▼ 9 ▲
教会へ戻ってからも、私は思考の渦に呑まれたままだった。そして耳に入るもの、目に映るもの、肌で感じるもの全てが、極めて薄い布一枚を通して感じているような気がする。あらゆる刺激が緩和され、私に何かを伝えるよりも先に離れていく。
「──Вы, наверное, устали сегодня.
《今日は疲れたでしょう?》
Я свяжусь с Вергрид, и вы можете остаться здесь.
《ヴェルグリドには連絡しておきますから、此方に泊まっていきなさい》」
「…………!」
その言語を耳にした途端、私の意識は強制的に引き上げられた。あれだけ渦巻いていた思考の波はピタリと止まり、ある一点へと収束していく。私の聞き間違いでなければ、先程の言葉はあの時のウタと同じ言語だ。日常生活において耳にすることの無かった、全く未知の言葉。
「
「……え?」
──今のは、
傍らに立つ彼女は──いつもの見慣れた彼女である。纏う雰囲気も変わらず、その表情にも変化は見られなかった。あの時見えた。底知れぬ悍ましさを感じさせるような笑みではない。
「本当にお疲れのようですね、
……大丈夫。今度は大丈夫だ。今のは一般的に使われている公用語で、普段から使っている言葉だった────……本当に? 今の言葉は本当にそうだったのか? 先の発言を
……それこそありえない話だ。もしそうであるのなら、必然的に私はあの
「──何をそんなにも怯えているのですか?」
軟らかな声と共に、彼女が私の顔を覗き込む。澄んだ翡翠を思わせるその双眸は私を捉えたまま離さない。瞬きもなく、私の視線へと合わされたまま──吸い込まれそうな程に美しく、妖しい視線は此方の奥深くまで届いていた。
……いや。届くというよりも、覗かれていたという方が正しいのかも知れない。
「可哀想に──先程の出来事が余程怖かったのですね」
視線が外されたのとほぼ同時に、優しく抱きしめられる。
「大丈夫。大丈夫ですよラズリー」
何故だろう。何故私は彼女を恐れている? 絹のように艷やかで軟らかな淡い金髪も、シミ一つ無い柔肌も、何もかも変わりないというのに。今はその全てが浮世離れした異物としか思えない。
「ここには貴女を害するものはありません」
理由はどうであれ、彼女は怯え傷ついた
「貴女を傷つけるもの、貴女を脅かそうとするもの、貴女を悲しませるもの──そういったモノは、ここには何一つありません」
この言葉を、言葉通りに受け止めることが出来たのならどんなに良かったか。様々な事を教え、導いてくれた恩師であり親でもある彼女に対して、こんな事を思うのは失礼だと解ってる。
「……大丈夫。大丈夫ですよ、ラズリー」
赤子をあやす様な、優しい手付きで背中をさすられた。それは本来、安心感と心地よい眠気を誘うものだ。しかし今の私にはそのどちらも感じられない。あるのはただ、底知れぬ違和感とほんの少しの猜疑心だけ。
教会に着いてから、彼女が見せた言動の全てが──どこか、形式的なものにしか見えないのだ。あれらは名も知れぬ誰かが決めた
───…………なんで、そんな事を思いついてしまったのだろう? 一体何が原因でこの疑問に行き着いてしまった?
よく考えてみろ、ラズリー。今まで私が見てきた彼女は、どんな存在だった? 幼くして両親を亡くした私達を育てくれた母でもあり、あるゆる知識を与えてくれた師でもある。先達として、私達が一人立ち出来るように鍛えてくれた人じゃないか。そんな人に対して、なんでそんな事を思ってしまうのだ。
「──……すみません、エーギルさん。その、少し時間をください」
私は彼女の顔を見て話すことができなかった。声が震えないように、私の心を見透かされないようにと願いながら、か細い声を上げることしか叶わない。
「時間──ですか?」
それならば礼拝堂を使いなさい、という言葉と共に鍵を渡された。私は礼を述べて鍵を受け取りそこへ向かう。時間が時間だからか、燭台の灯が落ちた廊下は暗くひんやりとしていた。その夜風の中に香る塩臭さが、なぜか何時もより強く感じられる。
──海が
そんな音に懐かしさを覚えつつ、私は独り礼拝堂の席につく。ここは先程の廊下とは異なり壁の厚い室内だ。近いと感じていた潮騒は遠くなり、丁度よいバックグラウンドミュージックとなっていた。
「───……主よ。私は何故この様に迷い、恐れるのでしょうか」
主祭壇を見上げていると、そんな言葉が自然と漏れていた。司教はおろか、修道女も居ないので勿論答えは返ってこない。私の疑問は、あっという間もなく堂内の静謐に飲まれ消えてしまった。そんな事は解りきっていたのに、どうしてこんな言葉を口にしてしまったのだろう。私は何を期待していた?
自然と、自嘲気味な笑いが溢れていた。自分が見つけられない答えを、
そんな懐かしい言葉を思い出し、ふとバラ窓を見上げていた。そこから注ぐ柔らかくも冷たい月光が心地好い。その心地好さに甘えながら、多少の冷静さを取り戻した思考を巡らせた。
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