。……そうだよ。あの事故は、不可解なことが多すぎるんだ」

「不可解……?」

「事件が起きたのは三月。春間近とはいえ、体感は冬だ。そんな時、海の仕事をするわけでもない人達が、海水浴なんてしないだろう?」

「た、確かに……」

「それに、僕の妻……夏子の友人が事故の被害者に居るんだが、その女性は泳ぎの名手だったんだ」

「えっ……水泳選手みたいなことですか?」

「仕事にしてはいなかったが、幼い頃から色々な海で潜っていて、この島の近海が気に入って何度も来た人だよ。そんな人が、離岸流の対処法を知らず――海に流されると思うかい?」

子供や海に慣れていない人間ならばいざ知らず。にわかではない海好きに限って――確かにそれは妙だ。

「だから僕は島の海の流れを徹底的に調べた。ハンドレッド・ベイは真っ先に調べたよ。薬を飲んでの身投げでもなければ、あそこで溺れるとは思えない。まして、同時に四人も沖に運ばれるなんて、有り得ないんだ」

「では……何が……?」

「僕は、人為的なものと見ている。でも、どうしてなのか……手掛かりがことごとく見つからない。淋くんが話してくれれば有難いんだが、幼馴染のゆっちゃんや賢彦くんでも聞き出せていないんだ」

「……彼は、何かを隠している……と?」

達巳は頷いた。

「或いは……彼に話せない理由があるのかもしれない。例えば、誰かを庇っているとか……」

達巳の言葉の後を、賢彦が彼にしては厳しい表情で引き取った。

「……若しくは、脅迫されているか」



 百江の空気が不穏に動く夜――ハンドレッド・ベイに程近い場所には、ぽつんと建つ古い戸建てがあった。昔は周囲に何軒も連なっていたらしいが、今やその面影は無かった。観光関連も漁港の方へ移り、此処に残るのは、古めかしく、使い道に頭を悩ませるばかりの遺産と雑草だけだった。以前、小さな黄色い粒が集まったようなイソギクが咲いていた庭は、雑草が幅を利かせ、何が生えているのかもよくわからない。

大きな百日紅さるすべりの樹は残っていたが、家に暗い影を落とすばかりで、ピンクの花は地にこぼれ落ちて枯れ腐る。

真夜中、その陰に隠れるような家で、妖しい逢瀬があるなど、誰も知らなかった。

「やっぱお前イイなあ……淋……」

眼下の青年は、ちら、と目元を上げただけだった。太股の間に顔を埋め、反るものを咥え、舌を這わす。ちっとも興味が無さそうにしつつ、男の悦ばせ方など何もかも心得た手際で事は進んで行く。男のものを喉元まで口に含み、吐き出させた白濁色が美しい顔に掛かるのを疎ましげに拭う。それでいて、男の股座に散ったものは、ねっとりと舐め取った。

「……お前、少し変わったな。何かあったのか?」

「……なんにも」

舌で唇をちろりと舐めると、青年は口端を歪めた。男は値踏みするような目でそれを見つめ、眼前の白膚に触れ、撫で擦りながら、宥めるような声を上げた。

「なあ、こんな島じゃ勿体ねえよ。俺とよそで稼ごうぜ」

細い体を腕に引き寄せ、シーツに引き摺り下ろす。

「……イヤだね。何度も言ってるだろ」

すげなく断る顎を捉え、唇に唇をあてがうと、舌先拐って口内にむしゃぶりつく。

苦しそうに震えた瞼を見下ろしながら、太股を持ち上げ、本来入る筈のない場所に半ば無理やり押し入る。白い素肌がひくついて、曝した喉元が切ない呼吸に喘いだ。

「他に……誰と寝てんだ、お前?」

揶揄するような声に、青年は答えなかった。仰け反る唇から出るのは言葉ではなく、苦鳴と嬌声だった。男の方も犯しているつもりなのに、余裕はすぐに無くなった。締め付け、擦れ合い、情けなくも気を失いそうになる。熱と汗にまみれて、どろどろと絡んで縺れて……気が付くと、一糸纏わぬ青年が背を向けて座っていた。

艶かしく果てたにも関わらず、それは夢だとでも言うように、彼は平素と変わらぬ様子で振り向いた。

「起きたのか? 終わったんならさっさと帰れよ」

「……可愛くねえ奴」

「殺したい奴に可愛がられても嬉しくないね」

「そうかよ。商売上手がよく言いやがる」

気が変わったら言ってくれ、と付け加えて、男は服を身に付けると大人しく帰っていった。

青年は――裸身のまま、暗がりにぼんやりしていたが、面倒臭げに立ち上がると、左足をずるずると引っ張ってバスルームに入った。豪快に蛇口を捻り、冷水のシャワーに口を開けてどっさり浴びた。臭くて汚ないものが肌から、口から溢れ出て落ちていくが、冷たい水は容赦なく体を冷やす。温水が出ないわけではなかった。ただ、水に触れていたかった。身震いするまでそうしていると、名残惜しげに水を止め、石鹸を泡立てた。泡を肌に乗せていくと、赤い痕が見えて、不意にごしごしと擦った。

当然、更に皮膚は赤くなったが、気にも留めずに再び水を浴びる。猛暑の夏とはいえ、風邪を引くと解りつつ、すっかり冷えるまでそうしていた。

部屋に戻ると、乾きに飢えていたように水を飲んだ。

コップ二杯飲み干したところで、ついに腹まで冷えた。男臭い匂いが鼻につき、窓を開け放つ。生暖かい空気と闇が入り込むばかりで、少しも良くならなかったが、真っ暗な空にはおぼろな月が浮かび、遠くから波の音が聴こえる。

服を着ると、青年は窓を開けたまま、サンダルを引っ掛けて玄関を抜けていた。

正常な人間ならば、最も深い眠りの中に居る時刻だ。

道路の為の常夜灯だけがほどほどに光る道は暗く、それでいて車も来ない通りは、波音と虫の声のものだった。左足を引き摺って、ずる、ぺたり、と、あやかしのように歩く音と、近付く波音を聞きながら、その入り江にやって来た。

ハンドレッド・ベイは、人はおろか、動物も居ない。

この世ではないような黒ばかりの海からは、生ぬるい風が吹く。弱くも激しくもない飛沫を見つめ、淋はその淵によろめいた。

もう長いこと朝など来ていないような波打ち際、呑み込まれないかと誘う海水に両足を浸すと、引っ張る力に足元はふらついた。

――いっそ、呑み込んでくれ。

不意に堪らなくなって海水に屈み込むと、躊躇いなく掬いとって口に含んだ。天を向いた唇から滴が飛び散り、暴力的な苦さと塩辛さが押し寄せる。脳が命じるままに吐き捨てて咳込んで、ようやく……自分はまともに動いた気がした。

闇夜にひとり、笑った。

どうやら俺はまだ、人間らしい。

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