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 教会へ戻ってからも、私は思考の渦に呑まれたままだった。そして耳に入るもの、目に映るもの、肌で感じるもの全てが、極めて薄い布一枚を通して感じているような気がする。あらゆる刺激が緩和され、私に何かを伝えるよりも先に離れていく。

「──Вы, наверное, устали сегодня.

《今日は疲れたでしょう?》 

 Я свяжусь с Вергрид, и вы можете остаться здесь.

《ヴェルグリドには連絡しておきますから、此方に泊まっていきなさい》」

「…………!」

 その言語を耳にした途端、私の意識は強制的に引き上げられた。あれだけ渦巻いていた思考の波はピタリと止まり、ある一点へと収束していく。私の聞き間違いでなければ、先程の言葉はあの時のウタと同じ言語だ。日常生活において耳にすることの無かった、全く未知の言葉。

ラズリーмалина?」

「……え?」

 ──今のは、だ? 自分の名前を呼ばれたという事は理解出来ている。異なる言語で呼ばれたのに、それがなんてことはあり得るのだろうか? 

 傍らに立つ彼女は──いつもの見慣れた彼女である。纏う雰囲気も変わらず、その表情にも変化は見られなかった。あの時見えた。底知れぬ悍ましさを感じさせるような笑みではない。


「本当にお疲れのようですね、малинаラズリー

 ……大丈夫。今度は大丈夫だ。今のは一般的に使われている公用語で、普段から使っている言葉だった────……本当に? 今の言葉は本当にそうだったのか? 先の発言を再生リプレイする程、その疑念は深まっていく。全く知らない筈の言語が持つ意味を、直感的に理解出来るなんてことが本当にありえるのか? 方言や訛り、発語のクセからくる認識の齟齬が起きている可能性は? 

 ……それこそありえない話だ。もしそうであるのなら、必然的に私はあの言語を言葉として認識している事になる。仮にそうだとしたら、何を以て私は言葉を言葉として──意味を持つ単語を認識し、理解しているというのだ? 


「──何をそんなにも怯えているのですか?」

 軟らかな声と共に、彼女が私の顔を覗き込む。澄んだ翡翠を思わせるその双眸は私を捉えたまま離さない。瞬きもなく、私の視線へと合わされたまま──吸い込まれそうな程に美しく、妖しい視線は此方の奥深くまで届いていた。

 ……いや。届くというよりも、覗かれていたという方が正しいのかも知れない。

「可哀想に──先程の出来事が余程怖かったのですね」

 視線が外されたのとほぼ同時に、優しく抱きしめられる。

「大丈夫。大丈夫ですよラズリー」

 何故だろう。何故私は彼女を恐れている? 絹のように艷やかで軟らかな淡い金髪も、シミ一つ無い柔肌も、何もかも変わりないというのに。今はその全てが浮世離れした異物としか思えない。

「ここには貴女を害するものはありません」

 理由はどうであれ、彼女は怯え傷ついた同族ヒトを安心させようとしている。その行動は間違っていない。寄り添う姿勢を見せるのはごく自然で、当たり前の行動だ。人間として正しい行いだと言えるだろう。

「貴女を傷つけるもの、貴女を脅かそうとするもの、貴女を悲しませるもの──そういったモノは、ここには何一つありません」

 この言葉を、言葉通りに受け止めることが出来たのならどんなに良かったか。様々な事を教え、導いてくれた恩師であり親でもある彼女に対して、こんな事を思うのは失礼だと解ってる。

「……大丈夫。大丈夫ですよ、ラズリー」

 赤子をあやす様な、優しい手付きで背中をさすられた。それは本来、安心感と心地よい眠気を誘うものだ。しかし今の私にはそのどちらも感じられない。あるのはただ、底知れぬ違和感とほんの少しの猜疑心だけ。

 教会に着いてから、彼女が見せた言動の全てが──どこか、形式的なものにしか見えないのだ。あれらは名も知れぬ誰かが決めたという、良い人間として求められる理想的な立ち振舞い。他者を思いやる事が出来る立派な人だと、誰もが感じるであろう行いを模倣トレースしているだけなのではないか? 


 ───…………なんで、そんな事を思いついてしまったのだろう? 一体何が原因でこの疑問に行き着いてしまった? 

 よく考えてみろ、ラズリー。今まで私が見てきた彼女は、どんな存在だった? 幼くして両親を亡くした私達を育てくれた母でもあり、あるゆる知識を与えてくれた師でもある。先達として、私達が一人立ち出来るように鍛えてくれた人じゃないか。そんな人に対して、なんでそんな事を思ってしまうのだ。

「──……すみません、エーギルさん。その、少し時間をください」

 私は彼女の顔を見て話すことができなかった。声が震えないように、私の心を見透かされないようにと願いながら、か細い声を上げることしか叶わない。

「時間──ですか?」

 それならば礼拝堂を使いなさい、という言葉と共に鍵を渡された。私は礼を述べて鍵を受け取りそこへ向かう。時間が時間だからか、燭台の灯が落ちた廊下は暗くひんやりとしていた。その夜風の中に香る塩臭さが、なぜか何時もより強く感じられる。

 ──海が時化シケているのだろうか? あまり気にしたことはないが、波の音が近いような気がする。波の音というか、海の音という方が近しいか。岸壁に打ち付けられる潮の音というより、浜辺で聞くような潮騒に近いような気もする。

 そんな音に懐かしさを覚えつつ、私は独り礼拝堂の席につく。ここは先程の廊下とは異なり壁の厚い室内だ。近いと感じていた潮騒は遠くなり、丁度よいバックグラウンドミュージックとなっていた。


「───……主よ。私は何故この様に迷い、恐れるのでしょうか」

 主祭壇を見上げていると、そんな言葉が自然と漏れていた。司教はおろか、修道女も居ないので勿論答えは返ってこない。私の疑問は、あっという間もなく堂内の静謐に飲まれ消えてしまった。そんな事は解りきっていたのに、どうしてこんな言葉を口にしてしまったのだろう。私は何を期待していた?

 自然と、自嘲気味な笑いが溢れていた。自分が見つけられない答えを、他人に見出そうとするなんて事をしても意味がないのに。いつか彼女も言っていたではないか。自らの頭を指差して「神はこの中にいます──地獄も、天国も、悪魔も天使も。そういったモノは全て、貴方の頭の中にいます」と。今思えば、神職者が口にするようなものではない。異端だ、魔女だと糾弾されても文句は言えないだろう。

 そんな懐かしい言葉を思い出し、ふとバラ窓を見上げていた。そこから注ぐ柔らかくも冷たい月光が心地好い。その心地好さに甘えながら、多少の冷静さを取り戻した思考を巡らせた。








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