【2】

 美鈴は顔を伏せたまま、カナトが生まれた経緯を話し出した。

「私が捕まる前の日の夜、義理の父に呼ばれた私は書斎に行きました。私が来ると、あの人にいきなり押し倒されて、それから、私の服を無理やり脱がそうとして・・・」

そこで真田が感づいた。

「まさか、きみをレイプしようとしたのか?」

美鈴は小さくうなずき、続けた。

「私は必死で抵抗しました。大声も出しました。でも誰も助けてくれなくて。逃げようとする私を、あの人は殴りました。そのときです。意識が飛んでしまって。目が覚めたら、全く違う所で椅子に座っていて、手錠をかけられていました。正面に警察の制服を着た女の人と、後ろにスーツの男の人が何人かいて、ずっと私を見ていました。あそこは取調室だったと思います。そこで言われたんです。「お前は人を殺した」って。赤く汚れた大きなハサミを男の人が見せて、「お前が持ってた物だ。これが凶器だ。これでお前の家族や学校の生徒を刺し殺して回ったんだ」って怖い顔で詰め寄ってきて。混乱しました。なんのことだかわからなかったから。昨日のことを話しても信じてくれなかったし、あのときはもう、理解できないことだらけで・・・」

身の危険を感じた瞬間、鬱積うっせきしていた心情が防衛本能と重なり、別人格として覚醒したのかもしれない。どこか納得したように真田が言った。

「なるほど。その由々しき事態がカナトを生んだってわけだな」

それから真田は、確認するように問うた。

「そのハサミ、書斎にあった物か?」

「はい。あの人の私物です。一度見たことがあります」

真田が腕を組んで呟く。

「その場にあった物を衝動的に使ったってことか・・・」

美鈴が不平をこぼす。

「だから、あの音楽を聴くと、当時のことを思い出すんで嫌なんです」

「音楽?ベートーヴェンの曲のことか?」

真田が訊くと、美鈴はうなずいた。

「あの人はベートーヴェンが好きで、よく書斎で流してました。あのときも・・・」

「曲が流れてた?」

「はい」

美鈴の言葉で真田は気づいた。

「要因はそこか。曲を流すと、レイプされそうになったときの状況とシンクロして、人格が切り替わりやすくなる」

真田は回想した。そういえば、かなり前にテレビで心療内科の医師が話していた。一概には言えないが、外傷や強いストレスなどが加わった際、人格交代が引き起こされる場合があると。あの頃は全く興味がなかったのに。真田は語を継いで訊いた。

「なあ、きみがいた医療刑務所でも流れてなかったか?」

少し黙った美鈴は、やがて顔を上げると返した。

「流れてました。試験放送のためだとか」

「やっぱり・・。それでカナトになったんだ」

間違いない。ベートーヴェンの曲が、カナトを呼び覚ます一種のアラームになっているのか。そう思った真田は、美鈴を見て問いかけた。

「言いづらいんだけどさ。レイプは・・、されたのか?」

確かに答えにくい質問だ。女の尊厳を傷つけかねない。しかし、真田にとっては憂慮しての発言だった。利己的なこの男にしては珍しい。美鈴のようなタイプの素直な女に今まで会ったことがないのだろう。新鮮さを感じて、気持ちが変化を生じているのだろうか。そこは定かではないが、天童が考えているとおり、情が移ってしまっているのかもしれない。真田のその質問に美鈴は首を振った。

「天童さんが言うには、そうなる前にあの人を殺したと、カナトが話してたそうです」

美鈴の返事を聞いて、真田は目を伏せ、安堵したかのような息を吐いた。そして問いかける。

「刑期ってどのくらいなんだ?」

「三十年です」

四年前の事件、本来ならば、未成年だとでも無期懲役、もしくは死刑に値するほどの罪なのだが、美鈴は完治の難しい解離性同一症を患っており、結局のところ、犯行時の人格がカナトであった可能性を完全に否定する根拠がなかったせいもあり、裁判所は長期的治療を行い、症状を緩和するためにと、最低限配慮したゆえの刑期であった。

「満期出所できたとしても、まだ五十二歳ってことか」

真田は視線を美鈴に向け直し、妙なことを口に出す。

「きみ、生まれ変わりたくないか?」

「え?」

いきなりなにを言い出すんだろう。美鈴は不思議に感じた。真田が詳述を加える。

「四年前の事件、きみは当時未成年だったから、実名は報道されていない。でも、身近な人間は知っている。さっき、事件について検索してみた。きみの名前があった。犯人としてね。おそらくそいつらがネットに流出させたんだろう。そうなると現状、きみは出所できても、また昔みたいに苦労することになる。文月美鈴という名がある限り」

前科がある者、ましてや刑務所生活を送ってきた者は、この日本社会では人間扱いされない。法律や裁判所は更生がどうのこうのとか、もっともらしいことを言っているが、その更生、やり直しの機会は事実上ないのが現実だ。第三者からしてみれば、元犯罪者が自分たちの生活圏に来てほしくないというのが本音なのだ。もし来ようものなら、違う存在だと線引きする。排除する。そうやって社会の隅に追いやるのだ。いわゆるスティグマ、負の烙印である。その烙印を押された者たちの生涯を、刑事であった真田は嫌というほど目の当たりにしてきた。そして自身も今、そのひとりになりかけている。だが、美鈴は違う。この女には特別な事情がある。美鈴には今後、幸せを制限されたまま生きてほしくはない。笑顔のない人生を送ってほしくはない。真田は言葉を重ねる。

「けど名前が違えば、苦労しなくて済む。外見だって、女なら髪型なんかを変えれば印象も変わるわけだし、きみだとわかる奴なんていなくなるかもしれない。整形したけりゃそれでもいい。要するに、きみが文月美鈴だとバレなきゃいいんだ」

美鈴には話が見えない。だが、真田はなにかに思い至ったような様子だった。

「この際だ。もう二、三質問してもいいか?」

真田の申し入れに、美鈴は応じた。

「なんですか?」

「カナトはどうして自分をそう名乗ってる?なんか意味でもあんのか?」

美鈴は推し量って語り出す。

「これは私の憶測なんですが、実の母は私を生む前、男の子を妊娠していたんです。だけど、胎児に血性の疾患が出来て、死産しまったそうなんです。母はその子を「奏斗かなと」と名付ける予定だったと聞いています。なので、私の中にいるカナトは、兄なのかもしれません」

それを聞いた真田が怪訝な表情になる。

「んー・・、どういうことだあ・・。死んだ子の霊が乗り移ったとか・・?いや、カナトの人格は裁判のときに証明されてるわけだし・・。なんだ・・。残留思念みたいなやつなのか・・・」

まるでオカルトみたいな話だ。そんな偶然があるものなのか。こんなこと絶対、科学的に証明できない。

「それはまあ、ぼんやりとだけどわかったとして、もうひとつわからないことがある」

微妙な余韻を残しつつ、真田は問うた。

「教師の証言では、きみはこれといって学校の成績がいいわけじゃなかった。普通だ。でもなんで、カナトはあんなに頭が切れる?」

「多分、これも母が影響しているかもしれません。同じ憶測になっちゃいますけど」

「構わない。話してくれ」

「はい。私の母は、大学で心理学を研究していました。主に犯罪心理学です。警察から協力をお願いされるほどに優秀だったと、父は話していました。それで・・、えっと・・、この先はどう説明していいのかな・・・」

言葉に窮す美鈴に、真田が主意を代弁する。

「こういうことだろ。きみは母親の知能の遺伝子を受け継いでいた。でも形骸化したままだった。それが四年前、カナトが生まれたことにより活性化し、その知能の遺伝子がカナトの人格に偏った。って言いたいんじゃないの?」

美鈴が首を傾げ、苦笑いする。

「そうじゃないかなあって」

しかし、真田は美鈴の憶測を否定した。

「違うと思う。母親の知能は半分ぐらいしか遺伝しないんだよ。前にどっかの学者が言ってた。となると・・、異常な生活環境下で、きみの脳に変化が生じて、別人格を生むと同時に、半分だけだった母親の知能の遺伝子が促進され、フル稼働し始めた。その知能がカナトに傾いたのか・・。うーん・・・」

専門の医師にもわからなかった特殊な人格だ。医学のことなどさっぱりな真田には、なおさらわからなかった。カナトの謎は深まるばかりだ。医療が進歩すれば、いずれ原因が判明するだろうが、現況では不可能だ。仕方ない。ここは事件に集中しよう。

「これ以上掘り下げる必要ないな」

真田は気持ちを新たにし、美鈴へ謝辞を述べた。

「少しはきみのこと知れてよかったよ」

真田は立ち上がり、椅子を持って去ろうと背中を見せたとき、美鈴が声をかけた。

「真田さん、でしたよね?」

振り向いた真田が答える。

「ああ」

「真田さんって、本当は優しい人なんだなってわかった気がします。天童さんからは、悪いことした人だって聞いてたから、もっと怖い人だと思ってました。でも、話していてなんとなく違うなあって。こんな私を心配してくれてる感じがしたんです。勝手な想像なんですけどね」

美鈴は微笑んだ。真田は笑みを浮かべて返す。

「半分当たってるかなあ・・。あっ、そうだ。きみの第二の人生、これから俺が準備してやる。だから待ってろ」

真田は椅子を片手に管理室へと歩みを進める。美鈴は最後の言葉の意味を測りかねていた。その管理室内では、天童が今までの真田と美鈴の会話を監視モニター越しに聞いていた。

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