第2話 楽屋の火玉

 バルーン大サーカス団の初日公演は、見事に盛況に終わり、未だに外からは景気の良い声がわいのわいのと聞こえてくる。

 僕は大袈裟に纏められた花束を片手に、北岡真優の楽屋へと向かっていた。

 一年前に暴漢どもから北岡真優を守ったことがきっかけで親密な仲になった。守ったと言っても、刑事という職業に就く僕は、警察手帳をちらつかせただけだったのだが、効果は覿面だった。初めて警察手帳の有り難みを噛みしめた瞬間だった。

 以来、互いに連絡を取り合う関係になり、バルーン大サーカス団の公演の度に、僕は足を運んでいる。

「えっと、真優さんの楽屋は——あったッ!」

 プレートには北岡真優の名前が雑に書かれており、それを見付けた僕は、一気に楽屋に歩み寄った。

 コンコンとドアをノックする。

「真優さん。僕です。前田健二です!」

 自分の名前を高らかに叫ぶ。それを受けて、中から「はーい!」と華やかな声が響いた。がちゃりと、扉が開き、中から出てきた真優の姿を見た僕は赤面した。

 なんと、中から出てきた真優は公演当時の姿——つまり、レオタードを着用した状態であり、首元に浮かぶ汗をタオルで拭っていた。

「あ、前田さん。お疲れ様です」

「お、お疲れ様です。——あの、もしかして、お邪魔でしたか?」

「いえ、今、着替えようとしていたところです」

「充分、お邪魔じゃないですか! ぼ、僕、外で待ってます」

「じゃあ、着替え終わったら呼びますね?」

「は、はい」

 突然の出来事に胸の鼓動が未だに止まない。

 ラッキーと言えば、その通りだが、それでもこう突然と来られたら、心臓に悪い。僕はなるべく自然を装うために、一度、呼吸を整えた。

「どうぞー」

 と、中から僕を呼ぶ声が聞こえてきたので、「し、失礼します」と粛々と扉を開けた。中にいる真優はラフなシャツとハーフパンツを着用していたが、真優の姿を見る度に、さきほどのレオタード姿がちらつく。

「あ、あの——これ」

 と、レオタードの残像に惑わされながらも、僕は真優に花束を渡した。

「あ、有り難うございます」

「今日の公演も素敵でした」

 正直、下心がないと言えば嘘になる。それでも、今は公演を無事に終えて、安堵の様子を見せる真優の姿が何よりも嬉しかった。

「しかし、あの大きな風船はいつ見ても凄いですね」

 バルーン大サーカス団は、その名の通り、色とりどりの風船を用いた芸が有名で、今度、海外公演も決定するほどだ。

「ええ。あれは、劇団が特注した専用の風船なんですよ?」

「公演の最中に割れたりしないか、冷や冷やしましたよ」

 僕の脳裏には、あの巨大な風船の上で、ぽよんぽよんとトランポリンのように跳ねる真優の姿が過った。

「もし、風船が割れたりしたら、危なくないですか?」

「まあ、かなり頑丈に作られていますし、それに私も、なるべく風船に負担をかけないようにしていますから」

「それでも、やはり危険ですよ」

 まあ、こういう劇団に入っている以上、もしもの事態を想像していたらキリがないのは僕も理解している。それでも、やはり、そのもしもが頭から離れない。

「危険なのはお互い様じゃないですか」

 と、真優は笑った。

「私からしたら、サーカスよりも刑事さんのほうが、危険と隣り合わせな気がします。常に危ない人を追ったりしているわけですから、その度に犯人に襲われたりなんてこともあるでしょう?」

「いいえ、真優さんが考えてるほど、そんな緊迫した事態にはならないですよ。少なくとも、銃刀法のある日本では、その危険なんてたかが知れてます」

 僕は精一杯強がって見せた。

 しかし、真優はそんな僕の態度とは裏腹に、表情をさらに曇らせた。

「あのときだってそうですよ」

「あのとき?」

 僕の頭上に疑問符が浮かんだ。

「私を助けてくれたときです」

「あ、ああ」

 いまいち実感がなかったせいか、僕は質素な返事をした。

「あ、あれは別に——。それにやはり目の前で困っている人間を見て見ぬふりはできませんよ」

「それでもたまたま、お酒に酔っただけの人だったから良かったですが、もし、ナイフとか銃なんかを持ってたかと思うと——」

 真優はそう、不安そうに顔を歪めた。

「いえ、仮にナイフや銃を持っていたとしても、僕は真優さんを助けていたと思います」

「ど、どうしてです?」

「どうしてと言われましても——」

 僕は困ったように俯いた。

「それは僕は、刑事である以前に、一人の男であるからですよ。ほ、ほら、やっぱり男って美女の前だとついつい格好付けたくなると言いましょうか——。真優さんは一人の女性としてとても魅力的ですし、憧れますし」

 まるで愛の告白だ——。そう思った僕は、顔を赤く染め、ちらりと真優の顔を見た。真優も気恥ずかしいのか、顔を赤く染めて俯いていた。

 やばい——。この空気は気まずい。

「あ、あのえっと——」

 誤魔化そうにも、すでに取り返しの付かない状況に陥っているので、何を言って良いのかわからずに、あたふたと無理に言葉を絞り出そうとする。

 そんな空気に耐えかねたのか、真優は立ち上がった。

「ちょ、ちょっと飲み物でも取ってきますので、寛いでいてください!」

「え? あ、はい——」

 真優は逃げるように部屋から出て行ってしまった。口調もどこか覚束なかった。

「やっちまった——」

 と、僕はため息を吐き、椅子に項垂れるように座った。

 僕一人になった部屋は随分と静まりかえっており、未だに大きく波打つ鼓動のみが、響いていた。

 ——そういえば。

 いくらか冷静さを取り戻した僕は、あることを思い出していた。

 実はこの楽屋、会場のすぐ隣にある廃校舎を借りている。普段は会場であるテントの中に仮設式の部屋が作られるのだが、今回は場所の関係で、公演の場を作ることを優先してしまい、スタッフの楽屋まで手が回らなかったらしいのだ。

 だから、臨時でこの廃校舎を使わせてもらっているのだが、この廃校舎——実は出るらしい。

 元々、学校という場所はそういったスポットになりがちだが、この学校も例外ではなかった。そもそも廃校になった原因も一般的には少子化の影響で近くの学校と合併したのが理由と言われているのだが、実は裏では生徒の自殺があまりにも多いせいだとか、ここで過去に殺人事件が起きたとか、そんな噂が蔓延っているのだ。

 実際に、この校舎で見た、という証言もある。無論、僕は過去に一度も幽霊なんて見たことはないし、それらの噂を信じているわけではない。

 だが一度、聞いてしまった噂というのは、なかなか頭から離れないものだなのだ。

「お待たせしました」

 扉を開けて真優はペットボトルの緑茶を持ってきてくれた。

「す、すみません。僕の分まで」

「良いんです。せっかく来てくれたのですから——」

 そう言う真優の顔は、どこか青かった。それを見た僕は怪訝そうに訊いた。

「あ、あの顔色があまり優れないようですが、大丈夫ですか?」

「え、ええ。大丈夫ですよ?」

「そ、それなら良いのですが」

 若干ぎこちない返答が、さらなる疑念をかき立てるが、真優自身が大丈夫だと言うのだから、ここは素直に聞き入れることにした。変にしつこくされるのも嫌だろうし——。

 しばらく何を言って良いのかわからないせいか、無言のときが続くが、それを打ち破ったのは、真優だった。

「前田さんは——その、幽霊とか信じますか?」

「幽霊? も、もしかして、見たんですか?」

「い、いえ。その、多分気のせいだと思うのですが——」

 と、真優が言いかけたときだった。

 廊下のほうから突如、「きゃァ!」という切り裂くような声が響いたので、僕と真優は顔を見合わせて、勢い良く立ち上がった。

 ——ま、まさか、本当に幽霊?

「と、とにかく声のほうへ行ってみましょう!」

「は、はい!」

 僕は真優の後に続いて、走り出した。



 暗い廊下には、真優と同じ、空中曲芸担当の河野美咲がレオタード姿のまま、うずくまり震えていた。

 その横に、音楽担当の小野田清、ピエロの中野太郎が真っ青な顔で立ち尽くしていた。

「み、美咲ちゃん、どうしたの?」

 美咲に駆け寄る真優。

「せ、先輩——あれ」

 そう、美咲は涙目になりながら、部屋内部を指さした。その指先をなぞるように、僕と真優は部屋の中に目をやった。

 その凄惨な光景を見た真優は、驚愕のあまり口を手で覆った。

 そこには、腹をナイフで刺されてた男が、血溜まりを作って倒れていた。

「あ、あれは——誰ですか?」

 僕は恐々と真優に訊いた。

「あの姿は——照明担当の喜代田健太さんです」

 震える口調で真優は答えた。

「ど、どうする?」

「ど、どうするったって」

 太郎と清はどうして良いのか、わからず顔を見合わせていた。

 僕もまさか、こんな事態に立ち会うとは思ってもいなかったので、未だ心ここにあらずと言った感じで立ち尽くしている。

 だが、僕は刑事だ。こんな無様な恰好を真優に見せるわけにはいかないと、拳を握りしめ一歩踏み出した。

「皆さん、落ち着いて下さい! 僕は警視庁捜査一課の刑事です!」

 僕は胸ポケットから警察手帳を取り出し、皆の前で掲げた。それを見た瞬間、そわそわしていた周りは一気に静まった。

「ほ、本当に?」

「ほ、本当です! 前田さんは刑事さんです!」

 疑念を露わにする清に向かってフォローするように真優が言った。

「とりあえず、応援が欲しいので、警察——それに救急に連絡を!」

「は、はい!」

 と、さきほどまでしゃがみ込んでいた美咲が勢い良く立ち上がった。

 僕はなるべく、部屋を荒らさないように、ゆっくりと入って行った。内部を良く見てみると、最初は遺体に気を取られていて気が付かなかったのだが、なんと、ドアや窓には、すべてガムテープが内側から貼られており、完全な密室状態になっていた。

 入り口にも、当然ガムテープが貼り付いていた跡がある。

「この異常に一番最初に気が付いたのは?」

「えっと、美咲ちゃんです。最初は中から鍵が掛かって開かないと言われたんですけど、この部屋にはそもそも鍵なんて付いていないので、妙だと感じて僕も美咲ちゃんと一緒に駆けつけたのです」

 困惑したように太郎。その後に続くように清が言った。

「そこに偶然、俺が通りかかったんで、太郎さんと俺で力任せにドアをこじ開けました。そしたら——」

 この現場を垣間見て、美咲が悲鳴を上げ、それで僕と真優が駆けつけたということか——。

「内部はすべてガムテープで目張りしてあります」

「ということは自殺でしょうか?」

「何とも言えません」

 僕は他に出入りできそうな場所はないかと、辺りを見回した。

 すると、端のほうに換気扇があった。ここだけはガムテープで塞がれていない。

 中を覗いてみると、微かに隙間が空いている。ここから糸か何かを通して、テープを貼ることはできないか?

 そう考えた僕は、窓に貼られたガムテープをまじまじと見つめた。

 駄目だ。かなり頑丈に貼られており、糸や紐のような、か細い物を利用して貼ったとは到底思えない。

 換気扇程度の穴からどうにかできるレベルだ。明らかに手を使って内側から目張りをしたと考える他ない。

 やはり自殺なのだろうか?



 しばらくして悶々としている僕の元へ、応援が駆けつけてくれた。

「せ、先輩!」

 このような不可解な現場、僕一人ではどうにもできないと感じ、僕の先輩である広瀬一樹にすがり付くような視線を送る。

「情けない声を出すな! 状況を説明しろ!」

 と、一樹は一括する。

 僕はこの部屋が密室であったこと、どうやっても内側からガムテープを貼る方法がないことを細かく説明した。

「やっぱり、自殺でしょうか?」

「何とも言えん。遺書は見付かったのか?」

「いいえ」

「自殺に結びつきそうな動機は?」

「ありません。喜代田健太は普段と変わらず意気揚々としていたそうで」

 眉をハの字にして僕は言った。

「もし、殺人だったのならどうやって、部屋内部から目張りをしたのでしょう? 唯一仕掛けを施せそうな箇所は、あの換気扇だけですが」

 と、換気扇を指さす。それを見た一樹は得意げに言った。

「ったく、お前もまだまだだな。何も犯人があの換気扇の穴を使って細工をしたとはかぎらないだろう?」

「と、言うと?」

「犯人は部屋の外から掃除機のような機械を使い、ガムテープを吸引したんだ。そうすれば、外側からでも目張りをすることは可能だろう?」

「でも、ドアや窓にはそんな吸引できるような隙間は空いてませんよ?」

「じゃあ、ドアのガムテープは最初から貼られてなかったんだ。後から入ってきた来た人間が、あたかもテープはドアに貼られていたと錯覚させられていたんだ」

「ドアは清と太郎の男二人で、何度も体当たりをしてぶち破ったそうですよ? そんな細工はすぐにばれてしまうのでは?」

「じゃあ、ドアに何か簡単に開かないような細工が——」

「破られたドアや窓を調べてみましたが、何か細工をしたような跡はまったく見られませんでした」

「じゃあ、糸を使ってドアの隙間、或いは換気扇の穴から——」

「それ、さっき僕が言いましたよね? しかも、ドアにだってそんな細工ができる隙間はないと——」

「なんでお前は俺の出鼻を挫くようなことばかり言うんだ! こんなときばかり、入念に調べやがって!」

 逆ギレされた——。

 要するに一樹もお手上げということらしい。それを証明するようなことを一樹は呟いた。

「やはり——自殺、なのか?」

 ムムム、と難しい顔をする一樹を横目に、僕は余計なことを言うまいと口をつぐんだ。また怒鳴られるのは嫌だし——。

 と、僕はあることを思い出した。この重くなった空気を何とか払拭するべく、僕は陽気な声で言った。

「そういえば、先輩? この廃校舎って実は出るらしいんですよ。もしかしたら、喜代田健太を殺したのは誰かの怨霊だったりして」

「んな馬鹿なことがあるか! この阿呆!」

 結局怒鳴られた。

 その僕らのやり取りを見ていた清が「ヒィ!」と声を上げた。

「あ、あのやはり幽霊が喜代田さんを殺したのですか?」

 顔を青くした清は、何か引っ掛かるような物言いをする。そんな不審な発言を一樹は見逃さなかった。

「やはりとはなんだ? お前、何か喜代田が殺されるような動機を知っているのか?」

「い、いえ、知りません!」

「じゃあ、なんでそんな含みを持った言い方をした? さてはお前、何か知っているな?」

「い、いえ、その——」

 一樹の鬼気迫る表情を前に、必死に目を反らし、誤魔化そうとする清。だが、ここまで来たら一樹も食い下がらない。さらに清にズズっと迫る。

「何か知っているなら言え! じゃないと逮捕するぞ?」

 これ以上ないほどの脅迫だった。それを聞いた清は、さらに顔を青くして「言います! 言いますから!」と慌てた。少し気の毒だ。

「じ、実は事件の少し前に、現場のすぐ隣を横切ったのです。そしたら」

「そしたら?」

「その喜代田さんの部屋からひ、火の玉が見えたのです!」

「火の玉ァ?」

 訝るように唸る一樹。それを見て清は懇願した。

「ほ、本当です! 嘘じゃないです。信じて下さい!」

「ちなみに、あなたはそのとき一体、何をしに行っていたのですか?」

「め、メガネを探しに——。今はコンタクトなのですが、普通に過ごすときはいつもメガネなので——」

「ちなみにそのメガネはどこに?」

「そ、それは——」

 再び、気まずそうに顔を反らす清。それを見た一樹は「懲役何年が良い?」と凄んだ。

「あ、頭の上です! 頭の上にあったのを気が付かずにずっと探してましたァ!」

「あ、頭の上ぇ~?」

 その発言を聞いた僕は、不覚にも吹き出しそうになった。漫画やアニメではお馴染みのシーンだが、まさか現実でそれをやられると少し滑稽に映ってしまう。

 清は顔を真っ赤にして「だから言いたくなかったんですよ」と言った。



 なかなか良い考えが浮かばず、しばらく僕、一樹、清の三人は現場の前で立ち尽くしていた。よほど、火の玉が恐ろしかったのか、清の顔はまだ青い。

 そんなときだ。外にいた警備員が声を荒げてこちらに向かってきた。

「刑事さん! 怪しい人間が外でうろついていたのですが——」

「怪しい人間?」

 一樹は怪訝そうに言った。

「どうしましょう? 団員の人間ではないみたいなのですが」

「よーしわかったここに連れて来い!」

「わかりました!」

 と、警備員はさっと電光石火の勢いで駆けて言った。

 しばらくして、「ひぃ! ぶ、ぶたないで!」という女性の声が聞こえてきた。その声に一樹は聞き覚えがあるのか「ん?」と首をかしげた。

「良いからこっちに来るんだ!」

 と、警備員は涙目の女性を無理矢理引っ張ってきた。

 見た目はまだ若く、二十代前半くらい。下手したら十代の可能性もある。化粧っ気のまったくない女だ。首からロザリオが下がっており、なぜか、大きなキャリーケースを持っていた。

「わ、私は落とし物を拾っただけで、決して怪しい者では——」

「じゃあ、なぜその落とし物を渡そうとしないんだ! やましいことがないなら、とっとと渡したらどうだ!」

「だ、だって、これ——さすがに」

 と、女は気まずそうに言った。

「ますます怪しい」

「ひぃ! し、信じて下さい!」

 警備員と女性のやりとりを見てたときだった。隣から「あい——さん?」と、一樹の呆けたような声が聞こえた。

「あ、広瀬さん! 助けて下さい!」

 と、女性も一樹の名字を叫んだ。もしかして、知り合い——?

「あいさんじゃないですか!」

「あのこちらの女性は先輩の知り合いですか?」

 僕はきょとんとした顔で言った。一樹は「ああ」とどこか気まずそうに言った。

「この前の城之崎の家が全焼した事件あっただろう?」

「あ、あの自分で家を放火したという?」

「ああ、あの事件は自殺じゃなくて事故だったんだが、その事件を解決したのが、この藍愛子さんなんだ」

「はぁ?」

 間抜けな声を上げる僕。

 一樹の言葉を聞いた、あいという女性は「そうです。私があの事件を解決した藍愛子です!」などと得意げに言うが、この人は今、自分が置かれている状況をまったく理解していないのか?

「で、その落とし物というのは一体?」

 僕は目を丸くさせて言うも、「いや、さすがにこれを男性には渡すわけには——」などと顔を赤らめる藍。

「で、ですが藍さん。今のこの状況下で下手に隠し事をするのは得策ではありませんよ?」

 一樹も優しい口調でフォローする。さきほどの清の態度とは雲泥の差がある。

「な、なぜでしょう?」

 と、藍が困惑しながら言ったので、一樹はここまでの顛末を丁寧に説明した。

「ああ、そんなことがあったのですね」

「はい。ですから、やましいことがないでのであれば、その落とし物というのを見せて頂けませんか?」

 その一樹の懇願するような表情に負けたのか、藍は「し、仕方ありません」と、気まずそうにポケットの中から一枚の布を取り出した。一瞬、ハンカチかタオルかと思ったのだが、藍がその布を広げて、僕達は赤面して顔を背けてしまった。

 なんと藍が拾った落とし物というのは、さきほど、このサーカスで使われていたレオタードだったのだ。

「私もさきほど公演を見ていましたので、もしかしたらと思って、ここに来たのですが」

 たしかに、これを男性から渡されるのは気まずいものがある。しかし、なんでこんな物が落ちていたのだろう?

 その光景を前に、「あ、あッ——」と吐息のような声が聞こえてきた。真優の後輩である美咲だった。

「そ、それ私の——です」

 そう赤面しながら美咲は言った。

「な、なにぃ?」

「す、すみません! さっきのことがあったから、ここで一人で着替えるのが怖かったんです。ですから明るい外で着替えたのですが」

「そ、外って人目もあるのですよ?」

「そ、その誰にも見られないようにすぐ着替えたんです。そのときに多分、落としてしまったみたいで」

 いくら室内で着替えるのが怖いとは言っても、人目がある外で着替えるとは、この子も結構大胆だ。

「ほ、本当にすみません!」

 そう何度も頭を下げる美咲。

「い、一応殺人犯がうろついているかもしれないので、気を付けて下さいね?」

「は、はい——」

 そう粛々と美咲は藍からレオタードを受け取り、再度、頭を下げて去って行った。

「あ、あのぉ」

 と、その怒濤のやり取りを見ていた清が横から入ってきた。すっかり、存在を忘れていた。

「そ、そろそろ行っても大丈夫でしょうか? 仕事が残っているので——」

「ああ、良いぞ。ただし」

「た、ただし?」

 清は一樹の言葉に固唾を呑んだ。

「ここが密室であったことは他言するなよ? 幽霊だなんだと騒がれたら、捜査にも支障を来すからな」

「わ、わかりました。善処します」

「もし、そのことを吹聴したら——」

「ふ、吹聴したら?」

「お前をそのまま、処刑台に送ってやる」

「は、はいぃぃ! 絶対、誰にも言いません!」

 そう清は軍隊のような敬礼を一樹に向けた。

「宜しい。行け!」

「は、はい! 失礼します!」

 まず、犯人逮捕の前に、一樹が脅迫罪で捕まるほうが先のような気がしてきた。



 我々は何か、犯行に使えそうな物はないかと、真優に道具置き場を案内してもらうことにした。

「す、すみません。無理言っちゃって」

「いいえ、事件解決のためです。全然問題ありません」

 真優は穏やかに言って見せた。本当に天使のような人だ。

 真優の後を僕、一樹——なぜか、さらに後ろから藍がくっついて来ている。

「せ、先輩——」

 と、僕は一樹に耳打ちをした。

「なんだ?」

「なんで、藍さんまで一緒に来ているんですか?」

「藍さんは前の事件も見事に解決したんだ。もしかしたら、解決までは行かずとも、何か良い案を提示してくれるかもしれない」

「で、でも彼女、一般人ですよね? 大丈夫なんですか、警察と関係ない人間が捜査に関わったりして——」

「それは俺が許す。事件解決のためだ。背に腹は代えられない」

 どんどんこの人は、無茶苦茶な行動に出ている。でも、これでも検挙率はトップクラスで、周りからも信頼されている優秀な刑事なのだ。

 とにかく、利用できそうな物は利用する。それが広瀬一樹という男で、結果的にその心情が事件解決に結びついているのも事実。だから、この人の言うこともあまり、無碍にはできない。「着きました。ここです」

 薄暗い部屋の前で我々は立ち止まった。

 真優は、電気のスイッチを入れる。すると、僕達の目の前は一気に明るくなり、そこから色とりどりの風船が見えた。

「おお!」

 と、こんな事態なのにも関わらず、僕は喜々とした表情をした。なにせ、サーカスの道具をちゃんと見るのは生まれて初めてだったので、こちらも興奮を抑えることができなかったのだ。

「凄いですね。色々な道具が揃ってる」

「おい、事件の捜査に来ているんだぞ! 浮かれるな」

「は、はい。わかってますよ」

 一樹に怒られ、びくりと肩を震わせる。

「わァ、サーカスの道具なんて初めてです」

 と、後ろから入ってきた藍も僕と同じような反応をする。しかし——。

「ですよね。ちょっとこういう場所に来るとわくわくします」

 などと、笑顔を向ける一樹。この僕との態度の差は一体なんなんだ?

 藍はまるで子供のような表情で、中を見て回る。

「こういった大きな風船は、どこで仕入れてきているんですか?」

「それは、特注で作ってもらっているんです。かなり強度もあって、最長で五メートルまで膨らませることができます」

「凄いですね。でもこんな大きな風船を膨らませるとなると、相当時間がかかるのでは?」

「いえ、専用の電動エアポンプがあるので、それで膨らませれば、一分もかからないんです。あ、あれですね」

 と、真優は指さして言った。そこにはまるで、小学校で使うライン引きのような機械が置かれており、藍はそれに一目散に駆けて行った。

「あまり見かけたことのない機械ですね」

「ええ。これも特注です。それを使えば、風船を短時間で膨らませると同時に、萎ませることもできます。試してみますか?」

「え? 良いんですか?」

「はい」

 と、真優は近くにある風船を手に持ち、それを機械に取り付けた。「いきますよー?」という声と共に、スイッチが入り、風船は瞬く間に膨らむ。

「物凄く早いですね。しかも音も静かだ」

 その光景を見て、僕は驚愕した。

「はい、演技をしているときはなるべく不要な音はさせたくないですからね。なので、音もなるべく抑えるように業者に依頼したのです」

「最近では音が静かな掃除機なんかもありますしね」

「はい、そういった技術を応用して作っているのかもしれません」

 さすがに真優も、エアポンプの構造自体はどうなっているのかわからないらしい。まあ、そっちは専門外になってしまうだろうから、仕方ないのだが——。

 その後も僕らはサーカスの道具を見て回った。

 ジャグリングのボールやクラブ、ディアボロ、ナイフ——その気になれば、密室構築に使えそうな物が結構ある。

 さらに空中ブランコを発見した僕は、驚愕したように声を上げた。

「せ、先輩! これ、密室構築に使えそうじゃないですか?」

「これを?」

「はい。このブランコに付いている紐を応用すれば、あの換気扇の穴からでもガムテープをぴっちりと貼ることができるのではないでしょうか?」

「お前なぁ」

 一樹はため息交じりに言った。

「それをどう使ったんだ?」

「た、例えば、こう窓拭きをするような感じで」

 そう紐を持つ手を左右させる僕。それを見た一樹は「阿呆か!」と怒鳴った。

「あんな換気扇の隙間からその紐を通して、そんな器用にできるか!」

「な、なんとかして——」

「仮に——」

 と、藍が口を開いた。

「もし、前田さんの言う通りのことを犯人がやったとしたら、換気扇のプロペラや穴の部分に、擦った傷や跡などが残ってしまうのではいでしょうか?」

「た、たしかに——」

「ちなみに、換気扇の穴を調べましたが、それらしき傷や跡はなかったですね」

「もし、そうなるとそこにあるディアボロやジャグリングの道具なども使えなくなってしまいます」

 藍の発言がよりいっそ僕に重くのしかかってきた。

「じゃあ、犯人は一体どうやって?」

「そもそも、現状で犯人がいることは確定しているのですか?」

「い、いいえ」

 たしかに僕らは、遺書や自殺の動機がないことから、勝手に殺人と決めつけていたが、果たして本当に殺人なのかも疑わしくなってきた。

「い、一度戻りませんか?」

 消沈した場を見ていた真優が、さすがにこの空気に耐えかねたのか、宥めるように言った。

「そ、そうですね」

 僕らは一度、真優の言う通り、楽屋に戻ることにした。



 楽屋へ戻った僕らを待ち受けていたのは、人々の恐怖と絶叫の渦だった。

 なんと、現場が密室殺人であることが周囲に漏れていたのだ。それを見た一樹は目を尖らせ、清を睨んだ。

 清は、必死に首を横に振り、自分が言ったわけではないことをアピールする。

「仕方ないですよ。あのときの目撃者は彼だけではありません」

 僕はため息交じりに言った。

 そう、当時の目撃者は清の他に、太郎、美咲、真優がいる。この三人から話が漏れる可能性だって充分にある。いや、真優にいたっては、さっきまで僕らと一緒にいたから、そんな余裕はないか——。

「ゆ、幽霊だ! きっとこの学校にいる怨霊に喜代田は殺されたんだ!」

 と、中心で叫んでいるのは、大道具担当の森瀬誠だった。こいつが率先して吹聴しているのだろう。

「部屋がガムテープで塞がれていたんだ! こんな異常なことがあるか?」

 誠の話を聞いて、皆は顔を青くする。まあ、たしかにこんな曰く付きの場所でこんな事件が起きたら、誰だって幽霊や怨霊なんてものを想像するだろう。

 それに例の火の玉のこともある。あれは本当に存在したのだろうか?

「あ、あの——」

 と、後ろから真優が僕の肩を叩いた。

「ど、どうかしましたか?」

「そ、その——少し、お話を聞いてもらえませんか?」

「え? あ、はい。大丈夫ですよ?」

「じゃあ、楽屋へ」

「え? ここじゃないのですか?」

「できれば、周りの人にはあまり聞かれたくない話なので」

 どこか落ち着かなそうな雰囲気だ。そんな色っぽい真優の姿を見た僕の胸は高鳴った。

「わ、わかりました! すぐに向かいましょう!」

 緊張のせいか、声が裏返ってしまった。

「あ、ありがとうございます」

 僕は真優に連れられて、楽屋の中に入った。

「で、その——話というのは?」

 早鐘を打つこの心臓をとにかく抑えながら、僕は真優の言葉を待った。

「あ、あの——最初は馬鹿なことだと思って誰にも言わなかったんですが」

「事件のことですか?」

「ええ」

 どうやら、愛の告白ではないようだ。少し僕は肩を落とした。

「そ、その信じられないかもしれないのですが——」

「何でも言って下さい。僕は真優さんの話を信じてますから」

 そう、僕は笑顔を向けた。それを見た真優はいくらか安堵したのか、一呼吸置いて、話し始めた。

「実は私、見ちゃったんです——」

「誰か怪しい人物を?」

「い、いえ、なんと言ったら良いのか——その、人魂を」

「ひ、人魂?」

 さっき、清も火の玉を見たと言っていた。今度は真優が人魂を見たと言った。

「そ、それはもしかして」

「はい、喜代田さんの遺体が転がっていた、あの部屋で見たんです」

 まさか、清の他にも目撃者が出てくるとは思わなかった。

「す、すみません! 何度言おうとしていたんですが、あまりにも馬鹿馬鹿しかったので言えずにいたんです!」

「ちなみに、真優さんが人魂を見たのはいつ頃ですか?}

「丁度、この部屋を出て、前田さんにお茶を持ってきたときです。飲み物がある場所へはあの現場を横切らないといけないので」

 ——ああ、だからあのとき、帰ってきた真優の顔は青かったのか。

「事件解決には何の役にも立たないと勝手に決めつけた軽率な行動です。申し訳ありません」

 と、真優は頭を下げた。今日は何度も女性に頭を下げられる日だ。

「いえ、よく話してくれました。それにもしかしたら、何か重要なことがわかるかもしれません。他にも何か気が付いたことがあったら、お願いします」

 そう、僕は手帳をしまい、重い腰をさっと上げた。

 その光景を見た真優は、頬に紅を散らしながら言った。

「ようやく前田さんの刑事としての仕事が見れました」

「別に、サーカスに比べれば地味ですよ。暇なときはコーヒーとタバコが相棒なんですから」

「いえ、それでも私の仕事ばかりを見てもらってて、前田さんの仕事風景も見てみたかったので」

「そんな大したもんじゃいです。それに僕はまだぺーぺーですから」

 そう戯けてみせる僕。

「でも、さっきの現場を指揮する前田さん——凄く素敵でした」

「あ、ありがとうございます」

 再び、僕の中には邪な考えが浮かんだ。

 

 

 僕は、真優、美咲、清、太郎を連れて現場に再び訪れていた。

「す、すみません。気持ちの良い光景ではないのですが、どうしても事件解決のために必要なことなので——何か、この部屋で変わったことや変わった箇所などがあれば教えて欲しいのですが——」

 さっそく捜査が行き詰まってしまい、猫の手すら借りたい状況だったので、僕は当時の目撃者のみを引き連れたのだ。あまり、大勢に見せて、ひっちゃかめっちゃかになるのも嫌だし。

「変わった箇所ねぇ」

 と、太郎は困ったように部屋を見渡した。

「そんなことを急に言われても、喜代田の部屋なんてほとんど訪ねたことがないから、わからないですよ」

「何でも良いです。どんな小さなことでもわかれば」

「うーん」

 返って周囲を困惑させていることに気が付いた僕は、やぶ蛇だったか——と、危惧するも、美咲が「あ、そういえば」と声を上げたので、一斉に視線がそちらへ向けられた。

「私、公演前に、この部屋で喜代田さんと談笑していたんですけど、あの花瓶の位置が——」

 と、美咲の指さす方角に僕は目を向けた。そこには割れて使えなくなった花瓶が置かれていた。

「ちょっと不吉な感じがしたから、記憶に残ってたんです。あの花瓶、たしか入り口の前じゃなくてあの換気扇の真下にあったような気がしたんですが」

「そ、それは本当ですか?」

「え、ええ」

 美咲は戸惑いながら答える。僕は美咲の発言を手帳にメモする。

「あ、そういえば、あれも——」

 今度は清が声を上げ、入り口周辺を指をさした。そこには、割れて使えなくなった掛け時計が置かれていた。

「あれも窓の真下に放置されていましたね」

「あなたもこの部屋を訪れたのですか?」

「訪れたというか、楽屋がこの廃墟に決まったときに、僕ら数人でちゃんと楽屋として使えるか視察したんです。たしか、真優ちゃんも一緒じゃなかったっけ?」

「あ、はいたしかにそうですね」

 と、清に言われて、真優が反応する。

「ですけど、私、まさかこんなことになるとは思わなかったから、そんな良くは見てないです。あ、でも——」

 真優が何かを思い出したように言ったので、「な、何か変わったことでも?」と僕は急かすように訊いた。

「あそこに賞状が額縁に入れられて飾られていたんですが——あれ、ない?」

 と、きょとんとした面で換気扇のある方角を指さす真優。

「た、たしかですか?」

「はい、女子バレー部が大会で優勝——みたいな感じの賞状が飾られていたんです。私、中学の頃バレー部だったので、妙に印象に残っていたんです」

「賞状、賞状——」

 僕はそう呟きながら、部屋を見渡した。すると、その賞状と思しき物が、入り口の前に横たわっていた。しかも、そこにはバレー部という文字もちゃんと刻まれている。

「も、もしかしてこれですか?」

「あ、はい! これです!」

 真優は指さして言った。

 その賞状は額縁に入れられており、かなり黒ずんでいた。しかも、ところどころ額縁が割れており、賞状も文字が霞んで、何の大会で優勝したのかまったく読み取れなくなっていた。

「でも、なんでこんな場所に?」

「しかも、移動させられた物は、すべてどこかが割れて破損している物ばかりだ」

 それもまるで、換気扇や窓から遠ざけるようにして——。これは偶然ではない。

「もしかしたら喜代田さんが移動させたのでは?」

「でも、何の理由で?」

「さ、さぁ」

 清に指摘されて、どもる太郎。それを尻目に、僕は換気扇をただひたすら凝視していた。

「とりあえず、これは何かの証拠になるかもしません。ご協力ありがとうございました」

 僕は頭を下げた。

 一同は、解散し、各々の持ち場へと帰って行った。



 有力な証言が手に入った、と思った僕は急いで一樹の元へ向かった。

 一樹は大道具担当の誠を説教していた。

「いい加減な噂を流して、捜査を混乱させるなッ!」

「す、すみません」

 と、誠は何度も頭を下げる。

 その光景を見ていた僕は、少し気まずそうな顔をして、一樹に近寄った。

「あ、あのォ——先輩?」

「なんだ!」

 一樹は鬼のような面を僕に向ける。僕は「ひぃ! すみません!」と情けない声を出した。

「第一発見者の人達から新たな証言を入手したので、お話しようかと——」

「おお、なんだ!」

 一樹は喜々とした表情にコロリと変わった。

 僕は換気扇や窓の前に置かれていた、割れた花瓶や時計、額縁入りの賞状が何者かの手によって移動させられていたことを話した。

「で?」

「でって?」

「それだけか?」

「え、ええ、それだけですが——」

 なんとも嫌な空気が僕を包んだ。

「そんなもん、証拠になるかッ!」

 と、一樹は激昂した。

「で、ですが、換気扇からまるで遠ざけるように物が移動させられていたのですよ? これって何かの手掛かりになるんじゃあ——」

「だとしてもだ。それを犯人自身が動かしたという証拠はあるのか?」

「い、いえ」

「もしかしたら喜代田自身が動かしたという可能性は?」

「あると思います」

「じゃあ、それで喜代田が自殺したのか、それとも誰かに殺されたのか、わかるのか?」

「いいえ、まったく——」

「じゃあ、駄目じゃねーかッ! まったく現状の打破に繋がってない!」

 いくらなんでも無茶苦茶だ。そんなにすぐ現状を打破できるような証言が得られるはずもないだろうに——。

 そう、悶々としていたら、後ろから「まぁまぁ」と落ち着いた声がした。藍だ——。

「そんなに焦っても事件解決はできませんよ?」

「し、しかし——」

「ここはゆったりと落ち着いて、話しの流れを一度整理してみるべきだと思います」

「は、はぁ」

 なぜか一樹は藍の前だと、妙にしおらしくなる。藍という人も、この頑固な人間を制御するとはなかなかの手練れだ。

「まず、皆が最後に喜代田さんを目撃されたのはいつ頃なのでしょうか?」

「公演が終わった直後ですね。そこから喜代田の遺体が発見されるまで、誰も見ていません。多分、時間にすると一時間くらいのことじゃないですかね?」

「じゃあ、犯行はその一時間を使って行われたということですね?」

「は、はい」

 戸惑ったように言う僕。なぜだか、一樹よりも受け答えがし易いことに感動を覚えた。

「ガムテープで内側からすべての扉や窓を目張りすること自体は可能ですね」

「ですが、犯人がもしいるのであれば、その目張りされた密室から忽然と消えたことになります」

「しかも、唯一、細工を施せそうな換気扇には、傷や跡は一切付いていません。となると、換気扇を使って何か細工を仕掛けたという可能性もなくなります」

「それはどうでしょう?」

 と、一樹の発言を否定する藍。

「密室構築に使われた素材によっては、可能だと思います。何か柔らかい綿や布のような材質であれば——」

「まあ、不可能ではないですが——ですが、そんなペラペラな物で一体、どうやって内側からガムテープを貼り付けたのでしょう?」

「それはまだわかりませんが——。しかし、私には今回の事件は自殺ではなく、他殺のように思えて仕方がないのです」

「そ、それはなぜ?」

 僕と一樹は驚愕した。

「喜代田さんのお腹には刃物が刺さっていました。もし、喜代田さんが何かを苦に自殺をしたのであれば、決してそんな死に方はしません。もっとこう飛び降りとか、首つりのような確実且つ手っ取り早い方法を取ると思うのです」

「なぜでしょう?」

「本来、切腹自殺を図る人間の心理というのは、何かを詫びる気持ち——つまり、何かの罪の意識に苛まれてやてしまう行為なのです。これは、かつて日本で切腹という刑罰があり、それを模したものだと言われています。罰というように、このやり方にはそれ相応の苦痛が伴います」

「で、ですが、自殺の方法なんて、これから死のうとしている人間がいちいち考察なんてしますかね?」

「いえ、むしろこれから自殺する人間だからこそ、死に方を真剣に考察すると思います。誰だって自殺の失敗は避けたいですし、悶え苦しむのだって遠慮したいはずです」

「た、たしかに——」

 僕は自殺を考えたことはほとんどないが、それでも、仮に自殺をするとなれば、もっと楽な死に方が良いと思う。

「切腹自殺というのは、大変な苦痛も伴いますし、自分で刺すとなると、刺されるようりもずっと成功率が下がってしまいますので、一般的には選ばない方法です。そして何より、これから自殺する人間がそんな流暢にガムテープで目張りをしている時間的余裕があるかどうかです」

「時間的余裕?」

「もし、自殺だった場合、一番避けたいのは、誰かに発見されて止められることです。それだけは何とも避けたいはずです」

「た、たしかにそうですね。自殺を阻止されたら、苦しむのは自分だ」

「はい、ですから自殺をするのであれば、誰も人目の付かない場所でするか、それとも、手っ取り早く済ませるかのどちらかです。まあ理由はどうあれ、そんないちいちガムテープを貼っている余裕など時間的にも精神的にもないはずです」

 たしかに、そもそもこんな人のいる中で自殺をするというのも、少し異様だ。尚且つその中で、いちいちガムテープを貼り付ける行為も——。誰かに発見されてしまったら元も子もない。

「ですが、それは事件が殺人だった場合、犯人にも同じことが言えるのではないですか?」

「いえ、犯人からしたら自殺に見せかけるためのカモフラージュにはなるんじゃないでしょうか? 少なくとも犯人は藁にもすがる思いだったはずです。自殺に見せかけるようにするなら、ある程度のリスクは厭わなかったと思います」

「た、たしかに——自殺する人間がする意味はないが、犯人の立場になってみれば、カモフラージュという立派な理由に繋がる」

「そうですね」

 藍の発言で、自殺説が一変し、再び浮上する殺人説。しかも、可能性の一部とはいえ、かなり説得力のある内容だ。

 だが、僕はこの藍の語った内容以上に、その警察をも凌駕する洞察力に驚愕していた。こんな一見、穏やかな表情をした女性がここまで深い考察をするとは——。



 現場付近に行くと、ピエロの太郎が正座をさせられていた。その前には閻魔大王のように、眉を吊り上げている一樹がいた。

「お前が事件のことを話したんだってな」

 ああ、あの幽霊騒ぎは太郎が諸悪の根源だったのか、その噂は太郎から誠に広がり——。

「で、ですが、僕は喜代田が幽霊に殺されたと言っただけで、それ以外のことは何も——」

「ガムテープの密室のこともか?」

「そもそも扉や窓がテープで目張りされてたなんて今知りましたよ。僕、あのとき怖くて部屋の中に入れなかったんです。それなので、あの部屋が密室だったということも僕は知りませんでした」

「じゃあ、あの二人のどちらかが——」

 唸るように一樹は言った。おそらく、真優と美咲のことだろう。

「ヒクッ!」

 と、そのやり取りを側で見ていた藍が、突如、しゃっくりのような声を出した。藍は口元を抑えながら、「あら、失礼」と穏やかに言った。

「とにかくだ! 今度、捜査を錯乱させるようなことをしたら、お前も牢屋にぶち込んでやるからなッ!」

「は、はい」

 ピエロの太郎はへこへこと何度も頭を下げた。少し気の毒だ。

「まあまあ、広瀬さん。少し落ち着きましょう」

 藍はそんな怒り狂っている一樹の肩を、ポンポンと優しく叩いた。

「で、ですが——」

「こんな息苦しい場所で色々考えているから、ストレスになってしまうのです。ここは一度表に出て、お茶にしませんか?」

「へ?」

 僕は、その藍の発言に対して、素っ頓狂な声を上げた。



 外に丁度座れるベンチがあったので、僕と一樹と藍はそれに腰掛ける。

 藍はいつも欠かさずに持ち歩いているキャリーケースを取り出し、それを開けた。中には、なんと色とりどりのティーカップやポットが入っており、それを見た僕は驚愕したように言った。

「い、いつもそんなのを持ち歩いているのですか?」

「はい」

 と、藍は短く返す。僕の隣に座る一樹はいたって冷静である。もしかして、見慣れているのだろうか?

 藍は僕と一樹にティーカップを渡し、その中にポットで謎の液体を入れた。

「こ、これは?」

 その謎の液体の正体が気になったため、僕は恐々と藍に訊いた。

「カモマイルです」

「か、かも——?」

「ハーブティーのことだよッ! 見てわからんのか!」

「いや、わかりませんて」

 僕の隣で目を吊り上げる一樹。そんなに怖い顔にならなくても良いのに——。

「カモマイルはペパーミントと並んで非常にポピュラーなハーブで、ローマンカモマイルとジャーマンカモマイルという二種類が存在します」

「ちなみにこれは?」

「ローマンカモマイルです。ローマンカモマイルの特徴はこのフルティーな香りで、ジャーマンカモマイルは若干の甘みがありますね」

「ふ、フルティー?」

 ハーブティーのことなど、まったくわからない僕は、何度も香りを嗅ぐが何がどうフルティーなのかわからない。

「いやぁ、本当に良い香りですね。藍さん」

 隣に座る一樹は、ソムリエのように香りを吸い込む。本当にこの人はわかって言っているのだろうか?

「カモマイルの効能は主に、ストレスや不安、不眠など。他にも吐き気や食べ過ぎ、食欲がないときにも効果を発揮し、身体を温める作用もあります。カモマイルはキク科の植物でお茶に使う箇所は花の部分となっており——」

「あ、そ、そうなんですか! 勉強になります!」

 僕は無理矢理に藍の話を断ち切った。このまま延々とハーブティーの解説をされたら、堪らないので——。

「そ、それで——」

 と、ここで一樹が柄にもなくしおらしい口調で言う。

「今回の事件、藍さんはどう思います?」

「——大道具の森瀬誠さんが犯人だと思っています」

「へ?」

 あっさりと、とんでもないことを暴露され、僕と一樹は思わず驚愕した。

「えと、ちょっと待って下さい? ということは、藍さんは事件の真相がすべてわかっているのですか?」

「はい」

「あの密室トリックも?」

「ええ」

 もはや、何を言って良いのからわからず、僕と一樹は完全に言葉を失ってしまう。まるで、それを見越したかのように藍が話し始めた。

「私が、トリックに気が付いたのは、前田さんから部屋にある割れた花瓶や時計、額縁が移動させられていたという話を聞いたことがきっけかけでした」

「あ、あれが何かの役に立ったのですか?」

 僕は自分のやっていたことが、決して無駄ではなかったと感じ、思わず歓喜してしまう。

「はい。あの証言がすべての解決の糸口になってくれました」

 と、一度、ハーブティーを口に含む藍。

「まず、犯人である森瀬さんは、喜代田さんを殺害した後、部屋の扉や窓のすべてにガムテープを貼ります。このとき、あえて窓はテープで塞がずに半分だけ貼りかけておいて、中にいた森瀬さんはその窓から脱出します」

「で、ですが、そうなると、どうやってその残りの半分の部分を貼るのですか?」

「換気扇を使いました」

 と、得意げに言う藍。しかし、もし、道具を使ったら跡が残ると言ったのは藍ではなかったか?

「ですが換気扇に何か道具を使ったような傷や跡はありませんでした」

「そ、それに窓際に貼られていたテープもぴっちりと貼り付いており、とても、糸や紐などであのような貼り方ができるとは思いません」

「いいえ、実はこの状況下でたった一つだけあの密室を完成させる道具があったのです」

「そ、それは?」

 僕は固唾を呑んだ。そんな物が本当にあっただろうか?

「それはあのサーカスの主役でもあった巨大な風船です」

「ふ、風船?」

「はい。犯人はあの換気扇から風船をねじ込み、外側から空気を入れたのです。するとどうなるでしょう? 空気の入った風船は徐々に部屋の中で巨大化していき——」

「ああッ! 膨らんだ風船が内側から残った半分のテープを圧力で貼り付けてくれる!」

 まるで雷にでも打たれたような衝撃が僕を襲う。その驚愕した表情を見た藍はクスリと笑った。

「はい。その通りです。内部で膨らんだ風船は徐々に巨大化していき、窓枠のほうにまで到達した風船は最終的に貼りかけになっていたテープの部分を内側から圧力で貼り付けてくれるのです」

「で、ですが、音とか大丈夫ですか? それにそんな巨大な風船を使ったのであれば、空気を入れる時間だって掛かるでしょうし——」

「あの倉庫に置いてあった専用のエアポンプを使えばできると思います。あれだけ素早く空気を出し入れできるのです。五分もあればあの密室は充分構築できたでしょう。音も、公演のことを考えて非常に静音ですし」

「た、たしかに——やろうと思えばできなくはない。それに森瀬誠は大道具担当だ。道具の扱いには誰よりも長けている」

「はい。部屋内部の割れた花瓶や時計、額縁などが移動させられていたのも、万が一にも風船を割らないためです。いくら頑丈にできているとしても素材はゴムです。先端の尖った物が落ちていれば、それが原因で割れてしまう恐れがあります」

「な、なるほどたしかに——内部で風船が割れてしまったら、トリックもおじゃんだ」

 一樹は難しい顔で言った。

 僕は気になっていることを訊いてみた。

「しかし、藍さんはなぜ森瀬誠が犯人だとわかったのですか?」

「はい。それはあの人の不用意な発言が原因です。あの人はガムテープで部屋が塞がれていたと口走っていました。しかし、そんなことを教えられる人間は誰もいません。小野田清さんは広瀬さんに口止めをされていましたし、ピエロの太郎さんは、死体は見たものの怖くて室内には入っておらず、部屋が密室になっていたことすら知りませんでした。同様の理由で河野美咲さんも除外です。しかも、彼女の場合、あの事件があってから怖くて廃墟内に立ち寄れず、私たちが来るまでずっと外にいたみたいです。人目のある外で着替えていたのがその良い例です」

 なるほど、ずっと外にいたのであれば、ほとんどの人間と話す機会もないだろう。

「そうなると、残るは北岡真優のみだが——」

「ですが、真優さんは事件発生以降、私たちと常に行動を共にしていました」

 倉庫などを案内してもらったり、僕と話したり——。

「おそらく、森瀬誠さんは最初、喜代田さん殺害を自殺に偽装しようとしたのでしょう。しかし、太郎さんがあろうことか、喜代田さんが幽霊に殺されたと吹聴してしまい——」

「なるほど、それで自殺から急遽、幽霊に殺されたことにしようとしたんですね?」

「はい、結果的にそれが致命傷となったわけですが」

「一つ良いですか?」

 僕は幽霊と聞いて、気になることを藍に質問した。

「事件現場で目撃された人魂や火の玉というのは一体何だったのでしょう? あの火の玉は真優さんも見たと証言しています。さすがにこれを幻と片付けるのはちょっと——」

「それはおそらく風船です」

「風船?」

「はい、おそらく森瀬さんが密室を構築している最中にたまたま廊下側に付けられている小窓から見えてしまったのでしょう」

「し、しかし、いくらなんでも火の玉と風船を見間違えるでしょうか?」

「たしかに通常の状態であれば、そんな間違いは起きなかったかも知れません。しかし、あの楽屋となっている廃墟は幽霊が出ると噂されている場所でした」

「あ——」

 事件解決に躍起になっていてすっかり忘れていた。

「人間の視界は案外いい加減で、そんな噂一つで見る物を幽霊に変換してしまったり、人魂に変換してしまったりするのです。幽霊を信じる信じないかは別にして、誰しもその噂は頭の片隅にあったと思います。それと同時に恐怖も多少なりとも抱いていたはずです」

「た、たしかに、そんな噂のせいで妙に不気味に映りますね。あの廃墟——」

 と、一樹はおぞましく映るその廃校を眺めた。

「はい、そんな状況下では、風船を人魂と見間違えるのもわかる気がします。ましてや、そんな部屋の中で大きな風船が膨らんでいるとは、誰も夢にも思わないでしょうし——」

「火の玉はともかく、宇宙人や幽霊を連想させてしまいますね」

「はい。おそらく犯行時に使われた風船の色は、火の玉を連想させる赤、オレンジ、黄色のどれかではないでしょうか? 試しにその色の風船を調べてみることをオススメします。何か痕跡が残っているかもしれません」

「わかりました!」



 藍の言ったように、オレンジの風船に喜代田の血痕が付着していた。そのことと、あの不用意な発言が原因となり、森瀬誠は逮捕された。

 これで今回の事件は無事に解決した。その矢先のことだった。突如、僕が北岡真優に呼び出されたのは——。

 さすがの僕もこの出来事に対して、歓喜した。

 ようやく——二十年以上の童貞期間を経て、僕にも春がやってきたのだ!

 僕は銀座の高級店で背広やネクタイを新調し、鏡の前で何度も髪型をチェックし、家を出た。

 待ち合わせ場所は、あの現場近くの公園だった。

 あんな事件があったとはいえ、まだ公演は続いているのだ。真優も相当忙しいのだろう。

「す、すみません! お待たせしました!」

 そこには汗をかいて、髪を乱した真優の姿があった。おそらく、待たせては悪いと思って、走ってきたのだろう。少し、色っぽい。

 ちなみに、恰好はジャケットにロングスカートという大人のファッションだった。

「こんな恰好で申し訳ありません」

「いえ、僕もいつもの仕事着ですし、何も問題はありませんよ」

 嘘である。こんな高級な背広、怖くてとても仕事には着ていけない。

「とりあえず、座りませんか?」

 そう僕は、流れるような手付きで暖かい紅茶を真優に手渡した。エスコートは完璧だ。

「あ、ありがとうございます」

 真優は頭を下げた。その瞬間、良い香りが漂ってきて、僕の頬は緩んだ。

「と、ところで話とは何でしょう?」

 僕はベンチに腰掛けながら、緊張した面持ちで訊いた。

「はい。今回は大変お世話になりました。劇団を代表してお礼させて頂きます」

「いえ、むしろ、公演初日にあんな事件が起きてしまい、災難でしたね」

「ええ、ですが無事、今日でフィナーレを迎えることができました。これも前田さんが懸命に事件を解決してくれたおかげです」

「い、いや、そんな」

 と、僕は照れるも、少し心苦しくも感じていた。なにせ、事件を解決したのは藍だ。その言葉は本来、藍に向けられる言葉である。

「本当にあのときの前田さん、格好良かったです」

「そ、そんなぁ」

 僕は次に愛の告白が出るのではないかと、期待に胸を躍らせる。

「そ、それでその、前田さんにお話がありまして」

 真優はもじもじと照れながら言った。

 ——ついに来たのか? 僕にも童貞卒業の瞬間がッ!

「じ、実は私——その」

 ——さあ、来い! 来い! 来い 来い!

 僕は緊張を隠しきれず、いつの間にかぐっと拳を握っていた。

「結婚します!」

「へぇ?」

 愛の告白やデートなどを飛び越えて一気にプロポーズ——というわけではなさそうだ。

「じ、実は私、前からある男性にプロポーズをされていたのですが、私自身、勇気が出なくてなかなか返事をすることができませんでした。ですが、今回の前田さんの姿に勇気づけられて、今度ちゃんと返事をしようと思います」

「あ、は、はい」

「ですから、ちゃんとお礼を言いたくてそれで——」

「そ、そうですか——おめでとうございます」

 僕は一気に肩を落とした。

 さきほどまで浮かれていた自分を殴ってやりたい。

 グッバイ、僕の青春——。


 その夜、僕の枕は涙で濡れた。ついでに次の日の仕事も休んだ。

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