▼ 7 ▲



「──ここ! ここです!」

 ポイントへ到着した瞬間、私は不安と恐怖を掻き消すように声を張り上げ馬を止めた。後続の二人は馬を止めると、ランタンを掲げ周囲を確認する。

 ……どうやら周囲に獣は居ないらしい。私達は馬を降りて、徒歩での探索へ切り替えることにした。先頭からヴィラヴィス、私、殿シンガリにエーギルという単縦陣だ。その状態で左手にランタンを掲げ、右手に枝打ち兼対獣用の山刀マチェーテを構え進んでいく。

 前後を守られているとはいえ、この暗がりの中を進んでいくのはかなり怖い。茂みが揺れ、風鳴りを起こす度に体が強張るのを感じる。

「──ラズリー。歩みは止めず、私の呼吸を真似て落ち着きなさい」

 彼女の指示通りにすると、多少マシになった気がした。それに加えてほんの少し、視界が広く取れるようになった気もする。

「鈴灯りなれど、道行きを照らす光はあります。どうか臆せずに畏れと共に進みなさい──」

 立て続けにかけられたその言葉が、曲がりかけた私の背を押してくれた。いつも通りの少し難解な言葉選びだけれど、言いたい事は伝わる。

『────止まれ』

 彼が停止のハンドサインを見せランタンの灯りを消した。私達もそれに倣い、極力音を立てないように灯を落とす。

 突如として降りた夜の帳は、形容し難い恐怖と圧を以て私達を出迎える。夜と言う空間そのものが質量を持ち、意思を宿しているという錯覚を覚えた──そう言えば伝わるだろうか? とかく私が感じているのは、そういった類の恐怖scaryなのだ。精神を侵して蝕む毒のようでありながら、理性へと直接爪をたてる恐ろしい怪物。輪郭すら曖昧なのに、そこにいると確信出来る程の恐怖scaryが私を探している。

 灯りを落としてからどれ程経ったのか。ウロを思わせる闇夜にも目が慣れてきた──そう思った直後、澱んだ生暖かい呼気が頬を撫でる。死骸が折り重なって生まれたような、重苦しい濃密な死の気配がそこにいた。姿は見えないけれど、腐り果てた死の集積物が、生者の温もりを求め徘徊している。


「────……Спи, спи, спи, о алый волк.

《眠れ、眠れ、眠れ、緋色の狼よ。》

 Охваченный светом темной луны.

《暗き月の光に抱かれて。》

 Селена ждет тебя.

《セレーネーが貴方を待っている。》

 Она ждет твоего возвращения, каким бы ложным оно ни было.

《偽りなれど、貴方の帰りを待っている。》

 Забудь о нас и окунись в тепло матери.

《私達の事など忘れ、母の温もりに抱かれて。》


 Спи, спи, спи, Алая Мудрая.

《眠れ、眠れ、眠れ、緋色の賢人よ。》

 Свет темной луны обнимает тебя.

《暗き月の光が貴方を抱いている。》

 Погрузись в мягкое материнское тепло.

《柔らかな母の温もりに身を任せ。》

 Отпусти это сознание и усни сейчас же.

《その意識を手放して、今再び眠りなさい。》」


 後数センチもずれれば触れてしまう。そう感じる程の距離に怪物の気配がある。だと言うのに──彼女は唄を口ずさんだのだ。澄んだ声に耳馴染みのない独特な抑揚をつけ、退いては誘う潮騒のように。軟らかな暗さを含んだまま、何処か遠い異国の言語で唄い上げたのである。

 聴き惚れるような歌ではあったが、これで確実に居場所はバレた。私達はこの正体不明の怪物に喰われるのだろう。


 ……だがしかし、こちらの予想に反して怪物の気配は急速に小さくなっていった。例えるのなら、破裂寸前の風船が萎むような感覚だ。現れた時と同じ様に、なんの前触れもなくソレは姿を消してしまったのである。けれどその余韻は、痕跡は色濃く遺されたままだ。

 それ故に、私は動けずに居る。

「二人共、火を灯しなさい」

 聞き慣れた声と共に、背後で火が灯る。

「──……ひいっ!」

 自らのランタンに火を灯し、辺りを照らした瞬間──心臓が口から飛び出てしまうのではないかと思った。

 周囲の草木には赤黒い液体が付着しており、それらは皆一様にコールタールと見間違う程の粘性を保っていた。鼻腔に食らいついた腐敗臭の中に混ざる、濃密な鉄の匂いがそれの正体を告げている。

「……ヴィラヴィス、きっと近くにある筈です。お願いしても?」

「構いません。暫しお待ちを」

 この光景を前に腰を抜かした私を見てか、彼女は私の肩をそっと抱きしめてくれた。それでもなお身体の震えは止まらない。漂う残り香が、目に映るすべてが、先刻の出来事は現実であると訴えてくる。

「エー、ギル……さん」

「なんでしょうか」

「さ、ささ、さっきのアレ……アレは、アレが緋狼人レッド・ヴォルグなんですか?」

 震えが止まらず、奥歯がカチカチと当たるような状態で絞り出した声は酷いものだ。変に上擦ってキレもない。

「はい、アレが緋狼人レッド・ヴォルグです」

 囁く声に抑揚は薄く、どこか説明するような口ぶりにも思える。いつも通りの声なのに、何かが異なっているような感覚が消えないのだ。

「恐ろしかったでしょう? 怖かったでしょう?」

 その通りである。噂話には聞いていた。色んな人の口から、汎ゆる情報媒体からアレの事は聞かされていたのだ。

 けれど、その実体を知らず。その姿をこの目で見ることはなかった。私は、私達は、他人の作り上げた虚像を恐れていたに過ぎなかった。形容し難いあの恐怖を、実際に識る事なく生きてきたのだ。

「アレは決してPhantomではない。実在する恐怖Scaryなのです。それを貴女は今宵、代価を支払わずに識る事が出来た」

 気の所為だろうか。そう語る彼女の口調から、ほんの少しの愉悦を感じたのは。

「──とはいえ、あれは緋狼人レッド・ヴォルグの一側面に過ぎません。かねてから伝えているように、全容を識ることは難しい。そもそも全容を窺い知る事など、誰にも出来ないのかも知れません」

「あれが一側面? どういう事なのですか」

「言葉通りです」

「……まさか、あれが夜の姿とでも言うのですか」

「面白い事を言いますね、貴女は」

 彼女は口元に手を当て、含み笑いを見せつつ話を続ける。

「確かに緋狼人レッド・ヴォルグは特異な存在ではありますが、昼夜で姿が変わるわけではありませんよ? アレは今宵のような新月の夜にだけ、無貌の獣へと変質するのです。広く認知された体貌では喰えぬモノを送る為、一時的にカタチを捨てその本質をあらわにしているだけの事」

「エーギルさんは、なぜそんな事を知っているのですか」

 気がつくと、自然と口を開いていた。アレが緋色の体毛をもつ巨躯の狼であり、赤水川を超えて来ない事は誰もが知っている。けれどは誰も知らないのだ。個体情報識別帯バイオメトリクスタグを持つものなら誰でも使える総合電子百科事典にも、先述のような情報はなかった筈なのに。

「自分自身で見て聞いて、調べ上げただけの事ですよ?」

「ならあの歌は……?」

 ──。そう伝えた途端、彼女の表情が変化する。

 寸秒の間に見えた驚き。その後に浮かべたのは恍惚とも取れる満面の笑みだ。それは彼女と十余年過した中で、一度たりとも見たことのない愉悦の笑み。

「ウタ──貴女にはのですね、ラズリー!」

 ソレは一体どういう意味なのだろうか。アレが何処の言葉で唄われたのかは知らないけれど、彼女は確実に歌っていた筈だ。無伴奏の独唱ア・カペラではあるが、アレが歌であるという事実に変わりはない……変わりはない筈である。

「あぁ、ごめんなさいね? なにぶん久方振りなものですから──今の私は、年甲斐もなく浮足立っているようなのです」

 彼女の顔には、心の底からの喜びが浮かんでいる。先の言葉に嘘も偽りもない。純粋に心の奥底、最も深くて単純な所で喜びを感じているのだろう。

 ……そこに明確な理由や根拠があるわけでもない。けれど、そう感じさせるだけのナニかを宿した表情をしているのだ。慣れ親しんだ筈の彼女が見せた、私の知らない一面。そこから感じたのは、彼女の気持ちとは対極にある感情だった。

 真っ先に感じたのは、背筋を蛇が這うような怖気。しかしそれも最適解じゃない。Fear恐れでもHorror怖さでもscary恐怖でもない──もっとシンプルで、形容し難いモノ。喩えるのなら怖いという気持ちの源流だ。それとも細分化された恐怖の原型、とでも言うべきだろうか? 兎に角、私が感じているのはそういったモノなのだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る