第9話 劇団

 朝の通勤客でごった返す電車を降り、駅前の繁華街を抜けた住宅地に出ると、その雑居ビルはあった。

 デカは手帳を確かめると、ビル入口にある、各階のネームプレートに目を走らせた。

『5階 劇団・七星野郎』

 劣化したプラスティックのプレートの中で、切り文字が貼られた劇団の看板だけが新しいアルミ製だった。

「これか。セブンスターガイ…もう少しマシな名前はないのか」そう思いながら、デカはビルに入ると年代物のエレベーターで5階に上がった。

 扉が開くと、目の前に化粧ガラスのはまった鉄のドアがあった。室内からは演劇の台詞が聴こえ、人の影が動くのが見えた。

 デカがノックをすると、想像以上に重たい音が響く。

中の声が一瞬止んで、汗の滲んだTシャツを着た少年のような男が出て来た。

「はい」

「こちらに山根さん、いらっしゃいますか?」

「あ、座長ですね。いますよ…座長!」―少年が室内に声を投げる。

「はい、山根ですけど」

アジア風民族衣装のようなカーディガンと日焼けで色の薄れたベルボトム・ジーンズの、長髪の男が顔を出した。

「私、電話しました興信所調査員の山崎と申します」

デカが渡した業務用の名刺を一瞥すると、山根は「ああ」という顔をして室内に促した。

「すみませんね。稽古中なんです。奥に喫煙所があるんで、そこでいいですか?」

「もちろん。お手数かけます」

「みんな!一瞬、休憩!」

山根はデカを案内しながら、室内の役者たち十数人に号令した。

役者たちは、タオルで汗を拭い、ペットボトルの茶水を口にして、デカをちらちらと見やった。彼が探偵らしいとTシャツの少年から聞くと、役者たちは好奇の視線でデカの背中を追った。

「こんなとこで、恐縮なんですけど」

山根はガラス戸を開けると、ベランダに向かい合わせで置かれた小さなスツールを勧めた。ふたつの椅子の中間には、安っぽいスタンド型の灰皿があった。

「えーと、影山さんについて、でしたっけ?」

山根は、よく通る声でデカに水を向けた。

「依頼人については詳しく申し上げられないんですが、一般的な身辺調査みたいなものです」

「まさか、結婚とか?銀行融資かな?」

「どうして融資と?」

「だってねえ…いきなりネガティヴなこと言ってなんですけど、うちは被害者ですからね。影山の…いや、すみませんね。“さん”付けで呼びたくもないって立場なので」

「構いませんよ。べつに私は影山さん側の人間じゃないですから。なにかトラブルでもあったんですか?」

デカは山根に煙草を差し出した。

「あ!あざーす!」

たぶん、「ありがとうございます」の省略形だろうと理解しながら、デカは百円ライターで火を点けてやった。

「それで、影山さんとはどういうつきあいだったんですか?」

「僕らみたいな小劇場、つか演劇ってみんなそうなんですけどね。なにしろ、まず劇場をおさえるのが大変なんすよ」

「場所がないってことかな?」

「そう。そこに影山が突然来たんだ、向こうから」

「突然来た?」

「おれらの公演の評判を聞いたとかでさ。有望な若手劇団を中心にやる劇場を作ったから、こけら落としで公演をやらないかって」

「こけら落としというのは、劇場の第1回公演ってやつですか?」

「ええ。オープン第1作目ってやつ」

「じゃあ、影山さんの劇場は、できたばかりってことですか?」

「知らなかったんですか?」

「いや、私も昨日初めて劇場に行ったばかりでして」

「ま、あのビル自体、影山がオーナーって話で。建物はだいぶ前からあったみたいだけど。で、新しい劇場になるってんで、半年前に公演が決まったんですよ」

「演劇の公演というのは、そんなに前から決定するんですか」

「半年なんてラッキーですよ。人気がある劇場じゃ2年先までスケジュールが埋まっているのが普通です」

「それで、いま稽古されているのは、その公演の?」

「ですから、それがトラブルです。影山から公演キャンセルって一方的に連絡が入ったんです。2週間前に、それも電話1本で」

「2週間前というのは、今日から2週間前ってことですか?」

「そうですよ。半年前に向こうから言ってきた公演を、2週間前にドタキャンです。理由の説明もなく。ただ、迷惑料は払うからって、お金は振り込まれましたけどね」

「キャンセル料ということですかね?差し支えなければ金額を教えて頂けませんか?」

 山根が僅かに警戒の色を見せた。

「聞いてどうすんですか?」

「いや、実は…本来、内密なんですが、この調査の内容は彼の財務状況なんです」

「へえ…!脱税の内偵調査かなんかですか?まあ、羽振りだけは良かったですからねえ。キャンセル料は、現金一括で500万円来ましたよ」

「ほお…!それは相場なんですか?」

「そんなわけないですよ。小演劇の世界でそんな金額ありっこない。スゴい金ですよ。でも、それだけ出されたら文句も言えない。だから、その金で別の劇場に保証金を払って、なんとか2カ月先の公演にこぎつけたんです」

「それはラッキーだ」

「まあね。小劇団が何百万も先払いなんて、あり得ないスから。向こうも喜んで興行の予定を変えたんでしょう」

「世の中、カネ次第か」

「ですけどね。おれらは、なんていうのかな…わざわざ儲からないことをやってんですよ」

「…といいますと?」

「山崎さん…でしたよね。芝居くらい見たことありますよね?」

「いえ、申し訳ない」

「テレビドラマは?」

「まあ、それは人並みに」

「テレビ番組は、提供するスポンサーがあって作られてるんです。だから、金の話が先です。演劇も元手がなければ芝居は打てませんから、そういう意味じゃ金もからんできます。でも、芝居ってのは、やろうと思えば野(の)っ原(ぱら)でも路上でもできるんですよ。おれらも、いまはちょっとだけファンもいる劇団になったから劇場でやってますけどね。儲かる、儲からないで芝居やってんじゃないんですよ。なんてのか…理由も目的もないけど、自己表現をやるわけですよ」

「…理由も目的もなく」

「人間って、そういうもんでしょ?理由や目的がなくても一生懸命なにかをやったりするわけで」

 デカは不意打ちを食らったように、応える言葉を失った。この年若い青年から正鵠を射る哲学を聞かされるとは思ってもいなかったのだ。

 デカが話に興味を示したと誤解した山根が続けた。

「たとえば…ああ、ニューヨークに行かれたことありますか?」

「いや、残念ながら」

「ニューヨークにシェイクスピア・シアターって場所があるんですよ。どこだと思います?川縁に置かれたコンクリートの階段みたいな小さな屋外ステージです。シェイクスピアの芝居なら、そこでやれるんです。無名の役者たちが道行く人たちに芝居を見てもらって、足を止めて見た人たちは応援のカンパを箱に投げていく。素晴らしいでしょ?そういう文化があっちにはあるから…」

「申し訳ない。それはまた別の機会に窺うとしまして…キャンセル料が振り込まれてからは、この2週間、影山さんとは会ってないんですね?」

「ええ。頭にきたから、こっちからも電話したりメールしましたけど、もう通話出来ない状態だった。劇場にも行ったけど鍵は閉まってたし。夜逃げでもしたのかと思いましたけど、その割には気前のいい金くれたなと不思議に思ってたんですよ。だから、探偵さんからの連絡で影山について聞きたいというから、なにか事情を教えてくれるならってOKしたんです」

「なるほど。ただ、こちらでも影山さんの個人的な情報は教えられないんです。でも、こう言ってはなんですが、山根さんも新しいお芝居が決まって、怪我の功名じゃないですか」

「否定はしませんけどね、いつまでも愚痴ってたってしょうがないんだし。

でもさ、こっちは芝居を作るのに魂かけてるわけなんで。金でカタつけたからいいだろみたいな影山は好きじゃないですね。公演はなんとか決めたけど、おれらは影山のおかげで、一度は劇団名まで変えたんですから。ファンだって混乱してますよ」

「ちょっと待って下さい。劇団名を変えた?七星野郎…セブンスター・ガイというのは、影山さんの劇場公演に合わせて立ち上げたということですか?」

「そうです。劇団はもう10年以上やってますよ。作演…サクエンって、作家と演出家のことですけど…それがおれ。だから、本来は演劇山根組っていうんです」

「演劇山根組。よっぽどいい劇団名じゃないですか」

山根が判り易いくらいに破顔した。

「そうでしょ?センスないよ、セブンスター・ガイなんて。意味もさっぱり判らなかったけど、影山のスポンサー権限で。これを機会に劇団の名前を変えてくれっていうからさ。つい乗っちゃったんだ。おれらいつでも山根組に戻せるし。影山が出資する予定だったから劇場もタダだし、公演ギャラもくれる話だったから。普段はバイトでチケット・ノルマをさばく役者たちも喜んだから、おれもついついOKしちゃったんですよ。結果、振り回されただけです。ビルの看板も、もうすぐ山根組に戻しますよ」

「なるほど。確認ですが、昨日の夜は劇場には行きましたか?」

「影山の劇場?行くわけないですよ」

「いや、どうもありがとうございました」

「え?話は、これだけでいいんですか?」

「ええ、まあ。助かりました…そうだ、もしお願い出来ればなんですが。山根さん、パソコンを使ってますよね?」

「まあ、フツーのノートパソコンなら」

「ご迷惑じゃなければ、それを1日だけお借りできませんか?影山さんとのメール履歴なども見ておきたいので」

「まあ、ヘンなやり取りはしてないし。調子が悪くて使ってないからいいですけど」

 デカがスツールから立ち上がると、ガラス戸の中、休憩していた役者たちが台詞や動きの自主練習を始めていた。座長の指示もないのに―デカは自分のどこかに、希望のような感情を覚えた。

「そうだ、山根さん。専門家にお聞きしたいことがあって。さっきのシェイクスピアですけど」

「どうぞ」

「私の友人には芝居好きもいるんですけど、聞いた話ではウィリアム・シェイクスピアは実在しなかったという説があるそうですけど、本当ですか?」

「あーははは」と、山根が軽い笑いを漏らした。

「そういう説を唱えている学者たちはいますよ。シェイクスピアの直筆の手紙が存在しないとか、筆跡の違う署名が4種類もあるとか、戯曲によって作風が変わってるとか、財産分与について詳しく書かれた遺言書はあるけど、そこに肝心の著作についてはなにも触れられていないとかね。だから、シェイクスピアってのは、当時の複数の人間が共同で作り上げたプロジェクトじゃないかって」

「じゃあ、いなかったんですかね?」

「シェイクスピアって人間は実在したらしいですよ、元は役者だったけど売れなかったから、彼のスポンサーだった貴族階級のお坊ちゃんがゴーストライターで芝居を書いたって。でも、シェイクスピアが実在したかどうかなんて、どうだっていいじゃないですか」

「え?」―デカは虚を突かれた。

「だって、現にシェイクスピアの作品ってのは世界中で評価されて、演劇に革命を起こしたんですよ。つまり、世界に感動を与えたんだ。シェイクスピアが実在したかどうかより、歴史的に感動を与え続ける芝居が残されていることのほうが大事なんだと思いますよ。仮にシェイクスピアが虚像だったとしても、それが人を感動させる価値のあるものなら、犯罪じゃないでしょう?まあ、おれが芝居屋だから、そう思ってるだけなのかもしれませんが」

 デカは照れ笑いを見せて頭を掻いた。

「一本取られましたな。良ければ今度、メシでも食いましょうよ。芝居も観に行きますから、私の携帯電話に連絡下さい」

「ぜひとも!」

 山根は嬉しそうに頷くと「再開するぞー!」と、稽古場に号令をかけた。

 デカは山根からノート・パソコンを受け取ると、若い熱気を放つ役者たちの間を横切って、名残惜しそうに稽古場を出た。

 エレベーターの呼び出しボタンを押したとき、デカの携帯が鳴った。

画面は着信が科捜研の瀬川であることを告げていた。

「瀬川、ご苦労様。もう結果は出たのか?」

―「はい。けどそれが、ちょっとあり得ないというか…先輩には言い辛い結果で」

「なんだよ、もったいぶらないでくれ」

―「先輩が持って来たサンプルですけど…山崎直子さんのDNAです」

「…」

突然、真っ白い虚空に投げ出されたように、デカのすべての感覚が停止した。

すぐ隣に響く役者たちの声が、霧の中のエコーのように消えて行った。

「…なんだって?」

―「あり得ないことだと思って、僕も自分で直接、DNA型のデータ照会をしました。でも、先輩の亡くなった奥さんの塩基配列と100%一致しています」

「…いったい、どういうことだ」

 がたがたと音を立てる年老いたエレベーターが到着してドアを開いたが、デカはそれにも気がつかないまま、ただ立ち尽くした。

―「先輩…?大丈夫ですか?!」案じる瀬川の声が、辛うじてデカを現実に引き戻した。

「ああ…」

―「解析データを先輩の携帯に送ります…なんか、すみません。おれが謝るのもヘンですけど」

画像データで送られてきたDNA型解析結果には、間違いなく『山崎直子』の個人データと染色体の配列を示すグラフが記載されていた。

それを読み取る専門知識などなかったデカは、解析表に描かれたデータをただ眺めた…直子との追懐を探すように。だが、そこにあるのは幾何学的なグラフでしかなかった。

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