第5話 破滅の予兆


 今日はせっかくの満月だというのに、雲に遮られており、何も見えない。

 今、この街を輝かせているのは、月光ではなく、蛍(ほたる)のように光り輝く街のネオンだ。それがなければ、恐らく辺りは暗闇に浸食されていたであろう。

 しかし、自分の姿を誰にも見られたくない篠(しの)原(はら)和(かず)敏(とし)に取って、この墨を流したような漆黒の闇は非常に有難かった。なにせ、今、篠原は、人を殺そうとしているのだから――。

 篠原はビルの屋上から、向かいのビルを見下ろす。

「良し、この辺で良いな――」

 そう、掠れた声で呟き、ケースの中から、スナイパーライフルを取り出した。そして、俯せ――この体制が一番、狙い易いのだ――になり、スコープ越しに、向かいのビルを覗く。

 篠原は殺し屋だ。しかも、飛び切り腕の立つ――。

 彼のこれまでこなしてきた仕事の数は、もはや、数えることはできない。恐らく、百件は軽く超えているのであろう。

 そして、今夜、依頼で、向かいのビルの持ち主である、神代(じんだい)宏(ひろ)明(あき)を殺す予定なのだ。金もすでに受け取ったため、後は、こちらがそれに見合うだけの仕事をすれば良いだけである――。

 正直、依頼主がどういう理由で、神代を殺して欲しいのか――篠原からしたらどうでも良いこと。否、むしろ、必要以上に依頼主や殺す人間の情報を知ると、仕事に迷いが生まれ、それが後後に自分を泥沼に引き摺ることとなる。

 だから、これまで、殺す相手や依頼人のこと必要以上に詮(せん)索(さく)をすることはなかったし、これからも、そんな余計なことはする気はない。

 自分はただただ、与えられた仕事を黙黙と人形のようにこなす。それだけで、充分だった。

 ビルの中は、暗く、電気が付いているのは、一部の部屋だけ――。恐らく、ここに務めている社員達も、すでに帰路に就いたはずだ。残っている人間は、社長である神代のみ――それくらいのことは、すでに調べが付いている。だから、この時間を狙って、暗殺を実行することにしたのだ。

 最後は、神代が戸締まりを確認して、そのまま退勤する流れだ――。篠原は、その神代が戸締まりする時を見計らって、殺害するつもりだ。

 奴が、この暗い廊下に出て来たら、このライフルで狙撃する。

 そして、その瞬間を今か今かと待ち続け、すでに、二時間が経過した。その間、ずっと篠原は、スコープを覗いたまま、身動き一つせず、標的である神代を待ち続けた。

 そして、そんな篠原の粘り強い集中力に、天は味方した。

 突如、真っ暗な廊下に光りが灯った。――神代だ。神代が懐中電灯を手に持ち、廊下を歩いてきたのだ。

「来た――」

 待ちわびていた標的がようやく、自分の視界に現れたため、思わず、篠原は声を出してしまった。だが、この自分のいる場所には、他に誰もいないため、特に問題はない。

 しかし、そんな篠原の歓喜も一瞬だった。スコープ越しに映る神代の様子が、些かおかしかったのだ。

 何やら、神代は、思い詰めたような顔をして、黒い、何かを握っていた。しかし、その黒い物体がなんなのかは、スコープ越しに確認することはできない。些か気になった篠原は再度、確認を試みるがやはり、それがなんなのかは判らなかった。

 だが、その絶望感を滲ませた表情は、スコープ越しでも容易に確認でき、今まで、無心を貫いてきた篠原も、奴に何かあったのか――と、気になってしまった。

 しかし、それも、刹那のことで、すぐにその邪念を振り払った。殺し屋として、相手に感情移入するなど、以ての外、そんなことをしていたら、いざという時に迷いを生み、この引き金を引く指が鈍る。

 暗殺は、常に一発勝負なのだ、次はない。だから、殺し屋である以上、この引き金に掛かる指に、己の全てを込めなくてはならないのだ。無駄な感情は、己を破滅に追い込むだけの愚行でしかない。

 ――そうだ、俺は、何をとち狂ったことを考えているんだ。会社を経営しているんだ。その身になれば、悩みの一つや二つ――抱えて当然じゃないか!

 スコープを凝視し、指に力が入る。だが、そんな緊迫した雰囲気に反して、心中は酷く冷静だった。常に冷静でなければ、この仕事は勤まらない。

 篠原が狙うのは心臓――。一発で仕留めることに、とにかく専念し、神代の心臓に標準を合わせる。

 そして、標準が定まったと同時に篠原は、眦を決して、一気に引き金を引いた。

 銃口から勢い良く放たれた弾丸は、漆黒の闇の中へと放たれ、そして、一直線に神代の胸目掛けて、飛んでいった。

 弾丸は見事に、神代の胸に命中し、一気に辺りが、暗くなった。恐らく、懐中電灯を落とし、その拍子で壊れたのだろう。

 そして、篠原は、神代の胸に弾丸が命中したことを、スコープ越しに確認すると、スコープから目を離し、殺害現場を見下すように立ち上がった。

 神代の死体が転がっていると思しき、廊下は墨を流したような闇に浸食されていたが、それでも、確かに手応えを感じた篠原は、そのままライフルをケースの中にしまった。

 再び殺害現場を見下ろした。そして、雲間から煌煌とした月光が漏れ、その青白い光りは、篠原の氷のように冷徹な表情を照らした。



 犯人は、犯行現場に戻ると云うが、正しくその通りだと篠原は思った。

 もう、これも篠原の日課になりつつある。犯行現場を念のために確認するという作業は――。

 やはり、篠原のように用心深く、さらに、完璧を志す人間だからこそ、そのような行動に出てしまうのであろう。そうしなければ――現場を確認しなければ――精神的にも落ち着かないのであろう。

 だから、危険を冒してでも、篠原は犯行現場に足を向けてしまうのだ。

 街は、昨日の静寂がまるで嘘のように活気付いており、篠原自身、人を避けて歩かねばならず、苦虫を噛み潰すが、それでもやはり、現場へと向かうこの足は止められない。

「殺人だとよ――」

 と、足早になる篠原の耳朶に飛び込んできたのは、何とも物騒な言葉であったが、それを生業にしている篠原には、もはや、日常の会話と大差なかった。

 だがそれでも、今、この状況下においては、そんな日常的な言葉でも、篠原の足を止めるには、充分過ぎる程の効力を持っていた。

 篠原は、そのやや太めの声のする方に耳朶を傾けた。話しているのは、五十代くらいの、禿げた男だった。何とも、目付きが嫌な感じで、金に五月(うる)蠅(さ)そうであったが、お互い様なため、そんな男の人相を深くは気にしなかった。

 そして、男の周りには、何人かの取り巻きがおり、「嫌だ」だとか「物騒だ」とか「恐い」などといった、在り来たりな言葉を吐いていた。

「銃殺だと皆、噂していたよ――さっき、ちらりと見てきたんだがな――」

「ったく、恐ろしい世の中だ。まさか銃刀法の存在する日本で――しかも、俺達の目と鼻の先で、そんな事件が起きるなんてな――。やっぱり、ヤクザとかそれ関係かな? あの社長も、何やら、怪しい雰囲気があったしな。ジョウさんも気を付けてくれよ?」

 どうやら、あの禿げた嫌らしいおっさんは、ジョウさんというらしい。

「ああ、判ってるよ――」

 そこで篠原は耳朶を傾けるのを止め、再び歩き出そうとした。しかし、その矢先――。

「あれまぁ。殺人ですかぁ――恐いですねぇ」

 と、目の前に女がいたことに気が付かず、あろうことか、その存在に篠原は思わず驚き、ぞぞっと退いてしまった。女は、なぜかキャリーケースを引いており、旅行者のようでもあったのだが、こんな何もないような街に観光しに来る意味がわからない。

 そして、女は独特のぽけぽけした雰囲気を醸し出しており、篠原とは、まったく相反したような人間だった。

 しかし、波長が合わないこの女の側にいるのは、なぜか、危険だと感じた篠原は、女から逃げるようにして、犯行現場へと向かった。だが、この時はまだ、なぜ、この女が危険だと思ったのかは、篠原自身知る由もなかった。

 殺し屋としての本能か――。或いは、悪魔や神の類の啓示か――。



 犯行現場には、すでに人集りができており、皆は眉をハの字にして、ひそめき合っていた。しかし、そんな野次馬達も所詮は他人事。深刻そうな顔をして、ひそひそ話してはいるが、内心では、興味津津なのだろう。人間とは、他人事であればある程に、深く冷静になれるものなのだ。それを篠原は重重理解している。

 パトカーと救急車が、然(さ)も、「事件だぞ!」と大げさに騒ぎ立てるかのように、パトランプを回し、辺りを通り掛かった人達の足を止めさせる。否、おそらく、それだけではない。多分、この人集りも周りの人間の足を止めている要因になっているのであろう。

 人間というのは、基本、野次馬的な心情が奥深くに潜んでいるものであり、どんな人間でも、一部の人間が一定の方向に顔を向けていれば、それに釣られて、自分も顔を向けてしまうものなのである。

 アメリカの社会心理学者である、スタンレー・ミルグラムがニューヨークの路上で行った実験がある。彼は、数人のサクラを使い、ビルを見上げさせ、果たして何人の人間が足を止めるかという実験であった。

 結果は、三人の場合だと六割、五人以上の人集りができると八割の人間が足を止めたという。篠原は、その実験のことを思い出した。

 だから、この人集りも、あと少しすれば、さらに増えるであろうと考えた。

 そして、篠原もそんな冷徹な表情をしながらも、この時は周りと同じ、滑稽な野次馬に成り済まし、現場を確認した。

 見た限り、まだ犯人の特定はできていない様子で――まあ、当然だが――刑事らしき人間が、般(はん)若(にや)のような面で、ビルを見上げていた。否、多分、殺害現場を見上げたのだろう。

 篠原は、その様子をしめしめといった表情で見た。その刑事の厳しい眼差しを見る限りでは、捜査は難航していると見て間違いはない。つまり、篠原の鮮やかな殺人劇は、成功ということだ。

 ならば、こんな所にいつまでも突っ立ってはいられない。長居は無用。さっさと退散だ――。

 そう、横に顔をやると、突然、篠原の目に光りが当たり、そのあまりの眩しさに、思わず、篠原は目を塞いでしまった。

 ――何だ、あれは? 懐中電灯? 否――。

 それは割れた鏡だった。割れた鏡が透明の袋に入っていたのだ。それに太陽の光が反射して、自分の目に当たったのだ。そして、その袋を手に持った用務員らしき中年女性が、ぶつぶつと文句を云いながら、こちらに向かってきた。

 そして、その群衆を前に――。

「ちょっと、邪魔だ! ほら、どいてくれ!」

 と、怒鳴り散らし、皆の反感を買うものの、そもそもこれは見せ物ではない。自分達はあくまで、一人の野次馬である。舌打ちをしたり、眉を顰めたりはするものの、自分達が邪魔な存在であることは自覚しているらしく、特に文句を云う人間はおらず、黙黙と道を空けた。

 まあ確かに、ゴミ置き場を丁度、群衆が塞いでしまっている形になっているので、用務員の不満も判らなくはないが――。

 篠原も云われた通りに道を空けた。その直後だった。

「あらまぁ、ここが例の殺人現場ですかぁ――」

 聞き覚えのあるゆったりとした声が、後ろからしたので、篠原は思わず、横に退いてしまった。

 それを目の当たりにした女は笑顔でこちらに目を向けた。

「一体、何で殺されてしまったのでしょう?」

 と――。その言葉は、どうやら自分に向けられたものみたいだったので、篠原は、仕方がなくといった風に返答した。

「動機までは判りませんよ。だけど、どうやら、胸を撃ち抜かれたみたいですね」

「そうですかぁ。この国で、しかも身近でそんな銃を使った殺人が行われているとは――本当に恐ろしいですねぇ」

 身近――ということは、この女はここら辺に住んでいるのだろうか? てっきり、このキャリーケースを見た篠原は、観光だと勘違いしていた。まあ確かに、こんな何もないような所に、観光に訪れるという行為自体にも、違和感を覚えてしまうのだが――。

 そのキャリーケースの中身は何ですか――と、訊いてみたくなる衝動に駆られるが、さすがに、会って間もないような人間に対して、そのような品のないような質問を投げ掛けるのは憚(はばか)られた。そもそも、自分はこんな女と呑気に世間話をしにここに訪れたわけではないのだ。

 事件の経過、そして、その捜査の様子を伺うためにここに訪れたのだ。

 だが、一見した限りでは、心配はなさそうだ。少なくとも、すぐに自分に対して、捜査の手が及ぶことはないと判断できただけでも、大収穫だ。

 ならば、いつまでもこんな所に、残っているわけには行かない。状況が確認できたのであれば、すぐさま、退散するに限る。こちらは、このビルの主を殺した身、精神的にも、こんな所に長居するのは辛い。

 篠原は「それでは」と、女に頭を下げて、その場を去ろうとした。――その時だ。

「なんでも――自殺らしいぜ?」

 と、掠れた男の声が微かに篠原の耳朶に入り込んできた。それに反応した篠原は、ふと、足を止め、その声のする方向へと、視線をやった。すると、一組の男女が、ひそひそと話し合っていた。が、元元、その男の声は大きい方なのか、その会話は筒抜けだった。

 この会社の関係者なのかは、定かではないが、しかし、男の話す内容というのが、妙に現実味を帯びており、まるで、先程現場を見てきたかのような、口調であったがために、篠原も自然に、その話を盗み聞きする形になってしまった。

「でも、銃で殺されたんでしょう? 殺人の可能性とか――」

 と、女。

「それが、銃弾は頭に当たってたらしいんだよ。頭に――」

 そう男が、こめかみを指差しながら云った。そして、その言葉を聞いた篠原は、まるで、パニックを起こしたかのように驚愕した。

 ――あ、頭だって? そ、そんな馬鹿な! お、俺は――確かに――。

 そう、確かに篠原は、神代の胸目掛けて発砲した。そして、スコープ越しとはいえ、その光景をはっきりと見たし、記憶している。

 なのに、銃弾は頭に当たっていたという――。それが、何とも不気味であった。

 どちらにせよ、神代は死んでいることに変わりはない。なのに、神代の胸ではなく、頭に銃弾が当たったことに対して、いい知れぬほどの恐怖を覚えずにはいられなかった。

 そこへ、死体袋に入った神代だと思われる死体が、担架に乗ってくるのが見えた。

 いてもたってもいられない篠原は、何かに取り憑かれたかのように、走り出し、そして、立ち入り禁止のテープを潜り、一直線に死体の方へと駆けた。

「関係者の方ですか?」

 と、運んでいる人間に訊かれたが、そんなことは一切無視して、白い死体袋のファスナーを思いっきり下げた。どうしても、自分自身の目で、死体を確認しておきたかったのだ。しかし、その篠原の常軌を逸した行動に、思わず、運んでいた人間は怒鳴ってしまった。

「ちょ、ちょっとあんた! 何をしているんだ!」

 しかし、そんな耳に刺さるような怒声も、篠原の聴覚は全く感知することはなく、意識は、目の前の死体にのみ向けられた。

 そして、まず篠原は頭を見た。すると、先程の男が云っていたように、確かに頭――正確には、こめかみだが――に、銃弾が当たっており、そこから、黒ずんだ血が大量に流れているのが見て取れた。

 そして、肝心の心臓に目をやる。神代の着ている服は、白のワイシャツで、胸に銃弾が当たり、血が流れたのなら、一目で判るようになっていた。

 しかし、胸は真っ白で、銃(じゆう)創(そう)どころか、切り傷一つないような状態だった。

「そ、そんな――」

「ほら、どいて!」

 と、死体を運んでいた男は、乱暴な態度で篠原を退けた。そして、篠原は、神代の死体が運ばれて行く様を、ただただ呆然と眺めた。

 


 ――先日、隣人である安藤さんを刺して、逮捕された伊(い)東(とう)貝(かい)地(じ)容疑者ですが、当時、警察は、凶器は、鋭利な刃物のような物だと思い、捜査を進めておりましたが、その後の貝地容疑者の供述で、凶器は、鋭く尖った自前の顎(あご)だということが判明しました。

 そんなどうでも良いニュースがカフェに設置されたラジオから流れてくる。しかし、そんなニュースのことなど、気に止める余裕はない。それほどまでに、篠原は錯乱していたのだ。

 先程から、なぜという単語が脳裏から離れない。篠原自身、これまで様様な国で様様な人間を殺してきたが、それでもこんな椿(ちん)事(じ)は初めて経験する。完璧な仕事を心掛けている分、余計に深みに嵌り、足(あ)掻(が)くようにして、思考を巡らせているのだが、当然判らない。

 注がれた珈琲を飲んで一度、気分を落ち着けようとするが、それでも、そんな落ち着きなど所詮は一瞬のことであり、珈琲が喉を通り、胃の中に入ってしまえば、再びその靄(もや)靄(もや)は篠原の中に紛れ込む。

 結局、根本的な問題を解決しなくてはいけないのだ。それを解明しないことには、今回の仕事も上手くこなせたとは、絶対に云えない。

 だから、結局、思考内には、なぜという単語が次次と増殖し、篠原を混乱させるのだ。

 確かに、銃弾が胸に直撃したのを篠原は見た。それは絶対に間違いない。しかし、実際に銃弾が直撃したのは、頭だった。それもこめかみ。

 胸にも銃で撃たれた後があるのであれば、辛うじて理解できる。しかし、確かに直撃した胸には、銃弾など、当たった形跡は何処にもなかったのだ。傷跡が一日で塞がるなどとは考えられない。否、仮に、自分の放った銃弾の狙いが逸れて、胸ではなく頭に当たったとしてもだ、あの時、あの男は真っ正面を向いていたのだ。額に直撃することはあっても、こめかみに当たるなど考えられない。

 自分の放った銃弾が、こめかみに当たったと考えるのならば、胸から狙いが逸れた上に、放たれた銃弾が突如カーブして、直撃したとした考える他ないのだが――そんな超常現象は絶対にあり得ない。物理的にも心理的にも――。

 珈琲を何口も飲むが、もはや、味なんてしない。お湯を飲んでいるのと大して変わらない。しかし、そんな状況下でも、何かを口にしていないと落ち着かないのか、思案に暮れた篠原は、二杯目の珈琲を頼んだ。 

 この意味不明な怪現象を説明できる人間がいるなら、今すぐにして欲しい。仮に、違う人間を誤って殺してしまったとしても、じゃあ自分は一体、誰を殺したんだという話になる。

 見付かった死体は、少なくとも、神代のみであり、他の人間の死体は発見されていない。あんな廊下で人一人を撃ち殺したんだ。さすがに、まだ発見されていないとは、絶対に考えられない。

 それとも、自分は、あの場で、幽霊の胸を撃ち抜いてしまったとでも云うのだろうか?

「そんなの馬鹿げてる!」

 静寂の包むカフェの中で、ついつい大声を出してしまい、篠原はしゅっと、背を縮めた。

 周りの人間は、何事だと、篠原の方に視線をやる。

「どうぞ」

 ここのマスターがお代わりを持ってきてくれた。それを飲んで、深呼吸をした。

 こんなことはあり得ない。それは、重重理解している。しかし、そんなあり得ない――常識から外れてしまったことが現に起きてしまったのだ。 

 受け入れたくなくとも、その現実は、容赦なく篠原を圧迫してくるのだ。

 さすがに篠原も昨日の疲労もあってか、思考も思うように行かず、頭を抱え、珈琲を飲み干した。

 どちらにせよ、自分に捜査の手が伸びるのだけは、絶対に避けたい。そして、自分が、殺人を犯したという痕跡もできれば残したくない。

 事態が錯綜し、混乱している現状――しかし、そんな恐慌状態に陥りつつも、すでに、篠原の中では、どうするべきか、決まっているように思えた。

 この名状し難い悪寒を臭わせる、この状況を打破するには、自分自身の足で事件を捜査せねばならないのだ。 

 自分が犯した犯罪を自分自身が捜査するというのも、何とも変な話であるが、皮肉にも、そうする以外に、この不気味な空気を払拭する方法はないのだ。

 そうと決まれば、今夜にでも、あのビルに忍び込んで、事件の捜査をしよう。

 篠原は、カップの底に僅かに溜まった黒い液体に視線を向けた。



 ホテルのベッドの上で、目を覚ました時には、すでに辺りは真っ暗で、カーテンの隙間からは月光が漏れ、その青白い光が篠原の顔を照らしていた。さすがに、徹夜だったため、仮眠程度では、この蓄積された疲労は、浄化されず一気に、寝てしまっていた。

 こんな呑気にしていられないのも判るのだが、それでも、人間は極度の疲労の前には屈してしまう。

 身体が食べ物を欲すれば、それを夢中で貪ってしまうし、睡眠が必要なら、喩え、まる一日であろうが、爆睡してしまうものなのだ。

 八時を刺す時計の針を見て、少少自分の行動を軽率に思うが、しかし、それでも、あんなことがあれば、誰だって困惑するし、疲労も溜まると自分に云い聞かせ、いつもなら、弛(たる)んでいると一(いつ)喝(かつ)すべき、己の行動も、この時だけは不問にした。

 だが、それでも、この場――否、この街を一刻も早く出て行きたいのも事実で、本来であれば、昼間のうちに電車に乗り、羽田空港から高飛びする予定だったのだが、思わぬ出来事の所為で、予定を一日遅らせなければならなくなった。

 篠原は、目を覚ますために、熱いシャワーを浴びて、インスタント珈琲を一杯飲んだ。ちなみに、いつも銃などの武器は、コインロッカーに預けてある。あんな物をさすがに持ち歩くのは――特に日本という国においては――四六時中危険が伴う。ダイナマイトを腹に巻いて行動しているのと大差ない。

 だから、仕事をする時以外は、常にコインロッカーに入れあるのだ。

 今、篠原は、財布と携帯電話、時計という最低限の物しか持ち歩いていない。余分な物を持ち歩く殺し屋は、所詮は三流四流の人間。そんな人間は、一人、二人を殺して、即座に捕まるのが関の山だ。

 篠原は薄めのコートを羽織り、ホテルをチェックアウトした。

 この時、既に時刻は十時を回っており、犯行現場である会社も恐らく、後、一時間もすれば、誰もいなくなるであろう。

 篠原は、そう思い、何処か近くで、ブレイクファースト――否、この時間だと最早、ディナーだ――を取ることにした。

 あの時と同じように、街には、煌煌としたネオンが辺りを包み、まるで、人人が寝ることを忘れてしまっているかのように、四方八方から景気の良い声が飛び交っていた。

 ここら周辺は、飲み屋が密集している。恐らくその所為だろう。

 顔を赤くして屯(たむろ)している連中を見ると、自分もウォッカを煽りたくなる衝動に駆られるが、仕事中は絶対に飲まないと固く誓いを建てている。アルコールを摂取して、判断力を鈍らせてしまっては、仕事などこなせない。

 人を殺すことを生業にしているということは、そういうことなのだ。半端な覚悟、ふやけた信念では決してこなせない。失敗して、覚えるのでは殺し屋は駄目なのだ。常に一発勝負、失敗は許されない。失敗をするということは己の死をも意味するのだ。

 そう考えて見ると、殺し屋は、医者と何処となく似ているなと、篠原は思った。殺し屋は、失敗すれば、自分の命が飛ぶ。しかし、医者は、手術を失敗すれば、患者の命が飛ぶ。互いに失敗のできない職業。

 無論、こんなことを医者に対して云ったなら、激怒されて当然だが――。

 寝起きだから、あんまり重い物は食べたくない。軽い、卵料理やパン、サラダなどが食べられそうな所が良いのだが――。

 そう、ネオンの迷宮と化した街並みで視線を左右させていると、辺りの喧騒からまるで、仲間はずれになっているかのように佇んでいる一件のカフェを発見した。

 できれば、静かな空間で食事をしたかったため、カフェの存在は有難かった。篠原は、うっすらとランプが灯る少し汚れたカフェへと足を走らせた。



 カフェの扉を開けた。

「まだ大丈夫かい?」

「はい、大丈夫です」

 そう、夏目漱石のようにちょび髭を生やしたマスターは云った。

 店内を見ると、男女でいる客が数組おり、そのどれもが、酒を煽っていた。篠原は、首を傾げながら、カウンターに座った。

「ここって、バーじゃないよな?」

「当店は、十九時を回りますと、バーになります。昼間は、カフェですね」

「そうか――。ってことは、別に酒じゃなくて、珈琲も淹れてくれるんだよな? これから、用事があるから、酒は飲めないんだが――」

「はい、大丈夫ですよ」

 そう、マスターは慣れた手付きでグラスを拭きながら云った。

「そうか、後、朝食もまだだから、何かサンドウィッチみたいな物があると助かるんだが――」

「朝食――ですか?」

 外はすでに暗い。そんな篠原の言葉に違和感を覚えたのか、きょとんとした表情で、マスターは云った。

「ああ、すまんすまん。俺、これから、仕事だから今起きたところなんだよ」

「ああ、夜勤なんですね」

「まあ、平たく云うとそうだな」

 とりあえず、そういうことにしておいた。

「でしたら、当店自慢のエッグベネディクトなど如何でしょう?」

「エッグべね――? まあ、いいや、それを頼むよ。後、珈琲はブレンドで――」

 聞き慣れない言葉ゆえに、篠原の頭上には疑問符が浮かんだ。その篠原の言葉を受け、マスターは「かしこまりました」と、頭を下げた。

 そして、篠原は目の前に置いてあった灰皿をこちらに引き寄せて、煙草に火を点した。

 隣にも若い人間がいるのだが、そちらは、酒を掻き回すので忙しそうであった。暇つぶしに、そんなバーテンダーがカクテルを作る様子を見ていると、入り口の扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

 カクテルを作っていたバーテンダーが笑顔を作って云った。先程から、ずっと瀟(しよう)洒(しや)な表情をしていて、疲れないのか――と、篠原は内心で思うが、それも含めてやはり、バーテンの仕事なのだろう。

「どうも――」

 と、声がしたので、思わず、篠原は振り返ってしまった。すると、そこには、今朝あったキャリーケースを引いていた女が、今朝と同じように温厚な表情で立っていた。

「隣、宜しいですか?」

 そう云われたので、篠原は思わず「え、ええ」と、動揺を露わにして云った。それを受けて、女も「どうも」と、笑顔で椅子に腰掛けた。

 そして、「どうぞ」と、目の前にいたマスターが珈琲を差し出してきた。それを篠原は、「どうも」と云って、受け取り、一口含んだ。

「良く来るんですか?」

 端から見れば、隣の女を口説いているように見えてしまうのであろうが、それでも、篠原は恋愛に興味はない。口調も、馴れ馴れしい感じはなく、あくまで、日常会話という体を保っている。

 だから、女も緊張することなく、柔和な感じで会話ができるのだ。

「そうですね。こちらのマスターとは知り合いなので――」

「ほう、カクテルとか好きなのですか?」

 まあ、この会話も飯が来るまでの暇つぶしでしかない。だから、別に女のことを気遣う必要はないのだが――。

「いえ、私はお酒は殆ど飲めなくて――」

「酒が――飲めない?」

 正直、女の言葉に篠原は驚愕した。なにせ、朝はここはカフェの体を成してるが、夜はバーになるのだ。酒の飲めない人間が、まさか、それも一人で、こんな所に来るとはどうしても思えなかったのだ。

「そうですね。私がここに来るのは、葉っぱが目的でして――」

「は、葉っぱ?」

 さらに、篠原は驚愕した。これは、篠原自身、こういう仕事をしている所為もあるのだが、葉っぱと聞くと、どうしても薬物だとかそういう、物騒な物しか思い浮かばない。

 見た目からしても、そんな薬物をやっている風には、見えないし、第一、そんな犯罪行為を、第三者である自分に軽軽と継げる意味が判らなかった。

「はい。ハーブです」

 今、日本で蔓延している合法ハーブ――所謂、危険ドラッグという奴だろうか? 篠原は訝しんだ。こんな温厚な人間がドラックに陥るなんて――。

 と、信じられないと云った風に眼を開いていると、マスターが厨房から戻ってきた。

「どうぞ、エッグベネディクトで御座います」

 そう、篠原の前に差し出してきたのは、黄色いソースの掛かったハンバーガーみたいな物だった。

 だが、良く見ると、その料理はハンバーガーのように挟んでいるわけではなく、マフィンの上に目玉焼きとベーコンが乗っているだけという、非常にシンプルな物だった。そして、皿の端には、サラダが添えられていた。

 篠原は、一緒に添えられたナイフとフォークを使い、それを真っ二つにした。すると、半熟の黄身が一気にどろりと、流れてきた。

 黄身のたっぷり着いたマフィンを口に入れる。

「美味い――こんなの初めて食った」

「はい、最近、この料理は流行しておりまして、東京の方では、専門店などもあるくらいなんですよ? おや――」

 と、マスターは、女の方へと視線をやった。

「いらっしゃいませ――いつもので宜しいですか?」

「はい、後、また葉っぱを分けて頂けると嬉しいのですが――」

「かしこまりました」

 エッグベネディクトを夢中で食べていた篠原の手が止まった。

「先程から、気になっていたのですが――その、ハーブというのは?」

「ああ、そうですね。マスターこの人にも一杯お願いします」

「かしこまりました」

 と、奥から聞こえてきた。

 そして、暫くして、マスターが戻ってきた。そこにはティーカップが二つ、お盆の上に乗っていた。

「ペパーミントティーで御座います」

 マスターは二人にカップを差し出した。

「どうぞ、ご馳走しますよ?」

 と、女。

「良いのかい?」

「ええ、お近づきの印に――」

 女は、瀟洒な表情で云った。

「すまないね」

「いえいえ――」

 二人は「乾杯」と、ささやかに云って、まるでグラスのようにティーカップをカンっと、掲げた。

「あ――良い味ですね」

「はい、ここのミントはマスターのお手製なんですよ?」

「へぇ。ってことは、モヒートなんかも――」

「はい、当店の自慢で御座います。まだ、季節ではありませんが――」

 そう笑顔を向けた。

「もひーと?」

 だが、女は酒を殆ど飲まないのか、モヒートという言葉がいまいち良く判らない様子であった。そんな疑問符を浮かべた女に対して、マスターは笑顔で答えた。

「モヒートとは、カクテルの名称で御座います。キューバ発祥のカクテルです。ホワイトラムをベースに、その中に、すり潰したライム、シュガーシロップ、そして、大量のミントを混ぜた物ですね」

「どのくらいのミントを使用するのですか?」

「そうですね。グラス一杯になるぐらいに入れます。なにせ、モヒートはミントが主役のカクテルなので、量を惜しんでいては美味しいモヒートはできません。モヒートは六月から十月が旬だと云われており、夏に大人気のカクテルなのです。もし、宜しければ、今度、お作り致しますよ? お酒が苦手であるなら、アルコール度数を下げることもできます」

「俺も飲みたいねぇ」

「でしたら、今度お二人で入らして下さい。ご馳走致しますよ? 後一ヶ月もすれば、梅雨も明けて、暑い夏になります。そうなれば、きっと美味しいモヒートが飲めるでしょう」

「わあ、嬉しいですね。私も弱いからあまり、お外でお酒を飲むことはないのですが、試しに一杯飲んでみましょうか」

 そう女は、篠原に顔を向けた。それを受けて篠原も、「良いね。一緒に行きましょう」と、笑顔で云った。

「ええ、きっとご期待に添えて見せますよ。また、モヒートは作家であるアーネスト・ヘミングウェイも好んだと云われており、彼は、モヒートの中に二ダースのビターズを入れていたと云われています」

「ああ、『誰が為に鐘は鳴る』の人ですね?」

「そうですね」

 そう二人が話している最中、篠原は時計に目をやった。話し込んでいたら、とっくに十一時を回っており、「まずい」と、口走り、ペパーミントティーと料理を慌てて口に入れた。

「じゃあ、ご馳走さん。モヒート楽しみにしているよ。お代ここに置いてく」

「はい、有り難う御座いました。是非また入らして下さい」

「お仕事頑張って下さいね?」

「ああ」

 そう云って、コートを剥ぎ取るようにして掴み、纏った。

 マスターの云った通り、後、一ヶ月もすれば、夏は訪れるのであろう。だが、それでも、外はまだ肌寒かった。

 この時、なぜ、あの女は自分が仕事に行くことを知っていたのか――ふと、疑問に思った。

 あのマスターには確かに、これから仕事だと伝えたが、あの女にはそんなこと、一言も云っていないのだ。

 だがしかし、それでも、今は目の前に用意された謎の方が遙かに脅威だったがために、大して深くは考えなかった。



 目的地であるビルに到着した篠原は、それを見上げた。ビルは真っ暗だった。その様子から、ここの社員は皆、帰宅したと考えて間違いないであろう。

 出入り口の鍵も掛かっている。それを考慮するにこのビルは無人であることは、もはや、疑いの余地はない。

 篠原は、慣れた手付きで、ピッキングする。でかいビルの割には、鍵はかなりオーソドックスで、鍵を開けるのに、それ程の手間は要らなかった。

「良し」

 鍵が開いたことを確認した篠原は、ドアノブを捻った。

 中は、本当に暗く懐中電灯なしでは、禄に歩き回れない状態であったが、なるべく人目に付きたくない篠原は、懐中電灯より一回り小さい、ペンライトを手に持ち、暗い廊下を突き進んだ。

 問題のあった場所は、大体把握している。だから、多分迷うなんてことはないはずだ。

 篠原は、ゆっくりと階段を上がり、目的の階まで到達する。後は廊下を突き抜けるだけだ――。そうすれば、目的の場所に到達するはずである。

「あそこだ」

 ペンライトを照らして云った。ビルの一番端の廊下の角――そこは、あの時、自分がスコープ越しに眺めていた場所に間違いなかった。それを確認した篠原は、辺りを見回した。

 一見して、何の変哲もないように思える。しかし、何か、からくりがないと、この不可解な現象の説明が付かない。

 まさか、放たれた銃弾が蛇のように畝(うね)ったわけではあるまいし――。自分の放った銃弾が、神代のこめかみに直撃したのも何かきっと理由があるはずだ。

 恐らく、神代が死んだのは、丁度廊下の角のはず。そこを念入りに調べれば、血痕の一つでも発見できるはずだ。

 そう感じ、殺害現場だと思われる廊下の角を徹底的に調べた。しかし、血痕は殆ど発見できなかった。

 もしかして、捜査の過程で拭き取られてしまったのだろうか? しかし、現在も捜査中であるのにも関わらず、そんなことを警察がするものなのだろうか?

 否、警察ではなく、用務員のあの中年女性が拭き取った可能性もある。さすがに、ここは色色な人間が働く会社だ。幾ら、現場を保存しておかなければならなくとも、血が廊下中にこびり付いていたら、仕事に支障が出る可能性がある。当然、それは、会社側もちゃんと警察に了解を得たであろう。

 だから、この時、廊下に血痕が一滴もないことに関して、篠原は、特に深くは考えなかった。否、仮に何処かに血痕が残っていたとしても、ペンライト一つでは、視界が狭すぎて中中発見することができないかもしれないが――。

 そして、その神代が死んだと思しき位置から、自分のいたビルの屋上を見た。あそこから、銃弾は放たれたのだ。

 篠原は銃弾が通過したと思われる道を辿ってみる。しかし、幾らその近辺を右往左往としても、銃弾がカーブする現象が起きるような不思議な物は見当たらない。

 否、そもそも、自分は、スコープ越しに銃弾が、神代の胸にちゃんと当たったのを確かに見た。自分が幻、或いは幽霊を見たのでなければ、それは確実。

 つまり、神代の胸には当たったが、その一発の銃弾では、死ななかったということなのだろうか?

 あの時、神代の胸に銃弾が当たるところまでは見た。しかし、その直後に辺りは真っ暗になってしまい、死に様までは、確認することが出来なかった。

 ますます、何があったのか判らなくなる。

 この状況下で、一体、ここでどんなミラクルが起きたのか――調べないと気持ち悪くて仕様がない。しかし、だからとて、いつまでも、ここに留まるわけにもいかない。

 ――どうする?

 徐徐に、篠原に焦りの色が見えてきた。

 時刻はすでに一時を回っていた。

 何も発見できないと、ここを訪れた意味も、予定を一日遅らせ、この街に留まった意味もなくなってしまう。

「クソォ! こんな所で時間を食っている暇なんてないのに――」

 そう、篠原は思わず目の前の壁に拳を叩き付けてしまった。だが、自暴自棄になればなるほどに、思考は混乱し、事態は乱れて行く。

「そうだ。試しに、俺が潜んでいたビルも見てみよう、もしかしたら、あそこに何か秘密があるかもしれない」

 そう篠原は、自分が狙いを定めていたビルを見上げた。

 しかし、そこから見えるのは、まるで、今の自分のこの状況を嗤(し)笑(しよう)するように見下ろしている月のみ。やはり、ここからでは、何も確認することはできない。

 だから一度、現場を後にして、隣のビルの屋上へと向かうことにした。

 踵を返すと、辺りはやはり、茫(ぼう)茫(ぼう)とした暗闇が立ちはだかる。まるで、今の篠原の心中を投影しているようだ。

 頼りは手に持っているペンライトのみ。

 だが、ぐずぐずしてもいられないので、足早に暗闇の浸食する廊下を歩く。目もようやく闇に慣れてきたのか、徐徐に廊下を歩く速度も上がってくる。

 階段を下りる時は、リズミカルに歩く――というよりも、もはや走っていた。それだけ、気が急っているのだ。

 そして、ようやく外に出た。 

 とりあえず、向かいのビルの屋上も調べたら、戻ってくる予定ではあるが、それでも、自分がいない間に誰かが来る可能性も充分に考えられたので、一応、鍵は閉めておくことにした。

 万が一、誰かが来て、ここの鍵が開いていたら、確実に不審に思われるであろうから――。

 手早く鍵を閉め、篠原は走った。

 そして、門を出ようとしたその時だった。

「確保だ!」

 と、突如、図太い声が夜空に響き、慌てた篠原は、思わず立ち止まり、視線を左右させた。

 すると、周りから一斉に、青い服を着た男達が、自分の方目掛けて、猛ダッシュしてきたのだ。

 その青い服というのは、警官の制服であった。そして、周りの警官は、どうやら、自分を捕まえるために走ってきているのだと、気が付いたのは、そいつらに取り押さえられて、後ろ手に手錠を掛けられた時だった。

「篠原和敏! 殺人及び、その未遂によりお前を逮捕する!」

「ど、どうして!」

 少し、太めの刑事が篠原の前に現れて、大声で云った。

 なぜ、自分が捕まったのか――。どうして、自分の犯行が明るみになったのか――。篠原には知る由もなかった。

 逃げようと必死に足掻くが何人もの警官に取り押さえられた篠原は、身動きを満足にすることができずに、そのまま連行されて行った。

 その間際、錯乱し瞳を揺らす篠原が、再び「どうして――」と口走るが、その問いに答える者は誰一人としていなかった。

 


「藍さんの御陰で無事に、篠原を逮捕することができました」

「はい、世界を騒がせている殺し屋さんが無事逮捕されて良かったです」

「本当に、毎度毎度、貴方の洞察力には感嘆してしまう。なぜ、今回の事件であの男が絡んでいると思ったのですか?」

 そう、怪訝そうに云う竹中。そして、ティーカップに注がれた液体を口に含んだ。

「おや? これは、ペパーミントですね?」

「はい、正解です」

 珍しく藍の注いでくれたハーブティーの銘柄を云い当てた竹中。それを受けて、何処となく藍も嬉しそうだった。

「ペパーミントは、ハーブティーの定番ですからね。自分も何度か飲んだことがありますよ」

「ペパーミントは、食後に飲むと消化を促進させてくれ、尚且つ口の中をさっぱりと整えてくれる働きもしてくれます」

「はい、母もペパーミントが大好きでした。後、咳や喉の痛みにも良いと聞いたことがります」

「はい、そうですね。ペパーミントは喉のトラブルには持ってこいの物でして、良く歌手の人なんかも結構愛用しているんですよ? 鎮静作用や鎮痛作用も含まれているので、精神的なトラブルや頭痛や生理痛、さらには、麻痺作用や抗菌作用もあるため、虫歯や歯痛の緩和にも役立つと云われています。まあ、歯のトラブルの場合は、早めに歯医者さんに行くことをお勧めしますが――」

「そうですね。しかも、虫歯は放っておくとそこから菌が入って死んでしまうこともありますから――。侮れません」

 そう竹中は、美味そうにペパーミントを飲んだ。やはり、国際手配されている殺し屋を逮捕するという快挙を成し遂げたこともあってか、いつも以上にハーブティーが美味く感じるのだろう。

 尤も、その快挙も藍の推理によって、成し遂げられたことなのだが――。

「ペパーミントは、ガムや飴など香味料、さらには、アロマテラピーなど、ハーブティー以外でも広く活躍している尤もポピュラーなハーブでありますが、同時に、ペパーミントは、効能の幅が広く万能薬としても有名です。不眠の場合は、これで深い眠りに付けると云われていますし、乗り物酔いが酷い方は、これを飲めば予防にもなります」

「そんなに色色な効能が――。ところで、藍さんはいつも、こういったハーブを購入しているのですか? それとも育てているのですか?」

 その問いに対して、藍はきょとんとした表情になった。

「そうですねぇ。それは様様です。自分で育てているのもありますし、購入している物もあります。因みに、このペパーミントは良く行くお店の店主から――」

 そう云って、藍はカップを掲げた。

「ペパーミントは、初心者でも育てやすいと聞いたことがあったのですが――」

「はい、確かに、初心者でも育てやすく一時期はブームにもなりましたが――。逆にミントは、繁殖力が強すぎて、他の植物を駄目にしてしまうことがあるのです」

「そんなに厄介な植物なんですねミントは――」

「はい、私は、一度アスファルトの間から生えているのを見たことがあります」

藍は苦笑して云った。

「ですから、地植えは正直お勧めできませんね、プランターなどで、他の植物とは別別に植えることをお勧めします」

「そんな、厄介な植物であれば、嘸(さぞ)かし、人気は下火になったでしょうな」

「いえ、そんなことはありませんよ? 一応夏などは、植えておけば、虫除けにもなりますので、何もデメリットだけではありません。犬などを外で飼っているお宅では安易に、殺虫剤なんかを外に撒けないでしょうし――」

「そうですねぇ。まあ、ミント自体はハーブティーにしたり、料理やデザートに添えることもできますし、風呂に入れることもできるから、あって困る物でもないとは思うのですが――。そういえば、昔、テレビで見たハッカ湯を試してみて気持ち良かったなぁ」

 竹中は、何処か遠くを眺めるようにしみじみと云った。

「ですが、私は過去に一度、他のハーブを駄目にしてしまって――それが、トラウマになり、それ以来、ミントを育てるのが恐くて――」

 藍は何処か怯えるように云った。

 そして、一度、会話が途切れたところで、珍しく藍が事件の話を切り出した。

「ところで、亡くなった神代さんは、自殺だったのですか?」

「はい、そうですね。遺書も見付かりましたし、神代の手にはトカレフが握られていたので――。こめかみから出て来た弾丸も一致しています」

「そうですか――結局、神代さんは、何が原因で自殺したのでしょう?」

「それが、あの男も昔は相当悪かったらしく、ヤクザ達と一緒になって、色色やっていたみたいですね」

「そうなんですか?」

「ええ、薬の売買から、詐欺紛いの行為、さらには、非合法な金の取り立てなど――それが、原因で自殺した人間のみならず、一家心中を図った人達もいたみたいで」

「それは、惨いですね」

 藍は口を押さえて云った。

「ええ、ですが、やはり年を取ると人間も変わるのでしょうか? 奴は次第に呵(か)責(しやく)の念に耐えきれなくなり――」

「自殺――ですか」

「ええ、そうですね。遺書には、過去にやった数数の罪が赤裸裸に綴(つづ)られていました」

 竹中は、カップに視線を落とした。カップの中に注がれた液体に自分の悲痛そうな顔が映し出され、自分のそんな表情を見るのが嫌だったのか、ぐっと一気にハーブティーを飲み干した。

 若干、雰囲気が暗くなってしまったため、声調をやや高くして藍が話し出した。

「私がなぜ、今回、その自殺の裏に、あの篠原という方が絡んでいると思ったのか――それは、最初、あの自殺の現場を訪れた時のあの方の不可思議な言動からでした」

「自殺の現場? あそこにいたんですか?」

「ええ、たまたま通り掛かったんです。そして、そこで偶然会ったのが、あの篠原という方だったのです。尤もその時は、その人の名前までは良く判りませんでしたが――」

 そう苦笑した。

「皆は自殺だと騒いでおり、しかも、警察の方方も、自殺との見解を見せていました。なのにも関わらず、あの中で、ただ一人、あの事件を殺人事件だと勘違いしている人間がいたのです」

「なるほど、それがあの篠原だったと?」

「はい、そうです。あの人は、私に対して、あの事件は殺人事件――しかも、被害者である神代さんは、胸を撃たれて亡くなったと云ったのです。ですが、実際には、撃たれた箇所は頭、しかも、他殺ではなく、自殺であった。なぜ、あの方は、そんな勘違いをしたのか――」

「それは、恐らく、篠原自身が殺したから――。否、正確には、殺したと勘違いしていたからでしょうな――」

「その通りです。犯人は、犯行現場に戻ると云います。特に仕事を確実に行うような、完璧主義者であればある程、その気は強いと思います」

「なるほど、篠原は、自分が神代を殺したと思っていた。だから、再びあの場に訪れた」

「はい。そして、あの場で、篠原さんは、胸に当たっているはずの銃弾が、頭に当たっていてさぞ混乱したでしょう。そして、篠原さんは、その真相を確かめるべく、あの殺人現場であるビルに再び訪れると直感しました。なにせ、あの方は完璧に仕事をこなす完璧主義者です。そんな彼が、あんな摩訶不思議な謎を放置したまま、何処かに逃亡するとは、考えられません。彼は必ず、真相を突き止めようと、あのビルを訪れると思っていました」

「ああ、だから、我我にあのビル周辺を見張るように云ったのですね?」

「はい、そうすれば、あの方を捕まえることができます」

 まるで、ゴキブリホイホイに集るゴキブリを連想させてしまう竹中。しかし、その考えを一瞬で払拭した。

「本当に、何から何まで――貴方は優れた頭脳をお持ちの方だ。探偵でもお遣りになったらどうですか?」

「いえ、私は、事務所経営には向きません」

 確かに、探偵は何も考えるだけが仕事じゃない。頭脳があっても、経営力がなければ駄目だ。藍はそちらの方がからっきし駄目なのだと云う。

「ところで、なぜ、頭に放ったはずの銃弾が胸に当たったと、篠原は錯覚したのでしょうか?」

「多分、ああいう方が使うのは、狙撃銃だと思うのですが――」

「そうですね。奴の愛用しているのは、M24 SWSという銃でして、アメリカ陸軍をはじめ、世界中で使われている銃ですね。日本陸上自衛隊も採用したらしいです」

「そうですか――。まあ、銃のことはあまり詳しくないのですが――」

 そう藍は苦笑した。

「ですが、篠原さんが神代さんを狙っていたのは、恐らく向かいのビルだったのでは、ないでしょうか?」

「そうみたいです。それは本人が証言していますね」

「そして、あの廊下に神代さんが懐中電灯を持って現れたから狙撃した――」

「そ、そうです! まるで見ていたようですね? 一体どうして――」

 そう驚愕した竹中は、口調を荒げる。しかし、すべてが判っている藍は、至って冷静沈着で、その落ち着いた雰囲気を崩すことは絶対にしない。

「単刀直入に云いますと、あの時、篠原さんが狙撃したのは、神代さんではなく、神代さんを映した鏡だったのです」

「か、鏡?」

 再び鳩が豆鉄砲を食らったような表情を藍に向ける竹中。

「はい、篠原さんは神代さんの死に様を見たわけではありません。恐らく、現場が真っ暗になって、神代さんを殺したと勘違いしたのでしょう。そして、篠原さんは、神代さんの胸を目掛けて撃ったつもりになっていましたが、実は、鏡に映った神代さんの胸に向かって銃弾を放ったのです。薄暗い廊下の中で、明かりは神代さんの持った懐中電灯のみ。ですから、スコープ越しであっても、その薄暗い廊下の中では、鏡の存在に気が付けなかったのでしょう。そして、その出来事の後、今度は、神代さんが、その過去の罪の重さに耐えきれず、自殺をしました。しかも、拳銃で頭を撃ち抜いた」

「なるほど、二つの偶然が重なり、篠原にそんな奇妙な錯覚を植え付けたのですね?」

「はい、あのビルに務めている用務員の人に聞いたのですが、悪戯で鏡が何者かに割られていたみたいなのです。現に、ゴミ置き場には、割れた鏡が袋に入って置いてありました。まだ、回収されていないので、調べるなら早くした方が良いです」

「わ、判りました。早急に調査させます」

「あと、その鏡の置いてあった場所の壁も調べた方が良いと思います。銃弾が多分、壁にめり込んでいると思いますので――」

「判りました。早速、風間に――」

 そう竹中は立ち上がり、携帯電話を取り出した。しかし、何かが引っ掛かった藍は、難しい顔をして「ちょっと待って下さい、竹中さん!」と、珍しく声を荒げた。

「な、何でしょう?」

 そんな鬼気とした藍を見た竹中も動揺して、思わず携帯電話を落としそうになった。

「あのビルの周辺に、ジョウさん――という方はいらっしゃるのでしょうか?」

「じょ、ジョウさん――ですか?」

 竹中は困惑した。

「はい、多分、その人が今回、篠原さんに神代さんの暗殺を依頼した張本人だと思われます――」

「い、一体どうして!」

 藍の言葉に竹中は驚愕した。先程から藍の言動には、驚かされてばかりである。

「篠原さんと同じように今回の事件を殺人事件と勘違いしていたからです。ジョウさんは、周りの人達にあの自殺を殺人事件だと触れ回っていたのです。そして、恐らく、それを端で聞いていた篠原さんも、殺人事件だと勘違いして、あろうことか、私に銃で胸を撃たれたなどと誤った軽率なことを云ってしまったのです」

「じゃあ、そのジョウという男が――?」

「はい、すべての発端だと見て、間違いないでしょう」

 


 警察の賢明な捜査により、それから三日後、城(じよう)島(しま)大(だい)介(すけ)が神代の殺害を篠原に依頼したとして、逮捕された。

 城島は、過去に神代と金銭トラブルを起こし、終いにはヤクザ紛いの男達に強請られ、大金を奪われたらしかった。その腹癒せがしたかったらしい。

 さらに、ビルの壁から明らかにトカレフとは異なる経口の銃弾が発見され、用務員の証言によれば、そこには確かに鏡があったと云う。

 しかも、銃弾がめり込んでいた箇所は、人が立っていれば、丁度胸の位置に当たっていそうな場所だった。すべては、藍の推理した通りである。

 そして、それを竹中は、藍に報告をしに行った。

「いやァ、本当に助かりました。御陰で事件はすべて解決です」

「それは良かったです。やはり、城島という方もあのビルにパトカーが止まっているのを見て、思わず見に行ってしまったのでしょう。そして、自殺を殺人と誤解してしまった。なにせ、城島さんもこれから神代さんが殺されることを知っていたのですから――」

「まあ、小心者や完璧主義者ほど、現場が気になってしまうわけですが――。だから、あろうことか、二人して現場を見に行ってしまった。だけど、二人は鉢合わせた時に、依頼主、或いは殺し屋だと気が付かなかったのでしょうか?」

「それは、気が付かないと思います。依頼主もなるべく自分の正体に気が付かれたくないでしょうし、殺し屋の方もなるべく自分の顔を晒したくはありません。お互いに顔を隠して取引していたのだと思います」

「まあ、篠原に対して、同情するわけではないのですが――今回のあいつは、少しが運ありませんね」

「確かにそうですねぇ」

 藍は苦笑いを浮かべた。

「最初、神代さんを殺したかと思えば、それは鏡で。犯行現場に戻ってみれば、今度は、依頼主である城島さんの話を立ち聞きして、事実を誤認してしまい、終いには、ビルに忍び込んだ挙げ句、何の証拠も見つけることができずに捕まってしまい――。まるで、何かが篠原さんを破滅させようと、動いているようです」

「このミントのように――ですか?」

 そう、手に持っているペパーミントティーの入ったカップに視線を落とした。

「はい、まるで、ミントのようにいい知れぬ何かが、破滅の作用を篠原さんの運命に組み込んだのでしょう」

 その破滅の作用の正体――それは、恐らく藍なのだろう。

 篠原の一番の不運、それは、鏡を撃ち抜いたことでもなければ、現場に戻って、城島の話を聞いてしまったことでもなく、ビルに忍び込んだことでもない――それは、藍と出会ってしまったことだ。

 藍と出会わなければ、予定は狂ったとはいえ、篠原はことなきを得ていた筈である。だが、藍と出会ったことにより、篠原の運命は大きく変動し、結果、地獄に落ちる羽目になったのだ。

 だから、篠原に取っての死神――所謂、破滅の作用は藍だったのだ。竹中は、そう思った。

「それにしても、藍さんには、様様な事件を解決して頂き――本当に、何とお礼を云ったら良いやら――」

「いえいえ、そんな――たまたまですよ」

 そう笑顔で、藍はハーブティーを飲んだ。

「あの、せめて何か、今度ご馳走させて下さい。さすがに藍さんに何かお返しをしないと、こちらも心苦しい。何かリクエストがあれば――」

「そうですねぇ」

「遠慮せず云って下さい! 豪勢なステーキでも――何なら、トリュフやフォアグラでも、または寿司や鰻、何でもご馳走しますよ!」

 竹中自身は、藍と一緒に食事がしたいという下心もあった。だが、やはり、この時は下心よりも純粋な誠意のが勝っていた。

 藍の警察への貢(こう)献(けん)度(ど)は、それ程のものなのだ。

 そう云われて、藍は何かを思い出したかのように、はっとした顔をした。

「でしたら私、モヒートが飲みたいです」

「も、モヒート――ってあのカクテルのことですか?」

「はい、美味しいお店を知っているので、今度一緒にどうでしょう?」

 藍は笑顔を向けた。そして、それを受けて、竹中は動揺ゆえに、若干声が裏返った。

「は、はい! 是非!」

「絶対ですよ? 約束です」

 そう藍は小指を差し出してきた。それを受けて、竹中も「はい!」と威勢良く返事をし、自分の小指を藍の小指に絡めた。

「もう、約束を違えてしまうのは、懲り懲りですからね」

 その言葉の意味は、正直、竹中には良く判らなかった。しかし、その言葉の裏には、藍に取ってかなり重要な意味が込められているような気がしてならなかった。

 竹中がそう感じてしまったのは、その藍の切なそうな笑顔を垣間見てしまったからである。

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