第8話 ミアンと謎の森の夢

 恐る恐る中に入り、後ろ手でドアを閉めた。マリカの目に飛び込んできたのは意外なほど〈こぢんまり〉とした二人部屋だった。合わせ鏡のようにドアの左右にクロゼットらしいものがあり、そこを抜けると奥には天井まである書棚が背中合わせに置かれている。その書棚の前にはそれぞれのベッドがある。書棚にはそれぞれ用のライティングデスクが備え付けられていて、手元には淡い黄色の光を放つランプが置いてある。床は廊下同様にすべてが大理石でできているようだ。そう思って改めて見まわすと、壁も天井も大理石で覆われているのが判る。


「そう言えば廊下も廊下の壁も大理石だったわ…。なんでこんなに大理石だらけなの?」


 呟くと、マリカの他には人影のない部屋で声が返ってきた。


「魔法を吸収しやすいから…。と言ってもあなたの魔女国には大理石は少ないわよね。知らなくても当たり前だわ」

 

 誰も居ない室内に人の声が響いた。それは落ち着いた静かな声で、優しげでもあった。


「あの、初めまして。私…」


「あぁ、いいの、知ってるわ。『ファト』のマリカでしょ?私はベァナ。ベァナ・ドゥーンフォルトよ。よろしくね!マリカ…」


 そう言われても姿が見えない。


(校舎の魔法はもう解けているって、ミヤベ先生が言ってたからこれはきっと個人の…)


 マリカの考えが判るのか、ベァナが笑って答えた。


「悪戯のつもりじゃないの。ごめんね!私ならちゃんとここに居るわ!ほら…あなたのすぐ傍…」


 言われてマリカはあたりを見回した。ベッドと反対の側に有るものと言えば古風なカバーが掛けられた一人掛けソファーが一対。小机を挟んで置いてあるくらいであとは壁の鏡くらいだ。これも古めかしい額に納められた姿見が質素な部屋の佇まいには不釣り合いなほどの存在感を見せていた。マリカはその鏡を見て、ギョッとした。


「ハァイ、マリカ!ちょっと待ってね、今ここから出るから」


 明るい栗毛色の巻き髪によく似合う濃褐色のベレー帽をかぶった女性が〈鏡の中に〉立っている。マリカに向かって片手をあげて見せた。一歩、マリカは後ずさりして鏡の前を空けた。水面から浮かび上がるように、マリカよりも若干背の低いベァナが鏡から抜け出てきた。


「驚いたでしょう?ちょうど今あなたの事でクリーオウ校長先生の所に行ってたところだったの」


 そう言うとベァナは手に持っていた小箱を机に置き、ソファーに腰を下ろした。髪を丁寧に整え、衣服を糺し、真っ直ぐマリカを見てにこやかな笑顔を見せた。


「ちゃんと自己紹介するわね?私はベァナ・ドゥーンフォルト…。『七の魔女国』…あなたたちは通称『北の海の魔女国』と呼んでるわね?私はそこから来たの。実は色々あってあなたより二つ年上よ。でも、あまり年齢の事は気にしないでね。堅苦しすぎるの、嫌いなの。普段はベァナって呼んでね?私もあなたのことはマリカって呼ばせてもらうわ。いいでしょ?」


 マリカは小さく頷くと、ベァナに聞いた。


「お聞きしても…」


「ほら、堅苦しい!先生方の前や何かでは一応学年差を意識しなくちゃいけないんだけど、部屋や廊下や――とにかく先生のいないところでは友達に話すようにしてほしいな」


 悪戯っぽくウインクするベァナに、マリカも笑って頷き、聞き直した。


「私の事で校長先生の所に行ってたって――私、何か問題でもあるの?」


 その問いに、ベァナは一瞬小首を傾げて考える振りをして見せ、笑った。


「無いわよ!問題なんて。ただね、総合成績ではクゥスラのとこに行ったエメリが一年生全員の中でも今年度最高だったんだけど、あなたにはある意味物凄い注目が集まってるのよ。だってあなた、クラミア様のお嬢さんなんでしょう?」


 マリカはキョトンとした。自分の母、マリカ・ママの事を『様』付けで呼ぶ人がいる事に驚いたのだ。マリカ・ママの名は確かにクラミアだが、名門の生まれでもなければ『一の魔女国』を出たことも無く、ましてやクラン・ボーハルに入学したことも無いと聞いている。それを、様付けで呼ぶとは一体――マリカは戸惑った。


「私の母は特に何も変わった所のない女性よ?ここにも入学できなかったと教えてくれたし」


 それを聞いてベァナが「プッ!」と吹いた。


「入学できなかった、ですって?あらあら…もしかして私、余計なこと言っちゃったの?」


 笑いながらも困ったような顔をし、フッと呼吸を整えるとマリカに言った。


「それは驚くわよね。ごめんね?でもクリーオウ先生も明日にはお話になるって仰ってたし。そこまであなたが自分のことを知らないなんて想像してなかったから」


「私の母がなにか何かあるの?」


 マリカは大好きな母を思い浮かべた。


「ううん、心配するようなことじゃないの。あのね――うーんそうだなあ…何から…。そうだ!先ずはお母さま、クラミア様と、この学校の事から教えてあげるわ」


 ベァナの話は、マリカを驚かせるものだった。それは夕食集合時間直前まで続き、一通り聞いた後、マリカはベァナに連れられて自分たちの食堂へと向かった。食堂には離れた席ではあったがエメリも、ジュジョアも来ていた。特にジュジョアが、隣に座った『単眼族』のエーラと楽しそうに話していたのが意外だった。だがそれもマリカの目には虚ろに映っていた。それほどに、ベァナの話は衝撃的だったのだ。隣り合わせた他の部屋の上級生からも話しかけられたマリカだったが、上の空だった。給仕も当番制で、やがてはマリカたちもするのだと教えられたが、目に入ってはいなかった。食後、食器が片づけられたテーブルの上に小さなケーキが並べられた。一人に一つずつ配られた小皿の上のそれは、外見は菓子のシブーストによく似ているが、『三の魔女国』でしか取れない青イモから作られたブルーシュガーをふんだんに掛けて焦がし、さらにカラメリゼしたもので、フンワリとしたカスタードに包まれたメレンゲは校舎北側の農園で飼育している白シチメンチョウのタマゴで出来ていた。独特の甘い香りが少女たちの鼻腔を刺激する。全員が目を輝かせ、ワイワイと騒がしくなると、上級生が一人、前に出て皆に向かって話し始めた。エメリの隣にいた副寮長のクゥスラ・ベステだ。クゥスラは緑色の髪を両耳の上で束ね、固く縛ったそれを腰まで垂らしていた。きりっとした表情は、いかにも副寮長ならではといえたろう。だがその顔にも今夜は微かな笑みを浮かべていた。


「皆さん静粛に。副寮長のクゥスラ・ベステです…。お食事のあとの時間を少しだけ頂いて、今年の新入学生の紹介をさせて頂きますね?料理長先生ご自慢のケーキはちょっとお待ちになって。新入生は名前を呼ばれたらその場でよろしいので立ち上がって皆さんに顔を見せてね。照れ臭いかもしれないけれど、一日も早くお互いが馴染んでいくよう努力することも大切な修行のひとつと思って。この食堂には合わせて丁度百人の新二年生と新一年生がいるのですけど、普段こうして全員が集まることは滅多にありません。ですからしっかりと互いを見て顔を覚えてほしくてこの場を設けました。新一年生は全部で三十八名。二年生は特専を合わせて六十二名なの。二年生は知っている事ですが、この百名を私たち三名の副寮長が大体三十人ずつに分けて担当しているの。で、寮における日常生活に関して皆さんの行動の全責任を負うのは私たち副寮長です。皆さんが何事か大きな失敗をされても、私が教務先生方から注意されるシステムよ。だからと言って萎縮してはいけません。成長するとき、人は失敗をします。失敗したことがない者の手に入れられる成功など意味はないの。なぜなら、私たちはほぼ全員が『ボーハル』として後進の指導をすることになるでしょう?その時、失敗の尊さも知らないで何が教えられるかしら?だから、私たちの事は気になさらずに思いきり羽ばたいてくださいね?さて、お話はこれくらいにして、一人ずつ呼びますね?呼ばれたらさっきも言いましたが立ち上がって、簡単でよろしいので何かご自身の事で皆さんに伝えたいことなどあれば仰ってね?では…まずはフアラ・ウィスカさん!」


 はい、と返事をして立ち上がり、自分の出身国や自慢などを順に話し始めた。マリカはボンヤリとしていたが、気を取り直し、顔をあげて紹介される同期生たちの顔を見回していた。その中で親友のエメリだけが俯いて深刻な顔をしているのが気になり、視線を送ったのだが、エメリはチラッと見ただけでまた俯いてしまったのだ。


(どうしたのかしら、エメリらしくないわ…)


 心配でエメリを見ていると、エメリは時折顔をあげずに目だけで誰かを見ているようなのだ。その視線の先に居たのは、同室で、今立派な口上を語り、司会を務めている副寮長のクゥスラだった。並んで座っている三人の副寮長の一人であるクゥスラを見るエメリの目に恐れのような影を見て、マリカは驚いた。エメリはイジメられっ子ではあったがその芯の強さはさすが名門家の末裔を感じさせ、ここぞという時に見せるしっかりとしたところはマリカ以上だ、と思っていたから。何がそこまでエメリを恐れさせるのか、マリカにはピンとこなかった。マリカは新入生の話を聴きながら微笑むクゥスラをジッと見つめた。

 やがて自己紹介がマリカの番になると、食道に奇妙な静寂が訪れた。それまではヒソヒソと話し、笑う者も居たのが、マリカの番では全員が微動だにせず、口も開かずにマリカの方を見ていた。

 一応の自己紹介を終えてマリカは席に着いた。その時、クゥスラと目があったが、副寮長の双眸はひんやりとしたものだった。


 それでも食後の会は終わり、皆三々五々自室へと戻っていった。

 同室者の同意が得られるという事と、自室からは出ないという事さえ守れば、就寝時間は特に決められてはいなかった。とは言え遊び呆ける者など皆無だった。なぜなら、授業は予習していかなければ付いていくこともできない難易度で、課題も多かったから。

 勉強が終わったらそこからが初めて自由な時間と言えた。読書をする者が多かったが、中にはお菓子を食べながら雑談を愉しむ者たちもいた。授業や学習を離れれば、年ごろの少女たちなのだ。

 部屋に戻ったベァナは自分の机に向かって何か調べ物を始めていた。間にお互い用の書棚が天井の高さまで仕切っているので、仮に一方が寝るとしても、隣の灯りは気になるものではなかった。マリカは届いていた荷物の中から当座必要だと思えるものだけを選び出し、あとはトランクに入れたままクローゼットに仕舞い込んだ。ベァナ同様机に向かうと、一冊の古びたノートを机に置き、両手を机の縁に軽く載せて目を閉じた。ベァナの声がした。


「ごめん、様子を見ているのじゃないからね?いま何か魔法を使おうとしているでしょ?無理よ、使えないの。さっき言ったけど、ここの大理石は魔法を吸ってしまうの。正確に言えば魔法を使う力を――と言えばいいのかしらね?よほどの高位の魔女ならば問題ないんだけど、マリカたちでは何の魔法も使えない筈よ」


 そう言うと、静かな部屋に本を閉じる音がした。


「そうなんだ…」


 困った様に呟き、マリカもノートを閉じた。


「疲れたでしょう?今日はもう休むといいわ。明日は新入生の歓迎行事の後、早速授業が始まっちゃうのよ。慣れるまでは大変なんだし、ぐっすり眠るのもここでは大事なことなのよ」


 ベァナはそう言いながらも、まだペンを走らせている。


「うん…そうするゎ…。おやすみなさい、ベァナ…」


「オヤスミなさい、マリカ。クラン・ボーハルへ、ようこそ」


 マリカはベッドに横たわり、何も掛けずに額に腕を置いて目を閉じた。頭の中では、食事前にベァナから聞いた母の事が渦を巻いていた。


(ママが、クラン・ボーハルに居たことがあるなんて…。それも一年生の時には年間最高成績者として表彰されて、歴代最高とまで言われてたなんて…。そんなこと、ママは何にも言ってくれなかった…。でもベァナも詳しい理由までは知らないって言ってたけど、二年生になってすぐに突然ここを去って〈一の魔女国〉に戻ったのは何故なのかしら…)


 マリカは机の上のノートを見た。それでも疲れていたのか、暖かな闇に包まれるように、マリカはいつの間にか深い眠りに落ちていた。


 マリカは見知らぬ場所に立っていた。魔女国のようにも見えるが、心当たりのある場所をマリカは知らない。古びた家々が数軒、雑然と散らばり、人影はない。とても誰かが住んでいるとは思えない荒れようだ。潮の香りを感じた。


(海…?海のそば?ここは、どこ…?)


 小道を歩きだすと、それは森の手前で途切れていた。不思議に感じるほど、プッツリと切れているのだ。地面を踏んでいる感触はあるのだが、どこか心細く、実感がない。だが、浮いているわけでもない。

 道の終わりに立ち、マリカは森を見つめた。恐怖心は無かったが、得体の知れない畏れのようなものは感じていた。何かがこの奥に「居る」――そしてそれは…。

 またしてもマリカの大きな目から涙が溢れ、こぼれ落ちた。畏れを感じさせる森のさらにその奥に「居る」何者かを想うと、マリカは抑えられない熱いものを胸に感じるのだ。


(なぜ泣くの、私…。この気持ちは懐かしさ…?ううん…それだけじゃない。なんだろう…なにかとても…とても大切なことを忘れているような…。忘れてはいけないことを忘れているような)


 深い森の奥を見つめるマリカが、一歩足を踏み出そうとした時、何者かがマリカの肩に手を置き、引きとめた。驚き振り返るとそこに立っていたのはミアンだった。ミアンは、優しくマリカの肩を抑え、行かせまいとしているようだ。炎の目は、マリカではなく森の奥を見つめていた。その炎にも悲しみが溢れ、一滴の炎の涙が頬を伝い落ちるのを、マリカは見た。


(ミアン…あなたは私に「行ってはダメ」と言っているの?この奥には〈誰〉が居るの?それは私の知っている人?あなたは…あなたはなぜ泣いているの?私はどうして悲しいの?)


 マリカは声も出せず、心でそうミアンに問いかけたが、魔女すら恐れさせる存在は何も答えずにただマリカをジッと見ている。不意にミアンの炎の唇が動いた気がしたが、マリカの見ているすべての景色が魔女国の雨上がりの空に掛る〈滲み虹〉のように滲んでぼやけていく。ミアンの声は聞き取れず、マリカは闇の中で目を開けた。

 寮の部屋の天井を見上げた。目からは止めどなく涙がこぼれていた。マリカは両手で顔を覆い、声を堪えて泣いた。クラン・ボーハルの最初の夜は不思議な夢をマリカに見せた。


 朝、顔を合わせたベァナがマリカの顔を見てクスリと笑った。


(ホームシックで泣いたと思われちゃったわね。ま、いっか…。ドンマイ…)

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