第4話 見えない毒

 デカは、頭上に広がる空を見上げていた。

夏が近い季節、夕暮れを臨むには十分な遅い午後だったが、陽は真昼のように照っていた。

眼下に郊外の森林公園を見下すビルの屋上。幼い女の子を連れた若い夫婦が公園に入って行く様子が遠くに見えた。

デカは、その光景を懐かしむような、それでいて、懐かしむ過去が幻想であるかのような寂寞とした目を、再び空に戻した。

「先輩!」

声に振り向くと、トレーナーに白衣を引っかけた30代の男が屋上出入口のドアから歩いて来るところだった。

「よお、瀬川。無理言ってすまんな」

「最近、機材の管理が厳しくなっちゃって。でも、ちょうど鑑定の作業が立て込んだんで、ちょっと誤魔化してやりました」

瀬川は小さなビニール・パックに封入された、デカのDNA採取キットと一枚の紙片を渡した。

「助かったよ」

「また、込み入った依頼ですか?」

「ああ、なんだか気味が悪い案件でな。悪いが例によって事件の内容は話せないんだが」

「先輩が間違ったことをやってないのは判ってますから」

 瀬川は爽やかな笑顔を見せて、すぐに手渡したばかりの紙片を指した。

「それより先輩、DNA鑑定ってことでしたけど。ついでに奇妙なものが検出されたんですよ。これ…」

 紙片は、デカが八代誠一の死体から採取した唾液と細胞の鑑定結果を記したデータ表だった。

「アセトアミノフェンの陽性反応です」

「…なるほど。毒殺が可能な薬品だな?」

「もちろん。アセトアミノフェンは、解熱剤とか風邪薬とかの市販薬にも調合されていますから、知識があれば抽出することも可能です。無味無臭で、服用してもすぐには中毒症状が出ない点が特徴的です」

「致死量は?」

「成人男性なら、そうだなあ…小さじ一杯、十グラムもあればなんとか」

「毒として使った場合、どれくらいの時間で中毒症状が出るんだ?」

「うーん…人によりますけど、普通は数日後。だいたい、成分としての陽性反応が検出できるようになるまで3日程度かかる厄介な薬物で、その間にも肝機能障害を引き起こすんです。だから、毒を盛られたって後から気づいても肝臓に入っちゃってますから、助かっても重度の肝障害が残りますよね」

「そうか…ありがとう。DNAのほうは?」

「DNA型はそこにあるデータなんですけど、毎度、それじゃ誰だか判るはずないですからね。前科者リストの照合は明日まで待って下さい。いつもの人に頼んでますから」

 デカは現金の入った封筒を、瀬川の白衣のポケットに押し込んだ。

「先輩、いつもありがたいんですけど。おれ、カネもらわなくても、先輩の用事は出来る限りやりますから。調査費がなくても、なんでも言って下さい」

「感謝してるよ。さて、管理職の目につかないうちに引き上げるとするか」

 デカは屋上を出る階段に向かい、瀬川も続いた。

「ああ、そういえば、瀬川。おまえさんのことは、依頼人には“草”って言ってるんだ。すまないな。れっきとした科捜研の研究員なのに」

「判ってますよ。研究員は警察官じゃないですけど、こっちの業界では“草”って言われたら、一般市民を想像します。万一のとき、おれに目が行かないようにしてくれてるんですよね。まあ、クビになったら先輩の助手で雇って下さい。ワトソンみたいに」

「こんな稼業は、まともじゃないよ」

 声にならない笑いを無機質な屋上に残して、デカと瀬川は出入口のドアを閉じた。

 その1時間後。

デカが劇場・シアターセブンに戻ったときには午後6時を過ぎていた。

ミック、ネギ、ジョー、キヨカの4人の探偵たちは、舞台上のセットや客席に座って、それぞれ好みの夕食をとっていた。

ミックはステージのソファで、シェイク・シャックのハンバーガーとレモネード。ネギはホテルから取り寄せたと思しき豪華なステーキ・ディナーをセットの木箱に広げて楽しんでいる。ジョーは舞台の下、八代誠一の死体を前に正座をして一汁一菜の和食。キヨカは客席でパソコンを操作しながら、ピザ・ポテトチップスをコーラで流し込んでいた。

そして影山は、ペーパー・ドリップで淹れたコーヒーを探偵たちに配っている。

 デカは通路をやって来くると、絵に描いたような呆れた表情でアタッシュケースを舞台の上にドンと置いた。

「あ、デカはん、お先に食事させてもうてますわ」

「山崎様、御夕食は…」―影山がトレイに乗せたコーヒーをデカに促す。

「私はコーヒーだけで結構」

デカが白い陶器のカップを憮然と手に取り一口啜った。

ミックはハンバーガーの、最後に残ったバンズを咀嚼してから、紙ナプキンで口元を拭うとデカに聞いた。

「Well, How about the analysis ?(で、鑑定はどうだった?) ミスター、結果は出たのかな?」

「そっちは収穫があったからこそ、ゆったりとメシ食っているんだろうな」

「まあね。犯人は判ったよ」

「…なに?!」と、デカが危うくカップを落としそうになる。

「ああ、正しくは目星だけどね。他のみんなも同じ意見だよ」

「誰だというんだ?」

「マイスターQさ」

「…それは、可能性としてゼロではないが、見当違いだろうさ」

「なぜだい?」

「犯罪には動機と目的がある。第一に、殺人犯が死体をわざわざ人に見せて、その犯人を探し出せと調査のプロに持ち込む動機。しかも巨額の前金を払ってだ。第二に、この犯罪の目的だ。犯人がマイスターQだとしても、ヤツ…いや、彼自身がそんな自作自演をする意味はなんだ?」

「そこまでは、まだ判らないね。強いて言えばだよ、おれたちは犯人が誰か特定して情報を提供することが仕事で、犯罪の動機や目的を調べる依頼は請けてないんだ。状況からヒントを得て、この場合、マイスターQの他に犯人はいないって判断したんだ。もちろん、仮説ではあるけどさ」

「仮に犯人をマイスターQだとして、誰なのか判らなければ情報を提供できないだろ。その上、マイスターQが犯人であれば、その情報が正しいか間違っているかも、Q自身が答えを変えられるじゃないか」

「Yes ! つまり、この事件と依頼そのものが、マイスターQのゲームって線が浮かんでくる」

「…人間ひとり殺して、持って回ったナゾナゾでもやってるというのか?」

「サイコパスによる劇場犯罪だと解釈すれば、それも可能性から外せないと思うけどな。ヒントは、不自然なほど無駄がない時間の正確さ」

「時間だと?」

「あ、それ。ゆうたら、わしの推理がきっかけですよって、わしがはしょってご報告しますわ」

 ネギがデザートのアイスクリームを銀器で掬(すく)いながら、デカの留守中に取りまとめた議論を説明した。

 概要を聞き終えたデカは、話を整理するようにカップのコーヒーを微かに揺らしながら呟いた。

「…なるほど。われわれの集合時間に合わせて死体が遺棄された。外国にいたネギ君がここまで来るための所要時間、そして、それを可能にするネギ君の個人情報を知る者でなければ、この事件の犯行スケジュールは組めない。その計画をコントロール出来るのは、依頼メールを送ったマイスターQだけというわけか」

「そやね」

「で、ミスターSP。そっちの収穫はどうなんだい」

「DNA型の照合は明日までかかるが、毒の正体は判った。アセトアミノフェンだ」

「…聞いたことないぞ?」

眉を寄せたミックに、デカが勝ち誇ったような笑顔を見せる。

「FBIはアセトアミノフェンも知らない?どうやら、科学捜査は日本のほうが上かな?」

「わしは知っとんで。普通の解熱薬にも入っとる成分や。しやけど、その成分だけ抽出して使うたら劇薬にもなんねん。呑んでから何日か経ってから効きよって、肝臓があかんようなって中毒死すんねや」

「Oh, is it the Paracetamol (ああ、パラセタモール) のこと?悪いね、日本語のカタカナには弱くて」

デカが忌々し気にコーヒーを干した。

「山崎様、おかわりは…」

「結構!出来れば私はネスカフェの粉のがいいな」

「申し訳ございません」

影山が所在なく客席通路を右往左往していると、食膳を片づけたジョーが両手を合わせてから、盆を影山に運んだ。

「影山殿、かたじけない!出前でこれなる美味な大根の味噌汁があるとは!」

「ありがとうございます」

ジョーの言葉にデカが目をむいた。

「まさか君たち、外から運ばれたものを食ってるのか?!」

「当たり前ですやん。あ、もしかしてデカさん。メシに毒が盛られてる思うてはんの?」

「状況からして疑って当然だろ!」

「あのさ、デカさん。元SPなら、毒見が要人警護の基本ってマニュアルが抜けないのも無理はないけど、常識で考えようぜ。この状況で、誰がおれたちを毒殺するんだ?」

「然り!仮にマイスターQでなくとも、これなる事件の下手人は、道場破り同然。ならば、勝敗を見ずして敵を殺(あや)める道理はない」

デカは、つきあい切れないといった深い溜息をつく。

溜息はデカの癖だった。いつ頃から溜息が多くなったのか、自分では判っていた。デカの身に起きた、過去のある事件が原因だった。

それは、デカにとって一日として忘れることがないトラウマで、彼の溜息は、過去という牢獄に自分をつなぎ留める罰のようなものだった。

デカはアタッシュケースを手に、他の探偵たちから離れた端の座席に着いた。

「あの…」―と、影山が弱々しく手を挙げる。

「みなさん、お食事も一通り済まされましたし、マイスターQの犯人説が濃厚とのことで、私の疑いもとりあえずは晴れたかと…」

「ああ、用事で外に出たいって言ってたよね」

「ええ。実は今夜、この劇場にとりまして、と申しますか私にとりまして重要な取引の会議がございまして、今日はこれで帰して頂けましたらありがたいのですが」

 ミックが一同に目を配り、同意を求めた。

「わしは、ええと思うよ」

「拙者もそう心得る。よしんば、このまま影山殿が逃げ去れば、おのれが下手人と自白するも同然」

「いえ、私はどんなに遅くても明日の午前中には戻ります。逃げる必要はございませんので」

「…その代わり、念の為に携帯電話だけは離さずに持ってて欲しい」と、キヨカがパソコンに視線を留めたまま言った。

「はい、それは。なにかありましたら、みなさんにメールをお送りした際にお知らせしております私の番号まで。あ、お食事の片づけは結構ですから、適当に置いといて頂ければ」

そう言うと影山は腰を折るように低頭して通路を行こうとした。

「ああ、そうだ…影山さん」

「はい」―呼び止めたミックを、影山が不安気に振り返る。

「ちなみに、なんだけど。その重要なミーティングって、もしかしてこの劇場の売買かなにか?」

「…どうしてそれを?」

「いや、よくあるパターンだからさ。そんな気がしただけ」

「申し訳ありません。隠していたつもりではないんですが、こんなことに巻き込まれた以上、私の行動のすべてを疑われそうな気がして。用事は、ディベロッパーとの会食です」

「不動産開発業者?このビルの売却でもしはんの?」

「実は…前々から、この地域一帯の再開発計画がありまして、ここの売却も打診

されていたんです。ただ、私も若い演劇人を応援したいという気持ちで始めた劇場ですから迷っていました。そこに、こう言っては不謹慎ですが、この事件がありましたので…」

「劇場がリアルな殺人事件の“舞台”じゃ、シャレにならないよね。万一、事件が表面化すれば、ここは事故物件になるから不動産取引では不利になるってわけか」

「仰る通りです」

「おそらく、この芝居を仕掛けた犯人、いまのところマイスターQが有力容疑者だけど。そいつは、影山さんのこういう事情まで知っていて計画に利用したんじゃないか?」

「然り!不動産取引を控えておれば、自分から事件のことを口外せぬし。表沙汰に出来ないわけが影山殿にもあったのでござるな!」

「黙っていたわけではありません」

「わかりますよ。じゃあ、行って頂いて結構ですよ」

「ちょっと待った…」

キヨカが、今度は影山を見て言った。

「…支配人、このビルと劇場の鍵って、もしかしてICカードキー?」

「はい…これです」

影山がジャケットの胸ポケットからカードキーを出して見せる。

「はい、ありがとう。いいですよ」

影山は要領を得ないといったように瞬きをしてから劇場を出て行った。

影山を見送ってから、ジョーが口を開いた。

「キヨカちゃん、カードキーがどないしてん?」

「第一に、スキミングすればいくらでも複製が可能。データさえ手に入れば支配人の影山でなくても誰でもここに侵入できた。第二に、ICカードキー…正確には非接触ICカードキー・システムってのは、現物がなくてもハッキングで簡単に開けられる」

「すると…劇場関係者の誰かが、カードキーを操作して八代さんの死体を運び込んだ?」

「ICカードキーでは、施錠履歴がデータで保存される。ここの鍵は支配人が言った通り、昨夜9時から今日の午前9時まで閉まったままだ。もっとも、このデータ自体を書き換えたなら話はべつだけどね」

「なんでもかんでも、コンピューター時代ってわけか…」―デカが座席で欠伸した。

「最先端の諸君には申し訳ないんだが、私はアナログでな。人殺しはどこまでも生身の人間がやることだ。君たちは、殺害方法に関心がないようだが、犯行の詳細を追っていけば、自ずと犯人に近づけると思うが」

「それなら、だいたい考えたよ。毒薬はパラセタ…あ、アセトアミノフェン。豆知識で恐縮だけど、英語でもアセトアミノフェンで通じるよ。発音が正しけりゃね。おれが言ったパラセタモールって名称は国際基準なんだ。FBIではそう覚えたもんだから」

「…先を続けてくれんか」

「Okay, とりあえず、一般的にも入手は難しくなくて、服用して数日経ってから中毒死する毒薬。そして3日前に通信履歴が途絶えた八代さんの死体。つまり、毒殺犯は、八代さんと顔見知りって可能性が高いよね」

「せやな。親しい人間やったら、国際的なセレブでもあるIT企業長者に、なんも警戒されんで毒を盛れる。それに、この毒ならアリバイ工作で3日も稼げるわけや。近い人間関係から疑われるさかいな」

「その通り。死体には抵抗の痕跡もないんだから、それこそ会食の場で毒を盛られたと考えるのが自然だぜ。簡単な毒殺方法じゃないか」

 デカは座席で目を閉じたまま、ミックに応じる。

「それはそうだろうよ。私が言っているのは、なぜ毒殺でなければならなかったのかという点だ。転んで頭の打ちどころが悪かっただけでも人は死ぬんだ。階段からの転落事故を装うほうがもっと簡単だ。こんな世界的な著名人を殺すのに、発症まで何日もかかる見えない毒を凶器に使う理由はなんだったのか?そこを詰めていかなければ、犯人像は浮かんで来ないはずだ」

 ミックが無言で頷いた。

「なるほど。それは合理的な考え方だ。おれも反論しないよ」

「だったら、こんなところで推理合戦などしているのは時間の無駄じゃないのか。劇団関係者や、影山さんが夜に会うという不動産開発業者の周辺を洗うべきだと思うがな。そのために5人もいるんじゃないのか?」

「そこはまた、見解の相違になるね」

「48時間の条件だ。もうそろそろ5時間が経とうとしている。タイム・リミットまで、この中にいて真相が判るとでもいうのか?」

「現場100回」―と、ミックが唐突に言った。

「…?」

「さっき、デカさんにも話しただろ?おれが日本の警察と合同捜査したときの思い出。そのときに、コロンボ警部みたいなベテランの日本人刑事がいてさ。彼が教えてくれたんだよ、現場100回って。手がかりは犯行現場にこそ落ちているって。だから情報に惑わされずに、現場を100回注意して見ることが大事だってね。日本の警官でも、そのコロンボ先輩だけは尊敬できたね」

「勿論、私もそれは知っている。だが、それは情報を掴んだ上でのことだ。いま諸君がやっているのは、外まわりの捜査で得られる情報を無視して、インターネットと想像でモノを言っているだけの、単なる会議だ。現に、私がサンプルを外部機関に持ち込んだからこそ、毒の正体も判った。成分が判ったから、被害者と顔見知りの犯行だという線も見えた。ここに缶詰めになったままで、そんなことは判らないはずだ」

「それはそうだよ。だから、得意分野がそれぞれ違うおれたちが呼ばれたんじゃないのかな。デカさんは自分の足で歩くやり方で、おれはおれの分析で」

「…」―正論に返す言葉が見つからず、デカが黙った。

「うん。ミックはん、ええこと言わはるわ。キヨカちゃんはコンピューターの専門やし、わしは、さしずめ…資金力かいな」

「拙者には武の道しかござらんが、戦となれば某の役目にござろう」

「…ひとまず、私が一歩退こう。しかし、いまちょっと気になったことがある…」

離れた座席に座っていたデカが、照明の射すステージ前へと歩いた。

「…このメンバーについてだ」

「どういう意味だい?」

「さっき君たちが言ったように、この事件はわれわれに解決させるために計画されたとしてもだ、それがなぜ、この5人でなければならなかった理由があるんじゃないか?」

「興味深いね」

「まあ、Qちゃんは日本トップ5の探偵やからとゆうてたけど。ウラがありそうやね」

「ああ。ここまで専門分野や見識の違う5人が、一堂に招集されたこと自体、なにかこの事件と関係があるように思えるんだが」

「左様。拙者も、いましデカ殿に言われて気がつき申した。この事件、拙者も各々方も役者として呼ばれた、大きなる芝居ではござらぬかと!」

 全員が感心したようにジョーを見て、ミックは鳴らした指を彼に向けた。

「Maybe that,s right !(そうかもな)。奇妙な現場に奇妙な死体。巨額の報酬で犯人を探してくれという奇妙な依頼人。それに応じて集まった奇妙なおれたち。この芝居のシナリオを分析すれば、作者…つまり、犯人が見えるかも」

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