第8話
***
真っ白な世界の中、自分の意識だけがここにある。
どこまでも続くような空間に壁はない。
手を伸ばすことも叶わず、聖はただぼんやりと宙を漂っていた。息をしている感覚もなく、身体もない。ただ、見渡すかぎりの白い空間があるだけだ。
(夢……だよね)
すると突然、なにもなかったはずの場所にノイズのようなものが現れ、なにかが映った。白い空間がまるで映画館のような巨大なスクリーンになっている。
(学校……?)
聖のよく知る景色が現れたことにほっとする。けれど、身体を動かそうとしても、動くという感覚そのものがなく、ただそこにあるものを見ていることしかできない。
そこに映っているのはいつもの授業風景だった。まるで自分の席から教室内を眺めているような感覚で教壇に立つ教師を見ている。数学の教師が口を開いて、黒板を指し示しているのはわかるが、なんの音も聞こえてこない。
(なんでこんな夢を? これが現実だって教えてくれてるのかな)
自分が聖女となって異世界を救うなんてあり得ない。もしかしたら、今の自分はうつらうつらしながら教師の話を聞いているのかもしれない。夢で、自分が聖女になり異世界を救う夢でも見ているのかも。
(そうだよね……起きたら、陽ちゃんに変な夢を見たって言おう)
聖が意識を陽一へ移すと、スクリーンも動く。そしていつもの席に陽一の姿を見つけた。だが、名前を呼ぼうとしたところで、どうやって声を発するのかがわからなくなる。
(夢だと声が出ないの? 陽ちゃん、こっち見ないかな)
そんな聖の望みは残念ながら叶わず、陽一の目は真っ直ぐに黒板を見つめていた。
この場所はいったいなんだろう。聖が頭を悩ませていると、ふたたびノイズが混じり、真っ白でなにもない世界に変わっていく。
同時に自分の意識が遠退いていくような感覚がして、直感的に「目が覚めるんだな」とわかった。どうか起きたときに目に映る景色が教室でありますように、そんなことを考えながら意識が攫われていく。
「ん……」
目を開けると、知らない天井が視界に映り、瞬時に目が覚めた。吐く息は白く、布団から出た腕には鳥肌が立っている。
聖はぶるりと身体を震わせ、布団を引っ張り上げながら、ため息を漏らした。目が覚めたら教室にいるかもしれないという期待は無残にも砕け散ったわけだ。
(これが今の私の現実……なんて思いたくないけど)
受け入れるしかないのだろうか。夢の中で陽一に会えたのだから喜ぶべきか。
「そうだよね……そんな上手くいくわけないか」
聖はベッドから足を下ろし、三面鏡の前に立った。そこに映るのは、吉川聖ではない。どこの誰かも知らない美少女だ。
ずぶずぶと底なし沼にはまってしまったかのように、足下が覚束ない。ぐらりと身体が揺れて、三面鏡に手をついた。
「そっかぁ」
膝から崩れ落ちるように床にへたり込む。どんと大きな音が立ち、膝や足に痛みが走ったが気にもならなかった。
「セイ様、なにか大きな音が聞こえましたが、失礼してもよろしいでしょうか?」
室内にある隣室のドアから声が聞こえる。
聖が黙ったまま視線だけをドアに移すと、やや焦ったような声で「失礼します」と女性の声が聞こえた。
声は寝る前に話をした侍女のものだった。うつろな目で宙を見つめる聖になにを思ったのか、手早くガウンを取り、走り寄ってくる。
「冬に身体を冷やしては病に冒されてしまいます」
侍女は聖の肩に厚手のガウンを掛けると、暖炉に火をつけた。昨日、寒さをあまり感じなかったのは、聖が取り乱していたのと、暖炉のおかげなのだろう。
「冬……なんだね、だから寒かったんだ」
聖は高校二年生に上がったばかり。季節は春だった。窓から入ってくる風が心地好くて、眠ってしまいそうだったと思い出す。
聖がぼんやりと窓の外に目を移すと、厚い灰色の雲に覆われ、今にも雪が降り出してきそうだ。窓の近くはものすごく寒い。
「えぇ、温まるまでまだ時間がかかるでしょうから、今、朝食と温かい飲み物をお持ちしますね。その前にお支度を」
「うん」
侍女について浴室に行くと、湯の入ったボウルとカップを手渡される。どうやらこれで顔を洗い、口をゆすぐらしい。
(そういえば……あの夢、なんだったんだろう)
願望が見せた夢だと片付けるにはいささか気に懸かった。
思い出してみると、教師が黒板に書いた数学の授業はまだ聖の習っていない部分だったのだ。隣に座る同級生が開いていた教科書も数ページ進んでいた。なによりも、黒板の日付があの日から一週間以上経っていた。
もしあれがなにかの災害であれば、教室でいつも通り皆が揃って授業を受けているなんてあり得ない。
すべては憶測の域を出ないが、なにかが起こって、自分だけがこちらに飛ばされてしまった可能性が高い。どうして自分が違う人間になったのかはわからないが、もしかしたら聖は向こうで行方不明とされているのではないだろうか。
一緒にあの光に包まれた陽一は無事だった。それがわかっただけでよかった。しかし、陽一は聖がいなくなり心配しているに違いない。
授業風景しか見られなかったから、家族がどうしているかもわからなかった。声が届けられればいいのに。また、向こうの夢を見られるだろうか。
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