第3話 ミアン

 穴に足を踏み入れた三人が一番初めに面食らったのは、中の明るさだった。

 どこを見ても一面乳白色に輝き、上下も左右も先も後ろも判然としないアッケラカンとした空間が広がっているのだ。一切物の無い場所で、足を前に出しても自分が進んでいるのかすらわからない。

 マリカは思い出していた。マリカが人間界に行くことになった時、母のクラミアが話してくれたことがあった。クラミア自身は人間界に行ったことが無いと言うが、遠い祖母の、また祖母の、そのまた――それほど遠い昔から言われている事らしかった。

「マリカ、魔女ならば誰もが知っている事だけれど、《虚ろ穴のミアン》には気をつけなさい。あれは優しいけれど恐ろしいの。幾ついるのか、何百年存在しているのかも判らない古い者なのよ。普段は私たち魔女と似たような姿かたちをしているのだけれどね、《心を見せた者》に憑りついて離れなくなるの」

「心を見せた者?ママ、それはどういう意味なの?心を読まれるというのなら基礎魔法にもあるわ。私は使えないけど、魔法なら防御呪文も存在する筈でしょう?防御できない魔法はこの世界に存在できないって、ママ教えてくれたわ?私たちみたいな魔女学校に入る前の者たちなら判るけど、普通の魔女なら怖いことないんじゃないの?」

 マリカの問い掛けに、クラミアは悲しそうな顔をして言った。

「ええ、そうねマリカ。それが魔法ならあなたの言うとおり防御可能だわ。でも、ミアンが使うのは魔法ではないの。言い伝えでは、魔法を使わずに心を見て、その者を知り、気に入れば憑りついて生涯離れなくなる――いうことよ。もっとも、見た者は少ないわ」

「憑りつくと、どうなるの?ママは《優しいけど恐ろしい》と言ったわ?恐ろしいのに優しいの?」

 クラミアは微笑み、困った様に考えてからマリカの髪を撫でて《アラディアの証》の無い耳を見つめた。

「ミアンはね、守護者になるのよ。生涯の守護者よ。守護聖獣とも異質の力でね。ただ、怖れられている理由もそこにあるの。一旦守護すると決めた者は恐ろしいほどの力で守ると言われているのだけれど、その代わりに、その者の最も大切に《しなくてはならない何か》を奪ってしまうのよ。本当かは判らない。少なくとも私たちの世代でミアンに取りつかれた者はいなかったし、おばあちゃまの頃も居なかったそうだしね。ミアンが何を奪うのかは、誰も知らないけれど怖れているのよ。だからね、マリカ――」

 その後の言葉を思い出そうとしていた。その時、左袖をクイッと引いてエメリがマリカに囁いた。

「…何かいる…」

 ジュジョアも気づいていたようだ。普段血色のいい元気なジュジョアの顔が蒼白になっている。薄らと口を開け、前を凝視して、どうやら震えているようだった。マリカは考え事をしていて気づくのが遅れたのだ。エメリが人差し指を出して、その方向を指し示した。エメリの髪がまるで静電気でも帯びたようにフンワリと広がっているのは、極度に興奮しているあかしだった。

「あそこ…。ジッとして居るけど、こっちを見てる。マリカ、どうする?」

 普段大人しいエメリは、その家柄のこともあって子供時代からずっと意地悪をされ続けた。が、先刻のフアハト・シーの皮肉にも動じなかったように、芯には強烈な強さを秘めていることを、親友のマリカは知っている。普段からその強さが威嚇的に漏れ出さない、ということこそ、本物の威厳の証明ともいえた。こんな場面ではマリカでさえ驚くほど落ち着いてみせるエメリを、実はマリカは尊敬してもいた。

「うん、感じる。エメリは見えてるの?私は何となく感じるだけだけど…」

 マリカの袖を掴んだまま、エメリは黙って頷いた。反対の手は固く握りしめられている。

「あ、動いた!」

 エメリが小さく叫び、ジュジョアはマリカの背後に隠れた。

「あぁ…アラディア様…」

 それは人間が言う「ああ、神様…」と同じ意味だ。ジュジョアは口の中で自分たち魔女の始祖・アラディアの名を幾度か唱えた。マリカも、エメリも同じだった。

 才能を試験官に認められたとはいえ、実技能はまだ親から習っただけの他愛もない日常魔法程度しか知らない少女たちだ。エメリは名門血統なのでマリカたちよりは高度な魔法も使えたが、それでも普通の魔女でも、その名にすら怯えるというミアンを前に、緊張して当然だった。

 マリカが感じる程度だったその存在は、目の前まで来ると異様な威圧感を放って姿を現した。乳白色の背景を背負って立つ姿は、まさに究極の怪異だ。マリカは息をのんだ。ミアンが身に纏っているのは、炎だった。炎のドレスは煌々と燃え、揺らぎ、ドレスの裾は長く引きずられて静かにたなびいている。ほっそりとした腕はだらりと下げ、顔は何処を見るとも無しに俯いている。

 ジュジョアは目を閉じ、マリカの背中にしがみついてアラディアの名を唱え続けている。歴史上も滅多に見られることが無いと伝えられる存在がいま、マリカたちの前に立っていた。エメリも今やマリカの手を握りしめて震えていた。三人は身動きも出来ず、呼吸も密かにしてただ立ち尽くし、ミアンを前にしていた。

 ミアンは背の高い女性の姿をしていた。エメリはどうにか目を開け、前を向いてはいるがミアンを見上げる事は出来ないらしかった。真っ直ぐ前を見て小刻みに震えるだけだ。マリカだけが違った。

 マリカは、ミアンを見上げた。ミアンもマリカを見おろしている。黙って見おろし、マリカの目を覗き込んでいる。ミアンは美しかった。マリカはもう一度驚いた。

(髪が燃えてる?ミアンは髪も炎なの?綺麗…。恐ろしい者にはとても見えない…)

 いつの間にか、マリカの中から恐怖は消えていた。なぜかは判らない。勘といえたかもしれない。マリカは、この存在が《敵》のようなものではないと感じていた。

 ミアンが若干膝を折り、マリカの顔をさらに覗き込む。クラミアに見せてもらった事のあるルビーを思い出していた。祖母のずっと前から伝わる石だと教えられた。あの真紅の宝石と同じものが両眼で燃えていた。例えではなく、眼球が燃え盛っているのだ。顔を近づけたミアンは、まさに美しかった。エメリも目を閉じて震えている。ジュジョアは気絶寸前のようだった。気配だけですら圧倒されている二人とは対照的に、マリカは落ち着いていた。

(何をそんなに恐れているのかしら?まるで怖くないのだけど。私が変なの?)

 不意に、ミアンがフッと微笑んだ。その微笑みは深く、慈愛に満ちていた。

 そのミアンが初めて声を発した。それはマリカの知らない言葉だった。だがその中に一つ、古いゲィル語があることに読書家のマリカは気づいた。死滅言語辞典で目にして知っていたその言葉は――。


「Dia…」


「神」を意味するものだということは知られた事実だ。その他に幾言か囁いたミァンは、最後にマリカの判る言葉でこう言った。

「……anam(アナム:魂)bua(ブーア:勝利)anro(アンロー:苦難)。仰せのままにわが身を捧げます…」

 ミアンは、それだけ言うとマリカに向けて手を差し出した。その指先はマリカの胸元にそっと近づき、ペンダントトップに微かに触れた。マリカはクラミアの言った最後の言葉を思い出していた。

「ミアンが手を差し伸べても受けてはいけないのよ。まだ、奪われるものを持たない者がそれを受ければ、ミアンは憑りついた人自身を破滅させるほど守るの。ダメにするのよ。その、強さでね…」

 クラミアの表情を思い出しながらも、マリカは何かに強く導かれるようにゆっくりと手をあげた。ミアンの袖口も指先も燃えていたが、不思議と熱さは感じない。ミアンの美しい指先がマリカの指に触れた瞬間、マリカの視界は溶け、歪んだ。

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