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「ラズリーさん、大丈夫ですか」
「──ヴィラ……ヴィス、さん……?」
悍しい笑みを浮かべたままの彼女に抱かれていると、背後から声がかかった。直後、彼女から感じていたモノが消え失せる。そこに一切の余韻はない。つい先程まで見ていたものが、感じていたモノが、はじめから無かったかのような錯覚を起こした程である。
「おかえりなさい、ヴィラヴィス。戻られたということは、そういうことなのですね?」
彼の方へ向き直った彼女は、私達が普段慣れ親しんだ彼女であった。修道女として違和感のない、いつものエーギルという人物。
「……ええ。男性と思しきものが五体、女性らしきものがニ体です」
彼はやや伏し目がちに答えると、幾つかの写真を手渡してきた。ソレを私が受け取ろうとすると「貴女は見ない方がいい」と言って彼女が代わりに受け取る。彼女は私に見えないようそれを確認すると、何が写っているのか見えないようにして彼へ返した。
「想定していたよりも数が多い。心苦しいが回収は後日に回すということで宜しいか?」
「──こればかりは仕方ありません。せめてこれ以上辱められないよう、獣避けの香を焚いておきましょう」
そう言って彼女は私達を置いて一人消えていく。勿論ついて行こうとしたのだけれど「貴女が見る必要はありません」と言って譲らなかった。そして彼は彼で休むようにと強く言われ、ここに残る事となっている。
彼女が離れてからは暫し沈黙が続く。ランタンが照らす薄明かりの中、私は先程の事──特にエーギルさんの会話を思い出していた。いや、会話の内容よりもその言葉選び、声の抑揚、口調の変化を追ったという方が正しいかもしれない。
あの記憶が薄れないよう、消えないように何度も反芻しながら気付いた。ウタを歌った後の彼女は、明らかに普段とは異なっていたのだ。同一人物なのかと疑ってしまう程に、あの時の彼女は異質な雰囲気を漂っていた。
「……あの、ヴィラヴィスさん」
「なんでしょうか」
「──エーギルさんのウタを聴いたことはありますか?」
ウタ。この単語を耳にした彼は怪訝な表情を浮かべ、暫しの間考え込んでしまう。
「すみません。私の知る限り彼女が歌を口ずさんだ記憶はありません」
「そう、ですか……」
なら先程のウタも彼の耳には届いていないという事か。けれどそんな事はあり得るのだろうか? あの時の私達は、殆どくっついていると言える位の距離に居た。それこそ軽く手が届く、と言えるくらいに。加えて騒音だらけだった訳でもない。あの場は互いの息遣いすら聴こえる程の静寂に包まれていたのだ。
そんな状況下で聴こえない、なんて事は起こりえないと思うのだが……まさか人には聴こえない周波数帯で歌っていたとでも言うのか? 仮にそうだとしたら、私はどうなる。特別耳が良い訳でもないし、そんな理由で片づけられるような話でもないはずだ。
「──して、何故その様な事をお聞きに?」
「貴方の歌がとても上手いと聞いていましたので……もしかしたらエーギルさんから教わったりしてたのかなぁと」
「残念ですが、私の歌は独学です。ちなみに誰からそのような話を?」
「ベルおばさんからです。ウクレレを渡せば一曲歌ってくれるとも聞きましたが」
どうやらそちらの方は違うとの事。彼は楽器全般が苦手らしく弾き語りは出来ないらしい。それから暫しの間、他愛もない話を続けていると香を焚き終えた彼女が戻ってきた。
そして一言「遅くなって申し訳ありません」と述べた後、一枚のメモを彼へと手渡す。あれは恐らくは遺体の座標を記したものだろう。不可解な事にここルヴリグでは、GPSを始めとした電子機器がまともに動作しないのだ。なので未だにルヴリグ山脈の全容は掴みきれておらず、紙媒体の地図が各国で売られている。
勿論国によってその地形はバラバラだ。特にクィラムのモノは酷くマトモな測量すら行われていないのでは? と噂されるほどの精度しかない。特に標高がデタラメで、まともに使えたものではないと噂される程であった。
「──では、帰りましょうか」
「そうですね……彼女も限界のようですから、早く帰りましょう」
そこからのことはあまり良く覚えていない。彼女の「帰りましょう」の一言で緊張の糸が切れたのか、限界まで精神が擦り減っていたからなのかは判らない。
──わかるのはただ、ここで為すべきことは終わったということだけ。尤も、私がした事と言えば道案内くらいのものだ。後は殆ど役に立っていない。未知の恐怖を前に怯える事しか出来ず、彼女の見知らぬ一面に畏れを抱いただけである。
そうして思い返せば思い返す程、今日の出来事が夢なのではないかと思いたくなる。何もかもが、あまりにも非日常過ぎた。まるで映画のワンシーン──これから先の見せ場へ繋げる為、仕込まれた伏線の一つとさえ思えてくる。もしそうなのだとしたら、これから先に一体何が待ち受けているのだろう。浮かんでくるイメージはどれも輪郭のないモヤのようなものだけど、一つだけ確信しているものがあった。どの様な未来になったとしても、血と硝煙、悲鳴と苦痛からは逃げられないのだろうと。
そんな、纏まりのない思考は乗馬中でさえ続いていた。馬の蹄が地面を蹴る音、頬を撫でる風の冷たさ、ランタンの鈴灯り──そういった周囲からの情報を受け取りながら、思考の海に沈んだまま手綱を握っている。
帰路も意図的に選んでいるわけでなかった。目にした情報を脳が勝手に処理し、無意識に割り出した最適解を進んでいく。こんなのはもう、殆ど身体が勝手に動いているようなものだ。そんな事を思いながら私達は、泳ぐような闇の中を駆け抜けた。
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