Sleepless Millions

オキタクミ

Sleepless Millions

 模様もロゴもないやけに大きい茶色の紙袋の中をのぞき込むと、紙に包まれた丸いものと、アルミホイルに包まれた薄べったい直方体、小さいプラスチックのカップに入ったケチャップ、マスタード、マヨネーズが見える。紙のほうの包みを剥がすと、バンズに二枚のパティが挟まっていて、それ以外にはなんの具材もソースも入っていないハンバーガーが顔を出す。アルミホイルのほうは、パックに入ったレタス、トマト、マッシュルーム、玉ねぎ。なんだこれ。頼んだものとまるで違う。

 数時間前、人生で初めて海外の空港に降り立ったとき、外はすでに暗かった。そこから現地のドライバーが運転するシャトルバンで、見渡す限りの夜の平原を貫く道幅の広い道路を二時間ほど飛ばし、道路沿いのホテルについたのが夜の十時過ぎ。部屋に入ってすぐやたらと大きなベッドに倒れ込み、疲労のあまりそのまま寝てしまおうかとも思ったが、そのままでは空腹で寝られそうになく、Google Map で飲食店を検索した。けれど、飲食店は道路沿いにぽつりぽつりと点在するばかりで数が少なく、そのうえほとんどがもう閉まっていた。日本で見るどの道路よりも広い道路をときおり自動車が凄まじいスピードで駆け抜けていくかたわら、街灯もなく舗装もされていない夜の歩道をてくてくと歩いて、唯一開いていたハンバーガーチェーンにたどり着いた。店員の喋る英語はほとんど聞き取れず、「ベーコンバーガー、プリーズ」と繰り返した。

 調べてみると、その店は、自分でトッピングを選んで注文するシステムだった。どうも、私の注文がまるで要領を得ないので、店員がとりあえず全てのトッピングをつけた、ということらしい。自棄になって、バンズに全ての具材とソースを挟む。かぶりつくと、反対側からぼたぼたと具材がこぼれ、ホテルの小さなデスクを汚す。彼にラインしてみるけれど既読はつかない。向こうは今、朝の十時。彼の生活リズムからしてまだ寝ている時間だ。日本語が聞きたくなって、スマートフォンの小さな画面で普段は見ない日本人 YouTuber の動画を流す。チープなオープニングが流れたとき、私は不意に泣きそうになる。


——


 ——ドゥー・ユー・ハヴ・エニイ・クエスチョンズ?

 不安と時差ぼけで一睡もできなかった頭で拙い発表をやりおおせ、おずおずと聴衆を見渡すが、誰も手を挙げない。扇形に並んでこちらを見下ろす百人ほどの顔には、困惑したような、怪訝そうな表情がちらほらと浮かんでいる。つい助けを求めるように、座長のほうを見てしまう。白髪混じりの口髭をたくわえた彼は、しぶしぶマイクを口もとに持っていく。すると、その隣に座っていたやや若い研究者が手を挙げて彼に合図を送り、マイクを受け取る。

 ——専門外の内容でよく理解できなかった。まず、発表内容を確認したい。物理学における温度の概念を拡張すると、言語データに対しても温度を定義できる。あなたはそれを用いて、いろいろな文学作品の温度を測った。シェイクスピアとか、ソーセキとか。あってるRight

 さっきの発表で私の英語力を察したらしく、ややゆっくりで平易な英語だが、それでもところどころ聞き取れない。聞き取れた部分をつなぎあわせて頭のなかで訳してから、イエス、と頷く。Okey と返ってくる。

 ——それで、その研究には、どういう意味があるの?

 体が強張る。日本語の思考とそれを英訳する作業が混線しているうちに、質問者は続ける。

 ——ここは言語学の学会で、私たちは言語学者だ。物理学者ではない。あなたの言う拡張された温度概念がどういう意味を持つのか、判断できない。シェークスピアの温度がソーセキのそれより低いことはわかった。しかし、それにどういう意味があるのか、わからない。

 質問が終わる。慌ててスライドをイントロまで戻す。温度。秩序と無秩序。文法と自由意志。定量化。アナロジーの意義。スライドをめぐりながら断片的なフレーズを口走る。予想していた質問だった。だからこそ、スライドと原稿でその部分をじゅうぶんに説明したつもりだった。だが、そこを改めて聞かれた。その場で追加の答えを組み立てることができず、すでにした説明を繰り返すことしかできない。質問者の顔が曇り、やがて興味の色が消えていく。私のしどろもどろの言葉が途切れたところで、座長は、時間切れを告げる。


——


 午前の発表のあと、参加者は互いに声をかけあいながら、大学の食堂へぞろぞろと向かう。俯いて歩く私には、誰も声をかけない。食堂でひとり、日本の食堂の二倍くらいの量があるワンプレートのランチを食べる。半分以上食べ残したプレートを返却台に置きながら、やっぱり、昨日の夜泣いておくべきだったと思う。

 建物の外に出ると、いちめん白い雲に覆われた広い空から、ぱらぱらとまばらな雨粒が落ちてくる。けれど空気はさわやかに乾き、雨は肌に触れたそばから蒸発していく。視界に入るひとびとのうち、傘を差しているのはひとりふたりしかいない。荷造りの段階で天気予報を見て、わざわざ日本から持ってきたレインブーツを履いている自分が、ひどく不恰好に思える。午後の発表に参加する元気が湧かない。予め予稿集を読んでいたときから専門外の研究内容はあまり理解できず、午前の発表では英語を半分も聞き取れなかった。というか、体力的に限界だ。慣れない飛行機でもほとんど眠れなかったから、もう五十時間以上まともに寝ていないことになる。そう言いわけを繰り返す。

 食堂から離れたベンチに腰を下ろす。ホテルに戻ろうかとも思うが、時差ぼけで頭が変なふうに空回りしている感覚があり、戻ったところでどうせ寝られそうにない。見知らぬ国で部屋にひとりきりでいると、余計に心がすり減りそうな気もする。スマートフォンで、どこか時間をつぶせる場所はないかと探してみる。キャンパスが街のように広く、様々な施設を擁している代わりに、一歩その外に出るとほとんどなにもないらしい。ほぼ唯一の観光地は、エミリー・ディキンソン博物館。

 知らない名前だ。検索してみる。この街に生まれた詩人。人生の半ば以降、生家から一歩も出ることなく生活し、詩を書いた。生前は全くの無名。死後に出版された詩集が評価され、アメリカを代表する詩人となった。ウィキペディアには、代表作の一節が引用されている。


    I'm Nobody! Who are you?


——


 そこは、いかにもアメリカの田舎の家といった趣の、黄色い二階建ての木造家屋だった。実際にディキンソン家が暮らしていた家を、保存を兼ねてそのまま博物館に転用しているらしい。入ってすぐのキッチンは受付とちょっとしたミュージアムショップになっていて、その奥のダイニングはささやかなライブラリー。それ以外の部屋は、当時の雰囲気を残しつつ、資料や実際に使われていた品物の複製を展示している。キッチンとダイニングのほかに、一階はリビング。きしむ木の階段で二階に上がると、父の書斎、母の寝室。どの部屋にもひとりずつスタッフが座っている。消え入りそうな声で話す三十代くらいの男性。快活ながらも上品な身振りの老齢の女性。ピアスをいっぱい開けた中性的な少年。まるでばらばらだけれど、全員が手に本を持っていて、来場者に解説をしていないときは静かにその本を読んでいる。スタッフが使っている以外にもいくつか椅子があるが、どの椅子にも大きな松ぼっくりが置かれている。少しだけ勇気を出してスタッフに聞いてみると、答えが返ってくる。

 ——きたひとが座らないようにしてるの。松ぼっくりのうえに座ったことある? すごく痛いよ。

 最後の部屋に入る。エミリー自身が暮らした寝室だ。花柄の壁紙。木製のシングルベッド。首のないマネキンが、エミリーが当時着ていた白い部屋着の複製を着て立っている。スタッフは、立ったら百八十センチは軽く超えそうな細身の長身で、赤い毛糸のセーターを着ていて、やや赤っぽい髪をおさげにしている。

 なんとなく部屋を眺めていると、十代前半くらいの女の子が入ってくる。スタッフが、さっき私にしたのと同じ解説を始める。エミリーの詩のほとんどは、この部屋で書かれました。長いあいだ、彼女は内向的な人物として描かれてきましたが、最近では必ずしもそうではないとされています——

 ひととおり説明が終わったあと、女の子が小さな声で、質問してもいい? と聞く。

 ——エミリーは、小説を書いたことはある?

 ——ないと思う。私の知る限りでは。

 少し不思議そうな顔で応えたあと、スタッフはにこやかに、どうして? と女の子に聞き返す。

 ——昔、ちょっと変な短い小説を読んだことがあって。その作者がエミリーだったような気がするんだけど。

 ——どんなストーリー?

 ——どこかの街の、一晩のあいだの話。別々の家に住んでる別々のひとたちが順番に描かれるの。駅員とか、図書館司書とか、軍人とか。おたがいぜんぜん関係ないんだけど、共通点がひとつだけあって。みんな眠れなくて、ずっとテレビを観てる。

 ——おもしろそうだね。けど、エミリーの時代にテレビはないから、別の誰かじゃないかな。

 女の子が恥ずかしそうにする。

 ——でも、もしかしたら、エミリーの詩となにか関係があるかもしれない。彼女の詩はいろいろな作家に影響を与えてるから。誰の小説かわかるといいね。私も探してみるよ。

 やりとりが終わったあと、私は部屋を出る。キッチンの食器棚に並ぶなかから詩集を一冊とり、それを買って、小雨のなか黄色い家を後にする。


——


 夜。相変わらず時差ぼけは治らず寝つけない。日が落ちてから雨はやや激しくなり、耳を澄ますと窓を打つ雨音が聞こえる。クイーンサイズのベッドに寝転がって詩集を開き、スマートフォンに入れた英英辞典を引きながら、詩を一語ずつ訳してみる。


    Success is counted sweetest

    By those who ne'er succeed

    To comprehend a nectar

    Requires sorest need.


    成功を最も甘美に感じるのは

    成功したことのないひとびとだ

    甘い蜜を味わうためには

    最も痛切な渇きが要る


 この街にいるまだ寝つけないひとびとに思いを馳せながら、たどたどしい読み方で、私はページをめくっていく。

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