【第五章:渡邊哲郎(1)】

九月に入って最初の日曜日、田畑太一郎(たばた・たいちろう)と真中しずえ(まなか・しずえ)は、B市にあるショッピングモールのフードコートで少しおそめのランチを取っていた。


「真中さん、明後日あさって便びんで日本に帰るんだね。どうだった、この二ヶ月ちょっとは?」

「なんだかあっという間でした。もっと長くこっちにいたいです。田畑さんがうらやましいです。」

「真中さん、まだ大学三年生でしょ?学生の間にこっちにくるチャンスなんて何回もあるよ。」

「そうだといいんですけど。」

「来年の夏にもう一回来てみたら?」

「来年は大学院だいがくいん入試にゅうしがあるからむずかしいと思います。それに、来年からは研究室けんきゅうしつ配属はいぞくになるんです。なので、学位論文がくいろんぶんの研究とかもしないといけなくなるので、あんまり勝手かって行動こうどうはできなさそうです。」

「あーそうか。来年らいねんたしかにそうかもね。でも、大学院だいがくいんに行ったら、もっと自由度じゆうどがあがるよ。配属先はいぞくさき教授きょうじゅ理解りかいのある人だといいね。」

「はい。大学院だいがくいん在学中ざいがくちゅう留学りゅうがくするチャンスを与えてくれるかどうかも、研究室けんきゅうしつえらびで重視じゅうししてるんです。」

「それ、大事なポイントだよね。」

「はい。田畑さんの教授みたいな人がいいです。」

「そうだね。留学という面ではいいかも。でも、こういっちゃなんだけど、うちの教授って研究者けんきゅうしゃというよりも政治家せいじかなんだよね。」

「大学で教授になる人って、多かれ少なかれ、そういう面はありますよね。研究だけやっててもえらくなれないって、こっちでお会いした日本人の研究者から何回も聞きましたもん。」

「はは。たしかにそうだね。」


と、そのとき「ごめんごめん、お待たせして」と、いつものバックパックをかたにかけた渡邉哲郎(わたなべ・てつろう)がやってきた。


この日、真中しずえが帰国前きこくまえにぜひ渡邉哲郎と会いたいということで、田畑太一郎がお願いをして急遽きゅうきょこの場所で三人が会うことになった。


田畑太一郎としても、あの場で見たことをもう一度、渡邉哲郎と話してみたいという気持ちがあった。そして、その話をするときに、あの場に一緒にいた真中しずえがいてくれるのは彼にとってはとても心強いことだった。真中しずえと田畑太一郎は、坂井かなえ(さかい・かなえ)も当然とうぜんさそったのだが、この日は人と会う約束やくそくがあるからという理由りゆうことわられていた。


「はじめまして、真中しずえです」と、真中しずえが席を立って渡邉哲郎に挨拶あいさつをする。


「こちらこそ、はじめまして。先日は、うちのWebサイトでのインタビュー記事きじに出てくれてありがとうございます。直接ちょくせつお礼が言えてよかったです。それに、真中さんのことは田畑君からも聞いています。将来の研究業界けんきゅうぎょうかい背負しょって立つ優秀ゆうしゅうな研究者なんですよね。お会いできて光栄こうえいです」と、いつものように渡邉哲郎はえない感じで、二回ふたまわりも年下であろう真中しずえに対して丁寧語ていねいごを使いながらめ言葉を連発れんぱつする。


「え、田畑さん、そんなこと言ったんですか?」と、ちょっとこまったような苦笑にがわらいをして、真中しずえは田畑太一郎の方を見る。


「だって本当のことだよね。真中さん、小さいときから優秀ゆうしゅうじゃん。うらやましいな、あんなにたくさんのしょうをもらって、今もこの若さでH大学に留学りゅうがくしたし。」

「えー、田畑さんだって学生の間にH大学に研究留学けんきゅうりゅうがくしてるじゃないですか。しかも一年も!いいなー。」

「ははは。僕のは単に運が良かっただけだよ。でも、真中さんは自分で留学のチャンスを勝ち取ったんだよね。」

「私も運が良かっただけですよ。あのインタビュー記事でも、そんな感じでめられてて、なんか実際の自分と違う感じに書かれてるなって、ちょっとずかしかったんですよ。」


と、そこまで言ってから、真中しずえは「あっ」という顔をして、「あ、すみません。えっと、あの記事に文句もんくを言ってるんじゃないんです。私なんかが、あんな風にインタビューされて立派りっぱな記事にしてもらってとても光栄こうえいに思ってました」と、あわてて渡邉哲郎に言い訳をした。


「いえいえ、そんな。私どものWebサイトに真中さんが登場してくれて、私も編集長へんしゅうちょうもとてもうれしかったんです。あらためてお礼を言わせてください。ありがとうございます。」


と、頭を下げる渡邉哲郎を、真中しずえは「え、ちょっと、そんな・・・」と、何て言葉にしたらいいかわからない状態じょうたいで困っていた。そのため、ここは自分がたすぶねを出さないといけないかなと田畑太一郎は思い、「そう言えば渡邉さん、例の件なんですけど」と渡邉哲郎に話しかけた。


「例の件って、高野さんのこと?」と、頭を持ち上げながら渡邉哲郎は返事をした。


「はい。高野さんはまだ消息不明しょうそくふめいのままです。」

「そうか・・・。」


一気に場の空気が重くなる。


「あの・・・渡邉さんはどの程度ていどまでこのことをご存知ぞんじなのですか?」と、真中しずえが少し遠慮えんりょがちに質問をする。


「えっと、高野さんがいなくなったことぐらいかな。でも、君たちがT大学の古い方の建物たてものの会議室でたおれていた彼女を見たという話は、田畑君から聞いているよ。で、そのあとで守衛しゅえいを呼びにいった間に高野さんは消えてしまったんだよね。」

「はい。で、そのときのたおれていた高野さんの様子なんですけど・・・。」

「おそらくはもうくなっていた、で正しいかな?」

「はい・・・。」

「あ、真中さんは倒れていた高野さんの表情を直接ちょくせつ見たんだっけ。ごめんね、いやなことを思い出させて。」

「いえ、大丈夫です。で、高野さんがどういう方だったかはご存知ぞんじでしょうか。」

「うん、それなんだけどね・・・」


と、そこまで言って、渡邉哲郎は田畑太一郎の方をチラッと見た。渡邉哲郎としても、自分がどこまで真中しずえに言うべきかをはかりかねているようだった。


「とりあえず、この三人で知っていることを共有してみるというのはいかがでしょうか。渡邉さんと真中さんは今日が初対面しょたいめんではあるんですけど、少なくともお二人とも信用しんよう人物じんぶつだと自分は考えています。こんなことを、とく年配ねんぱいの渡邉さんに言うのはとても失礼しつれいだとは思うんですけど。」


「そう言ってもらえて光栄こうえいだよ、僕は。じゃあ、お二人には僕が知っている情報じょうほうつつかくさずお伝えするとしよう。真中さんも、それでいいだろうか?」

「あ、はい。もちろんです。お願いします。」


「うん、じゃあ、さっきの真中さんの質問だけどね」と言って、持ってきた水筒すいとうの飲み物を少し飲んでから、渡邉哲郎は話を続けた。


「高野さんのこと、ちょっと調べたんだよね、田畑君にそうお願いもされていたし。」

「あ、そうなんですか?それは知りませんでした。」

「でも、大したことはわからなかったんだ。彼女のちとか、彼女の学歴がくれきとか、それと・・・えっと、彼女の旦那だんなさんが交通事故こうつうじこくなっていた、とかくらいかな、調べられたのは。」


それを聞いた真中しずえは、チラッと田畑太一郎の方を見た。


先日せんじつのコーヒーで真中しずえ・田畑太一郎・坂井かなえの三人が会って話をしたとき、坂井かなえは、高野恵美子から聞いたことを教えてくれたのだが、その内容ないようほかでは言わないようにしてほしいと言っていた。しかし今、田畑太一郎は『知っていることを三人で共有きょうゆうしよう』と言っている。田畑太一郎は坂井かなえから聞いたことをここで言うつもりなのか、もしくは、すでに渡邉哲郎に伝えているのか、を真中しずえは知っておきたかった。


「高野さんは未亡人みぼうじんだった、ってことですか?」と、田畑太一郎は渡邉哲郎に聞いた。


「うん、そうだったみたいだね。」と、渡邉哲郎は答える。


結婚けっこんされたのはいつだったんですか?」と、今度は真中しずえが聞いた。真中しずえは、田畑太一郎が坂井かなえから聞いたことは言わないつもりだと判断はんだんし、話を合わせることにした。


「えっと・・・」と、渡邉哲郎は使つかふるされた小さな手帳てちょうをバックパックから取り出し、ページをパラパラとめくる。


「あれ?せきはまだいれてなかったのかも。いやね、彼女の大学院だいがくいん時代じだい指導教官しどうきょうかん同期どうきとかに話を聞いたんだけど、どうもみんな言うことがちがうんだよね。彼女は博士課程はかせかていのときに結婚けっこんしたって言ってる人もいれば、まだ結婚けっこんはしていなかったと言ってた人もいたんだ。でも、彼女のおっと正確せいかくには婚約者こんやくしゃだけどね、その人がくなった時期じきについてはみんな同じことを言っていたよ。」


「それはいつだったんですか?」と、田畑太一郎が聞くと、「どうやら高野恵美子が博士号はかせごう学位がくいを取ったあたりだったらしい」と、渡邉哲郎は答えた。


その回答を聞いて、田畑太一郎と真中しずえはお互いの顔を見た。渡邉哲郎からは、二人が、高野恵美子のきたあまりに悲惨ひさん出来事できごとに言葉をうしなっていたように見えていたはずである。


しかし実際は、田畑太一郎と真中しずえの二人は、坂井かなえの言っていたことが正しかったんだ、ということをおたがいに無言むごんたしかめ合っていた。


「でも、どうやってせきを入れてなかったってわかったんですか?」と、今度は真中しずえが質問をする。


「えっと、それは企業秘密きぎょうひみつということで納得なっとくしてもらえないだろうか?こういう仕事をしてるとね、ルール上はできないことでも何とかなることがあるんだよね。でもね、そういうのは君たちみたいなとうな世界で頑張がんばってる人たちは知らない方が良かったりするんだ」と、ちょっと冗談じょうだんめかして渡邉哲郎は答えた。


やはり、この人は自分たちとは違うんだ、ということを田畑太一郎は再確認さいかくにんした。また、真中しずえも、このことについてはふか追求ついきゅうしない方が良さそうだと思ったので、それ以上は何も聞かなかった。


「とすると、高野さんについては、婚約者こんやくしゃ結婚けっこん直前ちょくぜんくなってしまったというかなしい事故じこがあったものの、特に気になる点はなかったということでしょうか」と、渡邉哲郎個人に対する質問はしないまでも、高野恵美子についてはもっと情報じょうほうられないかと思い田畑太一郎は質問をした。


「いやね、彼女は婚約者こんやくしゃ以外いがいにも肉親にくしん事故じこで亡くしてるらしいんだ。彼女が中学校のときに母親が交通事故こうつうじこで亡くなっている。両親は彼女が小さいときに離婚りこんしていて、父親とは交流こうりゅうがなかったらしい。だから、母親が亡くなったあとは、母方の祖父母そふぼの家でらしていたようだ。」


「母親の事故と婚約者の事故は何か関係があったりしますか?」と、真中しずえが聞く。


「うーん、それは良い質問なんだよ。僕もね、その二つの事故の関連性かんれんせいについて調べようと思ったんだけど、昔のことだし、僕自身がアメリカにいるので、そんなには調べられなかった。」


「それは、両者の交通事故に何らかの関係があるかもしれない、と渡邉さんが思ってるってことですか?」と、今度は田畑太一郎が質問をした。


「いや、そういうわけではないんだ。だけどね、母親の事故の犯人はその場でつかまったみたいなんだけど、婚約者はひきげをされたようで、実はまだ犯人はんにんつかまっていないようなんだ。」


「え・・・」と、田畑太一郎も真中しずえも同時にそう声を出して、お互いがお互いの顔を見た。二人の脳裏のうりには、坂井かなえから聞いた高野恵美子のセリフである『彼は事故で亡くなったんじゃない。殺されたんだ。』がかんでいた。


「何か理由りゆうがあって殺された・・・?」と、つい田畑太一郎がつぶやいた。その言葉に渡邉哲郎が素早すばや反応はんのうする。


「それってどういう意味?」

「え?あ、すみません。なんか意味のないことを口走ってしまって。」

「いや、意味がないことはないよ。実はね、僕も同じような仮説かせつが頭にかんでいたんだ。」

「高野さんの婚約者は何か理由があって殺されて、それと同じ理由で今回は高野さん自身が殺された、ということですか?」

「そういうことになるね。ま、可能性はそんなには高くないと思うけどね。数年すうねんってから、わざわざべつの国で高野さんを殺害さつがいする理由はなさそうだし。」

たしかにそうですね。」


「高野さんのお母様をいた人が、逆恨さかうらみをして高野さんの婚約者こんやくしゃいたということはありますか?」と、今度は真中しずえが自分の仮説かせつべた。


「それも面白おもしろ見方みかただと思うんだけど、可能性は低いように思うな。逆恨さかうらみだとしたら、わざわざ婚約者をころすというまわりくどいことはしないんじゃないかな。そもそも高野さんの母親をいた加害者かがいしゃが、逆恨さかうらみとして高野さんに仕返しかえしをしようとは思わないような気がするんだよね」と、渡邉哲郎は答える。


「そうですよね。すみません、的外まとはずれなことを言ってしまって・・・」と言って、真中しずえがややんだ表情ひょうじょうをした。


渡部哲郎はそれを見て少しあせったのか、「いやいや、全然ぜんぜん的外まとはずれじゃないよ。というか、この事件じけんなぞだらけだから、何が正しいか、何が的外まとはずれか、はまったくわからないんだよね。せっかくみんなで集まってるから、どんどん思いついたことを言い合おうか」と、真中しずえを元気げんきけるようなことを言った。


「高野さんは何か特別とくべつな人なんでしょうか?」と、田畑太一郎が渡邉哲郎に聞いた。


特別とくべつってどういう意味?」

「いえ、なんていうか、高野さんはだれかにねらわれる理由りゆうがあるのかなと思ったんですけど・・・。すみません、なんか僕も曖昧あいまい的外まとはずれなことを聞いてしまって。」

「いや、的外まとはずれじゃないよ。さっきも言ったけど、本当に何が真実しんじつかはわからないよね。でも、誰かにねらわれる理由りゆうが高野さんにあるかは僕にはわからなかった。」

「ということは、渡邉さんもその可能性かのうせいさぐったということですか?」

さぐった、というところまでは調べきれてないんだけどね。やっぱりアメリカにいると、彼女が日本にいたときにどんなんだったかを調しらべるのも限界げんかいがあったんだよね。」


ぎゃくに言えば、アメリカでの高野さんはどんなだったかは調べられた、ということでしょうか?」と、真中しずえが会話かいわに入ってきた。


渡邉哲郎は、目の前の水筒すいとうを口につけて中身なかみものを少しんでから、真中しずえの問いに答えた。


「あんまり調しらべる時間は取れなかったんだけど、それでもそれなりに情報じょうほうあつまった。でも、結論けつろんとくおどろくようなものではなかった。彼女はごくごく普通ふつうのポスドク研究員けんきゅういんだった、というだけだ。」

「特におかしな点は見当みあたらなかった、ということでしょうか。」

「そうだね。えて言うなら、ほとんどの時間を研究にいていて、交友関係こうゆうかんけいもあまりひろくはない感じだったかな。あそこまで研究以外に時間を使わない生活をしていたというのは不自然ふしぜんだとも言えなくはないけど、まあ、医学いがく生物学せいぶつがく研究けんきゅう業界ぎょうかいはそんなもんだとも言える。君たちも大変だよね。」


田畑太一郎も真中しずえも苦笑にがわらいをするしかなかった。


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