第36話 ユキア・シャーレイ
★シアン・イルアス
「ボクは……ボクがわからないよ」
消え入りそうな声で、ユキアはそう言った。
ずっと思い出せなかった、かつての記憶。ストレイという未知の存在である自分自身の居場所を探し続け、その果てに見つけた真実。
自分が『
「かつてのボクには、言葉を理解する知能も、情報を知識として蓄積させる記憶力も、あったんだ。だから今、こうして当時のことを思い出せている。でもボクには……心が、なかった」
弱々しい、掠れた声を、ユキアは紡ぐ。
「『民』の試し斬りに付き合わされている時……痛くても、苦しくても、熱くても、ボクの感情は動かなかった。怖いとも、腹立たしいとも、楽になりたいとも、思っていなかった」
自分自身の白く柔らかい髪を、くしゃりと掴む。震える手はそれなりの握力を込めているようだが、ストレイの髪の毛は抜けることがない。
「三千年前の『魅魁の民』は……大陸の支配者だった。人数だけなら『民』に属さない者の方が多かったけど、戦闘能力への強い渇望を持つ『民』の方が個々の実力が遥かに上だからね。『民』以外の人間は奴隷のように扱われ、時に戦闘相手として消費され、時に人体実験の対象にされた」
「…………、」
「だけど、全員が奴隷の扱いを受け入れていたわけじゃない。彼らの中には非道な『民』に抗い、
寒さに震えるように、ユキアは自分の身体を抱きしめる。深く皺が寄るほどに、服を握りしめる。
「ボクが思い出せたのは、三人の人間を殺している光景だけだけど……実際はもっと多いだろうな。もしかしたら君よりも、多くの人を殺しているかもしれない」
「…………」
シアンが殺したのは、十三人だ。『魅魁の民』の中ではかなり少ない方だが、それがどれほどの重罪かはシアンが一番よくわかっている。
十三の、人生があった。それぞれに、過去と未来があった。絆や、夢があった。それらを全て、この手で叩き潰した。
ユキアが感じているのも、その感触なのだ。
「ストレイとして人を殺している時……ボクは何一つ抵抗を感じていなかった。感情も感慨もなく、一つ一つの人生を蹴り潰していた。くだらない、作業みたいに。責任を感じることも罪の意識を持つこともないほど……心が死んでいるんだ」
ぎゅっと目を瞑る。しかし瞼の裏にも戦場の光景が焼き付いているらしく、すぐに開かれる。逃げ場を失った視線が、苦し気に揺れ動く。
「なんで、あんなことができたんだろう。人を殺しても、何ひとつ疑問に思うこともなく、あんな……」
「……今のお前は、お前を拾ってくれた探検家の爺さんに色々教わったから、普通の常識や良識を持ってるわけだろ? 何も知らない状態で人を殺させられてたら、疑問に思う余地もねえんじゃねえのか?」
「――でも君は、疑問に思ったじゃないか!?」
突然怒号をぶつけられ、押し黙る。
「君は人殺しとして育てられたにも拘らず、殺人に抵抗を感じたんだろう? 悪夢にうなされたんだろう? でもボクは、そんな風にならなかったんだよ……!」
悲痛な叫びだった。自分の胸を掻きむしり、感情のままに言葉を吐き出していた。
それを受け止め、シアンはなおも冷静に話す。
「……、そもそもその頃は、今みたいに感情を抱いたりすること自体がなかったんだろ? じゃあ『民』の技術か何かで、思考に制限がかけられてたんじゃねえのか? それが三千年の間に何らかの理由で劣化して、人並みの思考能力が得られたとか」
「……ああ、そうだな。ボクも……そうじゃないかと思った。でも、じゃあ今、人並みの常識と殺人の記憶を持つボクは、君と同じように悪夢にうなされるはずだよな……? でもさっき、テントで眠っていた時……ボクの夢には誰も現れなかったんだ」
「――――」
ユキアがテントで目覚めた時、最も余裕を失っていたのはそれが理由か。
シアンのように悪夢を見ないということが、彼女の感情を更に乱してしまっているのだ。
「人を殺した記憶は確かにあるのに……ボクはその罪を、自覚できないんだ」
「いや……オレは確かに殺した相手が夢に出てくるけど、罪の意識がどう表れるかなんて人それぞれだろ」
「本当に、そう思う……? ボクに、人の心がないからじゃないのか? 人を殺しても何とも思わない、作り物の心だから、罪の意識すら抱かないんじゃないのか……?」
「……じゃあ、お前が今悩んでるのはなんなんだよ?」
「わからないんだよ! ボクは今、どうなっているんだ? 殺人への罪悪感を覚えて人らしく苦悩しているのか……ただいきなり昔の記憶がたくさん思い出されてびっくりしているだけなのか……わからない。はっきりとした答えなんて出せない。だってボクは……人間じゃなくて、ストレイだから」
「……、」
ストレイだから。人間じゃないから。
その事実が、ユキアの思考を縛っている。
ユキアが目覚めてから十年間、ずっと抱き続けていた孤独感が、彼女の苦悩の核となっている。
それなら……同じような孤独を味わってきたシアンこそが、彼女の孤独を溶かすべきだろう。
「……ユキア。今ここで、オレを一回殺してみてくれ」
「は……?」
ユキアは目を見開いて、硬直する。
シアンは無防備に両手を広げたまま、近づいていく。
「気絶してた間に不死鳥の力は回復してるし、一回ぐらい死んでも何も問題ねえ。オレは痛みへの感覚が麻痺してるから、不快感の一つすら覚えることもねえ。お前の身体能力なら、拳で心臓を貫くのも蹴りで首をへし折るのも簡単だろ」
「何を……そんなの」
「その後十秒もありゃ、勝手に蘇生して全部元通りだ。傷も残らねえし、飛び散った血も体内に戻る。ほら、早く」
「い……嫌だよ! 君を、殺すなんて……」
「……、嫌だろ」
開いていた両手を下ろす。困惑するように瞬きを繰り返すユキアに、肩を竦めてみせる。
「オレが苦しまなかろうと、傷が残らなかろうと、殺すのは嫌だろ? それがお前だよ。人殺しに何も感じない機械の心なんかなわけねえんだよ」
「…………。君は、仲間だ。だから傷つけたくないのは、当然だ。でももし、知り合いでもなんでもない他人が相手だったら、もしかしたらボクは、平然と殺すこともできてしまうかも……」
「本気でそんなこと思ってんのか?」
心外だという風に、鼻を鳴らす。
「初めてオレが『民』の情報を明かした時、お前オレに謝ったよな? 無理やり話させて申し訳ないって。カバ車が盗賊に襲われたって話を聞いた時も、お前は躊躇いなく救出を手伝ってくれた。お前は人への気遣いもできるし、見ず知らずの他人だろうと死ぬのを見過ごせない優しい奴だ。……そんなこと、言うまでもねえだろ」
「っ……」
「感情追いつかなくて頭いっぱいいっぱいになってるんだろうけどさ。お前が人を殺して平然としていられるような奴じゃねえのは間違いねえよ。人殺しのクズどもと普通の人間を両方よく知ってるオレの、お墨付きだ」
ユキアの鼻先に、ビシッと人差し指を突き付ける。
「あ……」
ぽかんと口を開けて、ユキアはシアンの指を見つめる。いつしか、瞳の震えは治まっていた。
「お前の身体は人間より頑丈だし、成長することもねえ。それは事実なんだろうけど、だからって心がねえわけねえだろ。昔のお前がどんなだったかは知らねえけど、少なくとも今のお前は、人に指示されるまま嬲られたり殺人犯したりするようなタマには見えねえな」
人を気遣い、助けようと行動する。かと思えば、人をからかって反応を面白がったりもする。『
心がないなど、あり得ない。
「ま、せっかく優しい心があるんだから、いきなりネズミの丸焼き見せてビビらせたりするのはやめてほしいけどな」
「…………ドサクサに紛れて、弄りネタ潰そうとしてるじゃないか」
ふ……と。ユキアの表情が、綻んだ。
「悪いができない相談だな。カシスネズミの丸焼き、意外と美味しかったし。次にサンセマムに行く機会があったら、また買うつもりだよ」
「んで? 美味しかったとか言いつつ、オレをまたびっくりさせたいって気持ちの方がメインなんだろ?」
「八割方そっちだね」
「八割方そっちなのかよ」
空気が、緩む。ユキアは小さく笑い声を漏らし、深く息を吐く。
「……ゴメン。本当に君には、心配かけてばかりだな」
「お安い御用だよ十歳児。なんたってオレの方が七歳も年上だからな」
「む、いつの話をしている。記憶が一部戻った以上、ボクの年齢には三千年分がプラスされることになるんだぞ」
「その三千年、丸々眠ってたんじゃねえか。しかもその前は人格すら存在しないようなもんだったんだろ? ノーカンだノーカン」
話を聞く限り、ユキアに感情や自意識が初めて生まれたのは十年前に目覚めた時からだ。それならば、ユキアという人物の生はそこから始まったと考えるのが妥当ではないか。
正直シアンにしてみれば、無感情で『民』に従っていた頃のユキアなど別人のようなものだ。
それなりに雰囲気が弛緩したところで、真面目な話に戻る。
「……ユキア。お前はかつて、人を殺してた。『民』に命令されてたって前提があっても、優しいお前は罪から目を逸らすことはできねえだろう」
「……、うん」
ユキアは目を閉じ、瞼の裏に焼き付いた情景と向き合いながら頷く。
「じゃあ……お前は、どうする?」
「戦うよ」
目を開き、ユキアはきっぱりと宣言した。
「ボクは『魅魁の民』に、
用意された文を読むような、無感情な声ではない。意思と、決意が込められた言葉だった。
「全ての根源には、やはり涅槃という男がいるのだろう。その男が『魅魁の民』を生み出し、今も中心にいる。だから……ボクも、君と一緒に戦う。涅槃を――討ち取ろう」
「ああ……それでこそ、オレの相棒だ」
夜の闇に覆われた森の中。
二つの拳がぶつけ合わされる音が、響いた。
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