【第四章:山川聖香(3)】

翌日よくじつ、田畑太一郎は一日中いちにちじゅう実験じっけんをしていたが、思ったよりもつかれを感じなかった。そして、五時半前には研究室を出て、坂井かなえに教えてもらったお店に向かった。


遅刻ちこくしてはいけないと少し早めに出たせいか、お店に着いたときは六時二十分であった。しかし、ドアを開けて店の中に入ると、入り口の受付うけつけの横に置いてある椅子いすに坂井かなえがすわっていた。そして、そのとなりには三十代前半と見られる見知みしらぬ女性がいた。


「あ、太一郎君こんばんわ。急な話なのに来てくれてありがとう。」

「いえ、とんでもないです。おさそいいただいてうれしいです。すみません、おそくなってしまって。」

「え?まだ六時半前だよ。全然遅くないよ。」


そういって坂井かなえは笑い、続けて隣にいた女性を紹介しょうかいした。


「太一郎君、こちら山川さんです。」


「あ、はじめまして。田畑太一郎と言います」と、田畑太一郎が挨拶あいさつをすると、その女性は椅子いすから立ち上がり、「山川聖香です。はじめまして」と、上品じょうひんいで頭を下げた。その表情は、おしとやかな女性という表現がぴったりの、品の良い笑顔であった。


田畑太一郎は、これまでに、このようなタイプの大人の女性とせっすることがなかった。そのため、どう話をしていいかわからず少しドギマギしていたが、すぐに坂井かなえが「まあ、ここで話しをするのもなんだから、席にいきましょうか」と言って、受付うけつけのところに立っていたウェイトレスに予約よやくしていた席にれていってもらうようにお願いをした。


席につくと、ウェイトレスがすぐに水とメニューを持ってきた。「お飲み物はいかがですか?」の質問に、田畑太一郎はいつもように「水だけでいいです」と答えようとしたが、山川聖香(やまかわ・せいか)が「田畑さんは何か好みのワインはありますか?」と、アルコール飲料いんりょうのメニューを手にしながら、上品じょうひん口調くちょうたずねてきた。


「え?」と、田畑太一郎は思わず答えてしまった。この質問は田畑太一郎にとっては全く予想していないものだったからだ。


田畑太一郎がこまっている様子に気づいたのか、坂井かなえが「どんなワインがあるんですか?私もちょっとメニューを見てもいいですか?」と、山川聖香に聞いた。


「あ、私これ飲みたいかも」と、山川聖香から受け取ったメニューに軽く目を通した坂井かなえが、あるワインのところを指差しながら言った。


「それいいですね。ボトルでたのみましょうか。田畑さんはアルコールは大丈夫ですか?」と山川聖香が尋ねると、田畑太一郎は「え、あ、はい。だ、大丈夫です」と、少しどもりながら答えた。


田畑太一郎は、こういった少しオシャレな雰囲気ふんいきのレストランで、ディナーの前にワインを味わうということをしたことがなかった。日本にいるときも、外のお店でアルコールを飲むのは、研究室メンバーと一緒に居酒屋いざかやに行く時くらいで、その場合はいつもビールを最初にたのんで、そのあとは適当てきとうにチューハイなどを飲むだけであった。


その後も、料理りょうりのメニューを見て値段ねだんの高さにおどろいたり、はこばれてきたワインのテイスティングを少しも躊躇ちゅうちょせずに山川聖香がしているのを見たり、ウェイトレスが注文を取りにきたときに早口で本日のおすすめなどを紹介しているのを聞いたりしたので、田畑太一郎は自分が注文した一番安い価格かかくのパスタを食べるときには、すっかりつかれてしまっていた。


だが、そんな田畑太一郎とは対照的たいしょうてきに、山川聖香と坂井かなえは、ワインや料理のあじかおり、見た目などについて楽しく会話をしながら食事を楽しんでいた。


各々おのおのが自分の料理の半分くらいを食べたところで、坂井かなえは少しかたい表情になり、「そういえば・・・太一郎君、れいの件なんだけど」と田畑太一郎に話をってきた。田畑太一郎は、少したまれない気持ちで食事をしていたが、その言葉を聞いて、ついに今日の本題ほんだいが始まるのかと少し安心した。


「あのね、やっぱり高野さんとは連絡れんらくが取れないの。今日は木曜日でしょ。土曜日から数えると・・・日・月・火・水・木・・・五日間も音信不通おんしんふつうってことになるの。」


坂井かなえが、自分の指を一本ずつげながら、そう話を切り出した。


「夏休みだから、日本に帰っているとか休暇きゅうかで旅行に行ってるとか、そういうことってありますか?」

「うーん、夏休みが始まる前に少し話をしたんだけど、『今年の夏はずっと実験かな』って言ってたんだよね。あの座談会のときにメールしたときも、どこかに出かけるとかは言ってなかったし。」

「やっぱり、何か事件じけんとかにまれたんですかね?」


そう言ってから、田畑太一郎は「しまった。また余計よけいなことを言ってしまったかも」と思った。坂井かなえがかなしい表情ひょうじょうになったらどうしようと心配しんぱいしたが、意外いがいにも、そんな素振そぶりは全く見せずに会話を続けた。


「やっぱり太一郎君もそう思う?土曜日に、あそこで見たのは高野さんだよね。まぼろしじゃないよね」と、同意どういを求めてくる。


「え、ええ。自分たち三人がそろってまぼろしを見たとは考えにくいかと思います。でも、そうすると、たおれてた高野さんは一体いったいだれがどこに・・・」と言葉にしたところで、田畑太一郎は「この会話の内容は山川聖香に聞かれてもいいのだろうか」と、ふと疑問ぎもんに思った。そして、つい山川聖香の方をチラッと見てしまった。


その視線しせんの動きに目ざとく気づいた坂井かなえは、「あのね、今日はそのことで山川さんに相談そうだんに乗ってもらおうと思ってるの」と、田畑太一郎の心の中を見透みすかしたかのように、そう伝えてきた。


「え?あ、そうなんですか?」と、田畑太一郎は、坂井かなえと山川聖香の二人を交互こうごに見ながらそう答えた。


「ごめんなさいね。もう少しきちんと自己紹介じこしょうかいをするべきでしたね。素敵すてきなワインとお料理だったので、ついついお食事を楽しんでしまいましたわ」と、優雅ゆうが雰囲気ふんいきで山川聖香は会話に入ってきた。


「山川さんは永住組えいじょうぐみで、こっちの知り合いがすごく多いの。だから、高野さんの消息しょうそくについて非公式ひこうしきに色々とさぐってもらったの。」

永住組えいじゅうぐみ?」

「えぇ。ここら辺ってアメリカだけど日本人が多いでしょ。ほら、私たちみたいな留学生りゅうがくせいや、日本の会社から派遣はけんされている駐在員ちゅうざいいんとその家族とかがいるから。でも、そういう人たちってほとんどがいずれは日本に帰るのよね。でも、中には、こっちでずっとらすつもりの日本人もいるの。」

「そういう人たちのことを永住組えいじゅうぐみって言うんですか?」


「ふふ、みんながみんなその単語たんごを使うわけじゃないのよ。でも、坂井さんはよくその言葉をお使いになりますね」と、田畑太一郎の質問には、坂井かなえの代わりに山川聖香が答えた。


永住組えいじゅうぐみって言葉のひびき、なんか素敵すてきです!私も、できればずっとこっちで研究していたいなって思ってるので、敬意けいいめてその言葉を使ってるんです。」

「あら、そうでしたの。めていただいてうれしいですけど、永住組というものは全然素敵ではないですよ。永住組の間でも色々と大変なことがあったりしますのよ。」

「え、そうなんですか?ちょっとくわしく聞きたいです!」

「それはまた今度にしましょう。今は別のお話をした方がいいと思いますので。」

「あ、そうでした。すみません。」


「でね、太一郎君」と、今度は田畑太一郎に向かって、坂井かなえは話しはじめた。


「山川さんのお母様の妹がアメリカ人と結婚けっこんしてるんだけど、その息子さんが、このB市で警察官けいさつかんをしているの。」

「あ、そうなんですか。それはすごいですね。」

「でね、山川さんがその刑事けいじさんに、高野さんが何か事件じけんまれてないかを非公式ひこうしき確認かくにんしてもらったの。」

「え、そんなことって出来るんですか?というか、しても大丈夫なんですか?」


田畑太一郎はおどろいて、つい思いついたままの疑問ぎもんを口にした。


「もちろん本当はダメなんです。でも、坂井さんにすごくお願いされてしまったので、警察官けいさつかんをしている私の従兄弟いとこ連絡れんらくしました。でも、このことが外にれると私、とても困ってしまうので、内緒ないしょにしておいてくれますか?」


坂井かなえの代わりに、山川聖香が変わらず上品な口調でそう答えた。


「え、あ、もちろんです。すみません。なんか失礼しつれいなことを言ってしまって。」

「お気になさらずに。当然とうぜん疑問ぎもんです。」


「でも、高野さんが事件に巻き込まれている証拠しょうこはデータベースにはなかったんですよね?」と、坂井かなえが会話に加わってきた。


「ええ。でも、土曜日に高野さんが何か事件に巻き込まれたとしても、今日はまだ木曜日だから、その・・・」と、山川聖香が続きの言葉を言うのを躊躇ちゅうちょしていると、「彼女の遺体いたいや、彼女が誰かに誘拐ゆうかいされているという事実は、まだ警察けいさつ把握はあくできていない可能性がある、ってことですか?」と、坂井かなえが補足ほそくしながらも、山川聖香に再び質問を投げかけてきた。


田畑太一郎は、坂井かなえが『遺体いたい』とか『誘拐ゆうかい』という単語たんごを使ったことに少しおどろいていたが、きっと彼女も必死ひっしなのだろうと自分自身じぶんじしん納得なっとくさせた。


ただ、それでも、『彼女の遺体いたい』という感じに、『高野恵美子』という固有名詞こゆうめいしを使うのではなく『彼女』という単語に置き換えていたことから、高野恵美子が無事でいてほしいという気持ちがまだ坂井かなえの中にあるのだろうと、田畑太一郎は推察すいさつした。


山川聖香は、坂井かなえの質問に何て答えるべきかを考えているようだった。その場を沈黙ちんもく支配しはいする。田畑太一郎は、料理を食べようかと思ったが、今はそれをすべきではないと判断はんだんし、山川聖香が話し出すのを待っていた。


しかし、田畑太一郎のそんな気持ちを知ってか知らずか、坂井かなえは自分の料理を口に運び、そしてさらに、「そういえば」と、その沈黙ちんもくやぶるかのように、新たな内容の話をし始めた。


「そういえば山川さん、高野さんのIDカードの件ですけど。」

「何かわかりましたか?」

「はい。山川さんが、高野さんのIDカードの記録きろくが見られれば何かわかるかもしれないっておっしゃったので、守衛さんにちょっと無理してお願いしてきました。」


坂井かなえや高野恵美子が研究をしているT大学では、安全管理あんぜんかんりのために、研究棟内けんきゅうとうないにカードリーダーが設置せっちされている場所ばしょがある。


そのエリアには、T大学の関係者かんけいしゃ発行はっこうされるIDカードを持っていない人は入れないことになっている。そのIDカードには、個人こじんごとに固有こゆう番号ばんごうられているため、そのエリアにいつだれ入室にゅうしつしたかの記録きろくも残される。


坂井かなえがいる東棟ひがしとう建物たてものが新しい分、設置せっちされているカードリーダーの数が多い。例えば、研究棟けんきゅうとうに入る場所にもカードリーダーがあり、T大学発行のIDカードがなければ入館にゅうかんすることもできない。


一方で、高野恵美子の研究室がある西棟にしとう建物たてものが古くてカードリーダーの数は少ない。IDカードがなくてもほぼ全て研究室への行き来ができる。しかし、エレベーターはIDカードがなければ動かすことができないので、大学関係者でなければフロアをまたいだ移動は難しい。


守衛しゅえいさんは高野さんの記録きろくを教えてくれましたか?」と、山川聖香がたずねる。


「最初は全然ダメだったんですけど・・・」と、口にいれた料理をモグモグと食べながら坂井かなえは質問に答える。


「わいろ代わりに持っていったドーナツがこうそうしたのか、ちょっとだけ教えてくれました。」

「ちょっとだけ?」

「ええ、本当はそういう情報は絶対に明かしてはいけないことになっているらしいんですけど、その守衛さんは先週の土曜日のときにいた守衛さんと同じ人で、事情じじょうはある程度ていどわかっていたので、私がなんで高野さんの記録を知りたいかを理解りかいしてくれたんです。」


「あ、あの人の良さそうな守衛さん?」と、今度は田畑太一郎が会話に入ってくる。


「うん、そう。でね、細かい情報とかは明かせないってことだったんだけど、今週の月曜日と火曜日には高野さんが西棟にしとうにいたという記録が残されているって教えてくれたの。何時ごろとか、建物のどのエリアとかっていうのは言ってくれなかったんだけどね。」

「土曜日の記録はどうだったとかって聞けましたか?」

「うん、土曜日のことも聞いた。そうしたら、土曜日も来てたみたいだよって教えてくれたの。」


「それは貴重きちょう情報じょうほうですね」と、ワインを少し口にしたあと、音を立てないように静かにワイングラスを置きながら、山川聖香がそう感想かんそうべた。


「とりあえず良かったです。安心しました」と、田畑太一郎がホッとした表情になると、坂井かなえと山川聖香は二人とも「え?」という顔をした。


二人のおどろいた顔を見た田畑太一郎は「え、高野さんが普通に研究室に来ていたってことですよね」と言ったが、その直後に「あっ」と短く言って、「話はそう単純たんじゅんじゃないかもしれないってことですね」と付け加えた。


「そうなの、高野さんのIDカードを使ったのが高野さんだとしたら問題ないんだけど、そうじゃない可能性かのうせい十分じゅうぶんにあるの」と、坂井かなえが補足ほそくする。


「むしろ、坂井さんのメールとかに何の応答おうとうもしないところを見ると、残念ざんねんながら、そうじゃない可能性の方が高いかもしれないわね」と、山川聖香が続く。


内部犯ないぶはん・・・」と、田畑太一郎がそうつぶやくと、「そうかも」とくら表情ひょうじょうで坂井かなえが呼応こおうする。そして、「なんでだろう。高野さんは人にうらみを買うようなタイプじゃないのに」とりそうな声で言った。


内部犯ないぶはんなら、もしかしたら衝動的しょうどうてき犯行はんこうかもしれないわね。でも、もし内部犯ないぶはんでないなら・・・」と山川聖香が言うと、「内部犯ないぶはんでないなら計画的けいかくてきかもしれない、ということでしょうか」と田畑太一郎が聞く。


「わからないわ」と首を横に振りながら山川聖香が答えて、続けて「でも、T大学の関係者でないなら、その事件があった土曜日に、どうやって建物の中に入ったんでしょうか。仮に入れたとしても、エレベーターはIDカードがなければ動かせないし」と疑問ぎもんを口にする。


その質問には、田畑太一郎も坂井かなえも答えられなかった。沈黙ちんもくふたたびおとずれた。そして、その沈黙ちんもくの間に三人は残りの食事を食べることになった。


注文ちゅうもんした食事を食べたあと、三人はデザートも注文して食べたが、そのときには話題わだいは別のことに移っていた。そのときは、おもに坂井かなえと山川聖香が話をしていた。しかし、その間も田畑太一郎はれい事件じけんについて考えていた。


三人ともデザートを食べ終わったタイミングで、山川聖香が「すみません。ちょっと失礼しつれいします」とせきを立ち、お手洗てあらいの方に歩いていった。


のこされた田畑太一郎と坂井かなえは、再び高野恵美子の事件について話し始める。


「高野さん、どこに行っちゃんだろう。」

「今週の月曜日と火曜日の記録きろくが高野さん本人によるものだったらいいんですけど。」

「そうね・・・でも、あのとき倒れた高野さん、きっとくなってたと思う。だって、あの顔の表情とかほほさわったときの体温たいおんは生きている人間のそれじゃなかったもん。」


坂井かなえはワインで少しっていたのか、普段ならば使うのを躊躇ちゅうちょするような表現ひょうげんを使っていた。


「あれが高野さんじゃなかったって可能性はありますか?」

「ううん、それはないよ。あれだけ高野さんにている人が高野さんと同じ市内しないにいるとは思えない。ここアメリカだし。」

双子ふたごだったりとか?」

「はは、太一郎君、面白いこと言うね。双子ふたごならていて当然とうぜんか。でも、高野さん、自分は一人っ子って言ってたしな。」

両親りょうしん離婚りこんしたときに、それぞれの親が一人ずつ引き取ったとか?」

「絶対ないとは言い切れないけど、可能性はすごく低そう。」

「ですよね。すみません、くだらないことを言ってしまって。」

「そんなことないよ。こういうときだからこそ、ありえないようなアイデアを出していくのが大事だいじな気がする。他に何か突拍子とっぴょうしもないアイデアない?」

「え、突拍子とっぴょうしもないアイデア・・・ですか?うーん、あのとき倒れてたのが、高野さんではなく、高野さんをした等身大とうしんだい蝋人形ろうにんぎょうだったりとか?」

「はは、すごいね、そんなアイデアが次々に出てくるなんて。太一郎君って意外と面白い人なんだね。」

「はぁ・・・・」

めてるんだから、もうちょっとうれしそうな顔してよー。」


坂井かなえはやはりっているようで、深刻しんこく話題わだいであるはずなのに、楽しそうな笑顔えがおで田畑太一郎のかたかるてのひらでポンポンと叩いてきた。


と、そのとき山川聖香が自分の席に戻ってきた。座りながら「あら楽しそうですね、お二人さん」と声をかけた。


「太一郎君がなんか面白いこと言うんですよ」と言って、坂井かなえはまた田畑太一郎のかたかるたたく。


山川聖香は、坂井かなえのそんな様子を深く追求ついきゅうするでもなく、「今日は田畑さんにお会いできて良かったですわ。高野さんの件、何かわかったらまた連絡れんらくしますね」と、田畑太一郎に言った。


それに対して、田畑太一郎も「いえ、こちらこそありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」と、少しこしかして、頭を下げながらそう返事をした。


「では、今日は帰りましょうか。坂井さん、ワインを飲みすぎましたか?大丈夫ですか?」と山川聖香が聞くと、「大丈夫です、山川さん。ちゃんと一人で帰れますぅ」と、楽しそうな笑顔を返した。坂井かなえの顔はアルコールで少し赤くなっていた。


「あ、お会計かいけいを・・・」と田畑太一郎が聞く。田畑太一郎は、男性である自分が全て出す必要ひつようがあったりするのだろうか、とちょっと心配しんぱいになっていた。


だが、「もう支払しはらいはませていますから大丈夫ですわ」と、席を立ちながら山川聖香が答えたので、田畑太一郎は「え?」とおどろいた表情になった。山川聖香は、先ほどお手洗てあらいに行くふりをして、三人分の支払しはらいをしていたようだった。


「え、そんなのはよくないです。せめて自分の分だけでもはらいます」と、田畑太一郎は言ったが、「ここは年上としうえあまえてくださいね」と、上品じょうひんやさしい口調くちょうであしらわれてしまった。坂井かなえは、「わー、ご馳走ちそうさまです!ありがとうございますー」と山川聖香にきついていた。


田畑太一郎がいつもと違う坂井かなえの言動げんどう戸惑とまどっていると、「あら?警察車両けいさつしゃりょうが三台ほど走っていますわね。何かあったのかしら」と山川聖香がひとごとのように言ってきた。


「えー、私なにも聞こえませんけど?」と、山川聖香の腕にしがみついている坂井かなえがそう答えた。田畑太一郎もサイレンの音は聞こえなかったのだが、「どこかで事件じけんでもあったんですかね」と話を合わせる内容ないようのことを言った。ただ、山川聖香自身も、その発言はつげんにはふかい意味をめていなかったようで、それに関する会話は続かず、三人は帰り支度じたくをしてレストランを出ることになった。


結局けっきょく、田畑太一郎の再三さいさん提案ていあんにもかかわらず、山川聖香は彼からの食事代しょくじだいろうとしなかった。そのため、最後は田畑太一郎もあきらめて、レストランを出たところで「ご馳走になってしまってすみません。どうもありがとうございました」と、山川聖香にそう伝えた。


それに対して山川聖香は、しずかに微笑ほほえみを返した。そのとき、警察の車が三台、サイレンを鳴らしながら田畑太一郎たちの前を法定速度ほうていそくどえたスピードで走り去っていった。


(「第四章:山川聖香」終わり)

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