藍愛子のお茶会
風宮雷真
第1話幸の清算
テレビの画面から芸能人の不倫がどうのこうのという、ニュースが流れた。
刑事という役職柄、ニュースには気を配らせているものの、大抵が誰と誰が結婚しただの、離婚だの、今流行の――などと、どうでも良いニュースばかりで、ついに竹中啓示はテレビ画面から辟易と目を逸らした。
昼時だというのに、相変わらずここのラーメン屋は人気がない。良く潰れないものだと内心では思うが、竹中に取っては、やはり、ここは、お気に入りの場所でもある。なにせ、自分が刑事という職に就いて――否、社会という未知なる魔界に足を踏み入れてから、ずっと通い続けているのだ。
昼時でもすんなり入れて、しかも、周りの店のように騒騒しくない。竹中は騒がしいのが何よりも苦手だ。
「へい、竹さん! お待ち!」
そう目の前に運ばれたのは、いつもの味噌ラーメンだ。竹中はブラウン管から目を離し、目の前に置かれたラーメンへと視線をやった。
箸を割り、ラーメンに箸を付けようとした直後あることに気が付いた。
「あれ? 今日はチャーシューが二枚多いな?」
「だろ? 今日はサービスだ!」
「なんだ? 誕生日はまだ先だぞ? クリスマスプレゼント――なんてもんじゃないよな?」
確かに外は寒く、町も煌(こう)煌(こう)とした装飾がされており、もうそんな時期ではあるが――。
竹中が不審がっていると、ラーメン屋の主人である田辺誠は、何か、言い辛そうに頭を掻いた。
「いや、その、話聞いたよ。先週、十回目のお見合いに失敗したんだってな――」
「―ッッう!」
竹中は露骨に苦そうな顔をした。
「だから、その、なんだ――。元気出せって! きっと竹さんにも良い女が見付かるって!」
そう田辺は竹中の背をばしばしと叩いた。
要するに、このチャーシューは、遠回しに同情しているとのことらしい。竹中は釈然としない面でラーメンを啜(すす)った。やはり、見合いの失敗の噂がこんな所にまで飛び火しているとは思わなかったので、内心は穏やかじゃなかった。そして、口に入れたチャーシューはいつも以上に塩気が強い気がした。
沈黙が戻ると、再びラーメン屋の戸が開き、「いらっしゃい!」と田辺の声が響いた。その威勢の良い声に釣られて、不意に竹中も後ろを振り返ってしまう。
すると、そこから暖(の)簾(れん)を潜りすっと覗かせた顔を見た竹中は、思わず、頬にうっすらと紅を散らせた。入店したのは女だった。
この女も二ヶ月くらい前から、この店に入り浸っており、竹中も度度顔を合わせることがあるのだが、話をしたことはない。否、正確には、何度も話をしようとしたのだが、中中、きっかけが掴めないのだ。
嫋(じよう)嫋(じよう)と伸びた艶のある黒い髪の間から、ひっそりと見える雪を欺くような白い頬。見た目はかなり若い。二十代前半――否、下手をすれば、十代にも見えてしまうその姿に、いつも竹中は名状し難い熱い感情に苛まれる。
だが、やはり、何と云っても一番の魅力は、その温厚な雰囲気だろう。男は、落ち着いた女を好む。その悠(ゆう)然(ぜん)とした雰囲気は、男を虜にする魅力を充分過ぎるほど携えている。
だが、そんな女以上に更に目を引く物があった。彼女の背後できゅるきゅると音を立てて引き摺られているキャリーケースだ。女は、いつも、何処か旅行に行くわけでもないのに、空港などで見るような大きなキャリーケースを持ち歩いているのだ。
彼女の美貌以上に、あのキャリーケースの中には、一体、何が入っているのか、竹中は密かに気になっていた。
女は席に座り、「今日も寒いですねぇ」と、水のように清涼感を醸し出した声で云った。
それを受けて、田辺も「そうっすねぇ」と、返し、メニューと水をテーブルの上に置いた。
「それで、今日は、どう致しますか?」
田辺も変に女を意識してしまっているのか、竹中の時よりも丁寧な口調で云う。その扱いの差にむっとするも、今は、溜息しか出ない。
「そうですねぇ。じゃあ、今日は、豪勢にチャーシュー麺をお願いします」
「何か、良いことでもあったんで?」
と、田辺は意気揚揚と云った。
「いえ、あの向かいにあるお家にお住みの――ええっと何て言いましたっけ?」
「あ、城之崎さんですかい?」
「ええ、あの人とすれ違いました。今日もあの人は気分が良さそうに町を闊(かつ)歩(ぽ)していて、その気に当てられたというのでしょうか? こちらも気分がすっかり良くなってしまいまして――」
「ああ、なるほど――。まあ、あいつは今や、この町一番のラッキーマンですからねぇ!」
「何かあったんですか?」
「おや、知らないんですかい? あの男、宝くじで大金を当てたんですよ! 一億ですよ!一億!」
「はぁ――」
と、女は向かいの家を見た。その表情は驚き――というよりも、怪訝さを混じらせたもので、その意味深な表情を隠れて見ていた竹中も、それに釣られて怪訝に感じてしまう。
「まあ、だから奴は今、上機嫌なんですよ! あんなことがあったのにねぇ。おっと――」
と、世間話に花を咲かせていた所為で、仕事の方を疎かにしてしまった。田辺は、「いけねえ」と、苦笑しながら云った。
「ご注文は、チャーシュー麺で宜しいでしょうか?」
「はい。それでお願いします」
そう、瀟(しよう)洒(しや)な声で女は云った。
そして、そんな二人の会話にひっそりと聞き耳を立てていた竹中は、俺は一体何をやっているんだと、自分の行いを恥て、溜息を吐き、スープを一気に飲み干した。
「お代。ここに置いておくぞ!」
と、ラーメンを食べ終え、お茶を飲み干した竹中は、厨房に向かって叫んだ。それを受けた田辺は、「あいよ! 毎度あり!」と返した。その声を聞いた竹中は、腰を上げた。
確かに、十回目の見合いの失敗は正直辛かった。しかし、いつまでもくよくよと落ち込んでいられない。そんなことをしていたら、仕事に支障を来してしまう。それに、悪いことばかりでもなかった。同情とは云え、チャーシューを二枚もサービスして貰えた。
確かに、チャーシュー二枚は全体で見れば、微微たる物であるのだが、それでも、そんな気遣いが竹中には天にも昇る程に嬉しかったのだ。
そして、更に、嬉しい出来事が竹中に起きた。
店を出る直後、ふと、向かいに座る女と目が合ったのだ。女は、にこりと婉(えん)然(ぜん)とした笑みを竹中に向け、それを受け、再び竹中の頬には紅が散った。
「ご馳走さん!」
と、その嬉しさもあってか、高ぶった声で云って、店から出た。外は、非常に寒く、周りの人間に憂鬱感を植え付けるが、それでも、竹中の心は満たされていた。
そう、何も人生は悪いことばかりではないのだ。確かに人生は、辛い時も多多あるが、その先にそんな苦行の数数が報われる時が来る。竹中そう信じ、強く固い足取りで、闊歩した。
そして、向かいから、先程の噂の的となっていたラッキーマンこと、城之崎裕太が、意気揚揚と歩いて来た。
署に戻った竹中は、後輩である風間大輝のディスクへと向かった。
「なあ、風間?」
「何ですか? 先輩」
風間も今、弁当を食べ終えたのか、空になった弁当箱を片付けている最中であった。風間は既に妻子持ちである。今、食べた弁当も愛妻弁当だと直感した竹中は、苦い顔になった。だがそれは一(ひと)先(ま)ず置いておく。
「お前、前に城之崎裕太という男を取り調べたよな?」
「城之崎――? すみません。どんな犯罪を犯した男ですか?」
「ああ、犯罪というか、まあ、違法行為――と云うべきか?」
どちらでも同じだ――と、竹中は内心で突っ込んだが、きょとんと円らな瞳を向けた風間はそんな竹中の奇妙な云い回しを気にした様子はない。
「確か、飲酒運転だ。それで、事故起こして――」
「ああ! あのベンツに乗っていた男ですね?」
「ああ、多分そうだ。思い出したか?」
そう云って、空席になっている隣のディスクに腰を掛けた。因みに、竹中のディスクはもっと、隅なのだが、誰もいないから構うことはない。
「まあ、印象深い人でしからね。なにせ、ベンツで、しかも飲酒で事故を起こしたんですからね」
「まあ、そうだな」
竹中は鼻息を漏らした。
「しかも、これは後で聞いた話なのですが、その男、あの事件の所為で務め先クビになったらしいですよ?」
「まあ、それは当然だろう? そんな問題を起こせば、何処であっても即座にクビだよ」
竹中は、まるで、自業自得だと云わんばかりの口調になった。
「いえ、問題はその後です。その――まあ、城之崎の務めていた工場というのが、最近、海外進出に成功して、一気に大きくなったんですよ」
「何の工場だったんだ?」
「確か、車関係だと思ったんですが、何でも、その工場の製品が特許を取ったらしく、その後にその製品が海外で馬鹿受けして、一気に需要が高まったんだとか――」
「へぇ――」
と、竹中は何処か虚ろな目になるが、一応話はちゃんと聞いているようだ。
「城之崎は、その工場に東大卒で派遣で入ったらしいんですが――」
「東大卒でか?」
そう、驚愕した竹中。それを受けて、やはり驚いたかと、はにかんだような表情をし、話を続ける風間。
「はい、これもあくまで噂なのですが、あの男、実は某銀行に内定を貰っていたらしいのですが、何かトラブルを起こしたらしく、結局、小さな工場、それも派遣で入社したらしいのです」
「だけど、その工場も今、その大手の仲間入りしようとしているわけか――」
「そうですね。それで、城之崎も行く行くは重大な役目を担う予定だったらしいのですが、その矢先に――」
「飲酒か――」
「はい」
そう、風間は残念そうな表情で頷いた。
「まあ、自業自得なのは間違いないですが、よりにもよって、そんな大事な時期に飲酒をして、しかも事故を起こさなくても良いじゃないですかぁ」
「まあな」
――と、自業自得とは云え、なんとくなく城之崎に同情心が芽生えたが、それも束の間のことであった。竹中は、自分のすべき話を思い出し、風間の話を打ち切った。
「それなんだが、その不運な男こと、城之崎裕太が、宝くじで一億を当てたそうだ」
「――本当ですか!」
「ああ、本当だ」
先程、ラーメン屋で、盗み聞きして得た情報を、竹中は面白可笑しく話す。
「近所はその話題で持ちきり、ラッキーマンなんて呼ばれてるんだぜ?」
「確かにラッキーマンですね」
そう、苦笑する風間。それに釣られて竹中も、馬鹿みたいに「だろ?」と笑う。
「あの男が真逆、そんなことになっているとは――世の中本当に判らないものです」
「だから、俺も、さっきのラーメン屋で聞いた時は吃驚したよ」
「ああ、確か、その城之崎の家って、先輩が良く行くラーメン屋の近くだったんでしたっけ?」
「ああ、真向かいだよ」
「じゃあ、あの男にも会いましたか?」
「ああ、さっき帰ってくる時にな、あの馬鹿、いい気になって、鼻歌なんて歌っていやがった」
「また、酒が入っているんじゃないですか?」
「かもしれないな」
そう二人は再び苦笑した。
――昼休み。
本来であれば、このままいつものラーメン屋に向かうところであるのだが、今日は、少し、買いたい物があったので、町で一番大きな電気屋に寄り道をすることにした。
署の印刷機のインクが終わってしまったのだ。後は、単三電池、これは竹中がプライベートで必要なのだ。
店の自動ドアには、ガンダムフェアと、でかでかとポスターが貼られており、商売のためなら、何でもネタにするんだなと、竹中は呆れたように息を吐いた。吐いた息は、白くたゆたう。この吹き付ける凩(こがらし)の所為で、気温が一気に落ちたのだ。
しかし、それも店内に入ってしまえば、凍て付くような寒さも関係ない。自動ドアを潜れば、ほんのりとした温もりを帯びた空気が包んでくれる。
だから、できることなら、脱兎の如く店内に飛び込みたかったのだが、前をあのラッキーマンこと、城之崎が歩いているのが目に付き、足が止まってしまった。
別に、何か犯罪行為を犯しているわけでもなく、目立つような行動をしているわけでもない。単純に、有名人を見掛けた時のような反応である。
城之崎は、昨日の陶(とう)酔(すい)したような風体とは違い、肩を震わせて、腕を擦(さす)っている。それを見た竹中は、「ああ今日は、普通だな」と、独り言を呟いた。
この男もどうやら、電気屋に用があるらしく、電気屋へととぼとぼと歩いて行く。
何を買うのか――気になる。なにせ、城之崎の背後には、一億のオーラが煌煌と光り輝いているのだ。そんな男が、電気屋――しかも、町一番の――に買い物に来ているのだ。当然、何を買うのか気になってしまう。
テレビか、それともパソコンか――。
一億も持っているのだ。最新の機器を取り揃えても、まだ大量に金が残るであろう。少なくとも、暫くは働くことはしなくて良いはずだ。
「はぁ」
自分との人生の雲(うん)泥(でい)の差を見せつけられて、消沈した竹中は、溜息を吐き店内に入ろうとした。
しかし――。
「おい! 危ない!」
と、遠くの方で声がした。
そんな鬼気迫るような声に、竹中は反射的に振り返った。
車だ――。車が、勢い良くこちらに近づいて来ていたのだ。
「うお!」
思わず、竹中は叫んでしまった。だが、車の標的は、竹中ではない。城之崎だ。車は、城之崎目掛けて、勢い良く突っ込んできた。
しかも城之崎は、先程の呼び掛けに対して、まったく気が付いていないのか、覚束ない足取りになりながらも、車が向かっている方向にまるで、当たりにでも行くかのように、歩いている。
――こいつはまずい!
そう感じた竹中は、脱兎の如く駆け出し、城之崎の方へと向かった。ぼけっと歩いてた城之崎は、竹中に押し倒されるような形で、身体を飛ばされ、何とか車を回避することができた。
暴走した車は、そのまま電気屋の窓に直撃し、停止した。
「おい! 大丈夫か!」
「うぅ!」
と、うめき声を上げる城之崎。それを見て、大丈夫そうだと感じた竹中は、安堵の息を漏らした。
「しっかりしろ! おい!」
「一体何が?」
と、若干意識が朦朧としているのか、微睡んだような目を向けて、城之崎は云った。
「危なかったな。もう少しで、車に轢かれていたぞ?」
「く、車に――? 俺は、無事なのか?」
「――? ああ、そうだが?」
混乱している所為もあるのか、妙に頓(とん)珍(ちん)漢(かん)な質問をしてきたので、竹中は怪訝そうに返した。
そして、何とか、落ち着きを取り戻したのか、城之崎は慌てて身体を起こした。
目の前には、惨(さん)憺(たん)とした風景が広がっており、しかも、自分達を野次馬が取り囲んでいた。奇跡的に助かったとは云え、見せ物になっているような感覚であまり、良い気分ではない。
だから、城之崎からは、竹中に対する謝礼よりも、苦苦しい顔と舌打ちが先に出てしまった。
幸い、城之崎は腕を少し打っただけ、竹中も掠り傷で済んだ。だが、車のドライバーの意識はない。それを危惧した竹中は、大慌てで救急車を呼ぶ。その間も城之崎は、妙にふて腐れたような面をして、事故現場を眺めていた。
奇跡的に助かったとは云え、なんで、この男がこんなに気に入らない表情をしているのか、この時の竹中には判り兼ねた。
一応、城之崎に再度、「大丈夫か?」と、声を掛けるが、城之崎は「ああ」というような、突っ慳貪な返答のみで、別に何か見返りを求めているわけではないのだが、それでも、幾ら何でも助けた相手に対して、そんな態度は無いだろうと、竹中は不満げな顔になる。
この男は礼儀知らずなのか、それとも、元からこんなに素っ気ない人間なのかは知らないが、そんな城之崎の態度が竹中は気に入らなかった。
とりあえず、自分は刑事であることを皆に伝えて、様子を見ることにした。これで、昼飯は完全に食い損ねた。
後に判ったことなのだが、運転手はどうやら、過労の所為で居眠り運転をしてしまっていたらしく、アクセルを踏んだまま、意識を失っていたみたいだ。幸い運転手の方も軽い打撲で済んだようだ。
しかし、それでも、竹中には一点だけ、解せないことがあった。
車が突っ込んで来た時、もしかしたら、本当に気が付いていなかっただけなのかもしれないが、城之崎は、わざと車に当たりに行っているような節が見て取れたのだ。
あの騒ぎや異変に全く気が付かないなんて考えられない。かと云って、城之崎が自殺を考えていたとも考えられない。あの男は今や、この町一番の幸せ者――所謂ラッキーマンなのだ。
そんな人間が人生に悩んでいるとも思えない。
まあ実際、あの速度では、大怪我はするかもしれないが、死ぬ可能性はそんなに高くないような気がするが――。
どちらにせよ、人間は、突然のことが起きれば、当然、錯乱するに決まっている。だから、竹中は、この時は、この件を深く考えずにいた。
竹中は流石に今日はちゃんと昼を食おうと、無駄な寄り道をせず、真っ直ぐラーメン屋へと足を向けた。
だが、どちらにせよラーメン屋に行くには、昨日の事件現場である電気屋を通らなければならない。
電気屋の前に立った時、竹中の視線は自然と事故現場の方へと寄せられた。
まだ、電気屋の壁には、大きな穴が空いており、そこに車が首を突っ込むかのように、前の部分が穴にのめり込んでいる。そして、その周りは立ち入り禁止のテープが貼られており、殆ど誰も入っていないのか、車の残骸や、飛び散った硝子なども全く片付けられていない。
竹中は困ったように鼻息を漏らし、頭を掻いた。それと同時に脳裏には、昨日のドライバーとの会話――事情聴取――の内容が沸沸と浮かんできた。
ドライバーの男は、優柔不断そうな風体ではあったのだが、それでも、何か犯罪を犯すような悪い人間ではなく、否、むしろ、非常に真面目そうな人間であったのを覚えている。
男は、竹中に、泣きながら「本当に、ご迷惑を掛けてすみませんでした」と、何度も頭を下げ謝罪をした。
その男の話を聞いてみると、その男の父親が病気になり、家計も苦しくなっていたため、何とか両親を楽にさせて上げたく、仕事を頑張っていたらしい。故に、殆ど、寝ずに、仕事に没頭していたらしいのだが、その結果、あんなことになってしまったんだとか――。
根が真面目な分、その男の罪悪感も、筆舌に尽くし難い程であろう。それは、他人の竹中とて、容易に想像ができた。
無論、これは自業自得。己の不注意が招いた結果である。だが、それでも、目の前で涙を流す男を竹中は糾弾することができなかった。
本来であれば、刑事である竹中は、次は気を付けろだとか、もう、するなよなどというような当たり障りのない言葉を掛けるべきなのであろうが、竹中の口からは、そのような言葉は出て来なかった。
「まあ、なんだ――その、確かに、今は非常に辛いかも知れない。しかし、それでも、頑張っていれば、いつかあんたの翳った人生も報われる日が来るはずだ。だから、それまでの辛抱だ」
吐かれた言葉は、刑事としてではなく、一人の人間としての言葉だった。だが、そんな竹中の人間としての言葉が、男の心中を刺激した。男は両目から一(いつ)掬(きく)の涙を流し、再度、頭を下げた。
あの事故は自業自得であった。しかし、それでも竹中は、そんなドライバーであった男に同情してしまう。それはやはり、竹中が刑事である前に一人の人間であるからでもある。
だから、あんな言葉を吐いてしまった。そして、竹中もそれに対して、まったくく恥ずかしいことだとも思わないし、間違っているとも思っていない。喩え、相手が加害者であっても、芳(ほう)情(じよう)を向けても良いと思うと、竹中は考えた。
むしろ、竹中は、そんな事故を引き起こしたドライバーよりも、昨日の城之崎の態度の方が、遙かにいけ好かなかった。
無論、錯乱していた所為もあるのだろうが、やはり、助けて貰っておいて、あのような態度はないだろうと、昨日から何度も思っていた。
そして、そうやって、苦虫を噛む度に、昨日の事故で擦り剥いた肘の傷が疼くのだ。まあ、こんな傷、絆創膏でも貼っておけば治るだろうが――。
「はぁ」
竹中は溜息を吐いた。
別に見返りは求めていない。むしろ、昨日の行動は刑事という立場であれば、当たり前の行動だと思っている。だから、大衆から拍手喝采を浴び、英雄を気取ろうなどとは考えていない。だが、それでも、やはり、助けてくれた相手に対して、あんな態度はないと何度も思ってしまう。
だが、自分は、そんな城之崎に対して、礼の一言でも云ったらどうだとか、そんなことを云える立場ではないし、そんなことを云ったら、自分の刑事としての威厳もすべて、水泡に帰すことであろう。
だから、云えないからこそ、城之崎の昨日の突っ慳貪な態度が許せなく、昨日から、うじうじとこんな下らないことを考えてしまっているのだ。
何か一つ立派だと思えることをしてしまうと、やはり、直球ではないものの、見返りを求めてしまう気持ちが滲み出てしまうのだ。何でも良い。何か、良いことの一つでもあってくれと欲が出て来てしまうものなのだ。
――駄目だ! 駄目だ!
と、竹中は、そんな自分の悪しき心を首を思いっきり振って、払拭した。
そして、とにかく平常心を保つために、今は、ラーメン屋を目指すことだけを考える。しかし、そんな竹中の努力は、一瞬にして瓦(が)解(かい)した。だが、それも竹中に取っては決して、悪いことではなかった。
「あ、貴方は――」
と、視線の先にいたのは、いつもラーメン屋で見掛ける女だった。偶偶、彼女と目が合い、竹中は声を掛けられたのだ。
「ど、どうも、いつもラーメン屋で会いますね」
そう緊張の所為なのか、覚束ない口調になり、軽く会釈をする竹中。
「ええ、そうですね。貴方も常連さんなのですよね?」
「は、はい、そうですね」
本来なら、ここで、何か気の利いたことを云えれば良いのだが、こういう時に限って、男という存在は、思考停止状態に追い込まれ、ただただ、黙ってしまうのだ。それは、竹中とて例外ではない。
だが、そんな気まずい沈黙を払拭してくれたのは、女の方だった。
「それにしても、昨日の貴方の行動は、本当に勇敢でした」
「昨日?」
そう、思案した竹中。
「あの事故です。確か、男の人を、あのラッキーマンさんを間一髪で救いましたよね? 一歩間違えれば、大怪我を負っていました」
「ああ、あの事故ですね」
あの暴走車が電気屋に突っ込んだ事件だと、理解した竹中は、はっとしたように云った。
「でも、あんな速度では死にません」
「だけど、確実に怪我はしていたと思います。ですが、双方、大きな怪我がなかったようで――」
「い、いえ――自分は刑事です! 当然のことをしたまでですよ!」
そう照れて、頬に紅を散らせた竹中は頭を掻きながら、豪快に笑った。良いことはするものだと、竹中はこの時、改めて思った。なにせ、今、親しくなりたいと思っていた女性と、こうやって、肩を並べて歩いているのだから――。
――と、ここで、竹中は不可解に思っていたことを、思い切って、隣の女に訊いてみることにした。
「あの、それでなんですが、あの男、わざと車に当たりに行っていたように見えたのですが――」
「はい、私もそれは確かに思いました。あの人――確かに、わざと車に当たりに行っていたような節が見て取れましたね」
と、どこか、遠くを見つめるように云った。
「まあ、突発的な出来事があれば、人間誰しも、錯乱してしまうことがありますから、それが変ということはないのかも知れないのですが、やはり、どこか釈然としたかったですね」
「確かに、普通なら、そんな自分から不幸に飛び込むなんて、絶対にしませんね。ですが――」
と、女が云い掛けたところで、ラーメン屋に到着したので、二人は暖簾を潜った。
「いらっしゃい!」
と、田辺の声が店内に響いた。そして田辺は二人の姿を見て、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「二人共、いつの間にそんなに仲良くなったんで?」
田辺は含み笑いを浮かべて、云った。
「いや、すぐ側でばったり会っただけだよ」
そう、竹中は女を一(いち)瞥(べつ)した。それを受けて、女も「ええ」と、笑顔で相(あい)槌(づち)を打った。
「そうかい。そういえば竹さん、昨日は大変だったそうじゃないか?」
「ああ、ここに来る途中に事件に巻き込まれたからな。御陰で、昼飯を食い損ねた」
やれやれと竹中は、頬をぐでっと弛(たる)ませた。
そして、二人は向かい合うようにして、座った。まさか、長年、このラーメン屋に通い、このような幸運に巡り会えるとは思っても見なかった。
「んで、ラッキーマンは大丈夫だったのか?」
「特に変わったところはなかったな。だけど、態度は些か素っ気なかった」
「まあ、あの男は昔からそんな感じだったからな」
苦笑した田辺は云った。城之崎の昔を知らない竹中も、この時は、そういうものなのかと、特に深くは考えなかった。
「だけど、あの男、派遣の分際で随分と羽振りが良かったそうじゃないか?」
「どうしてだ?」
田辺は怪訝そうに云った。
「ベンツだよ、ベンツ。あの男をしょっ引いたのは、俺の部下なんだよ。あの男、飲酒運転で一度、捕まってるだろう?」
「ああ、なるほど。あの馬鹿――確かに一度、捕まって大目玉食らってたな。そして、そのすぐ後に一億を当てたんだよ。それに、俺らが、あの男をラッキーマンと呼ぶのだって、ただ単に一億を当てたからってわけじゃない」
「どういうことだ?」
「その竹さんの云うベンツも元元は何かの懸賞で当てた品なんだよ」
「なんだって? じゃあ、あの男は、ベンツを当てたその後に、一億を当てたっていうのか?」
流石にその話を聞かされた竹中も驚愕し、隣でぽけーっと座っていた女も、「あらあら」と、目を丸くさせていた。
「そう、幸運を次次と呼び寄せる。だからあの男はラッキーマンなんだよ」
田辺もどこかで城之崎のことが羨ましい――或いは、妬ましかったのか、苦虫を噛み、云った。
「まあ、だけど、あのベンツも結局お釈迦になっちまったわけだろう? それに関しては不運だったと思うが――」
「だけど、飲酒運転をしたんだ。自業自得だよ」
ここで、ぷっつりと会話が止まったため、田辺は「それで、何にする?」と、二人に目を交互にやった。
「そうだな。じゃあ――」
そう云って、竹中はメニューを開いた。
と、女の視線が、メニューではなく、外に向けられていることに二人は気付き、訝しみながらも、その視線に釣られて外を見た。
「何か、騒がしいですね?」
と、女はぼんやりと呟いた。
「何かあったんでしょうか?」
竹中も流石に、気になったのか、メニューを手に持ちながらも、全く目を通そうとせず、ずっと、外に視線が釘付けである。田辺もだ。
そして、流石にその心中で蠢(うごめ)く疑念が懸念に変わった時、自然に竹中の腰が椅子から離れた。目の前で広がるざわめきが不信感をひしひしと植え付け、刑事としての感性がその訝しさを放っておくことを許さなかったのだ。
竹中は、ラーメンのことなど最早、眼中になく、ラーメン屋の戸を開け飛び出した。その瞬間、竹中は眦(まなじり)を決した。
竹中の眼前に映し出された光景は、思っていた以上に壮絶なものだった。目の前の城之崎の家が燃えていたのだ。
紅蓮が家から濛(もう)濛(もう)とたゆたっており、そこから黒煙を孕んでいる。その光景は、誰の心中にも焦燥を植え付け、意味もなく、周りの人間はあたふたと視線を左右させていた。
「消防に電話だ!」
そう田辺に向かって云った。そして、そんな竹中の様子を見た二人も流石にただごとではないと、察したのか、顔を強張らせた。
そして、慌てふためく周りを嘲笑うかのように炎は黒煙を吐き続けた。
それからしばらくして、消防隊が駆け付け、城之崎家を包む炎は見事に鎮火された。
家は全焼という最悪の結果を迎え、更に最悪だったのが、その家の中から城之崎裕太の黒焦げになった遺体が発見されたということだった。それは見た目からして間違いはない。
そして、またもや刑事という立場であるが故に、この場を任されてしまう竹中。昨日に引き続き、難儀なことだと、竹中は溜息を吐いた。
そして、こんな惨事の中では、当然呑気にラーメンなど食っていられない。
「出火元は多分、居間だと思いますね」
と、消防隊員が云った。そして、そこは、城之崎の遺体が転がっていた場所でもあったのだ。
身近にストーブも置いてあったのでそれが、出火したのだろうと、竹中は思った。更に、城之崎の死因であるが、後頭部が陥没しており、もしかしたら、火事による焼死ではなく、足を滑らせて、テーブルの角に頭部を強打して、そのまま亡くなったんじゃないかと、思った。
そうなると、この火事も城之崎が死んだ後に起きたとも充分に考えられるが――。
「刑事さん――」
「な、なんだ?」
突然、消防隊員の一人に呼ばれて、竹中は、黒焦げで全焼してしまった家の中に入っていった。
「見て下さい――あれ」
そう、消防隊員は居間の隅を指さした。そして、竹中も釣られて、その方向へと視線をやった。そこには、十八リットルの灯油ポリタンクが置いてあった。
「少し妙じゃないですかね?」
そう消防隊員は訝しそうに云った。しかし、竹中は、何が妙なのか全く判らず、「なぜだ?」と、思案したように云った。
「だって、普通、あんな所にポリタンクを置いておきますかね?」
「ストーブがあるんだから、当然置くだろう?」
「だけど、あのストーブは電気ストーブで、この居間に灯油を使うような機器などは置いてないんですよ?」
「うん?」
云われて、竹中は周りを見渡した。確かに、ストーブは電気式の物で、他に灯油を使うような機器は何処にも置かれていない。隣にいた消防隊員が危殆に瀕した面で、云った。
「も、もしかして、殺された上で、放火されたんじゃあ――」
「そ、そんな馬鹿な――」
そう、苦笑するが、竹中の心中にも、まさか――という懸念が浮上し、顔を引きつらせながら、担架で運ばれる城之崎の死体に目をやった。
すると、遺体の右手は何かを握っており、それの存在が気になった竹中は、苦い顔になりながら、その拳を開いた。そこから出て来たのは、百円ライターだった。
それを見た竹中は訝しそうにそのライターを拾い上げた。
「なんで、仏はこんな物を持っていたんだ?」
「もしかして自殺なんですかね?」
竹中は唸りながら、そのライターを見つめ、隣の消防隊員は、目を尖らせた。自殺と安易に決めてしまうのも些か早計だと感じてしまったのだが、しかし、それでも、この居間が出火元であり、しかも、灯油を必要とした様子もないのに、灯油ポリタンクが置いてあり、遺体の手の中から、ライターが見付かった。状況的には、それを完全に裏付けている――。
自殺――だけど、そうなると、問題は動機だ。動機は一体何なのか、それが判らない。
なにせ、この男は、先日に宝くじで一億を当てたばかりだ。殺されたり、事故で死ぬことはあっても、自殺する理由はないように思える。
竹中は、少し、状況が厄介になってきたと思い、溜息混じりで、表に出た。表には、田辺と女がいた。
「竹さん――どうですか?」
「ああ、遺体は城之崎だ。間違いない。あのラッキーマンと云われていた男も、まさか、こんな死に方をするなんてな――」
そう、何処か城之崎を哀れむように、振り返り黒焦げになった家を見つめた。
「やはり事故かい?」
「否――そのことで訊きたいんだが、何か、あの男が悩みを抱えていたとか、そんなことを聞いたことはなかったかい?」
「――悩み? てぇと、まさか、自殺かい?」
そう、田辺が驚愕したように云った。
「現時点だと、何とも云えないが、だけど、現状見る限りだと、その可能性が濃厚なんだ。勿論、これから、ちゃんと捜査はするが――」
田辺は、大げさに「さぁ?」と首を傾げた。それを見て、竹中も「そうか――」と、残念そうに、顔を歪めたが、その端で、女は、「やっぱり――」と、鈴を転がすような声で、云った。
そんな微かな声を、竹中の鋭い耳朶は俊敏に聞き取り、「やっぱり?」と、般若のように顔を歪めた。
「おい、あんた! もしかしかして、何か心当たりがあるのか!」
そう、凄んだ竹中は、まるで猪のように女に迫り、顔を近づけた。
「ひぃ! ぶ、ぶたないでぇ!」
そう我を忘れた竹中に気圧された女は、兎のようにぷるぷると身体を震わせて、屈み込んでしまった。それを見た竹中は、はっと我に返った。
「す、すみません!」
竹中は女に必死に謝った。それを受けた女は、幾何か両目を潤ませて、竹中の顔を見上げた。その女の上目遣いは、まるで子犬のように円らで、それを見た竹中は、どっと鼓動を高鳴らせた。
「え、えっと自分は、貴方が何かを知っていると思ったので――つい――」
「あ、え、えっと、知っている――というよりも、何となく予想していたと云いましょうか、その――」
覚束ない口調になり、その動揺を見た竹中も些か、申し訳ないことをしてしまったと、心中で反省した。
だが、次に女の口から飛び出た言葉は、何ともこの場に似つかわしくない間の抜けたものだった。
「とりあえず、お茶にしませんか?」
なんでこんな状況になったのか、まったく理解出来ない。
竹中と田辺は、向かい合う形で、店のテーブルに座り、そして、女が茶を入れてくれるのを待っている状態である。
「それでは早速――」
意気揚揚と女は、いつも持ち歩いているキャリーケースを開いた。そして、その中には、ティーカップやポットなど、お茶を入れる時に必要な道具がぎっしりと詰め込まれており、その中身を初めて見た二人は目を丸くした。
「いつも、そういう物を持ち歩いているのですか?」
「はい。そうですね」
そう、女は婉然とした笑顔で返した。
「えっと、それで――」
竹中は女を何と呼んで良いのか判らず、どもった。そんな挙動不審な態度を見て、その理由を察した女は云った。
「あいです」
「あい?」
「はい、私の名前です。あいあいこ――と云います」
「アイアイ子? 猿みたいな名前ですね?」
と、田辺が云った。すると、『あいあいこ』は、頬を膨らませ、「さ、猿ではありません!」と、怒気を露わにするが、その『あいあいこ』の怒りさえも、何処か微笑ましさを醸し出していた。
「これでも干支は蛇ですし、星座は蠍(さそり)座なんですよ?」
――なんで、無駄に毒を持ちたがるんだ。
そう竹中は、消沈した面で思った。恐らく、未だにこの雰囲気に慣れないのであろう。そして、どこまでが名字なのか、いまいちピンと来なかった竹中は、恐る恐る云った。
「えっと――あい――さん――で宜しいんですかな?」
「はい、あいは藍色の藍と書きまして、下の名前のあいこは、普通に、恋愛の愛と子供の子です」
「藍色のあい?」
藍色という字を殆ど使ったことがないためか、云われてもいまいちピンと来ない。
「あ、えっと――監督の監という字に草かんむりですね」
「ああ、はいはい、監という字にね」
監守、監視、監獄――その字は、職業柄見慣れていた御陰なのか、今度は、即座に理解できた。そして、藍色の藍という字がどういう字を書くのかも瞬時に理解した。
藍(あい)愛(あい)子(こ)――それが彼女の名なのだ。
「それでなのですが――藍さん?」
「はい?」
と、惚けた表情で藍は、ティーカップに液体を注いだ。何か不思議な香りがしたので、まず事件の真相よりも目の前の液体に思考が行ってしまった。
「えっと、これは何ですか?」
「ハーブティーです」
「あ、まあ、それは判るのですが――」
「スカルキャップというハーブです」
スカルキャップ――名前が少し禍(まが)禍(まが)しい気もする。スカルは髑髏(されこうべ)という意味である。髑髏の帽子――。
その名前を聞いた竹中は、危ない物じゃないかと感じ、少し口にするのが恐くなった。香りも初めて嗅ぐものだから、余計に不安になってきてしまう。
「スカルキャップは、アメリカのインディアンが毒虫に刺された時などで用いてきました。後は蛇に噛まれた時など――まあ、解毒作用のあるハーブだと覚えておいて貰えれば大丈夫です。後、ヨーロッパでは、このハーブは狂犬病の薬としても伝えられており、狂犬のハーブとも云われております」
――嫌なネーミングだな。
ますます手を付け難くなった竹中は、手を膝の上に置いたまま、一向にカップを手に取ろうとしない。それは、隣に座る田辺も同じだ。まあ、緊張している所為もあるのだろうが――。
「まあ、日本では、昭和三十一年以降、狂犬病は発生しておりませんから、実際、縁遠いように思えるのですが、このハーブはミネラルを豊富に含んでおりますので、緊張や不安、神経過敏、神経衰弱、更には、パニックや鬱、ヒステリーの緩和にも効果的です。私も眠れない夜などは、良く飲むんですよ? 先程の出来事で、皆さん些か、混乱しているでしょうから、気持ちを少し落ち着けるという意味も兼ねてこのハーブを選んでみました。後、オートムギやレモンバームとのブレンドもお勧めです」
むしろ、ストレス社会に悩む、日本人だからこそお勧めのハーブだと藍は云った。
事件のことを聞くつもりが、いつの間にか、ハーブティーの講義が始まっていたため、一度、このふわふわした流れ――非常に申し訳ないが――を打ち切ることにした。
「それでなのですが――」
「はい、何でしょう?」
「貴方は、先程、自分が自殺の可能性があると、継げたら、やっぱりと云いましたね?」
「はい、云いました」
まるで、三角を描くように藍は二人の間に座り、注いだハーブティーを口に含み、ほっと一息吐いた。それを見て、あ、大丈夫そうだと、感じた竹中も真似をして、ハーブティーを口に含んだ。少し苦味があったが、飲めないわけではない。否、むしろ、藍の云う通り、口に含んだ瞬間。その独特の香りが癒してくれるように思えた。無論、プラシーボ効果も少しはあるのかもしれないが――。
そして、竹中は、些か浮遊するような感覚を覚えながらも、話を続けた。
「何か、自殺に心当たりがあったということでしょうか?」
「いえ、まったく」
笑顔で、蹴散らした。だが、藍の話は終わらない。
「正直、城之崎さんの自殺の原因があるのであれば、私が知りたいくらいです。ですが――」
「ですが?」
竹中は、真剣な顔で藍の云った言葉を復唱させた。
「自殺の原因は判らないのですが、家を放火した理由なら大体判ります」
「えっと、それって、自分の家を自分で放火させた――ということで宜しいのでしょうか?」
「はい、そうです」
再び藍は、すぅっとハーブティーを飲み、ほっと息を吐いた。だが、そんな落ち着いている藍とは相反して、竹中、そして、隣の田辺までもが「どうして!」と、腰を若干浮かせた。
「どうして、自分で自分の家を放火などさせたのですか? そんなの正気の沙汰ではない」
「はい、その通りです。城之崎さんは正気ではなかったのでしょう。正気を失わせてしまう程に、あの人の根底にある理念は太く、揺るがないものだったのです」
「理念?」
訝しそうに竹中は云った。
「そうですねぇ。例えば、えっと――」
「あ、えっと、申し遅れました。自分は竹中と云います。竹中啓治――」
藍は先程の竹中と同様の反応を見せたので、竹中は云った。それを受けて、藍は「竹中さんですか」と、微笑んだため、自分の名前を呼ばれて、妙に恥ずかしくなり、目を伏せてしまった。
「今年ももう終わりです。竹中さんは、今年は良い年になりましたか?」
「いえ、自分は――正直、良い年とは云えませんね」
今年起きた様様な苦い思い出が、竹中の脳裏を駆け巡り、溜息を吐いた。
「そうですか――。ですが、その分来年は良い年になると思います」
「えっと、一体、どういうことでしょう?」
「恐らく、城之崎さんも、こういう考えをなさる方だったのではないでしょうか? 今年はあまり良い年ではなかった――だけど、来年はその分良い年になる――と」
「はぁ」
その気持ち、竹中も判らなくはなかった。悪いことが起きれば、その分良いことも起きると考えるのは、ある種、人間の心理的メカニズムでもある。
「何か、良い行いをすれば、きっとその分が自分に返ってくる――とも、考えたでしょう。無論、こういう思考はどの人間にも当て嵌まることなのです。私にも、多少なりとも覚えがありますしね」
「まあ、確かに自分にも覚えがありますね」
お見合いに失敗した時、田辺にチャーシューをおまけして貰った。更に、初めて、藍に微笑んで貰えた。確かに、この二つでは、その苦い思い出を精算することはできないかもしれないが、それでも、竹中としては満足だった。
更に、昨日、城之崎を事故から救い、確かに、城之崎からは特に感謝をして貰えなかったが、それでも、こうやって藍と肩を並べて、ラーメン屋に一緒に入ることができた。
こういう経験から、城之崎の持っている理念もどことなく理解は出できた。否、むしろ、昨日の取り調べの時に事故を起こしたドライバーに対して、その苦行はいつか必ず、報われる日が来ると、竹中自身、云ったばかりだ。
つまり、竹中も城之崎程ではないにしても、その理念とやらを濃く意識しているのだろう。
「ですが、城之崎さん自身、そんな思考を持っていたという程度の話ではなく、恐らく、崇拝していたのではないでしょうか? だから、このようなことが起きてしまったのです」
「それはつまり――」
少し話が突飛してしまったために、竹中は首を傾げた。それを受けて、藍も「すみません。飛躍し過ぎましたね。順を追って話します」と苦笑して云った。気が付けば、隣にいた田辺は、先程の警戒したような態度とは打って変わり、カップの中のハーブティーをすべて、飲み干してしまっていた。それを見た、藍は笑顔で「お代わりはどうですか?」と、ポットを掲げて云った。
「も、貰います」
「そ、それでは、自分も――」
田辺に釣られて、竹中もまるで掌を返すように態度を急変させて云った。それを受けて、「はい」と、藍は二人のカップにハーブティーを注いだ。そして、再びあの不思議な香りが燻(くゆ)った。
藍は再び話を始めた。
「では、今度は、逆のことが起きたとしましょう。先程云ったような思考を崇拝する城之崎さんに突如、懸賞で、高いベンツが当たったとしたら――城之崎さんは、その幸運を果たしてどう思うでしょうか?」
「そ、それは――」
「多分、その幸運は城之崎さんに取っては恐怖以外何者でもなかったのではないでしょうか? 何か良いことが起きれば、今度はその分の悪いことが起きると考えたはずです。例えば、事故にあって死んでしまったり、或いはもっと別のことで痛い目に遭うと考えたはずです」
竹中は、唖然とした。だが、まだ話は終わらない。
「それだけではありません。更に、城之崎さんは、派遣で働いていた工場が、海外進出に成功して、そこで重役を任されていたと聞きます。ですが、それも城之崎さんからしたら恐怖の対象です。今は、良いかも知れないけど、海外に進出して、逆に経営が一気に落ちるんじゃないかと――」
「ま、まさか――」
田辺は驚愕のあまり、カップを落としそうになったが、寸での所で止めた。
「はい、ですので、城之崎さんはいつ訪れるか判らない――重役の件とベンツを当てた分の不幸が訪れるのが恐ろしく、そんないつ来るか判らない不幸に怯えて暮らすのであれば、いっそのこと、自ら不幸を演出しようと、わざと事故を起こしたのです。そうすれば、ベンツもお釈迦になり、工場もクビです。ですが、それも計算してやったこと。云い換えれば、その幸運分の不幸を自ら演出して精算したのです。そして、城之崎さん自身、そうやって、幸を精算しないと、不安で不安で堪らなかったのだと思います」
「因みに、城之崎は東大の出で、某銀行への内定も決まっていたらしいです。ですが、あるトラブルを起こして内定を取り消されたという過去があります」
「ああ、それは喧嘩だよ。あの馬鹿、居酒屋で悪酔いして、客に喧嘩をふっかけて、店を滅茶苦茶にしちまったらしい」
と、田辺が云った。
「恐らく、それも計算してやったことです。その幸運が城之崎さんには受け入れがたかったのです。そして、昨日の事故も同じです」
「昨日の事故も?」
と、竹中。
「はい、竹中さんは、昨日のあの事故、城之崎さんがわざと車に当たりに行っているように見えたと仰いましたね?」
「ええ、確かに――」
「その竹中さんの考えは、間違っていなかったのです。城之崎さんは、昨日、あの車にわざと当たりに行ったのです。ある幸運を精算するために――ですが、結局できませんでした」
それは、竹中が助けたからであろう。
「ああ、だから、昨日あの男は、あんなに気に入らない態度を取っていたのか――」
「はい、多分、城之崎さんは、助けて貰ったではなく、邪魔をされたと思ったことでしょう」
そう云われて、竹中も死んだとはいえ、城之崎に対して不満を覚えてしまう。
「と云うことは、あの事故についても、この火災についても城之崎は、何か精算したかった幸運があったというわけですか?」
「ええ、それは誰もが知っているあのことです――」
「――あのこと?」
二人は思案した。
「昨日の事故で精算できず、そして、自らの家を全焼させてしまう程の幸運。云い換えれば、全財産を消失させるだけの価値がある程の、近年稀に見る幸運――」
そう云って、藍は、黒焦げになった家に視線を遣り、二人も釣られて、藍の視線を追った。
「それは、宝くじで一億を当てたことです――」
その藍の言葉に、二人は何も云うことが出できなくなり、ただただそんな城之崎の抱えた狂気に心(しん)胆(たん)を寒(さむ)からしめた。
「人間というのは、どんなに上手く計算して、立ち回ったとしても、偶然という強大且つ、不条理な力の前では、どうにもなりません。それが、喩え、良いことにしろ、悪いことにしろ、起きてしまう時は起きてしまうのです。だから、皆は、神や仏に祈ったりして、運気を好転させようとするわけです。そして、時には、悪徳宗教に嵌ってしまう人間もいれば、城之崎さんのように、一風変わった理念の下に少し変わった行動を起こしてしまう人間もいるのです。その偶然が恐ろしいがために――。不幸から必死に逃れるために――」
全焼した家から濛濛とたゆたう黒煙は、亡くなった城之崎の魂の嘆きのようにも見て取れた。
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