第7話 デカの傷痕
山崎耕平は、エレベーターに乗り込むとパネルにキー・カードを差し込んだ。
スゥイート・ルームがある33階のボタンが点灯するはずだったが、キー・カードの磁気に問題があるのか反応がない。
「キー・カードに異常があるようです。マルタイは?」―山崎が無線で応答を呼びかける。
―「到着まで60分あるから慌てなくていい。いまホテルの係の者をそっちにやるからマスターキーで上がってくれ」
「了解」
山崎は、世界から取り残された静けさを保ったリフトの扉脇に立ったまま、しばらく待機した。
2分も経たないうちに「申し訳ありません」と女性の声がした。
山崎が視線を向けると、ユニフォームを着た30代の女性が丁寧に頭を下げた。名札には『志藤』とあった。
「客室係の志藤と申します。御連絡を頂きまして、とり急ぎこちらで上にご案内致します」
そう言うと志藤は名刺を渡した。
「ありがとうございます」
山崎が名刺を受け取りながら会釈をすると、志藤はマスターキーを使って33階を点灯させた。エレベーターはドアを閉じると、上品な一拍をおいてから滑らかに上昇した。
「申し訳ありません。キー・カードのスペアは、只今確認しておりますので」
「いえ、こういうことは、よくありますから。その場合、マスターキーをお借りするか、フロアまでご同行をお願いしています」
「はい。お申しつけ下さい」
「ただ、マルタイ警護の原則では、同行は御遠慮頂いて、鍵だけをお借りするんですが」
「マルタイと申しますのは、その…」
「失礼。警護対象のことです。今日でいえば米国外務省のダニエル・フェルナンド様になりますね」
「あ、そうですよね。すみません、外国の要人の方を担当させて頂くのは今日が初めてなものですから」
志藤は明るく、それでいて知性を感じさせる落ち着いた声で微笑した。
山崎は志藤の印象を言い表す言葉を探した。それは職務中に偶然会った女性を品定めしているのではなく、一種の職業病だった。
一瞬すれ違っただけの人間が、後に重要な人物だったと判明することもある。SPとして訓練された山崎には、初対面の人間の印象を視覚的、文芸的にパターン認識する習性があった。
この志藤という女性は、美人というにはありきたりな表現だし、可憐というほど幼くもない―高級ホテルの客室係なら英語力にも問題ないはずだし、知的であるのは確かだろう。同時に身のこなしからは体育会系の機敏さも感じられる。そうだ、健康美とでもいうのかな。
山崎が、上昇していくフロアのランプを無言で見つめていると、志藤は気配りの微笑みで言葉を継いだ。
「本来でしたら、上の者が担当させて頂くのですが、今日はキー・カードの磁気異常が、ほかのお部屋にもございまして。ご対応させて頂いておりますため、一番下の私(わたくし)がこのお時間だけお手伝いさせて頂きます」
「お手数をかけます」
山崎は、爽やかな志藤の立ち振る舞いに気がいく自分を内心で戒めた。
リフトが33階のフロアに到着すると、山崎が先に降りて左右を黙視した。
「クリア」
「私が偉い人みたい…あ、すみません」
「いえ。いまのは無線に報告したんです」―実務的に答えたつもりで笑みが出た。
山崎に促された志藤は、小顔をぴょこんとさせて廊下に出ると、10メートル先にあるスゥイート・ルームの鍵を開けた。
部屋に入るまでの短い廊下の隅々にも、山崎の針の眼は行き届いた。重厚な木目の壁、その途中に配置されたフラワーアレンジメントの生花は、それぞれ色合いの異なる光源でライトアップされていた。ドアの脇には、来賓に敬意を表して下品ではないサイズの星条旗が飾られていた。
志藤がドアを開くと、山崎は片腕を柔らかく上げて、彼女にその場に留まるように示唆した。
山崎の右手がボタンをかけないスーツの端に添えられた。山崎の携行する拳銃が覗いて見え、志藤は緊張で身を固くした。
100平米以上ある広いダイニング・ルーム。メインのテーブルにはフルーツの盛られたバスケットがある。
隣に続くオフィス、寝室と浴室。山崎は手順を踏んで各部屋の安全を確かめると、ダイニングを臨むバーカウンターとキッチンを点検した。
冷蔵庫を開ける。サービスのミネラル・ウォーターのボトルを手にして山崎が志藤に見せる。
「すみません。これは今朝、用意されたものですか?」
「はい。通常ではそうなりますけれども、ヴィバレッジはルーム・サービスが担当しておりますので確認致しましょうか」
「いえ。その必要はありません。ここにある洋酒、飲料水、そちらの果物も一度すべて撤去して下さい」
「あ…お水の点検などは、さきほど別のSPの方々が済ませていると、上の者から申し送りがございましたが」
「それは正確にはSPではなくアドバンス・先着警護隊という別の班です。事前に要人の滞在先と連絡網を確保して、危険を排除する担当部署です。しかし、その作業終了から、この部屋が無人となってすでに1時間経過しています。私は近接警護隊の一員ですから、直前まで安全を再確認します。それら飲料水や果物は再検査の上、安全が確認されたら戻します。または、要人のスタッフが持ち込むものに差し替えとなります」
志藤は、プロフェッショナルなプロセスを柔らか物腰で説明する山崎に憧憬の念を覚えた。
「はい。かしこまりました」
そのとき―突如、火災報知機がけたたましく鳴り出した―ジリリリリリリ!
山崎の眼光が鋭く変貌した。
「部屋に入って下さい!」
「は、はい…!」
山崎が志藤を保護する体勢で廊下とエレベーターの方向を目視する。右手はホルダーに収まる銃把を握っていた。無線で本隊と連絡を交わす山崎。
30秒ほどすると報知機が止んだ。
「…コピー。こちらは異常ありませんが、本隊と合流するまでこちらで待機します…はい。いえ、ホテルの客室係の女性一名を保護しています…わかりました」
山崎は無線を終えると、ふっと短い一息をついて志藤に向いた。
「申し訳ありません。念の為、うちの別の者が来るまではここでお待ち下さい。階下まで同行させますので」
「はい、恐縮です」
3分程、山崎と志藤は無言のままスゥイート・ルームの廊下に佇んだ。足元のカーペットはふたりの呼吸さえ吸い込んでいるようで、彼らは静寂に包まれた。
「あ、失礼しましたが…」―と、山崎は自分の名刺を志藤に差し出した。
「山崎と申します」
「あ!ご丁寧に。あの、SPの方もお名刺をお持ちなんですね」
「形式上ですけど。警視庁の住所が書いてあるだけです」
個人であることを許されない職務―そう言っているように聞こえたが、照れ笑いのような表情を覗かせた山崎に、志藤は好意を抱いた。
それが山崎耕平と志藤直子の出会いだった。
それから一か月後。
山崎と志藤はレストランで夕食を共にした。警視庁警察官とホテルの客室係としてではなく。
「志藤さんから御連絡頂けるなんて、驚きました。なにかあったのかと思って」
「ごめんなさい。職場に電話しちゃって」
「業務じゃなくて個人的な連絡だと上司に知られて、からかわれました」
「ほんと、申し訳なかったです。だって携帯電話の番号もなかったし。当たり前か」―屈託なく笑う志藤に、山崎も好意を寄せた。
「これって完全に逆ナンパですよね?でも、私、自分から食事のお誘いなんてしたことないんです」
「僕は女性との食事さえ初めてですよ」
「えー!どうしてですか?」
「職業柄ですね。いわゆる出会いの機会がありませんから。上司や同僚もたいていは会社の人と結婚します」
「会社って、警察ですか?」
「そうですね。やっぱり特殊な仕事ですから。普通のお見合いや合コンでは女性から敬遠されるみたいですよ」
「山崎さんも敬遠されちゃったんですか?」
「いや、僕はそういうイベントが苦手で。一度、人数合わせだって会社の先輩に連れて行かれましたけど。どうも、その会場のレストランでの死角や人員配置が気になっちゃって…目つきが悪かったみたいです」
「あははは」―志藤は明るく笑った。
程なくして山崎と志藤は互いに結婚を意識する交際を始めた。
志藤にとって、山崎は軍人であり、天に広がる空だった。
甘い言葉も贈り物もなかったが、山崎は傍にいなくても自分を守ってくれている、これからもきっと守り続けてくれる人だろうという安堵感を与えてくれた。普段は気に留めることはないけれども、見上げると自分をいつも包んでいる天空のような。
火災報知機の出会いから半年後、志藤は「山崎直子」となった。
結婚式は身内と近い友人だけの小さな神前結婚で、山崎たっての要望で披露宴も開かれなかった。
結婚後も、直子はしばらくホテル勤務を続けたが、公務員である山崎の休日に合わせるため、そして子を授かりたいという想いから退職し主婦となった。
山崎もまた直子との私生活の充実がキャリアを支えるかたちで、SPとして各国の要人から警護責任者を指名されるほど絶大な信頼を得ていった。
ある夜のこと。帰宅した山崎は、直子に招待状を渡した。
「なんですか?」
「アメリカ駐日大使のワイズマンさんが、直子を個人的に招待したいって」
「え?個人的にって、あなたも一緒でしょ?」
「それがちょっと厄介で。ワイズマン大使が、今度日本で個展をやるアメリカの有名な画家を招くパーティーなんだけど、おれが日本側の警護担当なんだ。日本の来賓も多いから、大使館のSPと合同オペレーションになる」
「そんなところに私、行けないでしょう」
「大使は、警護計画だけおれが指揮して当日は現場担当者に任せればいいって。パーティーには夫婦で参加すればいいじゃないかって言うんだ。上司も職務規定があるからと大使館に説明したんだけど、こっちの外務次官も大使の顔を立てたいから特例で許可するという話になってな」
「日本のお役人さんと違ってフレンドリーなのね」
「まあ、そういうわけだから従わないとしょうがない」
「あら。夫婦になって初めてのお呼ばれなのに、いやいやみたいじゃない?」
「半分以上仕事じゃないか」
「申し訳ないけど、私は楽しみだわ!」
「わかったよ。それと、その招待状は大事に扱ってくれ。普通の紙じゃなくて、カードの内側にICチップが埋め込まれている」
「ハイテクなんですね」
「それは、おれが考案した新しいID認証方法なんだ。今回、初めて実験的に使う」
「わあ、すごいね」
「当日、パーティーが始まるまでは、おれは大使の警護でつきっきりだ。来賓を受け付ける大使館のゲートでは直子の顔はわからない。その招待状が個人識別のIDになるから、折れたり汚れたりしないように」
「了解です!」―直子はふざけて敬礼をしてみせた。
数週間後―アメリカ大使館でのパーティー当日。
山崎はワイズマン大使に目を配りながら、現場の各配置についている部下に無線で指示を出していた。
コーヒーを手にしたワイズマンが山崎を労う。
「デカ、今日は無理を聞いてくれてありがとう」―英語だが「デカ」だけは日本語のままだった。それが山崎のニックネームだと知っていたからだ。
「大使、こちらこそ光栄です」
山崎の英語も流暢だった。
SPとして語学研修も上位の成績だった山崎は、しかし職務以外で英語を使うことはなかった。自分は日本の公務員だというプライドがあった。
「君のボスから、ワイフは美人だと聞いているからね。実は君を友人として招待するというより、君のワイフに会いたいというのが本音かな。いや、ジョークだよ!」
大使と山崎は笑いを交わし合った。
直子は自宅で、ドレスアップと格闘していた。
ホテル勤務で多くの外国人セレブレティにも接してきたものの、アメリカ大使館でのホーム・パーティーに招かれてなにを着ていくべきかというのは難問だった。
その上、直子にはブランド趣味もなく、どちらかといえばカジュアルな洋服で通していたから、よそ行きの服は冠婚葬祭用に限られていたのだ。
「考えてみたら、あの人は楽よね。いつも黒のスーツに赤いネクタイでいいんだから」
クローゼットの鏡の前で、持てる衣装のすべてを、とっかえひっかえ体に当てては却下していた直子は「あ、そうだ」と居間に向かった。
テレビと並んで置かれているアップル社製のパソコンで「アメリカのフォーマル・パーティー」と検索した。そこに呼び出された写真を参考に、直子は衣装のヒントを得る。
「そうか。まだ冬なんだからコートだけシックでいいんだわ。室内の会場ではみんなシンプルな感じじゃない、ね?」
直子のほかには誰もいない自宅マンションの中で、彼女は山崎に話しかけるような独り言を口にしながら居間の時計を見た。
あと1時間で大使館に着かなければならない。ここからタクシーで30分。急がないと。SP夫人が遅刻なんて、みっともないことできないわ!
コーディネイトが決まれば早かった。
直子は、手早くグレーのニット・プルトップと、同じくニットの長めのタイトスカートをワンピース風に着こなすと、Vトップの胸元にエレガントなシルバーのネックレスを合わせる。コートも濃い目のグレーにした。ブラック・スーツの山崎と並んだときに、違和感がないように。
ヘア・スタイルもチェックして、バッグを手に玄関に向かう途中、廊下の本棚に置いてあった銀のブレスレットに目がいった。
「なんとなく、いいんじゃない?」
直子が左手首にブレスレットをつけたとき、ドア・チャイムが鳴った。
「あー、こんなときに誰かしら…はーい!」
時計に急かされていた直子は、インターフォンを使わずにドアの向こうに声を投げた。
「すみません、宅急便です」―ドアの向こうから若い女性の声がした。
「はい、はい」
直子はドアを開けた―と、同時に腹部に経験したことのない衝撃を感じた。
焼けた鉄棒を突っ込まれたような熱さが伝わり、遅れて、それが痛みだと判ったときに、宅急便の若い女が持つ血塗れのアーミー・ナイフが見えた。
女は表情も変えず無言のままに直子を何度も刺しながら、室内の廊下を前進した。
直子は声も出せず、いま自分の身になにが起きているのも判らなかった。
無意識にバランスを取ろうとする直子の脚が、女に押されながらも、まだ立っていようと後退していた。
刺されている。
血が流れ出ている。
躰が壊されている。
その感覚だけが遠のく直子の意識の中で、カオスのように渦巻いた。
助けて。助けて。
「デカ…助けて」―床に倒れると同時に意識を失った直子の最期に、山崎の笑顔が浮かんだ。
女は、崩れ落ちた直子の頭部を片手で抑えると、ナイフで彼女の喉元を真一文字に切り裂いた。慣れた手つきだった。
直子を鮮血の海に放置すると、女は直子のハンドバッグから招待状を抜き取った。開封して中のカードを確かめると、直子のキーホルダーを取る。
次いで女は自分の肩に下げた水筒を開け、入っていた灯油を直子の全身に注いだ。マッチで火を点けた女は、落ち着いた足取りでドアを出た。外から鍵をかける音がした。
命の消えた室内で、直子を焼く炎だけが、獰猛な獣のような生命力で燃え上がった。
アメリカ大使館のパーティー会場には、すでに数十名の招待客が到着していた。
ニューヨーク近代美術館で大規模な個展が企画されている新進気鋭の画家が、食前酒を片手にした各国の財界人や政治家、芸術家たちに囲まれて談笑していた。
山崎はワイズマン大使の斜め後ろに控えながら、腕時計に目を落とした。
「直子のやつ…遅いな」―あと10分で、大使がワイン・グラスを銀器で鳴らし、開会のスピーチを始める予定だ。
「君のワイフが来ないと始められないぞ?」
山崎を振り返った大使が笑顔でグラスを掲げた。
「すみません。もう着くはずです」
山崎がそう言ったところに、ワイズマンの秘書官が来た。
「デカ、ワイフがご到着だ」
「Thank you ,sir(ありがとうございます)」
安堵で小さく微笑んだ山崎は、メイン・ダイニングのテラスに面した大きなガラス窓越しに、直子の姿を探した。
大使館付きのボーイが、年若い女を案内しながら玄関に向かって来るのが見えた。
「…?」
山崎の表情が一変した。
ブルーのステンカラーコートに身を包んだその女は、直子ではなかったからだ。
だが、迎えに出た秘書官の様子からも、アジア系と思しきその女が、自分の妻として門を通過したであろうことは明らかだった。
「Ambassador ! Take the shelter !!(大使!退避!)」
山崎は反射的に叫ぶと同時に銃を抜いた。
画家と招待客たちが一斉に山崎を注視した。
「What’s happens !?(どうしたんだ!?)」―動揺したワイズマンが両手を広げる。
「That’s the girl is not my wife !! (あの女は私の妻ではない!)」
山崎が銃を構えて大使の盾となったとき、若いアジア人の女はコートに隠し持っていたルガーP08の銃口をワイズマンに向けてダイニングに駆けて来るところだった。
客人たちの悲鳴と共に、彼らの手を放れたカクテル・グラスが鋭利な音を立てて床に散った。室内は一瞬にして恐怖と混乱に支配された。
3秒後、大使館のSP3名がエントランスで銃撃陣形を取った。
「Freeze !(止まれ!)」
女は無言でSPに2発連射すると、踵を返してメイン・ダイニングに向かって駆けた。
女が銃を構えたままダイニングに滑り込む。
「Hit the floor!!(伏せて!)」
山崎はワイズマンを床に押し下げ、同時に迫る女を撃った。
弾丸が、銃を持つ女の左肩を貫いた。
シンクロするように女の撃った9ミリ・パラベラム弾が山崎の耳殻を掠め、背後に並ぶバーカウンターのボトルに着弾した。
複数の銃声。アジア人の女は、SPたちの銃撃で身を躍らせ、ダイニングの入口に倒れた。
山崎は大使の無事を確認すると、怒号を上げながら、来賓を部屋の後方に下げる。
大使館は騒然となった。
だが、何日経ってもこの事件は、世界の如何なるメディアにも報道されなかった。その夜の出来事のすべては、日米両国の国家機密として封印されたからである。
当時の来賓たちにも、米国民間企業の名義から高額の慰謝料が支払われ、事件を目撃した関係者の全員が守秘義務を負う誓約書に署名した。
誰もが米国と日本政府の要請に従った。
詳細は明かされなかったものの、テロリストが駐日米国大使を暗殺しようとしたことだけは明らかだった。関わりを持つことで、今後、自身の身に危険が及ぶことを覚悟して口外しようとする者はいなかったのだ。
山崎もまた、なにも知らされなかった。
素性不明のテロリストに殺害された直子は、自宅での出火による焼死とされ、その「事故」もまた、どこにも報じられることはなかった。
「見ないほうがいい」―直子の焼死体が収められた遺体保管所で、山崎の上司が沈痛な声で言った。
「焼死体と自宅で採取された頭髪のDNA型が一致した。直子さんで間違いない」
「いえ…会っておきたいんです」―山崎は沈着な声で上司に言った。
司法解剖医の立ち合いで、保管庫の冷たい鋼鉄製の担架が引き出された。
そこには、明るい直子の笑顔を想像力で取り戻そうとする山崎の悲痛な願いさえも無慈悲に奪う、炭化した人間の残骸が横臥していた。
「当初、灯油によるものと思われましたが、ジェット燃料の一種です。軍事用に使われることが…」
「わかってます」
解剖医の説明を、山崎は鋭い刃物で斬るように遮った。
「申し訳ありません。これがご遺体と一緒にあった、ただひとつのものでした…」
解剖医は小さなトレイに乗せた銀のブレスレットを見せた。
「…これは彼女の?」
「はい。左手首にありました」
山崎はブレスレットを手に取って見つめた。おかしいな、記憶にない―そう思ってから山崎は気がついた。
「…そうか。彼女とは出会ってから、いまこうしている時間まで、一年しか一緒にいられなかったんだ。おれが知らないことのほうが多くて当たり前だ」
彼女―直子は、何度も刺されながらおれの名を呼んだだろうか?
山崎は崩れ落ちるように床に膝をついた。とめどもない涙が溢れ出た。
「おまえが血の海に沈んでいるとき、おれはパーティーへの到着が遅いとおまえに舌打ちしていた!大使の顔色を窺って!なにがSPだ!」
リノリウムの床に頭を打ちつけながら、山崎は咆哮を上げた。顔面は涙と鼻水と血に塗れた。
廊下から駆け込んだ上司が、錯乱する山崎の制止を試みた。
だが、山崎は荒れ狂う怒りを自身に叩きつけながら、廊下の窓に向かって突進しようとした。ガラスを突破して身を投げようとしていた。
SPとして屈強の逮捕術と格闘技を身につけた上司でも、山崎を食い止めるには限界だった。
「応援を呼べ!」
解剖医の連絡で職員らが駆けつけ、山崎に麻酔薬を注射した。
そして、山崎は壊れた。
警察病院の心療内科へ運び込まれた山崎は、2週間後、警視庁に辞表を提出し受理された。
入院中に一度だけ、ワイズマン大使が見舞い訪れた。
「デカ…私はなんと言えばいいのか。言葉がない」―大使は、英語訛りのある、決して上手くはない日本語を話した。直子と自分に敬意を表してくれているのだろうと山崎は思った。
「いいえ、大使。直子は私が殺したようなものです。それと事件はべつのことです。あのICチップの招待状は、私の発案で試験採用されました。それが大使を危険にさらしてしまった」
「それは言わないでください、デカ!私が、君のワイフを招待しなければ…」
ワイズマンの罪の意識は演技ではないように見えた。
「なによりも私が悔しいことは…あの事件がなんだったのか、アメリカ合衆国大使の私にも知らされないことです」
「大使、わかります。あなたはアメリカ政府の代表者で、私も国を守る公職者です。すでに辞表を出しましたけど。自分の信念で国家の安全を守ってきたつもりでしたが、私は国という大きなマシンの、取り換え可能な部品のひとつに過ぎなかった。なにを守ったのかも知らされず、守るべき人を守れなかった」
山崎の眼は死人のようだった。
「デカ、私にできることがあれば、なんでも言って欲しい。事件は隠されましたが、私も大使を辞職して米国に帰らなければなりません。だから、友人として、君の助けになれることがあれば…これは、失礼にならなければいいんだが」
そう言ってワイズマンは、米国の銀行小切手を出し、山崎が安静にしているベッドに置いた。
「お気遣い、感謝します」
山崎は小切手を横目にも入れず、ゆっくりと頭を下げた。
ワイズマンは帰り際、壁にかけられた病院のカレンダーにふと目を留めた。
「西暦2000年だよ…新世紀になったというのに、人間はいつまで殺し合いを続けるんだ」
山崎を振り返ったが、応えはなかった。宙を見つめたままの山崎に憐みのまなざしを残して、ワイズマンは病室を出た。
山崎は、ベッドの膝あたりに置かれた見舞いの小切手を、機械仕掛けの人形のように拾い上げると、静かにそれを破いた。
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