▼ 7 ▲
「──ここ! ここです!」
ポイントへ到着した瞬間、私は不安と恐怖を掻き消すように声を張り上げ馬を止めた。後続の二人は馬を止めると、ランタンを掲げ周囲を確認する。
……どうやら周囲に獣は居ないらしい。私達は馬を降りて、徒歩での探索へ切り替えることにした。先頭からヴィラヴィス、私、
前後を守られているとはいえ、この暗がりの中を進んでいくのはかなり怖い。茂みが揺れ、風鳴りを起こす度に体が強張るのを感じる。
「──ラズリー。歩みは止めず、私の呼吸を真似て落ち着きなさい」
彼女の指示通りにすると、多少マシになった気がした。それに加えてほんの少し、視界が広く取れるようになった気もする。
「鈴灯りなれど、道行きを照らす光はあります。どうか臆せずに畏れと共に進みなさい──」
立て続けにかけられたその言葉が、曲がりかけた私の背を押してくれた。いつも通りの少し難解な言葉選びだけれど、言いたい事は伝わる。
『────止まれ』
彼が停止のハンドサインを見せランタンの灯りを消した。私達もそれに倣い、極力音を立てないように灯を落とす。
突如として降りた夜の帳は、形容し難い恐怖と圧を以て私達を出迎える。夜と言う空間そのものが質量を持ち、意思を宿しているという錯覚を覚えた──そう言えば伝わるだろうか? とかく私が感じているのは、そういった類の
灯りを落としてからどれ程経ったのか。
「────……Спи, спи, спи, о алый волк.
《眠れ、眠れ、眠れ、緋色の狼よ。》
Охваченный светом темной луны.
《暗き月の光に抱かれて。》
Селена ждет тебя.
《セレーネーが貴方を待っている。》
Она ждет твоего возвращения, каким бы ложным оно ни было.
《偽りなれど、貴方の帰りを待っている。》
Забудь о нас и окунись в тепло матери.
《私達の事など忘れ、母の温もりに抱かれて。》
Спи, спи, спи, Алая Мудрая.
《眠れ、眠れ、眠れ、緋色の賢人よ。》
Свет темной луны обнимает тебя.
《暗き月の光が貴方を抱いている。》
Погрузись в мягкое материнское тепло.
《柔らかな母の温もりに身を任せ。》
Отпусти это сознание и усни сейчас же.
《その意識を手放して、今再び眠りなさい。》」
後数センチもずれれば触れてしまう。そう感じる程の距離に怪物の気配がある。だと言うのに──彼女は唄を口ずさんだのだ。澄んだ声に耳馴染みのない独特な抑揚をつけ、退いては誘う潮騒のように。軟らかな暗さを含んだまま、何処か遠い異国の言語で唄い上げたのである。
聴き惚れるような歌ではあったが、これで確実に居場所はバレた。私達はこの正体不明の怪物に喰われるのだろう。
……だがしかし、こちらの予想に反して怪物の気配は急速に小さくなっていった。例えるのなら、破裂寸前の風船が萎むような感覚だ。現れた時と同じ様に、なんの前触れもなくソレは姿を消してしまったのである。けれどその余韻は、痕跡は色濃く遺されたままだ。
それ故に、私は動けずに居る。
「二人共、火を灯しなさい」
聞き慣れた声と共に、背後で火が灯る。
「──……ひいっ!」
自らのランタンに火を灯し、辺りを照らした瞬間──心臓が口から飛び出てしまうのではないかと思った。
周囲の草木には赤黒い液体が付着しており、それらは皆一様にコールタールと見間違う程の粘性を保っていた。鼻腔に食らいついた腐敗臭の中に混ざる、濃密な鉄の匂いがそれの正体を告げている。
「……ヴィラヴィス、きっと近くに
「構いません。暫しお待ちを」
この光景を前に腰を抜かした私を見てか、彼女は私の肩をそっと抱きしめてくれた。それでもなお身体の震えは止まらない。漂う残り香が、目に映るすべてが、先刻の出来事は現実であると訴えてくる。
「エー、ギル……さん」
「なんでしょうか」
「さ、ささ、さっきのアレ……アレは、アレが
震えが止まらず、奥歯がカチカチと当たるような状態で絞り出した声は酷いものだ。変に上擦ってキレもない。
「はい、アレが
囁く声に抑揚は薄く、どこか説明するような口ぶりにも思える。いつも通りの声なのに、何かが異なっているような感覚が消えないのだ。
「恐ろしかったでしょう? 怖かったでしょう?」
その通りである。噂話には聞いていた。色んな人の口から、汎ゆる情報媒体からアレの事は聞かされていたのだ。
けれど、その実体を知らず。その姿をこの目で見ることはなかった。私は、私達は、他人の作り上げた虚像を恐れていたに過ぎなかった。形容し難いあの恐怖を、実際に識る事なく生きてきたのだ。
「アレは決して
気の所為だろうか。そう語る彼女の口調から、ほんの少しの愉悦を感じたのは。
「──とはいえ、あれは
「あれが一側面? どういう事なのですか」
「言葉通りです」
「……まさか、あれが夜の姿とでも言うのですか」
「面白い事を言いますね、貴女は」
彼女は口元に手を当て、含み笑いを見せつつ話を続ける。
「確かに
「エーギルさんは、なぜそんな事を知っているのですか」
気がつくと、自然と口を開いていた。アレが緋色の体毛をもつ巨躯の狼であり、赤水川を超えて来ない事は誰もが知っている。けれど
「自分自身で見て聞いて、調べ上げただけの事ですよ?」
「ならあの歌は……?」
──
寸秒の間に見えた驚き。その後に浮かべたのは恍惚とも取れる満面の笑みだ。それは彼女と十余年過した中で、一度たりとも見たことのない愉悦の笑み。
「ウタ──貴女には
ソレは一体どういう意味なのだろうか。アレが何処の言葉で唄われたのかは知らないけれど、彼女は確実に歌っていた筈だ。
「あぁ、ごめんなさいね? なにぶん久方振りなものですから──今の私は、年甲斐もなく浮足立っているようなのです」
彼女の顔には、心の底からの喜びが浮かんでいる。先の言葉に嘘も偽りもない。純粋に心の奥底、最も深くて単純な所で喜びを感じているのだろう。
……そこに明確な理由や根拠があるわけでもない。けれど、そう感じさせるだけのナニかを宿した表情をしているのだ。慣れ親しんだ筈の彼女が見せた、私の知らない一面。そこから感じたのは、彼女の気持ちとは対極にある感情だった。
真っ先に感じたのは、背筋を蛇が這うような怖気。しかしそれも最適解じゃない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます