第4話 見習い教師 バン・ファル
マリカはまだ浮遊呪文を知らない。それでも、感じたのは浮遊感と、風だ。いつからそうしていたのかも分からない。マリカは空を飛んでいた。
――どこ…?
虚ろ穴の中ではないことは確かだ。マリカはとてつもない速さで森の上を飛んでいた。どこの森かも判らない。ただ、ひどく懐かしい感じがした。懐かしさで涙が溢れてくる。自分が何を懐かしんでいるのか判らず、マリカは飛びながら泣いていた。
空から見たことはないが、眼下に見えている景色が魔女国のものでないことは分かる。話しに聞き、本で読んだ人間界のそれでもなかった。魔女国にも人間界にも、ここまで広大な森はない。見渡す四方全てが鬱蒼とした森林で、その内側には闇をだいている。
前方に何かが見えてきた。初め糸のようだったが、糸ではないと分かった。それは塔だ。塔は、ただ一本、空に向かって伸びている。よく倒れないものだと感心するほど細く、そして高かった。それを見ていると、言葉が心の中で木霊するように幾度も繰り返されていた。
(あそこに行かなくちゃ…。行かなくちゃ……。なぜ…?なぜ?待っているから…。待っているの?誰が…?『あの人』が…『あの人』って?…待っている…待って!誰を…?わからない!)
目眩を覚え、目を閉じた数秒後、不意に足裏に地面を感じた。そこは木漏れ日の差す温かな陽だまりで、傍には巨大な樹があり、ジュジョアとエメリも立ち尽くしている。
ジュジョアはあたりを見回していた。エメリも、深呼吸しながら警戒していた。マリカは、溢れる涙を拭う事もせずに自分の脇に立つ大木を見上げた。
「ここ…どこ?」
ジュジョアが不安げな声で言った。木々も飛び去る鳥も似てはいるが故郷のそれとはどこか違っている。
「とりあえず虚ろ穴で無いことは確かみたい」
エメリの言うとおり、ここが虚ろ穴であるはずは無い。虚ろ穴に、これほど穏やかで優しげな場所などあるはず無いのだから。
「着いたみたいね」
涙を拭い、マリカが呟いた。
「人間界?」
ジュジョアはマリカに寄り添い、手を握って周囲を見回した。
「何で分かるの?」
「だってほら」
指さしたのは大木の陰だ。エメリも近づき、覗き込んだ。
「これって…王城で見た虚ろ穴への入り口とおなじもの?」
マドラーでかき混ぜたように渦巻く空間が閉じかけていた。
「ミアンが現れて、怖くて、ほんの数秒目を閉じたのに、いつの間に着いたのかしら?」
エメリの言葉を、マリカは奇妙な気分で聞いた。
――ほんの数秒?だって私、随分長い時間飛んでいたわ……。
その目の前で、渦は消えた。あとには何の痕跡も残っていない。
「で、ここからどうするの?ガイドブックも無いし」
強がってふざけるジュジョアは肩を竦めた。その時、声がした。
「ぉぉぉい…」
「え?なに?だれ?どこ?」
ジュジョアが応えると、声は少し大きくなった。
「おおい…!ここだここ!ここだって!」
辺りに人影は無い。その声は間違いなくマリカたち三人に向けられたものだが、声の主がどこにも見当たらないのだ。ジュジョアもエメリも、穴の中で遭遇したミァンの恐怖が未だ抜け切らず、唾を飲んでお互いに身を寄せ合った。
「おぉぉぉい!ってば!聴こえてんだから返事くらいしやがれ!この、ボケナスども!」
ジュジョアが「ボケナス」に反応した。
「なんですってぇ?!誰がボケナスよ、誰が!あんたこそ誰?隠れてないで出てきなさいよ!このコソコソ野郎!」
ジュジョアの威勢の良さに、エメリとマリカは苦笑した。
「な…!なんだとぅ!誰がコソコソ野郎だ!さっきからここに…お前等の目の前に居んだろうが!その細っこい目ン球は飾りのガラス玉か?」
え?っと、三人は思った。目の前に居ると言われても、誰一人、何の姿も見えはしない。
「姿隠す魔法なんて、なかなかじゃないの…。でも、姿も見せられないようなヤツに目の細さのことは言われたくないわ!チョット私本気で頭に来てんだけど!」
「魔法?…ハハ―ン、お前等、俺が見えないのか?ほらここ、ここ!よーく見てみろって!お前の目の前に居るぞ!」
ジュジョアは目を寄せて眼前に注目した。
「え?!」
小さな虫が一匹、ジュジョアの鼻先で羽ばたいていた。よくよく聞けば羽音も聞こえている。エメリも覗き込み、マリカも近づいてきてジュジョアの鼻先を見つめた。
「なにあんた…蚊?」
「ホント、蚊ですわね」
「たしかに蚊よねコレ…」
三人は小さな虫を取り囲んでしげしげと見ている。
「誰が蚊だ!だれが!よく見ろって!こんなかっこいい蚊が世界のどこに居るってんだ!?」
三人は額が触れあうほど顔を近づけて〈それ〉を見た。
「ひ…人の形してる!」
マリカたちに囲まれてホバリングしているそれは、確かに蚊ではなかった。羽ばたきながら両腕を胸の前で組み、足を軽く交差させている、〈人〉だった。だがその人には背中に蚊によく似た羽が有り、〈蚊そっくりの〉羽ばたき音を鳴らしていた。
「人…ね…」
「人…ですわ…」
三人は呆気にとられた。
それぞれの魔女国には人間界には居ない固有の生き物も多い。ネコ目トラツグミもその一つだし、他にもドラゴンフォックスやトラリス、地獄アリなど数え上げれば切りも無いが、蚊のような人は見たことが無かったし話にも聞いたことは無かった。
「判った?俺は蚊じゃないの!っとに、おまえらいい加減にしねーと魔女学校でも面倒見てヤンねーぞ!」
「ってことはアナタは魔女学校の方?でも魔女学校って確か男は…」
魔女学校に入学できるのは当然女子だけだったが、教鞭をとる教師たちに男は一人も居ないと聞いていた。
「男?どこに?」
人の形をした蚊なのか、蚊のような人なのかと言えば、話している内容では後者なのだが、それは辺りを見回した。
「男の方ではありませんの?でも、女性にも見え――」
エメリが言いかけると、それはブン…!と飛んでエメリの鼻の頭にとまり、言った。
「俺が男に見えるってのか?おいおまえ…この俺が…」
そう言って蚊のようなそは自分の胸を持ち上げるようにして、怒った顔でエメリを睨んだ。
「それもしかして、胸…ですの?」
自分の胸を持ち上げるようにしてプンプン怒っているそれは、どうやら女性属性の生き物なのだ、と三人は理解した。
「ごめんね…。あなたがとても小さいからよく判らなかっただけ。失礼なことを言ったわね。謝る、ごめん!」
マリカは頭を下げ、蚊はエメリの鼻の頭を離れてマリカの前に来た。
「それにあなた近くでよく見ればあれだわ。なんて言うのかな。チャーミングよ…」
「お前、なかなかいい奴だな。なんだよ、いい奴もいるじゃないか。そか、うん…。あれだほら、誰にでも勘違いってのもな、うん、あるし。ま、今回は許してやるよ…」
マリカの機転にそれは気をよくしたようで、ブン…!ブン…!とマリカの前で飛び回った。機嫌は良いようだが、小さすぎて表情まではよく見えない。
「で、あなたは誰なの?私たち今日――」
それは空中で停止し、手を突き出して「ちょっと待て」というポーズをとった。
「判ってる判ってる!お前等、一の魔女国からの入学許可者の三人だろ?今日到着予定の中じゃ一番最後だ。わざわざ迎えに来てやってんのに、人の事を「蚊」だなんて言うからさ…」
案外くどい性格なのかも――と、三人は顔を見合わせて苦笑した。
「お名前教えてくだいません?」
エメリが丁寧に聞くと、それはホバリングしたままで名乗った。
「俺は魔女学校の……教師『バン・ファル』だ」
「え?先生だったんですか?やだどうしよ。私たちそんな事とは知らずに…」
マリカもあとの二人も、まさか人間界にやって来た早々魔女学校の教師を掴まえて性別どころか、蚊と間違えてしまう失態をしてしまうとは――と思うと冷や汗を感じた。だがジュジョアが気がついた。
「あのぉ…ファル先生?いま何か聞き取りにくいところがあったんですけど?」
ジュジョアが言うと、バン・ファルは困った様にモゴモゴと口の中で何か言うばかりで、聞き取れない。
「あの、よく聞こえませんけど?」
マリカに問い詰められ、仕方なさそうに言った。
「俺はその…。魔女学校の…」
「魔女学校の?」
「み…見習い…教師…」
「…見習い…」
三人は顔を見合わせた。マリカは腕を組み、ジュジョアはキュッと顔をあげてバン・ファルを睨み、エメリは純白の毛先の枝毛を気にし始めた。
「な…なんだよ、その態度は!お前等、俺が見習いだからって…くそ…」
すねたように俯くファルの様子が可笑しくて、マリカが言った。
「私たち、なにも言ってませんけど?それに先生は先生でしょう?私たちまだなにも判らないんです。だから色々教えて下さるととてもうれしいんですよね。こんな…女性としても憧れてしまいそうなチャーミングな先生に指導していただけるなんて光栄ですもん!」
これには傍のジュジョアがエメリに耳打ちした。
「世渡り上手そうね、マリカって」
マリカの言葉に、ファルは驚くほどの素早さで辺りを飛び回り、マリカの目の前で急停止した。
「お前、いい奴だな…。えと、名簿貰ってるぞ?フワフワ髪の細っこい目はジュジョアだな?ジュジョア・ラ・コスタで、そっちのがエメリ・ドリーオハト…は、元国王陛下の…。うん、うん、それで…お前は…マリ――」
読み上げようとして、ファルは言葉を呑み込んだ。名簿とマリカを見比べ、黙ったままマリカを見つめた。どうしたのかとマリカが見ていると、バン・ファルはやっとの思いで言った。
「今から……校舎まで案内してやるから、俺に付いてこい…。お前ら歩くの遅いから合わせてユックリ飛んでやるから…な」
そう言うと、三人の前を導くように飛び始めた。導くようにと言ってもその小ささなので、油断すれば簡単に見失ってしまう。三人は慌ててファルのあとを追いかけた。ファルは、飛びながら、しきりにマリカを盗み見た。その表情は怖れとも異質な何かが混ざっている。それがマリカは気になった。
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