第3話 道化の演舞
まるで蜘蛛の巣のように、入り組んだ辺鄙な場所に小久保銀行はあった。
ここら周辺は、ここにしか銀行がなく、住民は大変な不便を強いられている。貯金の入金や引き出し程度なら、コンビニのATMを使えば済む話なのだが、それ以外の人間はわざわざ、この小久保銀行に足を運ばなくてはならない。
俺もその一人で、さきほどからため息ばかりが目立つ。
「広瀬さーん! 広瀬一樹さーん!」
「はいはい」
銀行員の声に若干の煩わしさを感じながら、俺は重い腰を上げた。
「これが手続きの用紙になりますので、あちらで記入して、しばらくお待ちください」
「は、はぁ」
——さらに待たされるのか。
俺のイライラは頂点に達していた。ただでさえ、徒歩二十分もかけて来ているから尚更だ。
小久保銀行の駐車場は、あるにはあるのだが、車がたったの五台しか止められない。さらに、周辺は入り組んでいる上に、車一台がやっと通れるような非常に狭い道しかないため、大体の人間は徒歩か自転車で来ている。
——なんで、こんな変な場所に銀行を建てるかなぁ。
半ばふて腐れ気味の俺は、舌打ちをしながら、自分の名前が呼ばれるのを再び待った。
その直後、「あら?」というどこか間の抜けたような声がした。
「広瀬さんですか?」
名前を呼ばれて、俺はだらしない顔を後ろの人間に向けた。その人物を見た瞬間、俺の顔は一気に引き締まった。
「あ、藍さん?」
「こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
「は、はい!」
最悪な一日が一変した。
相変わらず、首からロザリオを下げ、手にはあのキャリーケースがしっかりと握られている。
「ところで、今日はどうしたのですか?」
「はい、実は銀行口座を作ろうと思いまして」
と、藍は気恥ずかしそうに言った。この表情だけでも非常に癒やされる。
——俺の名前はまだ呼ぶな、俺の名前はまだ呼ぶな、俺の名前はまだ呼ぶな!
などと、さきほどの憂鬱さが嘘のように晴れた俺は、心の中で必死に唱えた。
「ところで——」
「は、はい?」
突如、藍が口を開いたので俺は思わず、変な声を出してしまった。
「この銀行も随分と辺鄙なところにありますね」
「ええ、住民も相当不便に感じているみたいです」
「これでは、銀行強盗に襲ってくれと言っているようなものです」
「銀行強盗ですか?」
俺はその突拍子もない発言に目を丸めた。
「はい、ここら周辺は道路が非常に狭く、入り組んでいます」
「ええ、たしかに——。車一台がやっと通れるような道ですしね」
「ですから万が一、強盗に襲われたら立地的に、警察の対応ができません」
「まあ、場所が狭いですからね」
「対応が遅れるだけでなく、道が入り組んでいるせいで、警察も強盗の追跡が難しくなります」
「ああ、たしかに」
万が一、この銀行が強盗に襲われたら——と、考えたら、藍の言うことが理解できた。こんな場所で被害に遭ったら、警察は追跡にも難航するだろう。
さらに俺の脳裏には、全世界を騒がせている強盗集団である暴(ぼう)腐(ふ)爛(らん)がこの日本に潜伏しているというニュースが過った。
俺はそれを藍に伝えた。
「あれま——」
「まあ、いくらなんでもピンポイントで銀行強盗が来るとは——」
俺は愛想笑いを浮かべたその直後だった。
「静かにしろ!」
突然、銀行内に怒号が響いた。
見てみると、カウンターの前に覆面を被った五人組の男が立っていた。手には拳銃を持っている。「俺達は暴腐爛だ!」
——ぼ、暴腐爛だって?
さきほどまで藍と談笑していたのが、嘘のようだった。まさか、本当に銀行強盗に襲われるとは思わなかったのだ。
「この鞄に現金を詰めろ! 早く!」
ドンッ! と、カウンターの上に黒い鞄を叩きつけるように置いた。本当にドラマさながらの光景だった。
「そして、お前ら!」
と、今度は俺達、客に拳銃を向けて言った。
「お前らの金品をこの中に順番に入れろ! 下手な真似はするなよ?」
そう、黒い布袋をちらつかせて言った。
銀行の金だけでは飽き足らず、客からも金品を巻き上げようと言うのか? なんと強欲な奴らだろう。
俺は内心で業腹に思うも、今は下手なことはできないので、奴らの言うことに大人しく従うことにした。
袋を持った背の低い男が、順々に客達から金品を巻き上げていく。その間、他の人間は銃を持ったまま怪しい行動をしていないか監視していた。
すると突如、さきほどの袋を持った背の低い男が背後に目をやった。それをなぞるように、他の四人も後ろのカウンターのほうへと目をやる。
そこには隠れて、携帯電話で外部と連絡を取ろうとしている、女性職員の姿があった。
「お前、何やってるんだ!」
女性職員の近くにいた一人が、銃をチラつかせながら迫って行った。
「す、すみません」
と、懇願する女性職員の手を掴む。携帯電話は手を離れ、地面に落ちた。それを踏みつけ「ふざけた真似をッ!」と言い放ち、女性を金庫室のほうへと連れて行った。
そのやりとりを見ていた袋を持った背の低い男は、ポケットから銃を取り出し、今度は我々を威嚇しながら、歩み寄ってくる。
俺達はまるで、羊の群れのように銀行の端っこのほうに追いやられる。おそらく、監視をし易くするために、なるべく目の届く範囲に客達を置いておきたかったのだろう。さきほどのように外部と連絡を取られたら厄介だ。
「ヒクッ!」
突如、後ろからしゃっくりのような声が響いたので、俺はつい後ろを振り返ってしまった。
藍だ。
藍は口元に手を当てながら流暢に「あら、失礼」と言った。
この状況下でいささか肩の力が抜けそうになったが、それでも思った以上に的確な判断をされ、こちらも苦戦を強いられているのは間違いない。
僅かな隙でもあれば良いのだが——。
危機感を覚えながらも、なんとか最善の行動を取ろうとする俺を尻目に、さらに最悪な展開が巻き起こった。
袋を持った背の低い男が再び、顔を上げ、不穏な空気を漂わせた。その視線の先には、なんと藍の姿があった。
藍はこっそりと手に持っていたキャリーケースを自分の後ろに隠すような仕草をしていた。
それを怪訝に思ったのか、強盗の一人が「おい、お前!」と声を荒げて藍に近づいていった。
「その荷物はなんだ!」
「こ、これは——決して怪しい物ではありません」
「金目の物か?」
「いいえ?」
惚けるように藍は言った。それに苛立ったのか、男はガッとキャリーケースを掴んだ。
「いいから見せろ!」
「だ、駄目です!」
藍も頑なに拒む。
たしか、あのキャリーケースにはいつもティーセットや茶葉を入れていたはずだったのだが、今日は別の物が入っているのだろうか?
こんな緊迫した状況下なのにも関わらず、俺は妙にキャリーケースの中に気を取られた。
「は、放して下さい!」
「こ、この! 往生際が悪い奴め! 早くよこせ!」
癇癪を起こした男は銃を、思いっきり振り上げた。おそらくグリップの部分で藍を殴ろうとしたのだろう。
しかし、それと同時に——。
「ひぃ! ぶ、ぶたないで!」
と、藍が勢いよくかがみ込んでしまい、スカッと男の攻撃は勢い良く空振った。その反動で、男はまるで柔道の巴投げでも食らったかのように、一回転し、背中から勢い良く倒れ込んだ。
背中を叩きつけた男は、驚いた拍子に手に持っていた銃の引き金を天井に向けて引いてしまった。
その強烈な破裂音に、周りの人間はビクリと肩を震わせた。
放たれた銃弾はあろうことか、スプリンクラーに命中してしまい、その衝撃で、一気に銀行内に水が噴射された。
「うお! 何やってやがるんだ!」
強盗の一人が叫んだ。
この突発的な出来事に動揺した強盗達は、あたふたしながら、とりあえず、札束の入った鞄を守る。
すると、さきほどまで客達から金品を押収していた背の低い男が、「と、とにかく撤退だ! ずらかるぞ!」と言った。
強盗達はその言葉に従い、奪った金目の物を抱えて颯爽と銀行から退却した。
俺はその隙を見逃さなかった。
「待て!」
と、叫び、奴らの後を追った。
俺はとにかく食らいつくように強盗どもの後を追った。
「警察だ! お前らを逮捕する!」
その俺の発言に驚愕したのか、奴らはさらに動揺し、狭い道を急いで駆け抜ける。
「くそ! なんでこんなところに!」
一人が嘆いた。
だが、この俺の存在は、奴らを心身ともに追い込んでいる様子だった。このまま奴らを一網打尽にしてやる。
俺も体力には自信があったが、強盗どもも世界を騒がせているだけあって、なかなかしぶとい。長期戦になることも視野に入れるが、そこまで果たして俺の体力が持つか——。
だが、こんないたちごっこをしていたら、奴らだっていずれは体力が尽きるはずだ。いや、むしろ、追われているという立場を考慮するなら、俺よりも奴らのほうがプレッシャーを感じているはずだ。
ならば、俺はとことんまでに奴らに食らいついて、体力を削らせるまで。地獄の果てまで追いかけてやる。
やがて、俺の走る速度が落ちる前に、強盗どもの速度が落ちてきた。何が起きたのか——。
「ま、まずい! 追いつかれる!」
奴らも相当焦っている。体力に限界が来たのか——いや、奴らを苦しめているのは、この狭く入り組んだ道だった。
こちらは一人だが、相手は五人だ。
だが、この狭い道では、五人が肩を並べて駆け抜けるのは無理がある。だから、奴らは列を成して逃げている状況なのだ。だが、そうなると体力の有無に関係なく、身動きが取りにくく、必然的に速度が落ちてくる。複数犯ならではのデメリットがここにきて、大きく運命を左右する。
これを好機だと捉えた俺は、いよいよ本腰を入れて、奴らを追い詰める方向に考えをシフトさせる。
この状況で強盗たちも自分らに分がないことは重々理解しているようだ。だから、非常に焦っているのだが、もう遅い。これで、奴らもお陀仏だ。
もう少しというところまで、手が届いた。
——年貢の納めどきだッ!
そう、奴らに飛びかかろうとした瞬間だった。
突如、一番後ろを走っていた背の低い男が、足を捻り、そのまま俺に、体当たりでもするかのように、転がった。俺はこの背の低い男の下敷きになった。
しかし、それでもこの男の手はぐっと掴んでいた。
——逃がすもんか!
全員というわけには行かなかったが、それでも、なんとか一人を拘束することに成功した。
「ま、待ってくれぇ!」
と、背の低い男は情けない声を出すものの——。
「うるさい! こののろま!」
などと吐き捨てるように言い放ち、強盗どもは、この背の低い男、一人を放置して、足早に去って行った。
「もう逃げられないぞ! 潔くお縄に付け!」
俺はこの背の低い男に手錠を掛けた。
——ダァン!
俺は振り上げた拳を勢い良く、ディスクに叩きつけた。
「デタラメをぬかすな!」
「ほ、本当なんです! 信じて下さい!」
と、背の低い男は懇願するように言った。
さきほどまで執拗な取り調べを行っていたのだが、驚くことにこの男、暴腐乱の一員でありながら、アジトの場所はおろか、仲間の名前すら知らないと言うのだ。こんなことがあるだろうか?
「じゃあ、なんでお前はそんな名前も知らないような連中と一緒になって銀行強盗なんてやらかしたんだ!」
「そ、それは——で、出来心で」
「ふざけるなッ!」
ガツンと俺はディスクを蹴った。その勢いの良い音とともに、男は肩を震わせた。
一応、この男の名前は聞き出すことができた。
名前は井(い)女木(めぎ)明(めい)というらしく。その如何にも女々しそうな名前がさらに俺をイラつかせた。
その後も何度も何度も怒号を浴びせるものの、井女木は「ひぃ!」とか「へぇ!」などという、間の抜けた声しか上げず、もはや、まともに話すことすらままならなかった。本当に、こんなモヤシ野郎があの世界を賑わせた暴腐乱の一員なのだろうか?
しばらくして、そんなやりとりを隅で見ていた所長が俺の肩を叩いた。
「ちょっと来い」
所長に連れられ、俺は一度取り調べ室を出た。
「少し、冷静になれ。あれじゃあ、取り調べというよりただの脅迫だ」
と、所長は困った顔をする。
「で、ですが、何も知らないなんて、そんな馬鹿な話がありますか?」
俺は賢明に異議申し立てをする。
そう、絶対にあり得ない。井女木が何も知らないなんてことは——。
「それは私もわかっている。しかし、このままじゃあ埒が明かない」
「じゃあ、奴の馬鹿げた発言を受け入れろというのですか?」
「そうは言っていないだろう。もちろん、あの暴腐乱を一網打尽にできる好機だ。この機を逃すわけにはいかない。だが、少し冷静になるんだ。あんなに熱くなったら聞き出せることも聞き出せなくなる」
いや、語気を荒げようが和らげようが関係ない。井女木は絶対に重要なことは喋らない。奴は明らかに仲間を庇っている節がある。
あの仲間とのやり取りを見る限りでは、井女木は暴腐乱の中で、一番下っ端なのは間違いない。そして、あの男は仲間たちに見捨てられたのだ。あの奴らの反応が良い証拠だ。
だから最初は、こんな頑なにならず、ぺらぺらと流れるようにすべてを喋ってくれるだろうと、高をくくっていた。
しかし、それが甘かった。
まさか、こんなに長丁場になろうとは——。
「とにかくだ。今度は私が奴と話をしてみる」
「所長が?」
訝しそうに俺は言った。
「ああ」
「大丈夫なんですか?」
「舐めるな。これでも私は君よりも遥かに修羅場をくぐって来ているんだよ。これくらいなんてことないさ」
そう得意げに言うが、俺は少し不安だった。
だが、どちらにしても今の状況が続くのは、こちらもただただ体力を消耗するだけなので、正直、所長の提案はありがたくもあった。
「わかりました。ちょっとお願いします」
「おう、任せろ」
俺は所長にバトンタッチした。
休憩とは言っても、実際はこの緊張が解れることはなく、コーヒーの味すら禄にわからない状態だった。
おそらくこの山が片付くまで、何をしていても、この居心地の悪さずっと続くのであろう。
取調室は不気味なほどに静まり返っていた。
——本当に大丈夫だろうな?
署長は、ああは言っていたが、実際は不安で一杯だった。
あの井女木という男。雰囲気が独特で、なんだか妙に引っ掛かるところがあった。
なんというか、こちらの感情を剥き出しにされるようで、話しているうちにどんどん頭に血が上り、冷静さを保てなくなってくるのだ。
さすがにわざとやっているわけではないのだろうが、どうにも奴と話していると調子が狂う。
署長も俺の二の舞にならなければ良いのだが——。
コーヒーを飲み終え、俺は空き缶をゴミ箱に放った。しかし、缶は淵に当たり、ゴミ箱とはまったく逆の方向へと飛んで行ってしまった。
俺は舌打ちをしながら、いそいそと空き缶を拾おうとした。
「何やってるんですか先輩」
と、困ったような表情で、後輩の前田が落ちている缶を拾ってくれた。
「ちょっと苛ついているんだよ」
その理由はもはや訊くまでもないのか、前田はため息を漏らし、空き缶をゴミ箱の中に捨てた。
「上手く行っていないんですね?」
「ああ、あの野郎、全然肝心なことをしゃべらねぇ」
「先輩お得意の脅迫でも無理なんですか?」
「何が脅迫だ! あれは立派な取り調べだ!」
「いえ、あれはヤクザ顔負けの脅迫です」
悪びれもせず、きっぱりと言い放った。
「だけど、そうなってくると本当にあの男は何も知らないんじゃないですか?」
「そんなことがあるかッ! そんな名前も素性も知らないような奴と銀行強盗をする馬鹿がこの世にいるか?」
「僕は知らないですね」
「だろ? どういう関係なのかは知らないが、そこには必ず何かしらの連携があるはずなんだ。しかも、奴らが行った所業は一つ二つじゃない。今や世界を賑わす海賊みたいな奴らだ」
「ですね。そんな連中が素性のわからない人間を雇うとも思えませんし」
「ああ、一歩間違えれば、自分達も地獄を見る羽目になるだろうしな」
俺は得意げに鼻息を漏らした。
「それに、いくらあの男が下っ端で使えない人間だったとしても、こう易々と仲間を見捨てるというのも考えものです」
「と、言うと?」
俺は怪訝そうに返した。
「下手をしたら、あの男から自分達の情報が漏れてしまう可能性があるということです。今は頑なに口を閉ざしていますが、いざとなったらポロリと重要な情報を漏らすことだってあるじゃないですか」
「ああ、まあたしかにな」
「だったら、あの男を見捨てないで助けるべきでったのでは?」
「うーん。そうは言ってもなぁ。あのときは連中も逃げるので手一杯だっただろうし、他の奴のことなんて庇っている余裕はなかったんじゃないか?」
「一時はそうだったかもしれませんが、それでもやはり、後々に首が絞まるのは目に見えています。自分達の情報が漏れるのを奴らとて、恐れていたはずでしょうし」
「うーん」
たしかに、連携を取っている人間を、易々と見捨てる暴腐爛の行動も理解に苦しむものがある。前田の言うように奴らとて、情報が漏れるのを恐れるだろうし、万が一、自分達の素性が知れてしまったら目も当てられない。
もしかしたら、本当にあの井女木という男は何も知らないのか?
微かな疑問が俺の中に湧き出た。
——いやいや! 素性のわからない奴らと銀行強盗をするなんていくらなんでも、常軌を逸しているだろう!
俺はそんな疑念を、一瞬で振り払った。
しかも、あのひょろひょろした気の弱そうな男に、そんなことをする度胸があるとは到底思えない。
「もしかしてインターネットを使って仲間を集ったのでしょうか?」
「い、インターネットだぁ?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
「はい。それならば容易に仲間を集めることもできます」
「だが、そんなことをしても所詮は寄せ集めの集団だろう? そんな奴らが一度二度ならまだしも、世界を騒がせることができると思うか?」
「やっぱり無理ですかね?」
「当たり前だ! そんないい加減な集団だったら、ちょっとしたことですぐに歪みが出て、仲間割れに陥るのが関の山だ」
「で、でも現にあの男は仲間達から見捨てられてますよね?」
「たしかにそうだが——」
俺は唸るように言った。
こんなことを言っていても埒が明かない。
ふと、中の様子が気になって俺は、取調室の目を向けた。その直後だ——。
「ふざけるな! そんなことがあるか!」
と、署長の怒号が中から響いてきた。まるでデジャヴだ。
署長も怒鳴り疲れたのか、休憩を終えた俺とすぐさまバトンタッチをした。
俺は目の前で縮んでいる井女木の顔をじっと睨み付けた。
「まだ何も吐く気にならないか?」
「本当に何も知らないんですってば」
「嘘を吐くな! お前はそんな連中と今まで強盗をやっていたのか!」
「ぼ、僕、一番下っ端で使えないから、誰からも信用されてなくて——それで」
「だからそれがあり得ないって言ってるんだよ! なんでお前はそんな連中とつるんで悪さをしてたんだ!」
「そ、それは逃げたら後悔するぞ——と脅されて」
「あぁ! クソ!」
もはや何度、同じやり取りをしたのかわからない。
いくら追い詰めても、肝心なこととなるとだんまりを決め込むので、さすがの俺も本当にこの井女木は他の仲間のことを何も知らないのではないか——と、思えてきた。
「せ、先輩落ち着いてください」
と、後ろにいた前田に諭されるも、それがさらに俺の逆鱗に触れた。
「わかってる!」
ガツン! と乱暴に机を蹴った。それに驚いたのか、井女木は「ひぃ!」などと間の抜けた声を上げる。
その声がさらに癪に障り、俺は舌打ちをしながら井女木を睨み付けるが——井女木は白目を剥き、そのままぽかんと口を開けて、気絶してしまっていた。
——これが本当にあの暴腐爛の一味なのだろうか?
半分、質の悪いジョークに付き合わされている気になった俺は、一気に全身の力が抜け、疲れ果てたように言った。
「休憩だ。とりあえず、ここを見張るように他の奴に言っておけ」
「わ、わかりました」
俺は肩を落としながら取調室を出た。
「ったく、何なんだあいつはッ!」
完全に冷静さを欠き、ただただ子供のように愚痴をこぼす。本当にあいつは何も知らないのか、それとも俺がただただ掌で踊らされているだけなのか——。
いずれにせよ、こちらの体力も精神力も限界に近かった。
「大丈夫ですか?」
と、前田も俺の顔を覗き込むようにして言った。
「これが大丈夫に見えるかよ」
「ですよねぇ」
悪態を付くものの、前田はそれを冷静に返す。
「でも、ここまで尋問されても何も吐かないなんて——。もしかして、井女木とかいう男は本当に何も知らないのでは?」
「じゃあ、何か? 奴は今までそんな素性のわからない連中と何件もの強盗事件を起こしたとでも言うのか?」
さきほどもこんなやり取りをしていた気がする——。
「そうは言いませんけど。だけど、本当に何か知っていたら、何かしらのボロが出ても良い頃だと思うのですが」
「たしかにそうかもしれないが、俺はまだあの男を信用していない。仮にも奴は暴腐爛の一味だった男だ。油断は禁物だ!」
そう、一端のケチなこそ泥だったら、俺もこんな執拗に同じことを何回も繰り返したりはしない。奴が、暴腐爛だから必要以上に粘ってしまっているのだ。
「あら?」
と、隣のほうで聞き覚えのある声がしたので、俺はすぐさま振り向いた。
「あ、藍さん? こんなところで一体——」
「昨日の事件のことで来たのですが」
「事情聴取か何かですか?」
「いえ、個人的なことで——」
と、言っている途中で、藍が突如、くらりと倒れてしまった。それを見た俺と前田は真っ青になって藍に駆け寄った。
「あ、藍さん!」
と、肩を揺すってみる。身体がかなり熱い——。
「しっかりしてください!」
「だ、大丈夫です。これでも小学校のときは皆勤賞だったんです——」
「いつの話ですか!」
説得力のまったく感じられない発言を前に俺は声を荒げた。
「と、とりあえずこちらへ!」
そう、俺と前田は休憩室のソファーの上に藍を運んだ。
「おい、何か冷えピタみたいな、冷やす物を持って来い!」
「は、はい!」
前田は勢い良く駆け出した。
「だ、大丈夫です——」
「し、しかし、こんな熱じゃあ立っているのもやっとですよ!」
「これでも小学校のときは皆勤賞で——」
「前田! 早く持って来い! 頭が完全にイカれてる!」
「た、ただいま!」
前田は休憩室を飛び出した。
藍は穏やかな表情で、がくりと全身の力を抜いた。
決して死んだわけではない——。
しばらくして、藍は目を覚ました。
ぼんやりとした顔で、まるで無邪気な子供のような表情だった。
「だ、大丈夫ですか?」
俺は藍の顔を覗き込んだ。額には、さきほど前田が持ってきてくれた冷えピタが貼ってあった。
「えっと、私は——?」
呆けた表情で周辺を見回す。どうやら、さきほどのことはまったく覚えていないらしい。
「た、倒れたんです! 物凄い高熱で」
「はぁ——」
いまいちピンと来ていないようだ。相当意識が朦朧としていたのだろう。
「ま、まだ横になっていてください! 悪化したら大変です」
「せ、先輩、救急車は呼びますか?」
「ああ、そうだな」
さすがにここまで騒ぎになったのだ。救急車の手配は当然の処置だろう。
「何から何まですみません」
「いいえ、とにかく今は身体をゆっくり休めてください。きっと、昨日の事件のせいで身体が冷えたのでしょう」
昨日はあの銀行にいた全員が、水を被る羽目になってしまい、散々だった。
「事件——昨日の?」
まだぼんやりと呟くように藍は言った。
「とりあえず、無理に起き上がらないほうがよろしいかと」
「あ、あ——あッ!」
突如、壊れたラジオのような声を出す藍。やはり高熱で頭をやられたのだろうか?
「は、早く——」
「ど、どうしたんですか? まだ具合が悪いのですか?」
俺は慌てて言うも、藍は予想外の言葉を吐いた。
「は、早く戻ってください! あ、あの人が——」
「え? あの人がなんです?」
「あの背の低い人が暴腐爛のリーダーなんです!」
「へ?」
その直後だった。休憩室に前田が息を切らしながら入ってきたのは——。
「た、大変です! あの井女木という男が消え去ってしまいました!」
「なッ!」
俺は言葉を詰まらせた。
俺達は急いで取調室に戻った。そこには、見張りをしてた警官達が倒れていた。
「おい! 何があった!」
俺は倒れている警官を起こして言った。
「す、すみません。突然、あの男が後ろから襲ってきて——」
そう、意識を朦朧とさせながら喋る。
とりあえず、一度倒れていた警官達を、休憩室に運んだ。
幸い気絶させられていただけで、命には別状なかった。
再び、取調室に戻った俺達はきになったことを藍に訪ねた。
「どうして、藍さんはあの背の低い男が暴腐爛のリーダーだとわかったのですか?」
「それはですね——」
「それは?」
微かな沈黙をはさんだ後、藍は我々に笑顔を向けて言った。
「とりあえず、皆さんでお茶にしませんか?」
よくドラマなどでは、取調室でカツ丼を出されたり、寿司を出されたりなんてシーンがあるが、ハーブティーというのは史上初だと思う。
俺と前田は、藍がいつものようにキャリーケースからティーセットを出す姿を、黙々と見ていた。
藍は手際よくハーブティー淹れる。
「今日、用意したのはオリーブです」
「オリーブって、よくオイルとかに使われる?」
「はい。まあ、オイルが取れるのは実のほうなんですが。こちらのオリーブは葉っぱのほうになります」
「はぁ」
そう、カップに注がれた茶の香りを嗅いでみる。
「少し、スパイシーな香りがします」
「はい、オリーブは少し苦みがあります」
「どれどれ」
と、俺はオリーブを口に含んだ。
「ああ、なんか緑茶に似てますね?」
「はい。少し緑茶より苦みが強いですが」
藍は笑顔でオリーブに口を付けた。
「オリーブには殺菌、抗ウイルス作用があるため、風邪のときなどは非常に良いです」
「藍さんは具合のほうは?」
前田は心配そうに言った。
「まだ少し怠いですが、まあ、話すだけだったら問題ないでしょう」
「はぁ」
オリーブを飲んだとはいえ、さすがに不安が隠せない。しかし、藍はそんな雰囲気をまったく感じさせることなく、滔々とした解説を続ける。
「他にもヘルペスや肝炎の軽減、さらには血圧を下げたり、尿酸値を下げる効果があると言われています。オリーブには平和の象徴が込められており、国旗などにもなっている国があるほどで、旧約聖書などにも登場する——」
「わ、わかりました! ところで今回の事件は一体——」
さすがに神話の話まで持ち出されると、本気で長くなりそうなので、俺は素早く話題を切り替えた。
藍は一瞬、きょとんとした顔をするものの、オリーブを一口含むと、いつもの穏やかさを取り戻し、再び口を開いた。
「そういえば」
と、藍は前田に顔を向けた。
「あのバルーンサーカスで頑張っていた真優さんはお元気ですか?」
突如、話題を振られたため、前田は困惑したように言った。
「え、ええ。今度、真優さん、結婚するみたいですね」
「そうですか、お元気そうで何よりです。サーカスは色々危険がいっぱいですから」
「そうですね。しかし、それが一体?」
「皆さんはサーカスでピエロの演技を見たことがありますね?」
「え、ええ。どこか飄々としていて、間抜けな演技をしたり——」
「さらにわざと失敗とかしますね」
と、前田は俺の発言に被せるように言ってきた。俺は少しむっとした表情をする。
「はい。ですがあの間抜けな恰好や失敗などは演じられているものです。故に、ピエロという役柄は劇団の中でも一位二位を争う人間じゃないと演じられません」
「ああ、良く聞きますね。ピエロは一番腕のある人物じゃないと駄目だって」
「はい。それはわざと駄目な人間を演じるということが非常に困難であるが故です」
「困難?」
秀才を演じるのであれば、まだしも、駄目な人間を演じるのが困難だというのは、いまいち理解できなかった。
「ええ、サーカスが良い例です。なにせ、サーカスでの失敗となると、大怪我——下手をすれば、死んでしまいます」
「た、たしかにそうですね。あんなに高いところから飛んだり跳ねたりしていれば——ああ、だからか」
ここにきて、ようやく俺は理解した。失敗を演じるという難しさを——。
「サーカスで失敗を演じるというのは、当然それ相応の力量が必要になりますが、それ以上に、度胸や場数が必要になります。なにせ、命のやり取りをしているのと大差ないのです。そんなことを経験や場数の浅い人間ができるでしょうか?」
「無理ですね。無論、ある程度のことなら、運動能力や器用さでカバーできるのでしょうが、失敗を演じるとなると、その状況に対応できる冷静さが何よりも不可欠になってきます。それを補えるのは場数しかない」
「はい。ですから、サーカスのピエロは劇団の中でもトップクラスの人間ではないと、演じることができないのです」
「なるほど」
明らかに話が脱線しているのだが、それを気に止める者は誰もいない。いや、もしかしたら、この何の意味もないような話がすべての伏線なのかもしれない。
「そして——」
と、藍は若干口調を重くした。ここからがいよいよ本題なのだろう。
「今回の銀行強盗も同じです。あの背の低い男の人は、常人では到底できないような行動を何度もしているのです」
「常人ではできない行動ですか? それは一体」
「はい。一つ目はカウンターに座る女性職員の不穏な行動に気が付いたことです」
「それは別に誰でも気が付ける要因があったのでは? 現にあのときは誰もが神経を尖らせていたでしょうし」
「ですが、あのときあの人はお客さんから金品を回収していました。言ってしまえば、その不穏な行動というのは、背後で行われたものだったのです。しかし後ろを向いていたのにも関わらず、あの人は、いの一番にそれに気が付きました」
「た、たしかに」
俺はあのときのワンシーンを想像した。たしかに藍の言う通り、あの井女木という男が一番最初に女性職員に不審な視線を送っていたような気がする。
「今度は私がわざとキャリーケースを後ろに隠したとき」
「あれ、わざとだったんですか?」
俺は声を上げた。
「ええ、いささか行動が軽率だったことは謝罪します。ですが、どうしてもあの人の動向が知りたかったので」
「本当に無茶は止めてくださいよ。あのときはハラハラしたんですから」
「す、すみません」
藍は俺の発言に対して、申し訳なさそうに言った。
気を取り直して、藍は再び話しを始める。
「ですが、おかげであの人がどれほど有能な人間だかを知ることができました。やはり、一番最初に気が付いたのは、あの背の低い男の人だったのです」
「はい、それは自分もよく覚えています」
「そして、不慮のアクシデントにより、スプリンクラーから水が噴射されたとき——」
「あれは我々にとっても災難でした」
「ええ、そうですね」
と、藍は苦笑した。
「あのとき、皆に撤退を命じたのは、なんとあの背の低い男の人だったのです。そして、他の人達も文句一つ言わずにその指示に従いました」
「あれは、仕方がなかったんじゃないですかね? あのまま銀行内に閉じこもっていても、自分達が不利になるだけですし、不本意なところはあるかもしれませんが、潔く撤退したほうが、身のためだ」
「そうだとしても、そんなことを下っ端の人間が皆に指示できると思いますか? 仮にできたとしても、誰も反発せずに従うとは到底思えません」
「うーん」
俺は考え込むようにして唸った。
たしかに、あの状況では撤退以外の方法はあり得ない。しかし、だからと言って、下っ端の人間がそれを周りの人間に指示できるかと言えば——答は否だ。少なくとも、俺はできない。目上の人間にそんなことを指示するのは——。
仮にできたとしても、周りはそんな生意気なことをされたら、良い顔は絶対にしないであろう。なにせ、置き去りにされるような人間だ。そんな下っ端の人間の言うことなど、奴らのプライドが許さないはず。
「たしかに、俺なら無理だ」
「多分、誰であっても無理ですよ。あの状況下で唯一、それができたのは、あの暴腐爛を統括するリーダー的存在の人だけです」
藍はきっぱりと言い放った。
そうなると、なぜ、暴腐爛のリーダーがそんな下っ端の真似事をしたのかが気になる。その疑問を真っ先にぶつけたのは、話に全然入って来れなかった前田である。
「でも、どうしてあの井女木という男は、そんな下っ端のふりをしたのでしょう? 僕にはそこがわからない」
「大まかに言ってしまえば、油断を誘うためです」
「油断——ですか?」
「はい、おそらく、その井女木という方はこういう事態になることを想定していたのだと思います」
「警察に捕まることですか?」
「捕まる——というよりも、自分が囮になる状況ですね」
「ど、どうして?」
俺は急かすように言った。
「元々、その井女木という方は非常に思慮深く、如何なる状況であっても、常に最悪な状況を想定しているような人間なんだと思います。そして、あのとき暴腐爛には、数々の災難が降りかかり、窮地に陥っていました」
「あのスプリンクラーの水ですか?」
「それもありますが——」
藍はにこやかにオリーブを口に含んだ。おそらく、相当話し続けていたから喉が渇いてきたのであろう。
「多分、一番の災難は、あの場に刑事である広瀬さんがいたことではないでしょうか? あのとき、広瀬さんの行動は的確でした」
突然褒められた俺は、どう返して良いのかわからず、顔を赤くしながら押し黙ってしまった。
乙女か——。
「その的確な行動がさらに暴腐爛をどんどん窮地に追い込み、結果、追い詰められた暴腐爛は最後の手段に出ることになります」
「最後の手段?」
怪訝そうに前田が言った。
「はい、それが誰か一人が囮になることだったのです」
「し、しかし、なんでよりにもよってリーダーである井女木が?」
「それは自分達の情報を外に漏らさず、さらには刑務所の中から見事に逃げ果せることのできる唯一の人物だったからではないでしょうか?」
「あの男が——」
あのへなへな風体は、やはり演技だったのか。
「まず、窮地に立たされた暴腐爛はリーダーを囮にすることにします。あの狭い通路です。一人が犠牲になれば、広瀬さんの行動は充分に止めることができたはずです」
「ええ、俺もあいつの身体を張った演技の所為で、暴腐爛の奴らを取り逃がしてしまいました」
「そして、捕まったあの井女木という男性は今度は、貧弱なふりをして、皆さんの油断を誘います」
「たしかに、あの男のペースは異様で、どこか調子を乱されるものがありましたね」
「はい。それがその人の狙いだったのです」
あの巫山戯たやり取りもすべて計算だったのか——。俺は消沈するとともに、奴の舐めた態度に怒りを覚えた。
「井女木という方は今か今かと逃亡の機会を待っていたのです。そして、周りの集中が切れたそのときを見計らい——」
「脱走したと?」
「はい。ある意味ではその貧弱な態度はその隙を作り出す算段も含まれていたのでしょう」
「つまり、僕達はまんまとあの男の掌で踊らされていたのですね?」
「はい。そういうことになりますね」
藍は少し、言い辛そうに言った。
「さきほども言いましたが、駄目な人間を装うのは、秀才を装う以上に大変なことです。それ相応の技術や度胸、場数などが試されます。言ってしまえば、井女木という方は、暴腐爛のピエロのような存在だったのでしょう」
「じゃあ、あの暴腐爛の井女木を見捨てるような態度も——」
「当然、演技だったと思います。暴腐爛は一見、仲間割れを起こしたように装いましたが、実はすべて計算してのことだったのです」
ここにきて、ようやく暴腐爛がどうして、世界であんなに騒がれているのかわかった気がした。
周りの奴らの有能さはもちろんなのだが、それ以上に、仲間同士の連携プレイが何よりも卓越している。咄嗟にあんな演技をしたのだ。常人では到底できる芸当ではない。
「完敗だ——」
俺は気の抜けた声を出した。これほどまでに己の敗北を自覚したことは過去に一度もなかった。だから、精神的なダメージも相当なものだった。
そんな俺の消沈した姿を見かねた藍が言った。
「いえ、たしかに今回は、暴腐爛を取り逃がしてしまいましたが、結果的には大健闘したと思いますよ?」
「ど、どうしてです?」
その藍の言葉に俺は困惑した。
「さきほども言いましたが、あの囮作戦は暴腐爛の苦肉の策でもあったわけです。言ってしまえば、そうせざるを得ないほどに暴腐爛は窮地に立たされていたわけです。そうさせたのは、あのスプリンクラーの事故でもなく、仲間の判断ミスなどでもなく、広瀬さんの的確な行動があったからこそなのですよ」
「で、ですが、結果的に奴らを取り逃してしまいました」
「次があるじゃないですか、ここまで暴腐爛を追い込んだのです。それをバネにして、また次頑張れば良いじゃないですか。そもそも、演技であろうがなんであろうが、暴腐爛の一味を捕まえたという前例すら未だにないのです。世界の警官達ができないことを広瀬さんはやってのけたのです。これはある意味快挙ですよ」
「そ、そうですかね?」
藍の言葉で、どんどん調子を取り戻した俺。自分の単純さを呪いたくなることが多々あるが、逆にこの単純さもときには武器になると瞬間でした。
「はい、また彼らは違う場所で悪さをするでしょう。そのときのために今は力を蓄えておくべきです」
「は、はい! わかりました!」
俺は藍に敬礼をした。
今はこの単純さが、妙に愛おしかった。
それから数日が経ったのだが、署の中はガラガラで、俺と前田はいない人間の分の仕事でてんやわんやだった。
そう、藍が煩っていた病気は、風邪などではなく、インフルエンザだったのだ。
それが署内に蔓延し、ほとんどの人間が倒れて、仕事を休む始末。
幸い(?)俺と前田は直前に藍からもらったオリーブを飲んだおかげなのか、インフルエンザにかかることはなかったのだが、その分、こちらはこちらで地獄を味わう羽目になってしまった。
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