第9話 三賢女①

 起床は朝六時。柔らかい鐘の音が、低く鳴り響いた。

 少女たちは一斉に部屋を飛び出し、洗面所の大鏡の前に並び、洗顔を始めた。マリカも道具を小脇に抱えて鏡の前に立った。外観は小洒落た三階建ての洋館に見えるこの校舎も、空間魔法で拡げられた内部は途方もなく広く、設備は近代的だった。魔女国にはないモノも多く見かける。目の前のドライヤーもそうだ。髪を乾かすのに機械を使うなど、魔女国では考えられない事だった。魔法は使わない。ただ、魔女国の空気は魔女の髪を優しくいたわるようにサッと乾かしてくれるだけだ。どういう理屈でそうなるのか、マリカ・ママも教えてくれない。とにかく、魔女の国は魔女にとって最も住みやすい場所であることは誰も否定出来ない。

 サッパリして部屋に戻り服を着替えた。制服は数着渡されていて、それを着て魔女国を旅立ったのだが、新しいモノに着替えた。首に巻いて絞ったリボンは制服と同色の深紫だ。深い紫は正統魔女のシンボルだ。最初の魔女と呼ばれる〈アラディア〉が世界に現れた時、来ていた服が深紫色だったと伝承されることから始まった習わしだったが、マリカもこの色は大好きだった。


(一年の時だけとはいえ、ママがアデプトだったなんて…)


 マリカの脳裏に再びその思いが頭を擡げてきたが、マリカは顔を振った。


(今は目の前の事に集中しなきゃ)


 上の学年のベァナは、新入生歓迎会の準備があると言って既に鏡を使ってどこかに行ってしまっていた。ベァナの説明では、広い校舎を行き来するのは普通この鏡を使うのだという事だった。それは、行きたい場所へと連れていってくれるだけでなく、今どこへ行けばいいのかまで判断してくれる便利な〈通路〉なのだという事だった。準備の出来たマリカは、鏡の前に立ってその奥をジッと見た。初めは何も変わった所のない鏡に見えたが、何かが妙だ。マリカはギョッとした。右手で髪に触れようとしたのだが、鏡の中では左手が動いているのだ。この鏡は左右反対にモノを映すのだと分かった。マリカはそのまま上げた右手で鏡に触れようとした。冷たい鏡面に指先が触れた瞬間その指が鏡の中に溶けていくように潜り込んだ。静かな水面に指をつけるような感触にも似ていた。マリカは、ユックリと歩き出し、鏡の中へと入って行った。

 中は、まるで熔かした鏡の液体のようだった。ゆらゆらと揺らぎながら幾つもの出入り口が見えているが、他の誰にも出逢わない。恐らく、そういう仕組みなのだろう。歩く必要はなかった。すぐにマリカの目の前に他とは少し違う大きな出入り口が見えてきた。どうやらそこが今マリカの行くべき場所のようだった。それは勝手にマリカの目の前までやって来て止まった。マリカは思い切って出入り口の向こうへと足を進ませた。


 半円形の演壇が見える。マリカは、大きな扇形のホールの後方最上段に立っていた。振り返ると、大鏡があった。そこから出てきたのだ。すぐに避けなければならなかった。加々見からは続々と生徒が出てきた。


 静かだが威厳を感じる声が、場内に響いた。


「来た者から順に着席しなさい。新一年生は演壇に向かって左手の前列から詰めて座るように。席は自由です。上級の者たちは指定の場所に移動しなさい。繰り返します…」


 マリカは傍の階段を使って前へと下りていった。席の指定は無いということなので、ジュジョアの隣に行こうとしたがすでに単眼族の同室の子が座って楽しそうに話していた。結局マリカは遠慮し、エメリの傍へ向かった。


「おはよ、エメリ。どうだった?」


 腰掛けながらそう聞いたマリカに、エメリは普段と変わらない笑顔で応えた。


「うん、割と…まあまあかな?マリカの方はどう?」


「うーん…魔法が使えないっていうのがね…。他はまあまあ。同室の上級生も優しいし」


 そう言ってエメリの顔を覗き込んだ。昨夜のエメリの表情が気になっていたのだ。もしや、同室のあの副寮長…クゥスラ・ベステと何かあったのではないか、とマリカは心配していた。


「そう…。私は、うん、私の方もまあまあ。あ、先生方かな?集まってらしたわね」


 話は途切れた。マリカも演壇の方を見た。指導に当たる魔女たちは全員マリカたちより一層深い紫の衣をまとっていた。左手に巻いた白色のリボンと、右手首の黒色のリボンに目が留まった。エメリが言った。


「本物は初めて見るわ…。白いリボンは〈ディアナ様〉を、黒は地上に降りられた〈ルシファー様〉を表しているって聞いたことがあるお二人が結婚して生まれたのがアラディア様よね。あのリボン、身に着けていいのはアデプトだった人たちだけだそうよ」


 つまりリボンの全員が秀でた魔女だという事を表しているのだった。マリカは、そのリボンを見たことがあった。どこかで…、いつかは忘れたが、確かに見た記憶があった。思い出そうとしているとき、再びあの威厳のある声が場内に響いた。


「只今より新入生歓迎会を執り行います。全員静粛にして演壇に注目しなさい。校長先生以下、来賓の皆様も入場されます。失礼の無いよう、各人誇りを持って臨みなさい」


 会場が静まり返り、照明が僅かに落とされて荘厳なピアノ曲が流れた。一列になり演壇に現れたのは、指導教官たちが先だった。その中に、ミヤベの顔も見えた。見習いのバン・ファルが居るかどうかはマリカのいる場所からでは判らなかった。が、整列した教官たちの途中に不自然な空間があるのを見て、蝙蝠にエサと間違われる教官見習いは恐らくいるのだろうと思われた。

 教官たちが演壇後方に一列に並んでこちらを見る中、現われたのはクリーオウ校長だった。それに続くように三人の老婆が現れた。細身で長身の老婆はひときわ鋭い眼光を放ちながらクリーオウ校長のすぐ後に続いている。その背後にはマリカ・ママの二倍はありそうな魔女が巨体を揺らしながら楽しげに皆の方を見回し、付いてきた。マリカたちが最後尾にいた四人目の者を見た時、小さなどよめきが起きた。三人の中では老婆と呼べない若々しさを放ち、際立って美しい彼女は瞳孔を持たない碧眼の持ち主で、体は透け、背後の教官たちがぼんやりと見とおせるのだ。


(アナム族だわ…!初めて見る…。なんて綺麗なのかしら!)


 マリカは高鳴る胸を抑えるように両手を胸に当てて見つめた。不意にミアンの発した言葉を思い出していた。ミァンも〈アナム〉という言葉を使っていた。何か関係があるのかは判らなかったが、マリカは乏しい知識の中からアナム族に関わることを思いだしていた。

 魔女界、異界を含め、世界に残されたアナム族は、数人だと聞かされていた。本来は魔女国とは異なる生態系の世界〈異界〉の住人で、子供の読む魔女の本には必ずと言っていいほどアナム族が紹介されている。だが、その実態は実はほとんど誰も知らない。先ずめったに人の前に姿を現さない事と、居たとしても存在そのものを自在に消す事が出来るので誰も気づけないのだ。姿を消すと言っても単に透明化するのではない。魔女国では奇妙なほど人間界の言葉が使われているが、〈アナム〉は人間界のゲール語で〈魂〉を意味している。時に魂のレベルまで存在ステージを昇華させるその種族は、近くに居ても誰にもその存在を感じ取られる事が無い。使う魔法はアナム族独特のものばかりで、他の魔女には操れない。希少種中の希少種と言えた。その伝説的存在が目の前に居るのだ。少女たちがどよめくのも無理はなかった。

 四人は演壇中央に設けられた椅子に座ると衣服を糺し、在校生を見回した。進行の声が、ひときわ大きく叫んだ。


「これよりクラン・ボーハル本年新入生の歓迎式典を執り行う。校長の祝辞!」


 かつて伝説とまで言われた最強魔女「クリーオウ三姉妹」の次女である校長が立ち上がり、前に進み出た。演台に両手を添え、しっかり掴むとクリーオウ校長は会場の全員をゆっくりと見回し、そして正面を向いて話し始めた。それは、祝辞と言うにはあまりにも衝撃的な内容だった。


「本来であれば」


 クリーオウ校長は言葉を切り、再び続けた。


「本来であれば私はここで、クラン・ボーハルの校長として皆さんに『おめでとう』を言うべきなのです。ですが、その言葉がはたして皆さんに最適なのか、今は判りません」


 新入生は勿論、二年生も、その上の専攻科生も水を打ったように静まり返った。


「クラン・ボーハルには例年四十名程度の生徒が入学してきます。卒業生はほぼ全員が自らの生まれた国に戻り、指導者として、或いは国の重要な仕事を任される者として活躍をしています。実にそれは誇るべきことです。御存知のように私たち魔女は、例えば人間などに比べると長寿です。百五十年程度は普通に生きますね。例外もありますし異界からの入学生の中にはそんな魔女よりも数倍長く生きる者たちも居るわけですが――それでも寿命が来れば死にます。それは当たり前ですが、生まれ出る子等が居ます。そうして数的な調和は保たれ、また次代の魔女やボーハルが誕生する」


 クリーオウ校長は、そこで一旦また言葉を切り、今度はジッと全員を見つめ、静かではあっても重い口調で言った。


「近年、そのバランスが壊れ始めていることを皆さんは知りません。この事は、一般の魔女・異界人にも知らされない秘密なのです。数が、減っているという事実は」


 場内には息をする音も聞こえなかった。


「自然な死ではない何かの力が魔女界、異界、に及んでいると言っていいでしょう。そしてその率は年々高まっているのです。私たちボーハルは、誰をも攻撃しません。繰り返される戦いは完全なる無益であり、意味を持ちません。それが魔女の始祖たる〈アラディア様〉の御意志であり教えでもあります。私たち魔女や異界人は人間のように争いを好みません。本来は…。ところが、或る者たち――その中には魔女も含まれますが――彼女たちは争いを持って自らの欲望を満たそうと蠢き、天罰ともいえる運命の中で消え、絶えていっているのです。それがボーハル全体の数を自然ではなく減少させていっている…。嘆かわしいことです」


 クリーオウ校長は軽く咳払いをすると、今度はニコリと微笑み、優しい口調に戻して言った。


「皆さんはね、間違いなく私たちの宝なのです。それぞれの国を代表する優秀な者たちであり、未来そのものです。それを私は全力で守りたい。誰一人欠けることなく、送り出し、活躍してほしいの。あなた方は、無限の可能性を秘めています。それをこの学校で見出し、磨いてください。ここに並んだ教官たちが全力で皆さんの指導に当たります。微力ではありますが私もね。御列席くださった『三賢女』も皆さんを応援しているのよ。道を…〈ボーハル(道)〉を間違えることなく進むように願っています。」


 クリーオウ校長は微笑み、壇を離れ着席した。

 続いて登壇したのは長身痩躯の魔女だった。魔女だと判るのはその衣服からで、実際にはマリカたち魔女国の者たちとは似ても似つかない人相をしていた。マリカたちの外見はきわめて人間に似ている。特に違うと言えば耳に在る〈アラディアの証〉くらいなもので、人間の街に行くこともあるが見分けられることなど皆無と言えた。だが、登壇した魔女は違っていた。正面を向いたとき改めて見えたその目は顔の半分ほどもある大きさで、ネコの目のような虹彩を持っている。そして、口は無かった。だが静かに声が響いてきた。


「ごきげんよう…。新入生と言うのはいいものね…。初々しくて…。まだ何も持ってはいない。力も無ければ経験も無い。持たなければ失うこともない。あるのは膨れ上がった自尊心と裏付けも無い自信ね。つまり、自尊心と裏付けのない自信くらいは無くせるわけ。いかに自分が無力な存在かも知らないというのは、本当に素敵なことよ。羨ましいわ。でもすぐに知るの。魔女になるという事の意味と、ボーハルになるという二つの意味をね。それを知った後の皆さんはきっと素敵になっているわ。クリーオウ校長が指導されるのですもの、成らない筈がないの。いいこと?それでも成れない者が居るとしたら、それは不適格者よ。その者は魔法を離れなさい。家に籠っておしまいなさい。下手に魔法にかかわらないこと。その覚悟でここで学ぶといいわ」


 辺りを見回し、締めくくりに言った。


「いい学校よ、クラン・ボーハルはね。あなた方がその長い栄誉の歴史と伝統を汚さないように励んでくれる事だけを祈っているわ」


 プイッと振り返り、席に戻った。聴いていた皆は、クリーオウ校長の祝辞とはまた別の意味で静まり返っていた。進行のアナウンスもバツの悪そうな言い方で〈三賢女〉の一人目、人間界に散らばる人間の魔女を統括し、クラン・ボーハルの常駐顧問も務めている彼女〈結晶のドリーチェ〉を紹介した。人間界の魔女と異界や魔女国の魔女たちが上手くいっていないという話はマリカも聞いたことがあった。妙な空気が会場を覆ったが、その静寂を、高らかな笑い声が打ち破った。「三賢女」の二人目、〈コエルフィオン・マクダーミド〉が紹介された。その名も魔女界では超の付く有名人で、クラン・ボーハルに「アデプト(魔法の達人の呼称:魔女学校での最高成績者)」制度が出来たのは彼女のあまりの優秀さが元になったと言われているほどだった。初代アデプトは巨体を揺すりながら高らかに笑い、皆の前に立った。誰かがヒソヒソと笑い合っている。名前の「コエルフィオン」は「細身で色白」な女性を意味するケルト語だからだ。

 コエルフィオン・マクダーミドは声の方をチラッと見て笑って言った。


「あら、私だってあなたたちくらいの時には名前の通りだったのよ?モテモテだったんだから」


 言うなり指をパチリと鳴らすと、彼女の背後に巨大な空間映像が現れた。そこに浮き出た少女を見た時、会場から「きれい!」「かわいい!」と声が上がった。満足げに皆を見回してからコエルフィオン・マクダーミドは振り返って自身の少女時代の姿を見上げた。


「初めてのアデプトを頂いた時のものよ。立派な魔女になろうと決めてたわ。惑うものや導きの必要な者を正しくさせようと燃えていたのよ。学べる中では最高位の魔法も覚えたわ。すべてクラン・ボーハルでの教えのお蔭と言ってもいいくらい、ここは素晴らしいの。嫌なこともあるにはあったけど…」


 チラッと後ろを見てから、向き直って笑って言った。


「まあ大したことでもなかったわね。そんなモノよ。過ぎちゃえばね。あなたたちは始まるのよね、これから。強く居なさい。強さは、与えられるモノではないの。学びの中から自ら見出すものよ。いまはまだ判らないでしょうけどね。もしも、ここで学んでも正しい魔女に成れなかったとしたらそれはね、強くないからよ。真の強さは正しいの。正しいかどうかは自分のその時の姿で計りなさい。まわりがあなたに恐れを持っていたなら、あなたは正しくない魔女。そうならない為にはどうするのか。それを、ここで学びなさい。いいこと?私はあなたたちの味方じゃあないの。見ていてあげるけれど、肩入れはしません。私が守ろうとするのはね、〈正しくあろうと努める者〉だけ。あなたたちがそうなることを願ってるわ」


 そう言うとコエルフィオン・マクダーミドは映像を消し、席に戻ろうとしたがその席を見やり、不意に立ち止まり笑った。


「それとね、あなたたち、就寝前のおやつには気を付けなさい。特別な椅子を用意されちゃいますからね!」


 巨体を揺さぶり、特注らしい席に腰を下ろした。会場から暖かい笑いが起きた。マリカは二番目の賢女が〈学校で経験した嫌なこと〉のくだりで何故後ろをチラッと見たのか気になったが、その興味はすぐに掻き消えた。会場が静まり返り、三番目の賢女が進み出てきたからだ。正面を向いた彼女は、形容しがたい美しさを纏って生徒を静かに見つめていた。

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