ハンドレッド・ベイ

sou

1.人魚

 若手の警察官である誠一せいいちが、この百江ももえ島・百江ももえ町に赴任することになったのは、何かやらかしたからでもなく、希望したわけでもなかった。

島に勤めていた一人が急遽、島を出ることになり、その代理に呼ばれたのだ。

しかも、当初は別の警官が行く予定だったのだが、彼の親が急病に倒れてしまい、

それならばと引き受けることになった――完全なピンチヒッターとして。

異例且つ突然という事情を踏まえ、一年を目途に、誠一はこのお達しを呑んだ。

ド田舎だが癒されるんじゃないか、などと前の上司は呑気に言っていたが、

いざやって来てみると、中途半端にのんびりした島だった。

既に夏休みが終わった頃とはいえ、観光に力を入れるわけでもなく、かといって過疎化のうらびれた雰囲気はそれほど感じない。本島との距離は近く、道路も鉄道も繋がっているが、島に入ると信号は殆ど無くなり、潮風と色濃い緑の香りがした。

勤務は明日からだが、ひと通り回ってみようと車を走らせていたときだった。

ふと、眼下に見えた入り江に、誠一は車を停めた。

低木や浜の植物にびっしり覆われた断崖絶壁の下にその入り江は沈むように在った。

すり鉢の底に水を溜めたような入り江だ。覗き込むと、申し訳程度の白い砂地が見える。海は岸壁に沿ってまあるい入り江を形作り、波はきらきらと穏やかだったが、浜からほんの数メートル先は深いのか、青が濃い。

下から吹き上げてくる風を受けながら、あまり見ない地形を何とはなしに眺めていると、ふと誠一は目を見開いた。

浜の端っこから、のろのろと砂を踏んでくる人物を見つけたからだ。

――おかしい。

確か、島で遊泳可能なビーチはひとつだ。先に通り過ぎてきた、子供も楽しめそうな可愛らしい浜辺を思い出しつつ、嫌な予感が胸を過った。

第一、あの人物は何処から現れた?

周囲は絶壁で、降りて行けるような場所は近くに無い。

下にトンネルでもあるのだろうか?

慌てて車に戻ると、地図を確かめ、ハンドルを握った。

どうやら、下に降りて行った先には島唯一の図書館があるらしく、そこから私有地を抜ければ辿り着けるらしい。

車を走らせながら誠一は緊張していた。勘違いなら良いが、先ほどの人物は海で働くようには見えなかった。手ぶらで、真夏の真昼に帽子さえ被っていなかった。

――まさか、入水自殺なのでは?

嫌な予感が胸を占める。

図書館は一見、それとわからない洋館だったが、看板が出ていた。

がらんとした駐車場に停めるのももどかしく、誠一は車を飛び出すと、さして効果も無さそうな『立ち入り禁止』の錆びた看板と鎖を飛び越えた。

頑丈そうなコンクリート・トンネルを抜けると、思っていたよりも美しい入り江が広がった。

波の音が間近で、空は遠いのに眩いそこに目を細め、誠一はハッとした。

先程の人物は、恐ろしい想像通りに海の中に腰まで浸かっていた。尚もざぶざぶと沖に進んでいこうとするのを見て、新任警官は芯から青くなった心地で走り出した。

赴任当日――否、それは明日からだが、とにかく冗談じゃない!

「――おい! やめろ!」

精一杯声を張り上げ、ジグザグに揺さぶられる海を掻き分けると、僅かに反応した腕を思い切り掴んだ。

振り向いた顔を見たとき、誠一は一瞬、あらゆることを忘れた。

ほんの少し、日差しに疎ましげな顔をした相手は、若い青年だった。

同い年かそこらと思われる顔立ちは驚くほど整い、肌は白く、西洋人の透明感すら感じる。光に照らされて茶が差す柔らかそうな黒髪が、ふわりと傾げた。

「……あんた、誰?」

何か用? そう尋ねてきた確かな男の肉声に、急に現実に引き戻された誠一は、呆けた表情を慌てて引き締めた。

「何か用だって? ……あんたこそ、着衣で海に入るなんて、何考えてるんだ?」

何の変哲もないシャツにジーンズ姿の青年は、改めて見ても海で生業を立てる人間には見えない。酒かドラッグでもやってはいまいかと怪しむが、色素の薄い目は訝し気な様子だが、狂気に濁ってはいなかった。

「……気分がいいからだよ。わかったら放してくれる?」

「何をバカな……泳ぐなら服を脱げばいいだろ? 着衣で泳いだら危険だって、学校で習わなかったのか?」

小さい子どもを叱る気分になりながら言ってやると、青年は悪怯れるどころか、意地が悪そうに唇を歪めた。

「俺に、服を脱げって?」

嘲るように笑った顔にぎくりとして誠一は手を放そうとしたが、青年はむしろ間合いを詰め、間近でせせら笑った。

「なんだ、迫ったくせに逃げんの?」

「せ、迫って……? あんた何言ってんだ? 俺は――」

てっきり自殺かと思って、と、誠一は言えなかった。波に揺られるように懐にゆらりと入り込んだ青年が、唇に食らい付いていたからだ。

冷たく柔らかいものが触れて、頭が真っ白になるのも束の間、すぐに離れた青年は興が削がれた顔をしていた。

「……つまんない奴」

一言呟くと、驚愕を顔に張り付かせたまま唇を押さえる誠一を放ったらかし、ゆらゆらと波に乗るように浜辺へと戻って行く。

――な、なんだ、こいつ……!

頭に血を上らせ、たっぷり数分は出遅れて、誠一はその背を追った。

「待てよ、お前……! 此処の住人か?」

「……そうだよ、ノンケのお節介くん」

面倒臭そうに肩越しに言うと、青年はしとどに濡れたシャツの裾を絞り、置いてあったサンダルを履くと、のろのろと歩き出した。

波の中ではわからなかったが、左足が悪いのか、僅かに砂もろとも引き摺っている。

「その足で……なんであんなこと――……」

取りすがるように追い付いて、「死ぬ気か」とようやく忠告できた誠一を、ひどく疎ましそうに青年は仰いだ。

「死なないよ」

「……あのな、いくら海に近いとこに住んでるからって……」

「俺は人魚だから」

あっけらかんと出たセリフに、今度こそ誠一は口を開けてフリーズした。

それを無表情に一瞥すると、どう見ても人間の足を、しかも一本は半ば引き摺りつつ、青年は歩いていく。

「人魚……?」

小さく呟いて、誠一は思い切りくしゃみをした。はしゃぎ気味の若者のようにびしょ濡れの自分と、浜に残された冷たい染み、海水に溺れて中まで砂まみれのスニーカーを見て、溜め息を吐く。

赴任早々、全くツいてない。

――しかも……

トンネルの向こうに、ふらりと消えていく背を睨む。

唇だけ妙に熱い気がしたが、吹いてきた風に季節外れの寒気がした。



 翌日、誠一は生あくびを噛み殺しつつ、出勤した。

慣れない土地というのもあるが、例の人魚野郎のせいで何だかもやもやと眠れなかったのだ。厳しい上司だったら見咎められそうだと思っていたが、その不安はすぐに解消された。

はじめまして、と頭を下げた上司は四十手前だが背が高く、都心のホテルで支配人でもしていそうな男だった。顔を上げて微笑んだ顔は見るからに優しくおおらかに見えて、見知らぬ地に来た若者を心底ほっとさせた。

明日野あすの 達巳たつみです。ようこそ、大鳥おおとりくん。若い人が来てくれて嬉しいよ」

本当に嬉しそうな笑顔なので、緊張していた誠一はつられるように笑った。

差し出された大きな手を握ると、ようやく仲間に会えた気がした。こじんまりとした交番は古いが綺麗に整頓されていたし、男臭い感じも無かった。達巳が喫煙家ではないのも有難いし、浅黒い島の男といった雰囲気ではないのも、余所者の青年の前途を明るく照らす。

そんな心を知ってか知らずか、達巳は席を勧めてから笑顔のまま口を開いた。

「実は僕も余所者出なんだ。初めの内は気疲れもあるかもしれないが、すぐに慣れる。困った事があれば何でも言ってくれ」

「はい、ありがとうございます」

安堵しながら、誠一は頷いた。上司が優しい味方なら、仮に島暮らしが大変でも、最小限のストレスで済みそうだ。

「仕事に関しては、若い君には物足りないかもしれないなあ……目立った事件など無いし、交通事故も少ない。ご高齢の皆さんの方が元気なくらいだしね」

困ったことは、署がちょっと暑いことかな、などと笑う達巳に、誠一はさりげなく尋ねた。

「島というと……海難事故などはありますか?」

「海難事故?」

聞き返されると思わず、誠一は目を瞬いた。

「はい……変なことを伺いましたか?」

「……いや。大事なことだ。そうだね、他所から人が来る観光シーズンには起きることもあるが……島民が海難事故に遭うことは、ほぼ無いよ。子供だけでも泳げるような、遠浅の狭いビーチがひとつあるだけだから」

ただ、と言い辛そうに達巳は語尾を濁した。

「ハンドレッド・ベイだけは、気を付けてくれ」

「ハンドレッド・ベイ?」

「小さな入り江なんだが、九年前、離岸流らしき海流によって、四人が行方不明になる事故が起きたことがあるんだ」

――さては、昨日の入り江か。

離岸流といえば、海水浴場でも起こる危険な水害である。

名前の通り、岸から離れていく流れ――つまり沖に向かっていく流れで、海岸に向けて打ち寄せた波が、沖へと戻ろうとするときに発生する強い流れのことだ。

風や地形など様々な条件によって発生し、その形態も様々。波の違いなどで見極めも可能だが、数時間で流れが変化することもあり、いざ泳いでいるとなかなか気付けない。巻き込まれると、岸に向かって泳いでも海に戻されるばかりで、岸と平行に泳ぐことが求められるが、知らずにパニックを起こした人間が亡くなるケースは、全国各地で起きている。

「もしかして、百江という名前は、その入り江からですか?」

「さあ……何故かは僕も知らない。この町で横文字が付いている地名は其処だけだし、逆かもしれないね。いずれにしても、急に深くなる危険な場所だ。用が無ければ近寄らない方が良いよ」

「わかりました……」

頷いたが、腑に落ちない顔つきの青年に達巳は首を捻った。

「どうかしたのかい?」

「……はい、あの……実は昨日、その入り江で変わった男と会ったもので……」

「男?」

「はい。僕と同世代くらいの若い男です。色白で、何と言いますか……垢抜けた感じの……」

ああ、と、すぐに達巳は頷いた。

「それはきっと、りんくんだろう」

「淋?」

潮見しおみ 淋くん。義理の妹と同級生だから君とも同い年だ。そうか、彼に会ったのか」

「はい……服のまま海に入っていくのを見て、入水自殺かと思って焦りまして」

達巳は苦笑を浮かべて頷いた。

「それは災難だったね。彼は変わった男だからなあ……入り江に行く途中に、西洋建築風の図書館があったろう? あそこに勤めているんだけど、ハンドレッド・ベイには毎日のように通っているようだ」

「毎日ですか」

目的は無く、ただ海を眺めてぼんやりしているという。

達巳によると、あの場所は例の離岸流で四人が行方不明になった以外にも、過去に人が居なくなる事件があったらしい。

「昔から住む人は、『海隠し』と呼んでいるそうだ」

海隠し――神隠しにちなんだものか。

今も行方不明者の手掛かりは無いため、島民はあたかも海が攫って行ったと囁く、曰く付きの場所だという。

「遊泳禁止だし、私有地なんだけどね。淋くんに関しては、皆言いづらいんだ」

「どうしてですか?」

「彼も、離岸流事故の行方不明者だったんだよ」

「えっ!」

では、唯一の生還者ということか。

「彼は事故の事は殆ど記憶に無いらしいけど、それでも……お母さんが一緒に巻き込まれているから、皆、気の毒に思っていてね。入水自殺に及んだことはない筈だが……さては、君にも不思議なことを言ったかい?」

「はあ……『自分は人魚だから死なない』と言われました」

「やっぱりそうか。一人帰って来たからなのかなあ……でも、何もなくて良かったよ」

「そうでしたか……いえ、勝手に立ち入って申し訳ありませんでした」

「気にすることはないさ。私有地というのも、今では誰の物かわからなくて、便宜上、町がおざなりの管理をしているだけだから。それに、僕は君が人を見過ごさない人物だとわかって喜ばしい」

穏やかに微笑む上司に、誠一は照れ臭そうに頭を掻いた。

「淋くんは難しい性格だけど、悪い男ではないんだ。良ければまた声を掛けてあげてくれないか。うちの義妹も幼馴染で手を焼いているが、男同士の方がいいこともあると思う」

男同士、という言葉にぎくりとして口元に手をやりそうになるが、慌ててぎゅっと拳を握った。よほど面倒見の良さそうな上司に、誠一はともかく頷いた。

あの偏屈な感じは、良し悪しの問題ではなさそうに思えたが。



 その夜の夕飯、誠一は明日野家に招かれた。

達巳の妻の夏子なつこは、入り婿の夫と似た笑顔を持つ、おとなしそうで物柔らかな女性だった。妊娠中だということで、お腹がほんの少しふっくらしている。一方、その妹だという柚子ゆうこは、見ただけでわかるほど明るく、笑顔も眩しい。どちらも薄化粧でシンプルな服を好むらしく、華やかではないが、ぱっちりした目元など、飾らずとも十分可愛らしい姉妹だった。

「タマばあちゃん、お客さんよ。新しいおまわりさん」

柚子の声に、居間の座椅子に座っていた老婆は、しわくちゃの顔に更に皺を寄せて体を揺らした。

「どうもォ、ようお越しくださいましたァ……」

「はじめまして……大鳥と申します」

老婆はにこにこと頷いたが、その視線は目の前に居ながらにして遠い。大切なものなのか、骨ばった手にしっかりと古ぼけた巾着を握り締めている。柚子が誠一について一言、二言話し掛けるが、頷きつつも、話の殆どは理解していないようだった。

「アルツハイマー性認知症なんです。耳も遠くて」

付き合わせてすみません、と祖母から離れて柚子は言った。

「謝ることないですよ。穏やかそうな方で羨ましいです」

「そうですか?」

「はい。僕の祖母は頑固で激しい人だったので。病院や薬が嫌いで、母は手を焼いていました」

誠一の言葉に、柚子は血の繋がりを思わせる笑顔を見せた。

「ああ見えて、タマばあちゃんもそういうところありますよ。若い頃は柄の悪い男の人に啖呵切ったこともあるそうだし、お母さんは悪さをしたら定規でひっぱたかれた事もあるって」

「それは凄い」

笑い合っていると、夏子が料理を丁寧に持ってきた。彼女はハキハキした柚子に比べると、動作もゆったりしていた。

「楽しそうねえ」

その言葉に、柚子は呆れたような笑みを浮かべた。

「夏姉ちゃん、またからかうつもりね?」

「仕方ないよ、ゆっちゃん」

苦笑混じりに答えたのは達巳だ。彼は入婿だからなのか、妻が妊娠中だからか、偉そうに座っていることもなく、自ら配膳をしていた。

「ゆっちゃんは男友達ばっかりなのに、全然いい話が無いんだから」

「達兄さんもそればっかり。初対面の人なのに、失礼よ」

「いや、失礼というなら僕の方が――」

「まあ、確かに大鳥くんにも選ぶ権利があるな」

「失礼ね!」

一同は笑いに包まれた。

やがて柚子らの母親である季実子きみこが料理を捧げ持ち、花柄のエプロンを着けたまま台所から戻ってきた。顔立ちは娘らよりもふっくらしていて、見るからによく働きそうな人だった。挨拶は畳に三つ指つけての丁寧なもので、誠一も正座したまま緊張気味に頭を下げた。

「ハンサムねえ。お父ちゃんの若い頃を思い出しちゃうわ」

食事を勧めながら出たセリフに、とんでもないと誠一は手を振った。

この家では彼女の夫は既に他界しており、タマの夫も亡くなって久しいという。唯一の男子である達巳は、手ずから誠一にビールを注ぎながら面白そうに笑った。

「大鳥くんは、お義父さんに似てるんですか?」

「いいえ、お母ちゃんは若くてカッコいい人は皆、お父ちゃん似って言うの。安心してね、大鳥さん。お父ちゃんより、ずっとハンサムだから」

夏子の苦笑いに、季実子もとぼけた様子で笑った。

「誰でもじゃないわよ、なっちゃん。淋ちゃんだけは、お父ちゃんも敵わん王子様だわあ」

「淋ちゃん……て、潮見くんですか?」

「あら、もう会ったの? さすが、淋ちゃんは目立つものねえ」

仲良くしてあげて、と季実子は母親のように言った。

「あの子、海隠しでお母ちゃんが行方不明なのよ……赤ちゃんの頃に母子で島に来たんだけど、お父ちゃんは離婚しちゃってるらしいし、他に親戚も居ないそうで。二年前にせっかく戻って来たのに、何だか静かになっちゃってねえ……」

「達巳さんから伺いました……お気の毒なことです」

ありふれた同情だが、同調しただけでも季実子は嬉しそうだった。

「ゆっちゃんと淋ちゃんが結婚するのもいいけど、おばちゃん、誠一くん推しにしようかしら」

「お母ちゃんたら……失礼だって言ってるでしょ、まったくもう!」

頬を染めて声を上げる柚子は、赤ん坊が癇癪を起こしているようで可愛らしく、誠一もつい笑ってしまった。温かくて旨い飯に箸をつけ、明るい家だな、と思う。

既に身近な故人が二人居て、居間には仏壇がどんと構えているにも関わらず、明日野家は長閑のどかで朗らかだった。心なしか、良い顔をしている故人の写真さえも、いきなり冗談を喋り始めそうな感じがする。

「実際、誠一さんはいい人は居ないの?」

夏子はさりげなくテーブルの上に気を配りながら、尋ねた。

「残念ながら。それも原因で、急な人事異動に白羽の矢が立ちました」

「可哀想に。僕も似たようなものだけど」

苦笑いを浮かべる達巳は酒豪らしく、飲んでも顔色や口調が全く変わらなかった。

「達巳さんも、急な人事だったんですか?」

「そんなところだよ。おかげで嫁はもらえた」

おどける夫に「よく言うわ」と笑いながら、夏子は気遣うように身を屈めた。

「若い人には、つまらないところでしょう?」

「いえ、赴任してきて良かったです。おかげでご馳走にありつけましたから」

お世辞ではなく、本当に料理は美味しかった。素朴で家庭的だし、煮物の芋なんかがちょっと崩れたりしているのも、母のそれに似ていてなんだか良かった。季実子が嬉しそうに手を叩いた。

「お上手ねえ。でも嬉しいわ! どんどん食べて!」



 いつでも来てね、と見送られて、誠一はほろ酔い気分で暗い通りを帰宅した。

下戸げこだった柚子が送りましょうかと申し出たが、丁重に断った。

自分が多少の酒には溺れないと自負していても、酔った時の間違いはいくらでも起こり得る。美人であれば尚更だ。

夜になると、人の気配よりも自然の気配が強い。現に、人も車も通らぬ道は、街灯よりも遥かに月が明るく、風に運ばれてくるように、波の音と、虫や草木がざわめく音が聴こえてきた。夜になってもむっとした空気に全てが混ざり合うそれは、濃密なひとつの生き物のようだ。

誠一が越した場所は、住宅街が多い場所から少し離れて点在していた。

もともと、そうした家は多いようだが、その家は都会人が造って手放した別荘だと説明された。言われてみて納得したが、家というよりもペンションの気が強く、一階のみの小さな平屋の窓は大きく、一段上がった周囲をぐるりと焦げ茶色の木製ベランダが取り囲み、片側だけ十人程度は乗れそうなウッドデッキがくっついている。

ベランダの為か、屋根はやたらと大きくせり出し、平べったい三角形の帽子をかぶっている感じだった。

地獄と聞いた草むしりをいつやろうかと思いながら、既に古ぼけた短い階段を上がり、玄関に向いた瞬間、誠一は固まった。

「え……?」

小さな何かが、玄関前に座っていた。

一瞬、別の生き物のように見えてどきりとしたが、猫だ。

しなりとした体付きの猫は、黒と茶トラの斑模様で、ぴんとした耳と微かに光を吸い込むまんまるい目がこちらを見つめていた。

「野良か……?」

暗がりで見えにくいが、首輪は無い。近付いてみても、猫は微動だにせず、玄関の前に居る。猫が居ること自体は不思議ではないが、こんなに動じないのも珍しい。その上、隣に立っても逃げるどころか、戸が開くのを待っているかのようにこちらを見上げてくる。

「……まさか、津田つださんの猫じゃないよな?」

会ってもいない前任者の名前を呟きつつ鍵を開けると、案の定、猫はするりと中に入ってきた。あまりにも堂々としているので怒る気も湧かず、猫がどうするのか眺めていると、前任者が置いていったグレーの玄関マットの上でザクザクと爪を研いだ。

しばし、手足を拭くようにその場をうろつくと、尾を立てた状態で当たり前のように奥へと入る。もうその頃には、誠一はこの猫がどうするかの方が気になり、追い出そうとは思わなかった。蛍光灯の下で見ると、猫は更に風変わりな模様に見えた。

茶トラと黒の他に、光の加減で赤みのある茶色が見える。明るい場所で見た目玉は金色で、薄暗くなると瞳孔が開き、黒目になるとなかなか愛らしい。

てっきり何か欲しがるかと思ったが、猫は一言も話さずに、別荘時代のソファに座ると、そのまま足元を整えるように回転してから、丸まって眠ってしまった。

「豪気なやつだなあ……」

面白い半分、諦め半分を溜め息混じりに言うと、今夜は放っておくことに決めた。

猫はそんな気持ちも知っているかのように、非常におとなしく眠り続けた。



「それはモモじゃないかな」

達巳が首を捻りつつ言ったのは、あのきりりとした容貌の猫には、少々似合わない名前だった。翌朝、室内で粗相をすることもなく、誠一が出勤すると同時に出ていった猫の話をした時である。

「何て言うんだったかなあ、その黒と茶が混じった柄。うちの女性陣は詳しいと思うんだが……」

「形容し難い模様ですよね。顔は可愛かったですけど、最初は驚きましたよ。津田さんが飼ってたんですか?」

「いいや、津田くんと猫の話はしなかったなあ。彼の部屋、きちんとしてたろ。ちょっと潔癖症気味だったから、ペットは無理じゃないかな」

確かに、そのお陰で誠一の引っ越しは、実にスムーズに進んだのだが。

「……ということは、餌をあげたわけでもありませんよね? 何処の猫なんです?」

「モモは野良の筈だよ。名前も、百江のモモで、ゆっちゃんが呼び始めたんだ。いつだったか……ふらっと見かけるようになってね。避妊処置されているから飼い猫だったんだろうけど、居着かない子で。うちで飼っても良かったんだが、お気に召さなかったようで、戻って来ないんだ」

達巳は言葉を切ると、顎を撫でた。

「そういえば、倉庫にトイレや何かをしまっていた気がするな。持ってこようか? 粗相をされても困るだろ」

「助かります。正直、昨夜も少々不安でした」

「賢い子だから大丈夫だと思うけどね。それにしても、家に入ってくるなんてねえ。良い男が来たと思ったのかもしれないな」

猫のお眼鏡に適うとは妙な気分だったが、まあ、動物は嫌いではないし、実家にも猫が居るので、邪険にするのは寝覚めが悪い。

「この島、動物病院はあるんですか?」

「ああ、一軒だけあるよ」

「家に入れるなら一応、診てもらおうと思うんですが」

「そうか。三波みなみ動物クリニックというが、医師の賢彦たかひこくんは事情を話せば喜んで診てくれるはず。或いは……診る必要がないかもしれないよ」

達巳の笑顔に、不思議そうにしつつも、誠一はパトロールついでに訪ねることにした。三波動物クリニックは、島の中でも見晴らしの良い立地に建っていた。

小ぶりで清潔感のある白い建物は、正面に大きなガラス窓が有り、温かな雰囲気の木製の室内がよく見えた。中に入ると、柔らかな暖色系の光の下、過ごしやすい気温が保たれ、空気清浄機まで動いている。微かに動物の匂いがするものの、掃除の行き届いた空間は綺麗だった。ご丁寧にティッシュやペットシートなんかも用意されていて、受付にはリードフックも備わっていた。

診察中なのか、客は見当たらない。

「こんにちはー」

声を掛ける前に軽やかな挨拶と共に奥から出てきた若い女性は、誠一を見ると目を瞬かせ、付けていたマスクを少し下ろした。

「……何かありました?」

看護士だろう、淡い水色の制服を纏い、髪を後ろでひっつめていた女性は心配そうに眉を潜めた。警察官が入ってくると決まって起きる反応に、誠一は慌てて手を振る。

「あ、いえ……ちょっと野良猫のことで、三波先生に伺いたいことが……」

「野良猫?」

「モモって呼ばれてる猫なんですけど」

「あ、モモちゃん?」

腑に落ちた様子で女性は言うと、やはり細い眉を寄せた。

「あの子、何かしましたか?」

「いえ、そうではなく……」

言い掛けたところで、奥の扉が開いた。

「はーい、お大事にー! またねーサクラちゃん!」

元気だが落ち着いた声音が響くと、お婆さんが柴犬と思しき犬を連れて出てきた。

「すみません、ちょっと待って下さい」

女性は誠一に断ると、手元のパソコンを操作し、お婆さんを呼ぶ。親しげに会話をしながら会計を済ませると、跳ねるように元気よくリードを引っ張る犬と飼い主に笑顔で手を振った。

ドアが閉まると、彼女は誠一を振り返った。

「お待たせしました。先生、呼んできますね」

ぺこりと頭を下げるが、当の人物は既に顔を覗かせていた。

「おや……達巳さんとこの、新しいお巡りさん?」

にこやかに出てきた先生とやらは、思ったより若い男だった。

人間の病院で見るような白衣ではなく、看護士寄りのぴたっとしたブルーの制服を着ている。背が高く、制服を着ていなければスポーツマンだと思うような体型と髪型は、女性に人気がありそうだった。

誠一が型にはまったお辞儀をすると、男は爽やかに微笑んだ。

「大鳥さんでしょ? 良い名前だと思ってたんだ。此処で獣医をしてる三波みなみ 賢彦たかひこです」

差し出される手を握ると、温かく、やはりしっかりした手だった。腕まくりしたそこには、様々なひっかき傷が見える。

「お仕事中、すみません」

「いえいえ、ちょうど空いたところだし。何のご用でした?」

「先生、モモちゃんのことでお見えになったそうです」

それまで黙していた看護士が声を掛けると、賢彦は首を傾げた。

「モモちゃんなら、まだ裏庭で寝てないかな?」

達巳が言う通りだった。誠一が事と次第を説明すると、賢彦は面白そうに笑った。

「それはそれは。さほど若くないですし、飼って頂けたら僕も安心です――菜々ななちゃん、患者さん来たら呼んでくれる?」

陽気に言い残すと、誠一を裏口へと伴った。

「しかし、驚きました。あのモモちゃんが自分から入れて欲しいと言うなんてね」

正確には言われていないが、そうかもしれないと思いながら、誠一は裏庭とやらに連れられた。

クリニックの裏手は、フェンスに囲われた小さなドッグランと、囲いのない場所にシマトネリコの大木をくるりと囲む丸いベンチがあった。強い日差しが柔らかい木漏れ日になって落ちるそこに丸まっていたのは、紛れもなく昨夜の猫だった。

「やっぱり、あの子ですか」

賢彦は誠一の顔を見て笑いかけた。

「はい。珍しい柄なのでそうだと思います」

び猫っていうんですよ。僕はあんまり好きじゃない名前ですけどね。可愛くなくて」

「確かに……愛嬌があるのに錆びというのはセンスがないですね」

同意したからか、賢彦は嬉しそうに頷いた。

「そうでしょう。あの種類の子は賢くて、すらっとしてるのに丸顔で、とても可愛いんです。海外ではべっ甲を意味するトーティシェルって呼ぶんですよ。光に毛が赤く光るでしょう? そっちの方が優雅ですよねえ」

獣医だから当然なのだろうが、賢彦は本当に動物が好きな男らしい。彼は島で唯一の動物病院にして唯一の医師だけに、殆ど常勤状態だという。そんなにペットが居るのかと思ったが、ペットのみならず、野良猫を初め、野鳥や海洋生物に至るまで、来るもの拒まずなのだという。

簡単にできることではないと感心した誠一に、彼はにこりと微笑んだ。

「光栄なことです」

モモを眺めながら、賢彦は幸福そうに言った。

「本に出てくるお医者さんに、ずっと憧れていましたから。彼のように世界を旅する程ではありませんが……僕が動物たちの助けになれるなら、こんな嬉しいことはありません」

「良いお医者さんがいて、この島の動物は幸せですね」

賢彦は照れ臭そうに笑うと、モモの体調を説明してくれた。達巳が言った通り、避妊処置はどこかで済ませてあった猫だという。此処には毎日のようにやって来て食事をもらい、昼寝をし、夜はどこかに去っていくらしい。

「晩ご飯は色々な家でもらっているようです。量にもよりますが、猫は一日に二回か三回の食事が普通ですね」

トイレもこのクリニックで済ませるため、飼い猫暮らしが長かったのではと賢彦は言った。

「猫には多いタイプですが、モモちゃんは特に人の少ない静かな所が好きみたいですね。此処以外だと、図書館周辺もよく居ますよ」

「図書館ですか」

またしても、例の王子様を思い出した。

すると、その心を読むように賢彦が手を打った。

「ああ、そうだ。夜は淋くんのところに居るのかもしれない。図書館のスタッフなんですが……僕が知る上で、彼とは相性が良いみたいです。女の子だから、お二人のようなイケメンが好きなのかもしれませんね」

やはり出てきた名前に何となく戸惑いつつ、誠一は苦笑いと共に首を振った。

あの青年をイケメンと言うなら自分は裸足で逃げる他無いし、目の前の賢彦医師もタイプは違えど、かなりハンサムな男だ。高齢者が多い島だが、いざ若者となると、麗しい外見の人物が多いように思える。明日野姉妹もそうだが、先ほど会った看護士も綺麗な顔立ちだった。

賢彦は時計を確認して、にっこり笑った。

「お仕事中にお引き留めしてすみません。僕もそろそろ次の患者が来る時間です。宜しければ、後でモモちゃんに首輪を見繕いましょう。何か問題があれば診ますから、遠慮なくいらして下さい」

今更、飼わないとも言い出せず、誠一は流れに従うように頷いた。

まあ、おとなしい猫のようだし、エサ代に困るほど逼迫してもいない。

他人の迷惑にならないのなら、ただ自由にさせてやれば良いだけだ。自分の身の振り方を知ってか知らずか、猫は耳をぴくつかせてから、ちらっとこちらを見ると、あくびをしてから再び丸まった。



 クリニックを出て、交番の方へ戻る途中、買物袋をぶら下げて歩いてくる女性と鉢合わせた。気が付いて自転車を降りると、相手はもう気が付いていた。

「こんにちは、大鳥さん」

柚子だった。

厳しい残暑の暑さが身に染みる午後一、彼女はつばの広い帽子をかぶり、キャメル色のワンピースを着て、シャワーを浴びた直後のような涼やかな顔だった。

島の外で事務員をしていると聞いたが、今日は休みらしい。

「お巡りさんと、大鳥さんて似てるわ」

変なことを指摘する彼女に、確かにと誠一が答えると柚子はくすくす笑った。

「大鳥さんはいい人ですね」

「とんでもない。普通ですよ」

「いいえ。全然否定しないもの」

適当に合わせていると思われたかなと反省したが、柚子は素直にそう言っただけらしい。

「淋に見習わせたいです」

“確かに”とよく知りもせずに思ってしまったが、さすがにそれは口に出さずに留めた。

「幼馴染と伺いましたが、彼、貴方にも気難しいんですか」

「とっても。もともと皮肉っぽい性格ですけど、二年前に戻ってきてからは擦れちゃったって言うのかな……変な癖まで付いてて」

「変な癖?」

「ハンドレッド・ベイにしょっちゅう行くし、真夜中に出歩いたり、水を沢山飲んだり……」

柚子の溜息混じりの声を聞きながら、「自分は人魚だ」というセリフを思い出し――口付けられた感触が甦って、微かに眉を寄せてしまう。柚子は何も気付かぬ様子で困り顔を浮かべると、さりげなく木陰に手招いた。

「大鳥さん、お母ちゃんじゃないですけど……淋のこと、たまに見てやってくれませんか」

「何か気になることでも?」

「私……彼がおかしなことをしないか、気になってるんです」

「おかしなこと……と、仰いますと?」

「犯罪になるようなこと」

柚子の穏やかならぬセリフが、木陰で尚強い日差しにジリジリと焼けた。

「犯罪? 自殺ではなくて……ですか?」

出会い方が入水自殺に見えてしまった故の質問に、柚子は小さく頷いた。

「それも心配ですけど……リストカットとか、飛び込みはしていないから、無いと思います」

ずばり出た単語に些か辟易しつつも、では何が不安なのかと聞き直す。柚子は辺りをはばかるように声を潜めて言った。

「……人殺しとか……しそうで」

「えっ!」

本当に穏やかならぬ響きに、誠一は声を上げた。

「……私がこんなこと言ったなんて、淋や達兄さんには言わないで下さいね?」

「それは構いませんが……何でまた? 刃物を持ってうろついてるんですか?」

「まさか。そんなことしてたら、とっくに達兄さんに言ってます」

では何故と食い下がる誠一に、柚子はきっぱり言った。

「勘です。幼馴染の」

「か、勘ですか……?」

「あ、バカにしてます?」

慌てて首を振ったが、信じてもらえたかは怪しかった。

「淋は、戻って来る前に、良くない人達と付き合っていたみたいなんです。だからその……淋が、というよりも、その人たちに脅されたりするんじゃないかって。淋は聞いても、何も教えてくれないし……何でもはぐらかそうとするし……」

「……そうですか」

達巳は何でも真摯に聞いてくれそうだが、幼馴染の勘ぐらいでは相談しづらいものらしい。尤も、誠一も注意ぐらいは払えるが、踏み入った監視や調査が難しいのは同じことだ。

「……私や達兄さんが見張るとあからさまでしょう? 大鳥さんの方が目立たないと思うんです」

違う意味で警戒されそうだが、犯罪などという言葉が飛び出すとなると、彼女が無茶をする方が心配だった。何となく、達巳はこの義妹の不安には気付いていると思ったが、誠一は頷いた。

「わかりました。気を付けます。その……怪しいお付き合いの相手は此処にも来るんですか?」

「はい。時々、図書館にも来てる登藤とうどうって男です。苗字しか知りませんが……島の人じゃないから、他の人もわかると思いますよ」

柚子の言葉に、自分はなかなか歓迎された方だと誠一は自覚した。人を疑う職業柄や不祥事が大々的に報道されるため、嫌われることも多いのだが……達巳の人柄が良いからかもしれない。

「ありがとう、大鳥さん」

まだ何もしていないが、柚子は丁寧に頭を下げた。

「淋のことで真剣に話を聞いてくれたのは、あなたが初めてです」

「いや、そんな……明日野さんのお宅では、皆さん何でも聞いてくれそうじゃないですか?」

「いいえ。結婚の相談なら喜んで聞くでしょうけどね」

悪戯っぽく笑った柚子は、お仕事中にすみません、と、もう一度頭を下げて去っていった。

暑さの中だというのに、裾を翻した彼女は、やはりとても爽やかに見えた。



 夕方、手が空いたのを見計らい、誠一は図書館に赴いてみた。

最初に来たときはゆっくり見る間もなかったが、とても小さな施設で、図書館というより、学校の図書室ぐらいのサイズ感だ。

古い洋館を改築したというそこは、白壁に焦げ茶色の柱や梁が露出し、再利用したという木材による本棚が、使い込まれた色で大小様々並んでいる。詰め込まれた本も寄付や古本が殆どらしく、黄ばんだり掠れた背表紙のものも多かった。

細長い出窓や、真鍮のシェードランプが仄かに輝き、据えられた椅子も古めかしく、大抵はギシギシと音を立てるようだが、どこかノスタルジックな雰囲気は悪くない。

思ったよりも来館者は多く、島民と思しき高齢者や子供の他に、観光客らしき女性の二人連れや、自転車のヘルメットを持った若者、仕事上がりのサラリーマンのような人まで居る。明日野家によれば、淋が勤めて以降、利用者は異様に増えたらしい。

彼は、すぐに見つかった。

前に会った時のような、シンプルな白シャツとジーンズ姿だが、今日は黒いエプロンをして、返却された本を籠盛りにして、元の場所に戻していた。誠一よりもやや低い身長とはいえ、見上げる本棚の上段に何なく届く程度にすらりとしている。細く綺麗な指が、迷いなく本を取っては、音も滑らかに棚へと差し込んでいく。

「……なんか用?」

つい、眺めてしまっていた誠一に、振り向きもせず、淋はぶっきらぼうに言った。

初対面でも思ったが、彼は美男のわりに口調は粗野だ。いや、顔が異様に綺麗だから、悪態が鼻につくのかもしれないが。

「別に、用は無い」

まるで言い訳か、虚勢を張るような声になってしまったが、淋は誠一をちらと見て、手元に視線を戻した。

「大鳥サン、暇なの?」

目を本と棚に向けたまま、淋は静かに言った。

「えっ……何処で俺の名前――……」

「俺はゆず子に聞いたけど、あんたもう有名人だよ」

ゆず子とは、柚子のことか。

たった一日で有名とは、思った以上に島とは狭い社会らしい。

「……君ほどじゃないと思う」

言い返すみたいに答えてしまい、自分でも変だなと思っていると、淋は口端だけニヤっと笑った。

何だよと胸中に舌打ちする中、淋はすれ違い様に囁いた。

「……大鳥サン、キスはヘタクソだけど、喋り方は面白いね」

慌てて振り向いた自分は、顔が赤かったかもしれない。

肩越しにこちらの表情を楽しんだ様子で、美青年は左足を引き摺りながら、カウンターへと戻って行った。そこでは小さな子供が、抱える程の大判の絵本と待っていた。彼は颯爽とその向かいに行くと、腰を屈め、差し出す小さな手から、両手で本と貸出用のカードを受け取った。椅子に腰掛けず、本に貼られたバーコードを素早く読み取り、パソコンのキーを叩く。手際良く処理を終えると、おとなしく待っていた子供に優しい顔で手渡した。子供が嬉しそうに手を振ると、如何にも好青年といった風に片手を上げ、小走りに去る背を見送った。

一部始終を眺めていた誠一は不思議な気分になっていた。

――どうやら、思っていた男と、少し違うらしい。

「あら、誠一くんじゃないの」

からりとした声に振り向くと、季実子だった。片手にどんな本も入りそうなトートバッグを提げ、にっこり笑っている。

「あ、こんにちは……先日は、御馳走様でした」

弾かれたように頭を下げた誠一に、季実子はかぶりを振ったようだった。

「まあまあ、ご丁寧に。いいのよ、いつでも大歓迎なんだから」

図書館だからか、自宅の時よりも小声で品良く応えた季実子は、ふくよかな頬をほころばせた。

「誠一くんも、読書?」

「いや、まあ……見学のようなものです」

「ふふ、おばちゃんも読書と言いたいところだけど、淋ちゃんのファンなの」

そういう人多いのよ、と言いながら、彼女は婦人向けの月刊誌を手に、淋がカウンターで応対するのを嬉しそうに眺めた。彼は先程から次々とやって来る客を静かに捌いていた。ふと、彼は本やカードと一緒に何かを受け取って、困ったような笑顔を浮かべていた。

「今の見た? よその小娘が迫ってたわ」

二人連れの若い女の子が、淋と話した後にそわそわと立ち去るのを見て、面白そうに季実子は言う。

「淋ちゃん優しいから、断るの下手なのよねえ……おかげで男にも声掛けられちゃうんだから」

小声のおしゃべりを聞きながら、彼は随分、見る人によって印象が違うな、と思った。

達巳からは、気の毒で変わった男。

柚子からは、犯罪をしそうな幼馴染。

賢彦からは、猫と相性が良いイケメン。

季実子や女性、そして恐らく高齢者や子供にとっては、図書館の優しい王子様なのだろう。

自分は、偏屈なイカレ野郎……“だった”が。

何事か同じことを話し掛けるお爺さんに、邪険にすることなく真摯に頷く綺麗な横顔を見つめると、少し評価を改めたくなった。

「あ、そうだ……季実子さん、ちょっといいですか?」

隅に寄ると、誠一は声を潜めた。

「登藤って男の顔、わかります?」

「登藤? ああ、前にゆっちゃんが怪しいって騒いでた人? 今日は……居ないみたいだけど」

「そうですか……」

「さては、ゆっちゃんに何か頼まれたのね? あの子ったら……よその人をすぐ疑うのよ」

「え、それは……意外です」

誠一が首を捻ると、季実子はぱしっと軽くその肩を叩いた。

「そう! そうなのよー。誠一くんには普通に接してて、なっちゃんとも珍しいわねって言ってたの! 事前に達巳さんが、貴方を誉めてたからかもしれないけど」

「そうでしたか……有難いですね」

「謙虚ねえ。一目惚れなら、おばちゃんはしめたものよ」

「いやいや……お嬢さんは、あちらの彼が心配みたいですから」

笑顔で頭を掻いたものの、誠一は内心首を捻っていた。フレンドリーな印象を感じたが、柚子も思った通りの人間ではないようだ。

季実子は淋を振り返り、やや寂しげに笑った。

「まあ、そうねえ……ゆっちゃんは居なくなる前の淋ちゃんにべったりだったから。でも、戻って来た淋ちゃんが変わったって、しょげてるの。あの子がそんなこと言ったって、仕方ないじゃない。誠一くんも、あの子の心配性は、あんまり真に受けなくていいわよ」

誠一が曖昧に頷くと、季実子は謎かけのように呟いた。

「――海が拐ったとは云っても……初恋というのは、叶わないものなのよねえ」

ロマンチックなことを口ずさんで、それじゃまたね、と季実子は王子様の所へと歩いていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る