第5話 影山

 「いよいよ、私たち人類は新世紀を迎えますね!」

テレビのニュース・キャスターが興奮を演じた笑顔で画面から語りかけている。

 影山は、鍋の代わりにやかんで沸かしたインスタント・ラーメンを炬燵まで運ぶと、冬眠の支度をする亀のように鈍い動きで炬燵布団に腰を潜り込ませた。

 煤けた部屋の壁に据え付けられたエアコンは、この六畳一間に入居したときから壊れている。冷え切った部屋に、薬缶から濛々と立ち上る湯気が、外観だけのエアコンを現代美術のオブジェのように見せていた。

 影山は弁当屋で余分に取ってきた割り箸を開くと、やかんの中からラーメンを食べた。炬燵のまわりには自堕落なゴミが溜まっていた。

 温かいラーメンを食えるだけ、自分は社会の落伍者じゃないんだ―心の中でそう独り言を呟きながら、影山はテレビを眺めた。

 画面には東京、大阪、札幌など日本各地の都市、次いでニューヨークやロンドン、パリ、北京や香港といった国外の光景が、衛星生中継で映し出された。

「…世界各地では、西暦2000年を迎える瞬間を祝うためのイベントが開催されています!えー、そろそろ、カウント・ダウンですか?…」

 画面の左上に表示された『2000年まで、あと30秒』というスーパー・インポーズの時刻表示が1秒ごとに減っていく。

「なんで、左上なんだろうな…時計の表示」

 影山は声に出して言ってみた。

テレビの中の無駄に明るいタレントの笑顔と、楽しそうにしている世界の人々の笑顔で、折れそうになる自分を助けようとして。

 やがて、テレビの群衆の声と、スタジオにいるタレントたちのカウント・ダウンが、音楽と共に高まった。

 「…5、4、3、2…1!…ハッピー・ニューイヤー!!2000年!新世紀、おめでとうございまーす!」

 微笑ましく画面を見つめる表情を演じていた影山は、不意に落涙した。

 食べかけのラーメンに力なく箸を落とすと、影山は膝を抱えて炬燵にくるまり嗚咽した。テレビから聴こえる空騒ぎが、余計に自分を惨めにした。

「なにをやっても、うまくいかなかった。この40年間!40年だぞ!カゲヤマ!」

 影山は芝居の台詞のような人生への呪詛を、腸にも見える赤い炬燵の内側にぶつけた。

 影山は、俳優を志して演劇のために大学へ進んだ。

初めから中退する気で、大学に入るなら上京して独立する資金を出すという、役所勤めの父親を騙して、受けたくもない入試を我慢して乗り越え、名のある東京の大学に籍を置いた。

 入学した影山は、すぐにサークル活動の演劇研究会に入って芝居に熱中した。もとから授業に出る気はなかったものの度が過ぎていた。一年生の下半期に入る前に、すべての単位を落としていた。

 やがて実家からの仕送りは打ち切られたが、それは影山にとって、むしろ歓迎すべきことだった。

「これでおれは役者一本で勝負できる」

 一年で大学を中退した影山は、アルバイトを渡り歩きながら、小さな劇団のメンバーとなり、俳優兼スタッフとして演劇活動に没頭していった。

 あっという間に10年が経った。

 演劇俳優といっても、公演のたびに課せられるチケット・ノルマで、ただでさえ劇団以外の交友関係が薄い影山は、その度に生活苦を強いられた。

 それでも何度か、テレビ・ドラマや映画の撮影にエキストラとして映ることが出来た影山は、その放送日を息子に甘い母親に知らせてはカネを無心して食いつないだ。

「あんた、お父さんだって、帰って来るなら水に流すよ。お役所なら一生安泰なんだから。お父さんの縁故で、仕事はあるからね」

「母さん、おれはスター俳優になって、親父のバツの悪そうな顔を見るのが目標なんだよ。タレントじゃないんだから、本物の役者ってのは30代で開花するんだからさ。期待しててよ!」

 だが、次の10年もあっという間に過ぎた。

 誰にも注目されないにせよ、20年も演劇経験を重ねた影山の佇まいは、同年代の普通の男よりも魅力を感じさせた。

たまに、俳優に憧れを抱く劇団の年若い女性ファンや、売れない役者を援助することで母性を満悦させるタイプの年上の女性に出会った影山は、彼女たちの想いに寄生して生活した。だが、いつも1年と続かなかった。

30代の10年間で、何人かの彼女と交際したが、40歳を迎える頃には影山を支えてくれる女性はひとりもいなくなった。母親も含めて。

アルバイトでの生活にも限界が来ていた。

「私、役者でもありまして。芝居の稽古と本番のときには休ませて下さい」

影山がそう言うと、大抵の面接担当者は、そこで「あはは!」と笑った。

影山は日雇いの土木作業や交通警備で糊口を凌ぎ、今年―1999年になってからは、劇団の古い仲間・水村が開いた小さな飲み屋で見習いバーテンダーの職にありついた。

元役者が始めたバーだから、常連客に演劇や映画の関係者も多かった。時折、プロデューサーと称する客が、名のある俳優を伴って、影山の立つカウンターに連れて来ることもあった。

そこでも影山は失敗した。

「あの映画、観ましたよ。素晴らしい演技でしたね。僕も役者なんですけど、同業者として嫉妬しましたよ」

若きスター俳優は「あはは!」と笑った。

食えない役者志望のバーテンダーが、身の程知らずにも、スター俳優の自分と同等のように振る舞ったことが可笑しかったのだ。

だが同時に、プライド高き若いスターは「あんなバーテン置いといたら恥かきますよ」との、水村への苦言も忘れなかった。

 影山には店を任せられないと気がついた水村は、影山に「退職金」名目の手切れ金10万円を渡して店を辞めてもらった。

「なんだよ、おまえだって芝居やってたじゃないか!」

影山は別れの杯で水村に絡んだ。

「どれだけ無名でも、いつか、たった1本の映画か芝居で、一夜にして脚光を浴びてスターになれる!それがおれたち役者じゃないか!おまえは自分が途中で諦めたからって、おれにも舞台から降りろってのか?」

 水村は辟易しながらも、かつての仲間だった影山を諭そうとした。

「バカ言ってんじゃねえよ、影山!おれは、役者を諦めたんじゃない。間違った列車に乗っていたことに気がついたから降りたんだ。最初から、乗る列車を間違えたんだ。おれが辿り着ける目的地じゃなかったんだ、俳優で成功するなんてことは。影山、おまえが判っていないのはそこだ。おまえは、新幹線に乗っているのに、終点がニューヨークだと思ってるだけなんだよ!なにも判ってないくせに、自分の妄想にしがみついているだけなんだよ!現実逃避だ!あの俳優を誰だと思ってんだ?おまえが、同業者呼ばわりするなんて、それこそ20年かかっても無理だ。おれの店の評判に関わるから、これっきりにしてくれ!」

「そうかよ、水村!後悔するなよ。おれはビッグになるからな!そのとき、おまえがいま言ったことを、全部、実名で自伝に書いてやるからな!」

「あはは!」と、水村も笑った。

 そして、新世紀を迎える一ヶ月前、影山は40歳になっていた。

暖房が効かない部屋の独り者の冬なら、30代最後の3年で慣れていたはずだった。だが、この日の午前0時、影山の自我はついに打ち砕かれた。

新世紀の幕開けを告げたテレビは、同時に、夢想で粉飾された影山の現実を残酷に映し出したのだ。

「ラーメン食べたら、もう死のう。いいや、こんな役、もう厭だよ。おれはもっとすげえ役で、すげえ脚本でライトを浴びるんだ。生まれ変わって、次の人生で有名俳優になればいいや…」

 自殺の方法も知らなかった影山は、押し入れからネクタイを数本出すと、それを束ねて結び、それから部屋の中を見回した。鴨居もない貧しいアパートでは首を吊れる場所さえなかった。

「どこまで、人をバカにすりゃ気が済むんだ!」

それは、見えない神への怒号だった。

そのときだった。

コトン!…と、ドアから音がした。

 影山は音の在処を目で探した。

 ドアに細長く開いた、受け蓋が壊れたポストの下、散乱した安っぽい宣伝チラシの一番上に、その純白の封筒はあった。

「こんな時間に、誰がなにを投函するんだ…?」

 横に長い洋型封筒を拾い上げる。

『影山様』

表には、簡素なワープロの文字で書かれた苗字だけがあった。裏に返しても差出人の名はなく、封筒の肌が不気味なほどに、ただ白い光を湛えていた。

 人の足音を窺ってドアに耳を澄ませたが、外は静まり返っていた。

 影山は封筒を開けた。中には、透かしに飾られた欧州風の便箋と、数字が刻印された横長の紙片が一枚ずつ入っていた。

便箋にはやはりワープロで打たれた一文があった。


『影山様

 突然のお手紙で申し訳ありません。

 私は、これまでの貴方の演劇活動のすべてを、陰ながら観てきた者です。

 事情がございまして、私の素性はここで申し上げられません。

 ただ、貴方こそは私が求めていた、正真正

銘の俳優であることをお伝え致したいのです。

 これから貴方は、世界の大舞台に立つ、輝

けるスター俳優としての道を歩むことになり

ます。

 同封の小切手は、貴方がそのステージに立

つための経費です。勿論、この資金の使途は

すべて貴方の自由です。

 その代わりに、今後、私が貴方にお伝えする助言には忠実でいて頂きたいのです。追

って様々なかたちで御連絡申し上げます。

 この小切手が銀行で換金されたときに、貴

方が私のメッセージを受け入れて下さったと

判断致します。

 貴方は、必ず世界の人々の注目を一身に浴

びる存在となることを、私がお約束致します。


 2000年1月1日 マイスターQ』


「マイスターQ…?」

続けて同封された小切手を目にした影山は、全身に得体の知れない霊気と恐怖にも似た昂奮を覚えた。

小切手には、120億円を意味するアラビア数字の記載があったのだ。

「…どういうことだ?」

 正月の三箇日の間、影山は小切手をどうするべきか思い悩んだ。

しかし、それは影山の演技でしかなかった。120億円の現金を手にするチャンスなど、三度生まれ変わったとしても今しかないことを影山自身が確信していたのだ。

 影山は小切手を冷蔵庫に保管し、三日間一歩も外出しなかった。思い悩んでいたのではなく、銀行の通常営業が始まる1月4日をひたすらに待っていたのだ。

 影山には、俳優として脚光を浴びることを待ち続けた20年よりも、その3日間が長く感じられた。

 新年の営業初日の銀行。シャッターが開くと同時に影山は小切手を持ち込んだ。

 影山は小切手を自分の普通預金口座に現金化してくれと告げた。このとき、影山の口座には75円しか残っていなかった。それにも関わらず銀行は、見るからに風采の上がらない男の身元照会をすることさえなく、120億円の小切手の資金化手続きを即時に受け付けた。

 後に影山が知ることになったのだが、これだけの金額になれば、間違いのない小切手であっても、資金化には数日を要することが普通だった。

 しかし、銀行は120億円を無条件に決裁し、影山は2000年1月4日を境に無一文から富豪となった。

 影山は天下を取った気分だった。

「親父に通帳を見せてやりたいな!いや、おれを見限った女たちに見せてやるか!いや、とりあえず、食いたいものを食いたいだけ食おう!」

 影山は現金化された120億円から、早速100万円を下すと、生まれて初めて札束の帯封を切る感触に酔いしれた。

 影山はタクシーを拾うと、高級レストランを目指して帝国ホテルに乗りつけた。影山にとって、一流といえば帝国ホテルのレストランだったのだ。

タクシー料金は5千円ちょっとだったが、影山は運転手に「釣りはいいよ」と1万円を渡した。降車したホテルの正面玄関にいたドアマンにも「チップね」と1万円を渡した。

「まだ98万円もあるんだ!いや、119億9千998万円、おれは持ってるんだ!」―影山は有頂天だった。

 それから数週間の内に、影山は都内の一等地に高級マンションを購入し、高級スーツを買い揃え、夢に見た銀座のクラブに通うようになった。

もとから運転免許はなく、長年の貧しさゆえに貴金属が散りばめられた装飾品や腕時計の趣味もなかった影山は、もっぱら銀座のクラブにのめり込んだ。

毎回、店に行くたびにチップだけで数十万円をばら撒く影山を、店の女たちは競って取り合うようになった。

「水村さんは、お仕事なにやってらっしゃるんですか?」

店でナンバーワンのホステスが影山に聞いた。

 影山は、巨額の預金を手にして以降、「水村」を名乗っていた。自分を切り捨てた元役者仲間のバー・オーナーの名前を、故意に使って密かな優越感に浸っていたのだ。

 同時にそれは危機管理でもあった。派手に遊んでいれば善からぬ連中に狙われる危険があることくらいは、いかに浮足立った影山にも想定できていた。

自分を馬鹿にして切り捨てた水村なら、万一、自分との人違いで痛い目に遭っても良心は咎めない。まさか殺されることはないだろう、と影山は思っていた。

「仕事のことはね、守秘義務があって言えないんだよね」と、話題をかわす影山に、新人ホステスが食い下がった。

「すごそうですよね!貯金だけで10億くらいはありそう!」

「税金もすごいんでしょうね」

女たちの言いぐさに、影山は急に不安を覚えた。

銀座のクラブでは、10億円を持つ客がそう珍しくはないのかも。もしかしたら120億円の預金では富豪のうちに入らないのではないかと思い始めたのだ。

 それに、税金のことなど最初から念頭にもなかった。影山に納税の経験も知識もなかったが、収入の約半分は税金だという大雑把な認識だけは持っていた。

「収入でも贈与でも税金はかかるのか…」

 徴税についてインターネットで調べた影山は、さらに不安を募らせた。

 気がつけば預金通帳の残高は、マンションの購入費を入れて3ヶ月で1億8千万円も減っていた。短い間のことなのに、どう使ったのかさえ思い出せなかった。

 その頃だった―影山の携帯電話に、昔の劇団仲間から連絡があった。

「影山、水村の店でバイトしてたんだって?」

「ああ、去年クビになったよ。ちょっとした行き違いでな。水村が、どうかしたのか?」

「死んだ。しかも、殺されて」

 ドクン!…影山の心臓が波打った。

「殺されたって…どういうこと?」

「わからない。おれもいまさっき、店の常連から聞いたんだ。バイトの若い子が店を開けに行ったら、中でメッタ刺しにされた水村の死体を発見したんだって。あいつ、なんかヤバイ取引でもしてたのかな…」

そこで声が途切れ、奇妙な電子音が一瞬聞えた。

「…もしもし?どうした?」

「…影山様も気をつけませんと」

電話の主が、突然、切り替わっていた。

影山は明らかな恐怖で凍りついた。

「差し上げた小切手、その資金の使途は影山様の御自由である旨は、お届けしたお手紙で申し上げた通りです」

 影山は、いま電話で話している相手が「マイスターQ」であることを確信した。

「あの…あなたが手紙の、マイスターQさん…」―声が震えた。

「左様でございます。影山様、要点は短く申し上げます。影山様の長年に渡るご苦労に対する、ご自分への御褒美はそろそろお開きでよろしいでしょうか?」

「…それは、はい!すみません!遊びに使っちゃって!」

「水村様は、豪勢にお金をばら撒いて遊ぶ方だとの噂を、犯罪に関与する種類の人間に掴まれたとの情報がございます」

「それは、おれ…私が水村の名前で派手にやったから、ですか…?」

「それが偶然なのか、あるいは影山様の御想像の通りなのかまでは判りません。ただ、このまま資金を蕩尽致しますと、私がこれを差し上げました本来の目的、影山様が国際的な成功を獲得される壮大な計画にも支障をきたす恐れがございます」

「わかってます!もうしません!」

「お手紙にも申し上げましたが、これからは私の助言…正しくは指示に従って計画を成功させて頂きますよう、あらためましてお願い申し上げたいのです」

「もちろんです!」

 西暦2000年春のその日以来、影山の消息を知る者はいなかった。

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