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──意図せず捲られた頁には、なにも書かれていない。
几帳面に引かれた罫線かあるだけで、そこにはいかなる言語も書き込まれていなかった。少し年季が入っただけの、ありふれた羊皮紙が目の前にある。
それを認識した途端、すぅ……と何かが抜け落ちたような感覚に見舞われた。集中力が切れたときのあの感覚に近しいが、抜け落ちた後の疲労感がその比ではない。走った訳でもないのに軽く息があがっているし、少し汗ばんだ肌にはシャツが張り付いている気がした。
卓上時計は既に午後五時を指し示しており、窓からは綺麗な夕焼けが見える。
それならばこの疲労感も納得出来るものだ。朝九時から今まで一切の休憩を挟まず、業務に集中していのだからそうなるのも仕方のないことだろう。
給湯室でインスタント珈琲を淹れ、角砂糖を4つばかし手に取り部屋へと戻った。日記類と公的記録をもう一度別けて並べ、先程の手帳へと手を伸ばし──その手を止めた。
これは見間違いだろうか? なにもなかったはずの羊皮紙に小さなシミがついている。まさかとは思うが、片付けの最中に珈琲でも溢してしまったのだろうか? けどなんだかコレは……染み込んだというより、滲み出てきているような気がする。
じわり、じわり、と羊皮紙に滲む速度はえらく緩慢だ。そしてそれはただ無秩序に拡がっているわけではなかった。
始めのシミを起点にして、何かの形を描き出そうとしている。
巣穴から這い出る蟻のように。
地を這うナメクジの滑らかさで。
黒褐色のインクが余白の海を泳いでいた。
──Det er vi som står utenfor vinduet.
《私達は窓の外にある者です。》
Hvem er du?
《貴方は誰ですか?》──
気がつけば、それは文字としてのカタチを獲ていた。伝わる筈のない言語は確かにそこにあって、明確な意志と意味を孕んでいる。彼らは窓の向う側から、通じるはずのない場所を通して語りかけてきていた。
──Hva leter du etter og hva søker du?
《貴女は何を探し、求めているのですか?》
……見られている。遥か彼方より彼らが私を見ている。この一冊の日記帳を
きっと、ここで閉じるのが正しい筈なのに──今もなお浮かび上がり続ける彼方からの声が、ソレを拒んでいるのだ。此方の心を直に覗き込み、興味を唆り引き込んでくる。
──Vår gave til deg er det du kaller en relikvie.
《私達からの贈り物を、貴方達は聖遺物と呼んでいる。》
Det du bør lete etter, er relikvien.
《貴方が探すべきは、その聖遺物。》
For å komme til sannheten må du ta på tingen.
《真実を知るためには、ソレに触れる必要がある。》
Himmelens syngende stemme. Stemmen til stjernenes datter.
《天上の唄声が。星の娘の声骸が。》
Du som er utstyrt med nåde, rør ved den.
《恩寵を授かりし君よ、ソレに触れるがいい。》
Datteren til en fallen stjerne ville ha ønsket det.
《流れ落ちた星の娘もそれを望んでいる事だろう。》──
貴方の言う、星の娘とは何なのか。貴方達からの贈り物──聖遺物。聖遺物とは人の手で創られた単なる
彼方からの声を読み取る度──興味、畏怖、警鐘、否定、考察、疑念、好奇心、警告──複雑に絡み合った感情と思考が溢れ溢れ出す。無秩序なそれらは思考を絡め取り、理性と正気を犯し蝕んでいく。頭の中はもう、私であって私ではないような感覚に陥りかけていた。
「──……何を書いているの?」
張り詰めた正気の糸がちぎれそうになったその時、微かな驚きと興味の混ざった声が私を
瞬間、全ての音が一斉に戻ってきた。否、戻ってきたのは私の方なのだろう。開け放たれたカーテンが風に揺れる布擦れの音、ランプが燃焼する際に放つ独特の香り、雑木林の奥から届く梟の泣き声──普段なら気にも留めないであろう雑音が、酷く鮮明に聴こえてくる。それらには若干の煩わしさもあるが、奇妙な事に安心感のほうが大きい。当たり前の音が、当たり前に聴こえる事がこれ程までに心を安らかにしてくれるとは思いもよらなかった。
「
「──……っ!?」
背後から聞こえたその声に、私は跳ねるような速さで振り向いていた。その先に居たスミラックスの顔を見て、緊張の糸が一気に解けていく。それと同時に思考も柔らかさを取り戻していった。
そう。大丈夫なのだ。先程の言葉はただのフランス語。始まり《Anfang》の
「えーと……驚かせてごめんね?」
彼女は人差し指で頬を掻きながら、気まずそうに話しかけてくる。今度はちゃんとした公共語で喋っているようだ。
「お昼ご飯はおろか、夕飯すら食べに来ていないって聞いたから心配したんだよ?」
彼女は近くの椅子に腰掛けると、手作り感の強いサンドイッチを手渡してきた。礼を言ってから受け取り、包みを開くとほんのりと優しく胡椒が香る。一口
夢中で食べ進めていると「美味しいでしょ、それ」といって彼女が明るく笑う。なんでも彼女のお気に入りだそうで、三日に一度は作ってしまう程なのだとか。
「──ご馳走様でした、スミラックスさん」
「お粗末様。完食出来たようで何よりだよ」
「……なんだかすみません。色々とお世話になりっぱなしで」
「いつも言ってるけど、そんなの気にしないでいいってば」と、彼女は口元に手を当てて明るく小さい笑みを溢す。少々癖のあるその笑い方は、幼き日によく見たサレニの姿を彷彿とさせるものだった。
彼女に促されるまま水分を補給していると、唐突に「それで、どう?」と声をかけられた。向けられた視線に優しさはなく、纏う雰囲気も変わり始めている。
「……どう、とは」
「グィナヴィアで経験したものだよ。それらを見てキミはどう思ったのかな?」
やや疲れたような、呆れたような、生気の薄れた声で彼女は語りかけてくる。こんな調子になるのも解る。あの国に居た時間は少ないし、見てきたものも全体の一部分でしかないのだろう。けれどこれだけの傷跡を残すものだった。
「率直に言うと、酷いものだと思いました」
「酷い──うん、そうだね。アレは酷いものだ」
「あの人達は何を思ってあんな事をしていたのでしょう」
──脳裏を過ったのは、建設機で掘ったと思わしき大穴に落ちていく民間人の姿。パン、パン、パン、パパン。という無機質なリズムが名も知れぬ誰かの死を告げる光景。
「タヴィアさんが殺してしまった指揮官が言っていたように、平和をもたらすために仕方なくやっていたのでしょうか?」
──あの指揮官は信じていたのだろうか。あの場で殺されていたのがクィラムの移民達だけだと。
路傍に転がる無数の死体。砕け捲れて炙れた内蔵、火と鉄が食いちぎった人間の欠片。それらを見た上で、あの指揮官は『仕方のない事だ』と言っていたのだろうか……?
「一体……如何なる理由があれば、あれ程の残虐行為に正当性を見い出せるのでしょうか?」
「それはきっと、価値観によるんだろうね」
優しい諦めの色を孕んだ声で、彼女は続ける。
「知ってるかな、ラズリー。とある宗教ではかつて、
それは敵対する異民族に対し『神への奉納物として、異教の神を拝むものと、それに関連する
コレにおける全ての戦利品は、誰の手に渡る事もなく『滅却』される。
対象とされた敵対異民族は
「──これはあくまでも、神への信心から生じた行為だった」
そう言って彼女は乾いた笑みを浮かべ、諦観したかのような表情のまま話を続けた。
「わかるかな? 人はカタチのない偶像の為に同族を殺せるの。殺すことを選択出来てしまう生き物なんだよ」
……それは、彼女の言う通りなのかも知れない。
歴史を読み解いて、調べたのならこの答えに行き着くことだろう。人間は『理由さえあれば躊躇いなく虐殺を引き起こす野蛮な獣』だという結論に。けれど心の何処かで自分は違う。虐殺を嫌悪し忌避するだけの理性があるニンゲンだと思っている筈だ。過去の虐殺と戦争を理解しているのだから、それを繰り返すような愚行は起こさないと、数多くの人間が心の底から、そう信じているに違いない。
──恐らく私もその一人だった。
少なくとも、内戦の起きたグィナヴィアへ行くまでは──虐殺なんてものは起こり得ないと思っていた。
けれどそれは起きた、起きてしまったのである。グィナヴィアという隣国で、虐殺行為は起きてしまったのだ。
私達が平和な日常を過ごしている場所から、そう遠くない場所で数多の骸が生まれ血の河が流れていた。その元凶と思わしき指揮官は死んだけれど、グィナヴィアでの虐殺は続いていくのだろう。
あの夜の帳の中でも感じられた異質な空気。肌がざらつくような重苦しい雰囲気が消えない限り、虐殺の機構は機能し続けることだろう。
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